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市野川容孝コミュの羽入辰郎氏の『学問とは何か』(ミネルヴァ書房)における「東大山中湖事件」に関する記述について

市野川です。本日は一つ、私にとっては心が重たいことについて、しかし、この場をお借りして、私なりに考えていることについて述べさせていただきたいと思います。

1984年4月、新入生歓迎合宿のため山中湖に行っていた東大生6名が、夜中に酔った挙げ句、氷のまだはっていた冷たい湖にボートで漕ぎ出し、そのうちの1名の所業が原因でボートは転覆。その1名だけは生き残ったが、残りの5名は水死する、という事件がおきました。この事件は、当時、マスコミでも大きく取りあげられましたが、生き残った1名というのは、私に他ならず、亡くなったのは私の友人たちでした。

先ごろ、羽入辰郎氏が、前著『マックス・ヴェーバーの犯罪』に続き、『学問とは何か』という本を、ミネルヴァ書房から上梓しました。
前著の『犯罪』に対して全面的な批判を向けた折原浩氏に対する全面的な反批判として、この近著は書かれているのですが、この本の中で羽入氏は、本の主旨とは一見、関係ないかのように思える、上の事件について詳述しています(155頁以下)。私は「市川芳孝」という仮名で登場します。
羽入氏もこの事件に巻き込まれた当事者であり、彼が書いているとおり、羽入氏は私たちの救助活動に率先してあたってくれた、私にとっては命の恩人の一人と言うべき人です。
しかし、羽入氏は当時から、この事件について、市野川は嘘をつきながら、然るべき責任をとらずにいる、と主張していました。私としては、すべてが羽入氏のとおりであるわけではなく、私の言葉にも耳を傾けてほしいと思い、何度か羽入氏と話し合うこと試みましたが、ことごとく拒絶され、「しらばっくれるな」「自分の胸に聞いてみろ」「俺は全部、知っている」という類の言葉で罵倒されるだけで、私の言葉には一切、耳を傾けてもらえませんでした。上の『学問とは何か』では、私が羽入氏の自宅に赴いたときのことが書かれていますが(156頁等)、その時以来、彼と直接やりとりしたことはありません。

今回の著作の該当箇所が、24年前のこの時以来、羽入氏から私が受けとることのできた初めての言葉です。

この事件について、私の視点からではありますが、いくつか述べておかねばならないと思い、本トピックを記している次第です。

コメント(15)

この事件は、私も記憶にあります。その当事者が、市野川さん
だったとは知りませんでした。是非、その顛末をお聞かせください。
羽入氏の私に対する強い怒りは、その筆致からもにじみ出ており、そのような怒りが私に向けられることも全く正当である、と私は認めざるをえません。私が原因で5人が亡くなったことは、事実だからです。

しかし、羽入氏は、嘘をつきながら、私がこの当の事実を否認していると述べており、それが彼の憤怒の原因の一つになっている。だが、しかし、それは違う、と私は言わなければならない。
羽入氏の記述では、真相を究明せんとする彼の一連によって、最初はシラをきって、逃げ続けていた(とされる)私が「追い詰められ」(166頁)、「ボートを転覆させた加害者として現場検証に連れていかれ」るまでになった(168頁)、ということになっているけれども、それは違う。私は、事件の当日から警察で事情聴取を受けており、その後も何度か呼び出しを受けた(が、現場検証には立ち会わされていない)。

加えて、私は、事件当日のその最初の事情聴取のときから、私の所業が原因でボートが転覆したことを警察に述べているし、後の(横浜の)海難審判庁での事情聴取でも、同じことを繰り返し述べた。羽入氏の証言もその一つの根拠となったからだと推察するが、私自身が認めているこの過失ゆえに、私は(不起訴処分となったが)書類送検されたと、私は理解している。

それが一つ。
そして、もう一つ、羽入氏が私を絶対に許せないと思っているのは、亡くなった5名のうち、私とともに何とか救助されたT君(羽入氏の本では「滝山」という仮名)に対して、私が浴槽でお湯をかけ、それが原因でT君の容態が急変し、亡くなったにもかかわらず、私がそれを「記憶喪失」と称して隠している(と羽入氏が認識している)ことだと私は思う。

