少女☆歌劇 レヴュースタァライト、9周年おめでとうございます。2017年に初めてキラめいた星の光が、2026年の今も再生産を繰り返し輝き続けていることへの、感謝と感動を。ありがとう。これからもよろしくお願いします。
前置きを語るオタク ~考察に対するSTATEMENT~
さて、この9周年に合わせて何をしようか、と考えるところから少し語りをさせてください。9周年とは言いますが、自分は劇スから勢なので2017年当時から追っていたわけではなく、またスタァライトの歴史をまとめる系の何かは、学会の方々や私より詳しく得意でやる気のある在野の方々がやってくれそうだなと。また、イラストやCG、物語を作れるわけでもなく。何かはしたいけどどうしようといった部分は正直ありました。音楽はちょっと考えたんですけどクオリティに納得のいくものが作れる気が全くせず。
……そういうときは、自分の原点に立ち返るべきです。つまり劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトを観ること。なんとも都合の良いことに一番好きなシアターであるイオンシネマ海老名での再上映が4月中旬にありましたため、そこで劇スを浴びて、そして自分のやりたいことに気づきました。
それは、考察をし、記事を書くこと。そう、これも原点回帰。劇場版スタァライトを観て何より最初に自分がやりたくてたまらなくなっていた、とにかくあの映画について考えに考え抜いて答えを出そうとする試み。今あるアカウントや交流や現場やその他諸々は、それをする中でいつの間にかついてきていたものだった。
それは9周年と直接は関係のない、とてもパーソナルな思い入れですが、だからこそ自分のポジションゼロを目指しこの節目でやるべきと思ったのでした。
具体的に何の話?というところに移りましょうか。
前回劇場版スタァライトを観た後に書いたこれについて、それぞれの舞台少女への「演技」と「本音」の解像度を上げ、「𝒘𝒊(𝒍)𝒅-𝒔𝒄𝒓𝒆𝒆𝒏 𝗯𝗮𝗿𝗼𝗾𝘂𝗲」という演目の新しい視点からの解釈を試みます。もしかしたら書いていく中で屈折した論理展開や都合のいいような解釈をしてしまうかもしれませんが、でもやります。この記事のゴール、いや終幕の条件はどこにあるのかこれを書いている時点で自分でもわかっていません。でも劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトを映画館で浴びているときの「わかんないけど、わかった」という感覚を言葉として取り出そうとする試みを、しなければならない。それが「舞台に火を灯す」ということだと思います。
そもそも、140字×2のツイートから得られる情報量なんて大したものではなく、考察の「察」の部分が多分に含まれています。それぞれがそれぞれに感じたスタァライトがある中でその琴線のどこかに触れて、抽象的に感じていたものが「言語化」されたように見えているだけで、実際には具体としてはほとんど何も「わかって」いないのではないかと。
なので、その内容をしっかりと記事にするというのは、曖昧に受け取れる言葉をより詳らかにする行為であり、その中で自ずと一人一人の考えとはズレていくはずです。でもそれでいいのだと思います。なぜならこれは「私」の見たスタァライトだから。同じ映像、同じ情報、同じ時間を観ていても、あなたの観たスタァライトはまたきっと違うはずです。
劇場版スタァライトを観た人に必ずオススメしている古川監督のインタビューがあるのですが、その中にこのような言葉があります。
「他人の考察」はあくまでも「楽しみ方の幅」を広げてくれるものとして考えてもらって、この作品やそれを見た2021年の一日が「自分にとって何なのか」を楽しんでいただけると幸いです。
本当にそうだと思います。自分が劇場版スタァライトを好きな理由の一つに、考える考えない以前にフィルムそのものが圧倒的な強度を誇っていることがあります。ただ舞台少女たちの生き様に圧倒され、吹き飛ばされ、そして最後に飛び切り清々しく元気になることができる。「わからせられる」映画。大切なのは何を受け取ったかそのもの。
