オタク迫害の歴史 ~ なぜ彼らは憎まれ、排除されてきたのか ~ ①黎明編(男サイド)
まえがき
「オタク」という単語には大きく二つの意味合いがあります。少なくとも現代は。
一つには「エキスパート、達人」といった意味。「マスター」とか「スペシャリスト」みたいな響き。
もう一つが「変人」といったネガティブな意味合い。いや「変人」を越えて「変態」そのものを意味することもあります。
「オタク」を巡る社会情勢は大きく変わりました。
では、それ以前はどうだったのでしょうか。
*****
我が国においては「オタク」と呼ばれる層には受難の時期が長かったと言えます。
「オタク」の意味をGoogleで引いてみるとこうあります。
「おたく(オタク)」とは、アニメ、漫画、ゲーム、アイドルなど、特定の趣味や分野に熱中し、深い知識や情熱を持って没頭する人を指す呼称です。かつては蔑称でしたが、現在は「〇〇オタク」のように、幅広い熱狂的なファン層を指す肯定的な意味も持つ、世界的なカルチャー(OTAKU)となっています。
Wikipediaではこうです。
おたく(オタクまたはヲタク)とは、愛好者を指す呼称で、1980年代に日本のサブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、(略)
「愛好家」を意味するという定義なのは間違いなさそうです。
しかし、これでは「オタク」という定義の半分も示せていないといえます。
「オタク」は単なる 「アニメやゲーム好き」ではなく、
『特定の趣味に過剰没頭し、社会性や身だしなみに難があると見なされた人物像』
もっとあからさまに言えば
『気色の悪い変態集団』
『薄気味の悪い社会不適合者ども』
という意味を大いに含んでいました。少なくともまっとうな社会人として『オタク』認定されることは致命的だと言って良いでしょう。
この辺りの捉え方は、地域差もありますが何と言っても「世代」によって全く受け取り方が違います。
地獄の1980~1990年を経た往年のオタクたちは世間の「オタクに対する目」の厳しさを知り抜いています。
ところが「Z世代」ともなると、物心ついた頃には「あからさまなオタク差別」とでも言うべき時期ではないのでどうしても実感を伴うことが出来ません。
★執筆意図
「オタク迫害史」なんてタイトルなので、「オタクへの差別をやめるべし!」といった告発の書と思われるかもしれません。
はたまた「こんなひどい目に遭って来た」という恨み節と受け取られるかもしれません。
そうした意図は全くないとはいいません。かなりの程度あります。
ありますが、やはり「こんなことがあった」と記録しておきたいという意識が強いです。
たまたま「オタク」という良くも悪くも分かりやすい対象ですから問題は際立ちます。
しかし、「オタクだったから」これほどひどい目に遭って来たと言う記録は2026(令和8)年の今記録しておかなくては歴史の闇に埋もれて行ってしまいます。
既に「オタク第一世代」とされる世代は還暦を越え、徐々にレジェンドだちが鬼籍に入りつつあります。
ということで「体験談集」としてお楽しみ頂ければ幸いです。
第一章 「オタク的なるもの」の成立過程
① 前史(1950~60年代):少年向け空想文化の拡大と「子どもの趣味」
戦後の復興期から高度経済成長期へと向かう1950年代から60年代にかけて、のちのオタク文化の豊かな土壌となる「戦後少年文化」が花開きました。その中心で圧倒的な光を放っていたのが手塚治虫です。彼の描くストーリー漫画は、映画的なダイナミズムと複雑な人間ドラマを持ち込み、活字だけでは満たされない子どもたちの想像力を激しく刺激しました。
時を同じくして、海外作品の翻訳から始まったSF小説が日本独自の発展を遂げ、科学技術がもたらす未来へのロマンを提供します。さらにスクリーンでは、『ゴジラ』などに代表される特撮映画が怪獣ブームを巻き起こし、現実には存在しない巨大な熱狂を生み出しました。また、手元ではミリタリーやSFメカの精巧な模型(プラモデル)を自らの手で組み上げる喜びが定着します。これらのジャンルは相互に影響を与え合いながら、ひとつの巨大な「少年向け空想文化」として爆発的に拡大していきました。