しかしながら、私自身の記憶に即して、当時の状況を述べさせてもらうなら、羽入氏らが救助に来てくれてからその後のことは、ほとんど記憶になく、気がついたときは、何人かの人に取り囲まれて、布団の上に横たわっていた。記憶をしっかりとたどり返すことができるのも、このときの自分からである。
羽入氏から見れば、「あんなにしっかり反応していたのだから、記憶がないわけがない」「しらばっくれるな」と考えているのだろうけれども、偽りなく、本当のことを言え、と言われるならば、そのように言う他なかったし、今もそうである。

しかし、記憶がないからと言って、罪がないとは言えない。そのことは、私自身が今日に至るまで、痛みとともに、ずっと自分に言い聞かせてきたことである。

事件直後、私は、亡くなった友人たちの通夜と葬儀を一つ一つまわり、ご両親にも、(お詫びになど決してならない)お詫びをしてまわっていたが、T君のご両親だけが、私の焼香を決して許されなかった。(羽入氏は、私がT君の葬儀に無礼にも来なかった、と書いているが、その理由の一つは、T君のご両親から弔問を拒絶されたからであり、後日、T君のご自宅にも足を運んだが、お父上から「帰ってくれ」と言われた。他のご両親は、きっと不愉快を押し殺してだったとは思うが、私の弔問を何度か許してくれた。)

羽入氏が事態を上のように認識している、つまり、私のせいでT君が死んだにもかかわらず、私がそれを隠していると認識しており、その認識をT君のご両親も共有なさっているようだ、ということを、私は周囲の人びとから仄聞した。
それゆえ、私は、自分自身の記憶の欠落を補うためにも、また、私が嘘を言っているわけではないことを理解してもらうためにも、羽入氏と直接、話をしようと思ったが、前述のとおり、彼は私と決して会おうとしなかった。

羽入氏が言うとおり、私のせいでT君が亡くなったのかどうか、真相はいまだに分からない。前述のとおり、私は、この事件について書類送検され、不起訴処分になったが、その際にも、T君の死因が何であったのかについては、説明を受けなかった。検察庁から直接、聞いたわけではないが、私が間接的に聞いたのは、「不起訴処分が答えである、としか言えない」というものだった。

私も個人的に医療関係者に話をうかがい、「私がお湯をかけたことが、T君の直接の死因だったと言われているのですが、やはりそうなのでしょうか」と尋ねてみたが、「あなた自身がつかっていた湯船のお湯が、ショック死を招くほどの高温だったとは考えにくいし、むしろ、その程度の温度のお湯をかけることは適切な処置だったとも言える」という答えだった。

しかし、この答えで、私の罪の意識が軽くなったり、消えて無くなることは決してなかった。あのとき、私がその場にいなければ、5人が私と一緒でなければ、彼らはみんな死なずに済んだ、という反実仮想は、永遠に妥当し続けるからです。
羽入氏はさらに私を嘘つき、偽善者として論難するだろうが、この反実仮想とそれにもとづく罪の意識は、この24年間、私の心からは消えたことがない。
羽入氏は、近著の中で、こう書いている。「市川[=市野川]は今、東大駒場で社会学を教えている。専門は医療社会学である。過失によると言えども、五人殺して医療社会学とは、誠に皮肉なものである」(169頁)。──私は、彼のこの言葉に対して、何も言うことができない。T君も含めて5人の死に対して、法律上は不起訴処分になったとしても、私には責任がある。「五人殺しておいて」と言われれば、そのとおりだとしか言えない。

そのことにどう向き合えばいいのか、私はこれまでずっと、今も、そしてこれからも死ぬまでずっと、考え続けなければならないのだが、今のこの私、「東大駒場で社会学を教え」「専門を医療社会学」としている自分は、その問いに対する私なりの差し当たっての答えである、としか私には言えない。──間違った答えなのかもしれないし、羽入氏はそう言いたいのだろう。しかし、この問いに答えることができるのは、また答えなければならないのは、羽入氏でも、それ以外の誰でもなく、私しかいない。しかも、私は、自分で自分を責め続けている以上、常に間違った答えしか出せないのではないかと思う。
遅れた社会的な制裁という意味を込めて、羽入氏から私がどんな非難や罵倒をあびようとも、私には返す言葉が基本的に何もない。事実誤認と私には思われることについて、いくつか述べなければならないことがあるとしても、悪いの私であり、羽入氏が私を厳しく責めることは正しい。

