三塚という苗字の起源——信濃から奥州へ移動した武士団の痕
「三塚」という苗字はどこから来たのか
最近ふと思い立って、自分のルーツを調べておきたくなった。
親父が最近ボケはじめてきたのもあり、まだ記憶がはっきりしているうちに家のことも聞いておくべきだとも感じた。
またこのルーツを調べることで、後に研究する人たちや、同じ苗字を持つ人が自分のルーツを知る手掛かりにしてもらいたいと考え、この記事を書いた。
「三塚」という苗字は珍しい。宮城県北部の出身だが、同じ苗字の人間に東京で会ったことはほとんどない。読み方を「みつづか」と言っても「みつつか?みつか?」と聞き返されることが多い。
なぜこの苗字が、この土地にあるのか。複数の姓氏研究資料・郷土史・神社記録・中世史料を照合していくと、「三塚」という苗字の移動経路がかなり鮮明に浮かび上がってきた。以下はその調査記録である。
「三塚」という苗字は全国で約4,800人とされ、そのうち半数以上が宮城県に集中している。特に栗原市(約810人)・大崎市(約590人)周辺に多く分布しており、全国順位は2,769位前後の小規模姓だが、宮城県北部では局地的に高密度で存在している。
なぜ、これほど局所的に集中しているのか。
起源は信濃国佐久郡「三塚村」
名字由来系資料の多くは、「三塚」の起源を長野県佐久市三塚(旧・信濃国佐久郡三塚村)としている。
現長野県である信濃国佐久郡三塚村が起源(ルーツ)、諏訪神党。
現在の長野県佐久市三塚は、古くは「三千束(みちづか)」とも表記された地域である。地名の由来には二説が伝わる。ひとつは境内に三つの塚(石塚・砂塚・灯明塚)があったという地形由来説、もうひとつは神社の田から三千束の稲が収穫・奉納されたという信仰由来説だ。
この地名は近代まで公文書に記録されており、江戸期の信州松代藩・八田家文書(天保年間)にも「松平石見守御領分三塚村」という記述が残っている。さらに明治期には太政官修史館の歴史家・菅政友の考按史料にも参照地名として登場しており、学術的にも認知された地名だった。
三千束神社——諏訪神党との直接的な接続
現在の佐久市三塚には、三千束神社(みちづかじんじゃ)という神社が現存している。
この神社のプロフィールが重要だ。
御祭神: 建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主命
旧称: 諏訪社
創建: 承久年間(1219〜1222年)、小笠原時長による
改称: 明治41年に諏訪社から三千束神社へ
建御名方命は諏訪大社の主祭神そのものである。つまりこの神社は、明治以前は「諏訪社」という名の諏訪神を祀る産土神だった。
地名(三塚)、神社の旧称(諏訪社)、御祭神(建御名方命)、苗字の系統(諏訪神党)——これらが一致することは、三塚氏が諏訪神党と深く結びついていたことを示している。
諏訪神党とは、信濃国の一之宮・諏訪大社を中心とした中世の武士団で、諏訪明神の末裔とされる神氏(みわし)を核として形成された。そして古記録『神家系図』には、諏訪明神末裔の「神家一党33氏」の中に**「三塚(三束)氏」**が明記されている。これは三塚氏が諏訪神党の構成員として一次資料レベルで確認できる、現時点での最も直接的な根拠だ。
なお、佐久地方は古くから良質の馬産地として知られており、「望月の駒」として和歌にも詠まれた。信濃の馬は陸奥に次ぐ全国第二位の名馬として珍重されており、馬と切り離せない生活を営む武士にとって、佐久郷は本拠地にふさわしい土地だった。
「三塚新三郎」——鎌倉時代に実在した三塚氏
さらに重要なのは、鎌倉時代末期の史料に「三塚新三郎」という実名が登場することだ。
