インタビュー

「デモをする意義はある」 柄谷行人さんが語る「有り難い」憲法9条

聞き手・滝沢文那

 独自の観点から戦争を克服する道を探ってきた哲学者の柄谷行人さん(84)は、日本国憲法9条の存在意義にも注目してきた。高市早苗首相が憲法改正に積極的な態度を示し、かたや多くの人々から反対の声が上がるいま、柄谷さんに聞いた。

9条の「実行」こそが最高の防衛

 ――柄谷さんは、2016年刊行の「憲法の無意識」(岩波新書)で、9条は日本人の無意識に根ざしていて、状況の変化、教育や宣伝などの操作によっても変えられない、と主張しました。ただ、自民党は2月の衆院選で改憲の発議に必要な3分の2以上の議席を握り、高市首相は改憲に積極的な姿勢を示しています。

 「国民投票が必要となれば、改憲は簡単ではないのでは。ただ、ごまかしのような形で強行されることはありうる。〝加憲〟というのもありましたし。しかし9条を放棄するのは、端的に言って自殺行為です」

 ――同書で柄谷さんは、「たとえ策動によって日本が戦争に突入するようなことになったとしても、そのあげくに憲法九条をとりもどすことになる」、ただし「高い代償を支払って」とも書かれていました。いまも同じ考えですか?

 「とりもどせないかもしれないですね。9条が個々人の意思を超えて出現したものであることは確かです。一度失われれば、どうあがいてもとりもどすことは不可能に近いでしょう。悔やんでも、もう手遅れです」

 「日本に9条があることは奇跡だ、ということがいま一つ理解されていないと感じます。これは偶然の奇妙なめぐりあわせが重なって成立し、かつ80年にもわたって維持されてきたものです。第2次世界大戦への国民の反省や、アメリカからの〝押しつけ〟など、いろいろな要素がありますが、それだけでは説明できない。GHQ(連合国軍総司令部)だってすぐに方針転換している」

 ――1950年に朝鮮戦争が起きると、再軍備を求めるGHQの指示で警察予備隊が作られ、現在の自衛隊の前身となりました。

 「しかし、9条はなくならなかった。そのときにはもう日本国民が手放さなかったということでしょう。望んでもかなわないような、望むことすら思いつかなかったような、不可思議な憲法ができた。そして今も存在し続けている。これは本当に『ありがたい』、つまり、有ることが難しい。それを認識したほうがいいと思う」

 ――ただ、世界情勢が緊迫する中で、自国を守るための軍備は必要ではないかという意見も強くなっているのではないでしょうか。

 「まずやるべきなのは、空文化している9条を文字どおりに実行する方向を模索することです。それは防衛の放棄でもなければ、無為無策でもありません。9条があるからこそ可能になる類いの外交がある。それを通じて諸国の平和的秩序に貢献すべく、積極的に取り組んでいくことです。それが結果的に最高の防衛にもなる。これはきわめて独創的な、世界史的にも類のないことです」

デモには選挙に反映されない声が現れる

 ――いま憲法改正に反対するデモが全国で開催されています。SNSなどで、柄谷さんの「デモで社会は変わる、なぜなら、デモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」という発言がしばしば引用されているのですが、ご存じですか。

 「知りませんでした。2011年のデモ演説で話したことですよね。今もデモをする意義はあります。日本ではデモと集会を分けることが多いですが、私の考えではデモは日本国憲法でも権利が保障されている集会の一種です。古い言い方では〝寄り合い〟。ひざをあわせて話し合う、民主主義の原始的な形態でしょう」

 「寄り合いの要素は代議制の議会に引き継がれていますが、議会だけで民主制は実現しません。普通選挙も議会制も、民主制の一部でしかない。それらは、デモそのほかによる民間の批判的な監視とセットになって、はじめて正しく機能しうる。デモで政府の決定を変えられる可能性は低いでしょう。しかし、権力はデモを嫌がる。そこには、選挙には反映されないような人々の声が現れるからです」

 ――最近もデモには参加していますか。

 「かつてほどではないですが、仲間うちで誘い合ったりしてときどき行っていますよ。3月には反原発のデモに行きました。人混みで疲れやすいので、ここ5年くらいは少しだけ参加して帰ることがほとんどですが。あまり外に出なくなった私にとっては、いまどんな人がデモに来ていて、どんな風にデモが変わっているか、ということを見ておきたい気持ちもあります。パレスチナ支持のデモは若い人が多いですね。国会前もそうなっていると聞いたから、近いうちに行ってみようと思っています」

権力や金銭に毒されていないものを

 ――柄谷さんは、社会のありようを「交換」の観点から分析する「交換様式論」を展開してきました。資本が国民国家と結びついた現状の世界では、繰り返し戦争が起きると指摘しつつ、その体制を乗り越える道を模索してきました。いま私たちに出来ることはあるのでしょうか。

 「私の考えでは、人間の意思で資本や国家を退けることはできません。特に、戦争の時代には、資本や国家の力が増大します。正面から乗り越えようとしても、つぶされます。いまできることは、資本や国家とは異なる原理、〝贈与と返礼〟を実践することです。小さな力しか持たないようにみえますが、他に出来ることはないと思う」

 ――具体的にはどんなことでしょうか。

 「例えば、アソシエーションを作ることです。独立した個人が自発的に作る集まり、と言えばいいでしょうか。デモもその一つですが、それ以外にも権力や金銭に毒されていないものがあちこちに潜んでいる。それを見つけて育てるのは、楽ではないけれど創造的で楽しいことでもあるんじゃないか、そう思います」

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この記事を書いた人
滝沢文那
文化部|演劇担当
専門・関心分野
演劇、批評、思想、文学、芸能・放送
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    富永京子
    立命館大学准教授=社会運動論
    視点

    とても印象的なインタビューでした。なかでも最後の一言は、デモとアソシエーションのような日常の活動を連続的に捉える視座として、強く印象に残ります。 この記事の見出しにも象徴されていますが、なぜ報道において「市民の声」としてデモばかりがフォーカスされるのかはいつも疑問に思っていました。もちろんデモは重要な市民の活動のひとつですが、たとえば読書会も自治会も市民のひとつの声であり、政治的・社会的意義を持つはずで、デモとこうした日常の活動は繋がっているはずです。それにもかかわらず、可視化されやすいデモばかりが取り上げられるために、日常の営為と非日常に見えるデモが切り離されて理解されているようにも感じます。 柄谷さんが指摘するように、本来はもっと日常のなかに、市民が自治を形づくる営みが数多く潜んでいるはずです。こうした取り組みがもっとデモのような活動と連続した形で認識されれば、デモが「特別なこと」と思われなくなるのかもしれません。

    2026年5月10日 07:12
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    成川彩
    韓国在住 文化系ライター
    視点

    長く軍事政権が続き、多くの犠牲をともなった民主化運動の経験がある韓国と、戦後、「受け身」の形で民主化が進んだ日本とは大きな違いがあると実感します。韓国では民主主義について考える機会が普段から非常に多く、それゆえデモに積極的に参加する人が多いです。日本では憲法9条も民主化も、市民が勝ち取ったものでなかったため、その価値を軽視しがちなんだろうと思います。「9条が最高の防衛になる」という柄谷行人さんの捉え方、私も長くそう考えてきて、今もそう考えていますが、だんだんそうでない人が増えてきているようです。結局、憲法改正に積極的な人たちも、「防衛のため」という目的は同じなのではないでしょうか。

    2026年5月10日 10:49

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