ただし、このような私の無様が、M・ヴェーバーをめぐる折原浩先生との論争の書物の中で取りあげられたことについて、私は折原先生に対して、大変、申し訳なく思っている。

私は大学1年のときから、折原先生のゼミに何度か出させてもらったが、そのことを羽入氏は、「市川[=市野川]は折原に心酔しているらしく」云々と書いている(157頁)。なぜ羽入氏は、私のことをこの本で書いたのか。私には、羽入氏が次のように言おうとしているように読めた。「5人も殺しておいて、シラを切り、嘘をつきとおして、東大駒場で臆面もなく、教員をやっている市野川という奴がおり、その人非人が心酔していたのが、ほからならぬ折原なのを、読者の皆さんはご存じか」。──私自身に対する怒りもさることながら、羽入氏は、そう言わんがためにも、M・ヴェーバーとは無関係なこの話を、わざわざ自著に記しているように私には読めたし、そう読めたがゆえに、折原先生には、直接、メールでお詫びを申し上げた。

羽入氏が私について書いていることは、決して事実無根ではなく、事件に関する彼の理解と解釈も、一つの可能性として、私は引き受けなければならない。
そのような自分であるがゆえに、道理を外れているようにしか思えない羽入氏の折原先生に対する「(反)批判」に対して、私自身はさらに何もできない。私のせいで、折原先生に不当な誹謗がさらに上塗りされているのにかかわらず、私には「それは間違っている」と羽入氏に対して積極的に反論することができない。──そういう自分の不甲斐なさに対して、私は折原先生に対してお詫び申し上げた。

私にできるのは、出版元のミネルヴァ書房を介し、羽入氏に対して、「私に対するあなたの考えと怒りを、あなたが公の場でぶちまけることに、私は何も反対できないが、それを折原先生に対する批判の書でおこなうのは、やめてもらえないか」と申し入れることぐらいではないかと思うのだが、すでに問題の書物が公刊されてしまっている以上、そのような要請も無意味かもしれない。私にできることは、何もない。
日記を書かれていないので、驚いてこのコミュニティのトピックスを読んでいます。

市野川さんはもちろん知っていますが、その当事者だったことは知りませんでした。
あの事故を先導してしまった(別の)T君は、僕の元同級生でオリエンテーターだったので、
事故を知ってすぐに大学院最初の授業を欠席し駆けつけたのは、確かに覚えていますが。

彼の葬儀には私も参列致しました。事実婚であった彼女が喪主になれず、悲しいものでしたが。
書けることはあまりありません。事故の第一報を伝えてきたS君も、それを受けるべきはずだったK君も
すでに故人です(それぞれ交通事故と脳血管障害と死因は関係ありませんが)。
ともに文学部学友会を支えるアクティヴィストでした。

私も領域は異なりますが、医療にかかわる社会学を専攻するものです。
このトピックス、心にとめておきます。
「人殺しの市野川が無罪のまま、のうのうと東大駒場で社会学の教員をやっている」と、これだけはっきりと活字にされたのだから、大学等にもこれから迷惑をかけることになってしまうかもしれない。羽入氏が望んでいることの一つも、それだと思うし、私一人が彼の憎悪の対象であるならば、羽入氏がそう望むことに対して、私は強く反論することができない。

しかし(杞憂かもしれず、そうであることを願っているが)私がお世話をしている/してきた学生さんたちに、私のことが理由で、何か不利益がもたらされるのだとしたら、私はいたたまれない(羽入氏もそれは望んでいないはずだ)。

それからもう一つ、羽入氏は、私の両親の当時の対応についても、槍玉にあげている(166頁)。すべてが羽入氏の言うとおりだと私は思わないが、確かに、不適切な行動が私の両親にもあったのかもしれない。しかし、年老いた二人が、今になって、羽入氏のこの記述を目にすることがあるとしたら、私はやはりいたたれない。責められるべき人間は、基本的に私一人だと思うから。