1285年(霜月騒動後)の佐久郡伴野荘関連史料には、伴野荘内に所領を保持し続けた武士のひとりとして「三塚新三郎」が記録されている。
また、東京大学史料編纂所・金子拓教授の論文「信濃源氏平賀氏・大内氏について」でも、伴野荘・大井荘周辺の地名として「三塚」が列挙されており、鎌倉期から三塚氏が佐久郡の荘園支配の枠組みに組み込まれていたことが学術的に確認されている。
つまり「三塚」という苗字は、鎌倉時代後期にはすでに武士階層の名字として成立していた。
なぜ宮城県に集中しているのか
ここが最大の謎だ。なぜ長野県起源の苗字が、現在は宮城県北部に集中しているのか。
この点について、郷土史資料の中に重要な記録がある。
岩手県奥州市の郷土史資料「大崎氏中世期栗駒郡の動静」には、次の記述がある。
照越城主木川田氏、萩沢の大館館主、三塚館主等が、大崎家臣として名前が残されている。
「三塚館主」という存在だ。
中世の栗原郡(現・宮城県北部)には「三塚館」という武士拠点が実在し、その館主が大崎氏の家臣だった。室町時代、大崎氏は奥州探題として現在の宮城県北部一帯を支配していた。その配下に、信濃から移動した三塚氏が含まれていたと考えられる。
信濃から奥州への移動経路
なぜ信濃の武士が、遠く奥州まで移動したのか。
まず両者の関係を整理しておく必要がある。諏訪神党と大崎氏は、もともと別系統の勢力だ。諏訪神党は信濃国・諏訪大社を拠点とする武士団、大崎氏は清和源氏・足利一門の斯波氏を祖とする奥州探題である。直接の血縁や組織的なつながりはない。
ただし宮城県内には、すでに南北朝期以前から諏訪神党系の氏族が定着していた形跡がある。現在の大崎市には諏訪神社が存在し、玉造郡真山の諏訪氏(諏訪神党の一族)が管理していたという記録が残っている。つまり諏訪神党の一部は、大崎氏が奥州探題として赴任するより前、あるいはそれと並行して、奥州に定着していた。
その背景として考えられるのが1335年(建武2年)の「中先代の乱」だ。北条高時の遺児・時行を擁した諏訪頼重ら諏訪神党は信濃で挙兵し、一時的に鎌倉を奪還したが、足利尊氏の反撃によって敗れた。
この敗北後、諏訪神党の武士たちの一部は信濃を離れ、北条残党の動きに連動しながら奥州方面へ移動したと考えられている。奥州は南朝方の拠点として長く機能しており、南朝方として戦い続けた諏訪神党の武士にとって、移動先として自然な選択肢だった。
注目すべきは、この移動が諏訪信仰の広がりとも連動していることだ。現在、福島・宮城・岩手など旧陸奥国には諏訪神社が多く分布している。これは諏訪神党の武士たちが移住先に氏神として諏訪明神を祀ったことの痕跡とも読める。三塚氏の移動は、こうした諏訪神党の奥州進出という大きな波の中の一つだったと考えられる。
ここで重要な時系列がある。宮城県内の笠原党(三塚氏と同じく神家一党33氏の構成員)の祖・笠原重広が奥州に入ったのは延元2年(1337年)——中先代の乱のわずか2年後だ。三塚氏も同じ時期に同じ経緯で奥州へ移動した可能性が高い。
室町期になると、奥州探題として着任した大崎氏がこの地域の支配を固める。同じ諏訪神党の流れをくむ三塚氏・笠原氏らは、大崎氏の家臣団として再編されていった。中先代の乱で同じ側に立って戦った武士団が、奥州の地で大崎氏のもとに結集した——そう読むと、三塚館主の存在は「信濃から奥州へ」という400年の移動履歴の、最も重要な結節点として見えてくる。
調査結果を総合すると、三塚氏の移動経路は次のように整理できる。
信濃国佐久郡三塚村(長野)
→ 諏訪社(現・三千束神社)を氏神とする武士団
→ 鎌倉後期(1285年):三塚新三郎として伴野荘に実在確認
→ 南北朝〜室町期(14〜15世紀):奥州へ移動
→ 大崎氏家臣として栗原郡に定着
→ 「三塚館主」として真坂城周辺に館を構える
