「博士ちゃん」じっくり見る、語ることの素晴らしさ
「博士ちゃんSPクロアチア編」が面白かったという話。
城壁都市ドゥブロヴニクに訪れた二人だが、
壁を見て立ち止まり、跳ね橋を見て立ち止まり、点在する「聖ヴラホ像」を探し回る、といった具合で、
ロケ隊が「2人を想定した時間」を大幅に超過する2時間半押し。
外壁だけで番組の1/3が過ぎてしまうほどである。
しかし、2人にはそれだけのことが語れてしまうということだ。
質素な作りの外壁に美を見出し、当時の暮らしを想像し、歴史の変遷を楽しむことができる。
「まだまだ時間が足りない!」という2人の興奮が伺えた。
この反対の例は旅をしているとよく見る光景である。
まるでここに来たことだけが重要であるかのように、
足早に「観光地として消費」しているように見える人もいる。
ここで思い浮かんだのは以下の文言である。
作品は、読み手の実力分しか、その姿を現さない
これは文学作品での話だが、今回の例でも同じことが語れるだろう。
似たようなものだと、これも挙げられるか。
あんたみたいな生徒どのクラスにもいるんだよ。全部分かったような顔して勝手にひねくれて。この学校つまんねぇだのなんだの。…あのなぁ、学校なんてどうでもいいんだよ。お前がつまんないのはお前のせいだ。
このように、同じものを「見て」いても、「見えてくる」ものは違う。
頭の良し悪しの話ではない。
どのような意図で、どのような視点で、どこに注目して、
その上で、何を感じとったか
それが人それぞれであると言うことだ。
そこに個性がある。そこを全開にしてほしい。
だから、「観光地」として決まった見方をするのはつまらない。
同時に、自分の感じたことをそのままに表現することも大切だと思った。
杏さんはドゥブロヴニクの城壁から海を臨み、
「地球儀の中にいるみたい」
「私達自身が船の中にいるみたい」
と、感じたことをそのままに伝えている。これが良いなと思った。
「地球儀の中にいるみたい」はどこまでも「地球儀の中にいる」ということであり、他の言葉で代替することができないものだ。
でも、人は特有の表現を恐れて、陳腐な表現で語ろうとする。
まぁそれでもいいんだけどさ…… 面白くはないよね
僕は「あなたから見えたもの」の話を聞きたいのよ
後は、推理することの楽しみもあるよね
杏さんは城の隙間にある大砲を打つための箇所(日本でいう所の「鉄砲狭間」)に、せり出している箇所があるのを見つけた。
そして、「長期戦に備えて腰掛ける人がいた?」と考える。
そしてまた、自身の仮説を裏付ける、あるいは覆すための根拠を探しだす。
仮説を恐れずに挙げるのもさることながら、
その仮説が「歴史的な正解かどうか」は、この際どうでもいいのだ。
目の前の物理的な「せり出している箇所」から、かつてそこに座り、終わりの見えない戦いの中で海を見つめていた名もなき兵士の息遣いを想像してみること。その自分なりのレンズを通して見ることで、ただの石壁が「物語」を語り始めることもある。
このような楽しみ方ができると、途端に観察は面白くなる。
世界がどれほど豊かな姿を現してくれるかは、私たちの「眼」(観察)にかかっている。
最初は国語のことを書きたかったが、ズレてしまった。
フラフラした文章ですがご容赦ください。


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