11年前に、見田宗介先生の後任として、駒場に来てもらえないか、と打診を受けたとき、私は24年前の事件のことを率直にお話しして、「職場が駒場であるならば、この古傷ゆえに、先生方にご迷惑をおかけする可能性が一層、高いので、お断りさせていただけないでしょうか」と言った。しかし、こちらのスタッフの先生方は、丁寧に状況を調査なさった上で、「あなたが駒場に来ることについて、私たちは何も問題を感じていない。できれば来てほしい」と言ってくださった。私自身も、煩悶し、深く悩んだが、駒場で教員をつとめることが、私のなすべき責務の一つなのかもしれない、と思い、今日に至っている次第である。

しかし、それも私の勝手な思い込みかもしれず、今後の状況次第では、現職を辞すということがあって然るべきなのかもしれないと、頭の片隅で考えている。必要なときは、いつでもそういうことがきちんとできるように、これまで生きてきたつもりではあるのだが。

羽入氏は、こう書いている。「殺人の時効は15年である。但し、道義的責任は残る。市[野]川、それをお前はあの時果たさなかった。「記憶喪失」と称して逃げ回って。だから私と遺族の心の中では、お前があの夜、湖で死んだ五人に対して行った行為に対しての時効はいまだ成立してない」(156頁)。──私自身は、前述のとおり「逃げ回った」覚えはないが、私の犯した殺人には時効がなく、道義的責任は残り続けている、という羽入氏の言葉は(彼自身の考えとは違う意味でだが)正しいと私も思っている。

現時点で、私から言っておかなければならないと思ったことは、以上です。
折原先生はわかってくださるだろうし、このことで市野川君をいまさら責める人は(ご遺族ならともかく)いないと思います。

私はこの件につき君と話したことはないはずだし、今後も話題とはいたしません。
(なお私がこの件について仄聞したのは2ちゃんねるが初めてです。古き良き時代だったのかもしれませんが、その2ちゃんねるでさえあっさりスルーされる話題でした。
世間の人の大方は知らない、知っている人は知っていても、あえてことあげはしない、そういう話題です。みんなその程度のつつしみはあります。)

客観的には「羽入おわったな」の一言です。読めたのは『思想』論文だけでした。
 初めて知り、驚きました。僕も稲葉先生と同じく、当該の件でいまさら市野川さんを責める人はほとんどいないと思います。また羽入氏が折原先生との論争のなかでこの件を持ち出すのことには違和感があります(『~犯罪』は読みました(目を通しました)。『学問とは~』は未入手・未読です)。僕としては、市野川さんがこれ以上、心を痛めないことを祈るばかりです。(しかし、このように書かれてしまうと、SNS内のコミュではなく、どこか印刷媒体で、「反論」せざるをえないのではないか、とも思います。)
事の全容を知るわけではありませんが、一端を知るものとして、
あれは「事件」ではなく、「事故」だったと思っています。
これは警察の「公式」発表を支持するという意味だけではありません。
誰かを責めて責任を帰してしまい、住むような問題ではなかったと考えています。
「千葉で合宿中のMから電話があった、山中湖でTが死んだ」と連絡の入った4月にしては寒い朝のことを思い出しました。
金井康治君転校実現運動のつながりで一緒に活動していた仲間の家へ集まり、連絡が入るのを待ちました。
午後遅く、遺体が帰ってきたとの連絡を受けて、飯田橋の近くのTの両親が関わり深い宗教施設で対面しました。
その日、トレールバイクのトライアルに行っていた、Tとは同年の一番親しかった男が、泥だらけのバイクウェアで泣いていたシーンが目に浮かんできます