1590年、大崎氏滅亡と帰農
1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は領地を没収され滅亡する。
このとき、多くの家臣団が武士身分を失い、そのまま地域に帰農・定着した。三塚氏も同様に、栗原郡真坂村(現・栗原市一迫)周辺に定着したと推定される。
同時期に同地域で帰農した他家の事例として、門傳家の縁起(伊勢→出羽→伊達氏麾下→1591年帰農→一迫定着)が郷土史料に残っており、三塚氏と同じ構造・時期での農民化が複数の家系に起きていたことが確認できる。
帰農後の三塚氏の記録として、幕末1853年(嘉永6年)には遠田郡涌谷町の竹駒神社の由緒に「当社住三塚氏の志願により竹駒正一位稲荷大明神安鎮の許を得た」という記述が残っている。武士の身分は失っても、地域共同体の中で一定の発言力を保ち続けた様子が見える。
三塚姓の広域分布——複数系統の存在
調査を通じて、三塚姓が宮城県以外にも独立した形で存在していることが判明した。
「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究」(村井祐樹著、2012年)の人名索引には「三塚氏・三塚高徳・三塚又次郎」が記載されており、近江(滋賀)の六角氏家臣にも三塚氏が存在していた。名字由来netも三塚の起源として「①信濃国佐久郡、②美濃国」の二系統を並記しており、岐阜県(美濃)にも別系統の三塚村が存在した可能性がある。また鳥取藩(池田家)の家臣団記録にも「三塚は本橋でのった」という着座記録が残されている。
これらが信濃系三塚氏から分派したものか、独立した別起源なのかは現時点では確認できていない。
現時点での結論
調査結果を整理すると、以下の仮説が最も整合的だ。
「三塚」という苗字は、信濃国佐久郡三塚村(現・長野県佐久市)を起源とする諏訪神党系武士団が、南北朝〜室町期に奥州へ移動し、大崎氏家臣として宮城県北部に定着した痕跡である。
起源地の産土神・三千束神社(旧・諏訪社)は今も佐久市三塚に現存し、御祭神の建御名方命は諏訪大社の主祭神と同一である。鎌倉末期の「三塚新三郎」から始まる記録、中世の「三塚館主」、江戸期の神社記録——これらが一本の線として繋がる。
現在の栗原市に約810人が集中する分布は、1590年の大崎氏滅亡後に帰農した三塚氏が真坂村周辺を起点として、江戸〜明治期にかけて周辺地域へ拡散していった結果と考えると非常に整合的だ。
今後の確認事項
本稿は現時点で確認可能な資料をもとにした調査メモであり、一部に仮説を含む。精度を高めるために確認が必要な事項を挙げておく。
佐久市・三千束神社境内の由緒碑・奉納者名簿における三塚氏の記録
栗原市一迫周辺の寺院過去帳における三塚家の記録
「三塚館」の具体的な所在地(萩沢周辺の地籍資料との照合)
美濃系・鳥取藩系三塚氏との系譜的関係
同じ苗字を持つ方でこれらの情報をお持ちの方がいれば、ぜひコメント等でご連絡いただけると幸いです。
参照資料:名字由来net、家族のルーツ(kakeisi.com)宮城県・長野県版、宮城県神社庁データベース、郷土歴史倶楽部(大崎領郡内動向)、みちのくトリッパー大崎家臣団、攻城団・真坂館、岸本良信公式ホームページ、一迫町史(Google Sites)、三千束神社(長野県神社庁・Google Maps)、東大史料編纂所・金子拓「信濃源氏平賀氏・大内氏について」、seesaa郷土史ブログ(三塚新三郎関連)、信州松代藩八田家文書、菅政友考按(太政官修史館)、戦国大名佐々木六角氏の基礎研究(村井祐樹著)、Wikipedia各項目


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