しかし、この時代の社会的な視線は極めて画一的でした。これらがいかに高度な想像力の上に成り立っていようとも、世間からはあくまで「子どもの趣味」という枠組みに押し込められていたのです。「漫画や特撮、SFは子供の読み物であり、分別のある大人になれば自然と卒業していくべきもの」――それが、当時の日本社会における絶対的な常識でした。
② 1960~70年代:テレビアニメの普及と「卒業しない若者たち」の誕生
その強固な世間の常識に、静かに、しかし決定的な亀裂が入り始めたのが1960年代から70年代です。最大の転機は、各家庭へのテレビの普及と、それに伴うテレビアニメの普及でした。
1963年、手塚治虫の手による日本初の本格的な30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放送が開始されます。これ以降、アニメーションは「特別な日の映画館での娯楽」から「毎週お茶の間に届けられる日常的な連続メディア」へと変貌を遂げ、無数の子どもたちの日常を空想世界で染め上げていきました。
そして、1960年代が終わり70年代へ突入する頃、文化の地殻変動が表面化します。1950年代の「少年向け空想文化」を全身に浴びて育った子どもたちが青年期を迎えた時、世間の「卒業すべき」という同調圧力に反して、大人になってもアニメ、特撮、SF、漫画を“追う人”が出始めたのです。
彼らはもはや、与えられた作品を無邪気に受け取るだけの子どもではありませんでした。作品に込められたテーマを読み解き、SF的考証を議論し、ファンジン(同人誌)を発行して仲間と熱を共有し始めました。「子どものもの」と見なされていたジャンルに大人の知性と情熱を持ち込み、それを生涯の趣味として愛し続ける者たち。この「卒業しない若者たち」の誕生こそが、のちに世界を席巻するオタク文化の、真の幕開けだったのです。
「ウルトラQ」(1966年)「ウルトラマン」(1966年)の影響は大きく、特に「ウルトラマン」は毎週違う怪獣が出現します。
「ゴジラ」(1954年)に始まる映画シリーズはまだしも、毎週となると「カタログ的」な資料が希求されます。放送中に名編集者にして怪獣博士と言われた大伴昌司による『怪獣解剖図鑑』(1967年)が発売されています。
これは放送の外でもこうしたものに触れ続ける機会が整いつつあった萌芽と言えるでしょう。
この時代(1960~70年)、大学SF研などのファン活動などが既に存在し、後のオタクにつながります。
当時の彼らが世間や周囲からどのように見られていたか、結論から申し上げますと、1980年代後半(宮崎勤事件以降)に起きたような社会的な「バッシング(迫害)」はまだありませんでした。しかし、一般社会からの「冷笑」と、同世代の学生たちからの「思想的な疎外・糾弾」という、非常に息苦しい偏見の目に晒されていた模様です(この頃からかよ…)。
1. 一般社会・文壇からの目:「荒唐無稽な子供の読み物」
1960年代の日本社会において、SF(サイエンス・フィクション)はまだ「文学」として市民権を得ていませんでした。
純文学至上主義の中での「私生児」扱い
当時の日本の出版界や知識人の間では「純文学」こそが至高であり、SFは怪獣映画や空飛ぶ円盤、あるいはパルプマガジンと同じ「荒唐無稽(ナンセンス)なもの」として一段低く見られていました。小松左京や筒井康隆といった第一世代のSF作家たち自身が、当時のSFが文学界から「継子(ままこ)」や「私生児」扱いされていたとたびたび回想しています。
「いい大人が読むものではない」という視線
そのため、最高学府である大学の学生が、集まって宇宙や未来の話を真剣に語り合い、ガリ版刷りの「ファンジン」を作っている姿は、世間からは「幼稚な遊びをこじらせている変わり者」として白い目で見られていました(ほっとけ)。
2. 大学内での立ち位置
学生運動全盛期における「現実逃避」批判
実は、当時のSF研の学生たちが最も強い「迫害に似た疎外感」を感じていたのは、大人たちからではなく、同じキャンパスにいる同世代の学生たちからでした。
「政治の季節」との衝突