その上で何をするかというところで、たまたま私はこの映画をもっと分析して、描写の一つ一つに意味を見出して、言葉にすることでわかりたいと思ったというだけであり。あくまでやりたいやつが勝手にやってるだけ。でもそこから生まれるものは確かにあるはずです。「わかります」をオタクのカリカチュアにせず、自分の言葉で何とか想いを絞り出して形にすることで、自分の見えた景色を誰かに届けられることもあるし、逆に自分では気づけなかったもの、また言葉にまではならなかったものが輪郭を持って投げかけられてくることもある。それが面白いのではないでしょうかと思っています。
とオタクポエムを一発かましたところで、今回は全編こんな感じかもしれないですと前置いておきます、考察などとうそぶいてはいるのですが、結局自分に書けるのは、他の分野の知識と紐づけてよりスタァライトを拡張するような裏付けのある「論文」ではなく、自分はこう思った!という「エモーショナル妄想」だなぁと思っています。根拠は「作中の描写を自分はこう読んだ」というある種の思い込みのみになりがち。
でもそれに価値がないわけではないとも思っています。自分がその時点で何を思っていたのかというスナップショットには、少なくとも未来の自分のための価値には絶対になるので。あまつさえそれが、他人の読解の助けにでもなっていたらもう万々歳ですよね。この記事もまた、誰かの楽しみ方の幅になれたなら幸いです。それと過去に読んだ卒論合同だったりインターネットの記事を改めて調べてしまうと「これでいいじゃん」になってしまいそうなので、あえて先行研究に当たらないという無法をかましています、許してください。それでは始めましょう、よろしくお願いします。
冒頭レヴュー
冒頭のレヴューにおいて、神楽ひかりは愛城華恋との別れを宣言し、対する愛城華恋はそれをなすがままに受け入れる、というより打ちのめされるままになっています。このレヴューの概要を、前作ロンド・ロンド・ロンドの描写を手掛かりに紐解いていきます。
神楽ひかり:選ばなかった過去たちへ 静かに捧ぐ讃美歌を
運命の舞台まで 追いかけて来てくれてありがとう 華恋
でも 私たちの舞台は まだ終わっていない
(風が吹き始める)
私たちはもう 舞台の上
ここで考えたいのは、「私たちはもう舞台の上」という重要なセリフが、風が吹いている状態で発されていることです。
少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンドより
©Project Revue Starlight
そもそもスタァライトにおける風の描写についてなのですが、自分はざっくり言うと「風が吹いている時は〝役〟を演じていない」という理解をしています(今後「素」と表現します)。ここでいうと神楽ひかりは素の神楽ひかりであり、「戯曲スタァライト」における〝クレール〟だったり、あるいは「レヴュースタァライト」そのものにおける〝神楽ひかり〟も演じていないという状態です。
それに付随してもう一個先に考えを述べておくと、基本的に舞台少女たちは「自分自身の役」を(超自然的に)演じていると考えています(レヴュースタァライトにおける〝神楽ひかり〟役の、同じ人生を持った素の神楽ひかりという概念)。その中で素の方から演じずとも湧き出る「本心」すらも、役としての「演技」とする覚悟を見せる舞台がwi(l)d-screen baroqueだよという話をこれからしますね。
私〝たち〟とは?
話を戻しまして、風の吹いている状態で「私たちはもう舞台の上」という台詞を発するということは、神楽ひかりは最初から自分たちは常に舞台の上にいるのだ、という概念を理解したうえで冒頭レヴューに臨んでいたと考えることができるでしょう。ただし、キリン=観客から生み出されるトマトは食べていない状態で。これってどういうことでしょう?