このコミュでのやりとりを、友人に伝えたところ、以下が返ってきました。

あのときは、入ってきておかしくない情報はすべて見聞き読みしていたと思いますが、どう考えても、あれは事故だったわけでしょう。責任というなら、どう考えたって、T君のお父上がおっしゃっていたように、年長であったT君にあるというべきでしょう。そして、どう考えようとも、あれは浅はかな事故だったわけです。あの夜、よっぱらって湖にこぎ出したという行為は、いくら責められてもしょうがないわけですが、それ以上とやかくいうのは筋違いというものだと思います。生き残ったものは、死んだ者に対して、明らかに年長であったT君に対しての分も含めて責任を感じるべきだと思うけれど、それは、生き残った責任であって、あの顛末に対する社会的責任ではないはずです。
Sakinoこと高橋さきのです。自分で十数年やっている生業である翻訳者のコミュニティ(フリーランサーの初原的組合活動?(情報交換^^;)だと思っています)の維持にエネルギーをとられていて、他のコミュニティをきちんと覗いている余裕がなく、mixiには初期から入っていたにもかかわらず、ごあいさつが遅れてすみません。あちこちたぐって、ようやく辿りついたら、すみませ~ん、上記のたいしょうの「友人」というのは私でございます。何かとハヤミミなもので、アレレと思った時点で、たいしょうから連絡がある前に、こちらに直接参上すればよかったのですが、すみません。

上記コメントは、当時行動範囲が重なっていたたいしょうあてにとっさに書いたので、デリカシーにかける部分があるかと思いますが、どうぞご容赦ください。たいしょうが人のメールを無断でコピペした「しかえし」に、私もばらしちゃいますが、たいしょうのmixiの写真のバースデーケーキは、たいしょうと「T」の共通の友人たち(それ以上は書きません)(私は入っていません)が、その子どもたちを育てながらずっと山中湖で夏に集まっていて、その延長線上で、たいしょうに育てて^^;もらった子どもたち全員集合で(ここで、たいしょうが保育士さんをやってくれなかったら、とっくの昔に破綻していた私とその家族が入ってきます)たいしょうの50歳のお誕生日会をやったときのケーキなんだと思っています(ちがったらごめんね<たいしょう)。

おそらく、たいしょうにとっては、今回のことは、学壇の中のできごとではないんです(そして、たぶん、私も、たいしょうとは比べものにならないけれど、そう)。

一般論として語られるべきは、原文を読んでいませんが、まずは、遺族や親しい友人に対する配慮の著しい欠如の問題だと思います。事故という現実を受け止めねばならず、マスコミの報道にさらされ、ようやく「その後」の生活に踏み出してある程度の時間が経過したという段になって(端からは四半世紀は長くても、さまざまな立場の当事者たちにとっては、ほんの昨日のことなのかもしれません、たいしょうのような友人関係も含めてということですが)、なぜ、彼らは、このようなかたちで、昨今のことばづかいでいえば「さらされ」なければならないのでしょうか。(事故をとりあげること、すなわち「さらし」ではありません。念のため。)

四半世紀というのは、上記のように関係者にとって短かったかもしれないにしても、文筆をなりわいとするものにとっては十分に思考をめぐらせて語ることを要求する期間であるように思います。「いあわせた一個人がみたまま」を、いあわせたという特権をもって、そしてその後文筆をなりわいとすることをもって得た「書く機会」を利用して口汚く?語ることが許されてよかろうはずはありません(そうであるならば、文筆をなりわいとすることを捨ててから行うべきです)。

ましてや、ここからは推測が混ざりますが、遺族の代弁に近いトーンもおりまぜながら事件を「暴露」するなどといったことは言語道断です。

ひからびた比喩しか出てこなくて、書くのも恥ずかしいですが、いわゆる「二度崖から突き落とされる」というような心地を、遺族やその友人たちに《社会科学者》が味あわせるなどという行為があってよいはずはありません。そのような特権を《社会科学者》は持っていないはずだし、出版社であるミネルヴァの編集者はいったいぜんたい、「仕事」をしているのだろうか…という疑問が浮かびました。

   折原さんも市野川さんも、心ならずもということですが、悪いんだけど、ここでは、
   この本の著者やミネルヴァと一緒の側に含まれるという構図になっちゃっている
   のかもしれません。「心ならずも」という部分、私は、理解しているつもりですが。

ここからは別のはなしになりますが、四半世紀たって、当時報道された「人工呼吸もできないおバカな東大生」「消防署と警察署の区別もつかないおバカな東大生(公式的に、そのために救急車がつくのが遅れたということになっていたはずです)という報道内容に対する反論・反省もなく、そこに最年長者として存在していた人物が、当事者だの「いあわせた」だのといって文章を書くなんて、私には到底信じられません。