1960年代後半といえば、安保闘争や全共闘運動(*)など、学生運動が最も過激化していた「政治の季節」です。キャンパスはヘルメットを被った学生で溢れ、マルクスやサルトルを読み、現実の国家や社会体制とどう闘うかが若者の至上命題とされていました。
(*全共闘世代は後に「団塊の世代」と呼ばれる世代です。このすぐ後に革命の夢破れた先輩たちを見て育ち、何事にも熱中できないとされた「シラケ世代」というのが来るんですが、実はこの「シラケ世代」が「オタク第一世代」とぴたり重なります。この辺は後に触れることになると思います)
「ノンポリ」と「現実逃避」のレッテル
そんな中、部室にこもってハインラインやアシモフを読み、架空の世界や未来のテクノロジーについて熱論を交わすSF研の学生たちは、活動家の学生たちから「ベトナム戦争や社会の矛盾から目を背けている」「現実逃避のノンポリ(政治的無関心)」として激しい批判や軽蔑の対象になりました。物理的な暴力(迫害)というよりは、「知的な村八分」や「思想的な居場所のなさ」という形での抑圧が強かった時代です。
3. 「迫害・疎外」がオタク文化の核を錬成した
皮肉なことに、この「一般社会からも、同世代の学生からも理解されない」という強烈なマイノリティ意識と疎外感こそが、後のオタク文化の強靭なネットワークを生み出しました。
「自分たちの場所」としてのファンジンと大会
誰にも理解されないからこそ、彼らは自分たちだけの強固なコミュニティを必要としました。商業誌に載らない評論や創作を発表する場として「ファンジン(『宇宙塵』や各大学のSF研会誌など)」が活発に作られ、1962年には全国のファンが交流する
「第1回日本SF大会(メグコン)」(**)
が開催されます。この
「マイナーな趣味を持つ者同士が、自前で本を作り、即売や交流の場を自主運営する」
というシステムが完全に確立されました。
(**SF大会は開催地の後に「コン」を付けるのが習わしです。ニューヨークで開かれればNYCON(ナイコン)と言った具合。そして、大阪で開かれた日本SF大会こそが「大コン」そう「DAICON(ダイコン)」です。あの「ダイコンフィルム」のダイコンですね。ちなみに「小倉」で開かれた時には「コクラノミコン」(分かる人には分かる)という粋な名前でした)
コミックマーケットへの直接的な接続
この1960年代からの大学SF研の活動がオタク文化の核であることを証明する最大の歴史的事実が、1975年の「コミックマーケット(コミケ)」の創設です。コミケを立ち上げた中心人物である米沢嘉博氏らは、明治大学SF研究会の出身でした。彼らは、SFファンダムで培われた「ファンジン制作」と「大会運営」のノウハウをそのまま漫画・アニメの領域に持ち込み、現在の巨大な同人誌文化のインフラを築き上げたのです。
ここまでのまとめ
1960年代の大学SF研の学生たちは、魔女狩りのような直接的な迫害こそ受けませんでしたが、「文学的にも政治的にも価値がない」と見なされる二重の偏見(冷笑と現実逃避への批判)の中にいました。しかし、その逃げ場のない疎外感の中で彼らが独自に築き上げた「ファンコミュニティの自治システム」こそが、後の日本が世界に誇るオタク文化・同人文化の強固な骨格となっているのです。
恐らく「怪獣図鑑」に熱中していた子たちの一部(当時の大学進学率はまだまだ低い)が大学に入って学生運動を尻目にSF研究会で今でいうオタク活動をしていた…という歴史があったみたいですね。
ありもせん革命を信じて火炎瓶投げるよりはクリエイティブだと思ってしまうのはその後(奇しくも宮崎勤が逮捕されたのと同じ年の1989年)のソ連崩壊など「結末」を知っているからだけではないと思うのですがどうでしょう。
確かに80年代になっても「おたく同士」の結びつきは強固でした。何しろそこでしか手に入らないものも大量にあったりしますからね。
この閉鎖性がまた世間から奇異な目で見られたりするんですが…。
こちらは無料公開記事です。投げ銭をしていただくと励みになります
ここから先は
¥ 1,000
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?



購入者のコメント