つまり、ここでもう先ほど言ったことを引っくり返しちゃうのですが、神楽ひかりの言った「私たちはもう舞台の上」の「私たち」には、「愛城華恋と神楽ひかり」は含まれていたとしても、「観客(※キリンに類するもの)」は含まれていないのです。だから勝手に舞台を始めてしまったし、「私たち=愛城華恋と神楽ひかり」なので始められてしまった。舞台の上にいることと、それ即ち観客に観られていることだという部分が紐づいていない。だから、演じるという行為に対する観客からの燃料、代価としてのトマトを受け取れていない。
何故そう考えるのかと言うと、キリンが開演に「間に合わ」ず、舞台を初めから見られていないから。演じるものと観るものの共犯関係が成立していない。あなたも注目している舞台が突然開演時間を繰り上げて冒頭を観られなかったらノリきれないですよね(という話なのかはともかく、この時点でのキリンはまだただの「観客」であり、「トマト」という「舞台少女の血肉になるもの」と繋がった存在ではありません)。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
「私たち」が指しているもののズレ、そしてそれにより「燃料を受け取れていない」ことが、神楽ひかりの動きを読み解くための鍵になります。
冒頭レヴューがwi(l)d-screen baroqueに含まれていない理由は、この理論に基づくならば「観客(=キリン=我々)が見ていない状態で始まった舞台だから」になります。このあと来るwi(l)d-screen baroque開始時の描写を思い出してください。キリンが良い声で開演を宣言していますね。初めから観客の存在が舞台に組み込まれているわけです。
さらに野菜キリンのシーンも同じ論理です。野菜キリンから生まれたトマトを食べる=観客の存在を内に取り込む、というプロセスを辿って舞台少女達は舞台に立っています。舞台は、観客がその全てを見届けてこそ成立するということ。その役割は劇中でキリンから我々へと委譲され、クライマックスでは舞台少女と「目が合う」し、エンドロールでは「言葉を贈られる」ことになります。
そう、劇場版スタァライトとは「私たちはもう舞台の上」の「私たち」に「キリン=トマト=観客=この映画を観て舞台少女の生き様を目撃した画面の前のあなた」が含まれるようになるまでの映画、とも捉えることができるのです。
演じられない愛城華恋、演じない神楽ひかり
次に、ツイートの方の「本音(本心)を演じる」という概念について、冒頭レヴューの愛城華恋と神楽ひかりそれぞれにスポットを当てて考えてみます。
と言っても、愛城華恋には演じるべき本心、「素」に当たる部分がないと考えられます(いても、5歳)。これは「ひかりちゃんとスタァライトする」という運命に向かって役作りをしてきた〝愛城華恋〟が、演じるという行為を超えてそのまま愛城華恋のパーソナリティそのものになってしまっているからです。だから困惑して、何もできずに列車に轢かれてしまう。「貫いてみせなさいよ、アンタのキラめきで。」に返せるセリフを持つ〝アンタ〟がいないのです。
一方神楽ひかりの方ですが、まず注目してもらいたいのは風の影響を受ける描写が非常に多いこと。華恋と相対するシーンでは舞台装置が下から噴き出す前から明らかに華恋より髪がなびいており、口上シーンでも強く風を受けています。つまり、「素の神楽ひかり」が愛城華恋に別れを告げていると考えられます。このときの神楽ひかりの目的は「私たち〝愛城華恋〟と〝神楽ひかり〟は二人でスタァライトする役作りを一緒にしてきたけど、その運命を叶えたのだからそれぞれ次の舞台に進みましょう」です。だからかそもそももうレヴュースタァライトの舞台から明確に降りたつもりっぽかったんですよね、後のロンドンでの「私の出番は終わったはずよ」から考えて。
ただし、「ひかりは『華恋が怖くて別れを告げた』という本心から逃げた」ということも後のまひるとのレヴューで示されます。5歳の〝神楽ひかり〟の話と、18歳の素の神楽ひかりの話を重ねていると考えると、前者は「嘘を演じた」、後者は「(怖くて逃げたという本心を)そもそも表に出さず覆い隠し、演じなかった」ことになるのかなと思います、そしてどちらも素の神楽ひかりの話。それらはどちらも「曝け出した本心すら、観客に観せる演技として演じ続ける」覚悟と逆の行為であり、だからwi(l)d-screen baroqueの舞台に立てば咎められる弱点となる。
しかし冒頭レヴューは、「愛城華恋から見た神楽ひかり」及びその逆しか視点が存在しない。故に咎める観客も裏方も共演者もおらず、そのままレヴューは終わってしまう。愛城華恋の目に映るトマトの破裂とは、愛城華恋にとってたった一つの舞台でありただ一人の観客である神楽ひかりの喪失の描写そのものです。そしてそれは逆も然り。トマトの破裂する描写が2回あるのは、「さようなら、愛城華恋」を告げた神楽ひかりにとっても、愛城華恋という観客を喪失することを示しているのです。