言わなくてはならないことは、もっとあるような気がしますが、とりあえず、お詫びまで。
ドジ竹です。
山中湖の事故は、私も金井康治君を地域の普通学校へ入学させようとする闘争の中で知ったT君をはじめとして多くの学生が亡くなった事故として、ショックでした。
テレビで金沢から東京に転居した障害者?さんが葬儀の場面で映っていたのが印象的でした。

今は亡くなった森泰一郎君から、一昨年、この事故で唯一の生き残りがイッチーであることを知らされました。
その時私は、亡くなった人のことを偲んで医療社会学をイッチ―が専攻する様に決意して行ったのだろうな、と思いました。

羽入という人のことはほとんど知りません。PHP新書の『マックス・ヴェーバーの哀しみ』という本を面白そうだから読みました。中々才能のある人だと思いました。しかし、心理療法関係者に良くある「自分は何でも心理分析できるぞ!」という匂いが気になっていました。どうもイッチーの置かれていた状態(このコミュニティでしか良くわかりませんが、予期せぬ事態が起こって、パニックになってしまうと、その時点で平静に見えても、極度の緊張状態が緩むと、記憶喪失になることなどよくある話しではないでしょうか?)は私たちには到底わかりませんが、羽入という人は「記憶喪失などあり得ない」と断言できる傲慢さを感じてしまいます!自己過信のものすごく強い人のような気がします。

私はマルクスでもヴェーバーでも護教論的に弁護する気などさらさらないので【折原ー羽入論争】等には全く関心がありません。折原氏に関しては東大闘争の時の【造反教官】イメージが
【中沢新一氏問題】で完全に崩壊してしまったので(朝日に連載していた見田宗介の論壇を読んでいました)、どうでも良いのですが、何故、山中湖事件(その中でのイッチーの「責任」問題が出てくるのか?本を読んでいないのでなんともいえないが、やっぱり当事者以外の人の論争とは無関係と思われる【事件】として引っ張り出される事は大いに問題だと思います)がでてくるのか?さっぱりわかりません。
もし、羽入氏がイッチーの事を問題にする気なら、別の問題の仕方があるでしょうに・・・。論争書で文書にして批判するのはルール違反、一種のリンチ行為だと思います。直接会って話をすればよいものを!といわざるを得ません。
その方が、亡くなった方々への誠意ある態度ではないでしょうか!政治利用しているとしか思えません。
倫理的には、静かに己の至らなさをそれぞれの立場から、考え続ける、という姿勢が何よりも大切なのではないでしょうか?正当性を主張する姿は故人への傲慢さではないでしょうか?
何年か前、佐原君から電話があり、今日駒場で市野川君に会うんだけどと、僕は当然市野川君を知っているものと思い込んだ電話があり、僕はそのとき市野川君の名前を初めて聞いたんですが、その日の夜は用事があって行けなかったんですけど、そのとき聞いた市野川という名前が記憶に残っていたので、市野川容孝コミュがあるのを眼にしたときコミュには入っていたんですが、山中湖の事故の場にいた方だったのですね。だったら、当時、市野川君の姿を見たことはあったんだなと思いました。
たいしょう@足立区さんが書いているように「責任というなら、どう考えたって、T君のお父上がおっしゃっていたように、年長であったT君にあるというべきでしょう。そして、どう考えようとも、あれは浅はかな事故だったわけです。あの夜、よっぱらって湖にこぎ出したという行為は、いくら責められてもしょうがないわけですが、それ以上とやかくいうのは筋違いというものだと思います」というのが、当時を知る人の意見の最大公約数でしょう。T君は大学の1年後輩で、入学した頃から知っていたので、いや、T君がみんなを誘ったということはありえないよ、とT君を弁護してたんですが、自分から言い出したのではないにせよ年長のT君に止める責任があって、市野川君はかわいそうな犠牲者と、僕の周囲の人々は皆思っている感じでした。
なんとまあ。
ここ数カ月ネットをゆっくり見るような環境もなくて、いまごろになってこのトピックを見たのですが。
市野川先生を書籍でしか知らない一ファンがなにをどうこうと言う筋合いのことではないと思いますが、このような個人的なことに価値判断をつけるべきではございませんし、仮にその本を読んだ人が『そうか、その市川ってやつはひどい奴だな』と思ったところでどうなるというのでしょうか。
ちょっと知的誠実が疑われることだと思います。

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