大切なのは、トマト=観客=燃料だけれども、必ずしも=キリンではないこと。ここで破裂してるのは野菜キリンのトマトじゃなく、愛城華恋と神楽ひかり自身。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
この節の要約:
・神楽ひかりの言う「私たち」の中に映画を観ている私たち観客は入っていない→華恋とひかりだけで舞台を始める→観客の象徴であるキリンが冒頭を見逃す→wi(l)d-screen baroqueに参加できていない
・愛城華恋はスタァライトから離れた「素」の自分を持たない、神楽ひかりは「素」の自分で愛城華恋に別れを告げたが、うまくいかない、互いを燃料としていることの象徴であるトマトは2度破裂する
皆殺しのレヴュー
皆殺しのレヴューはwi(l)d-screen baroqueの歌詞通り「ルール」が示されるレヴュー。日常はどんなときからでも舞台と化し、「オーディションに非ず」=本番として舞台に立つことが求められる。全員素の状態からいきなり舞台の上に引きずり出されたとき、演じられるか?という問い。
ここで全体的に「レヴュー」において考えていることを書いておくと、「レヴュー曲」と「セリフ」という二つの言葉が奔ることがレヴュースタァライトの発明であり情報圧縮力の高さの秘密であることは明白ですが、ここにも「演技」と「本心」という枠を当てはめてみると結構かみ合う部分があると思っています。「レヴュー曲」を音楽に整えられた演技寄り、「セリフ」を心から零れる本心寄りで考えてみると、それらが絡み合って形成されるレヴューの面白さがさらに見えてきます。
さて話を戻し、このレヴュー中に発された(意味のある)セリフを書き出してみると、
なな「列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは?」
香子「始まったんや、オーディションがまた!」
なな「やっと来た」
香子「今度こそ、うちがトップスタァになって!」
なな「これはオーディションに非ず」「だから、オーディションじゃないって」
純那「こんななな、知らない……」
なな「列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは?」
真矢「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」
クロディーヌ「あんたたち、さっきから何言ってるの?」「私の台詞を、無視、するなぁ!」
なな「クロちゃん、ちょっと、喋りすぎ」
なな「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」×3
純那「何言ってるの?私たち、まだ未成年じゃない」
真矢「狼狽えるな!舞台装置だ」
なな「列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは?私たち、もう死んでるよ」
香子「……甘い」
となります。
そして、終盤の純那から血が噴き出すシーンの描写を見ると、
- 純那、まひる、香子→出血あり
- 真矢、クロディーヌ、双葉→出血なし(真矢の頭に流れているのは返り血と見ています)
となっています。
これをそれぞれ解釈していくと、
- 純那、香子は素直に「舞台上で喋るべき言葉を間違えた」から死んでいるのかなと思います。本番の舞台上でオーディションに合格することを目的にしているのは本末転倒ですし、アドリブに素でマジレスしていては話にならない。野菜キリンのシーンで答え合わせされていますが、香子の「甘い」とはオーディション気分でいた自分への叱咤。
- 逆に喋らなかったのに出血しているまひるはというと、「喋るべきセリフがあったのに喋れなかった」になるのではないでしょうか。そもそもこのレヴュー中のまひるに注目してみると、「大場……」「なな!」のシーンから一人だけ顔が映らないように描かれている、ななに最初から斬りかかられず一回転する描写が挟まれている、真矢クロとななが対峙しているシーンでは後のシーンの位置関係的にいるべきところにいないなど、明らかに意図して変です。またそれより前の描写でも、進路相談のシーンでは「皆を笑顔にするスタァに、なります!」と宣言しておきながら実際は指示棒を落としてしまっている、オーディションの話を持ち出した香子に対しての驚きと怯えが混じったような表情など、一見強くなったように見えて舞台に立つことを怖がっている、という導線が敷かれているように思えます。
この3人は「本心を本心のまま出してしまい、演じるべき役として演じられていなかった」という部分が出血にフィードバックされているのではないでしょうか。
次に出血なし組ですが、こっちは「うーん双葉とクロディーヌ、結論ありきの解釈だなぁ」と正直かなりなっています。先に謝っておきます。いやだって二人もななに上掛け落とされてるじゃん(逆ギレ)!
- まず双葉なんですが、先の3人と何が違うのかというと、そもそも「本音を(香子に)言っていない」のだから、演じるべき役が「何もセリフのない」役であり、その正解がたまたま素でも通ってしまったのでは?と思っています。彼女は舞台の上に立つこと自体についての問題は抱えていないし、「大場ななに斬られても出る血がない」のです。なぜなら彼女の抱える問題は、徹頭徹尾花柳香子に関わることだから。本人に演じるべき役がないというのはそもそも血が通っていないという意味で「死んでいる」ということにならないでしょうか。最後も香子の心配をしているし、香子が死んだらお前も動けなくなるんでしょう?という描写。
- 次にクロディーヌですが、彼女と真矢は他より一段上のステージにいるという仮定を強めにした上で、「何もわかっていない役」を咄嗟に演じることはできていたから血は流れなかったが、なぜそれを演じないといけないのかの本質、「私たちはもう舞台の上」はわかっていなかったなのかなと考えます。真矢とななが何を話しているかわかっていないのは素なのだけれど、「そういう役」に自分を置くことで舞台に立つ。理屈はわかっていなくても身体を動かし演じる、一見野生の在り方ですが、「そこに野生はあるのか」と問いかけているのが歌詞の大場なな。なぜなら「本心を演じる」ことができなければwi(l)d-screen baroqueの役者としては不適格だから。
- 最後に天堂真矢。「わかっている人」が「わかっている人の演技」をしています。「舞台と観客が望むなら」=舞台には燃料が必要だということ、「私はもう舞台の上」=孤高の天堂真矢のセリフだから。演技でもあるし、本心でもある、wi(l)d-screen baroqueのルールに従っています。純那ちゃんがマジレスをしてしまうことで現実と地続きに死ぬという事象を、「舞台装置だ」と宣言することによりそこを舞台だと改めて定義しなおす格の高さもあります。
そしてネタバレすると、
という話がアニメディアの樋口さんのインタビューで語られていたりするので、答えがある程度分かった上でのこの読み方になっています。「劇場版冒頭から『演じている』彼女だからこそ、『舞台装置だ!』などの意図的な説明の台詞も言えるだろう~」
じゃあ、仕掛人である大場ななは?という話をしますと、まず彼女は「観客」が望む、キリンと繋がった存在、「ラスボス」の役を演じてこの場に立っています。だから野菜キリンのシーンの前で「自分の役(=個人としての大場なな)に戻ろう」と言っているのですね。その中で本音も演じているというのがどこなのかというと……
「クロちゃん、ちょっと(純那ちゃんと)喋りすぎ」
こういうことなのかも!
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
怨みのレヴュー
本心と演技、という軸でwi(l)d-screen baroqueを考えたとき、最もストレートにその話をしているのがこのレヴューです、なんせ「本音、晒せや」というセリフがあるぐらいですから。花柳香子のそれはめちゃくちゃわかりやすく描かれています、デコトラに「只今熱演中」って描いてあるぐらいにはわかりやすい。寮では「しょうもなく」てクロディーヌに言えなかった本心も、演技というプロトコルに乗せれば言える。そして乱入してきた石動双葉に対し本心からの演技をし、隠されていた本音を晒すよう導き、縁切りを宣言する。
一方石動双葉は、前半のパートはまだ本心がたまたま演技プランと一致しているだけの状態に見えます、香子の誘導によって相談しなかった言い訳を吐き出し、そして「ずるい!」という本音を叫び、香子と正面衝突……という演技ですね。(とまとめてしまうとそれこそずるいのですが、まあ聞いてください)。
(TVシリーズ時から)「落下」というファクターが「再生産」と強く結びついていることは皆さん何となくお気づきだと思いますが、そこには必ず空気の流れがあり、風が巻き起こっています。高いところから落ちると風を受けるというのは、いくら演じようと思ってもどうすることもできない、抗うことのできない「法則」で。つまりそれは、演技することのできない自分自身の素、本心をさらけ出すという行為と繋がっている。
だから、花柳香子と石動双葉が一緒に落ちるというのは、言うまでもないですがとても強い意味を持った描写です。いくら縁を切ろうとしても、本心で結びついていて決して離れることはないという核心。そこに至る際、花柳香子の側がトラックの進路を変え衝突を避けていますが、双葉は一人で落ちようとする香子の手を取ります。双葉の「ずるい」は本心ですが、同時に演技でもあるからこそ、香子が一人になろうとする身勝手を許さない。二人とも本音の大喧嘩を「演じる」ことができたからこそ、一緒に落ちるという道も選べるのです。なんならこの二人にとってはきっとそれも「しょうもない」スパイスに過ぎないのかもしれないですね。そして、
「「ガキの我が儘には勝てんわ」」
という演技と本心が一致する、wi(l)d-screen baroque①としての完璧な締め。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
競演のレヴュー
本心と演技を軸にするwi(l)d-screen baroque論における露崎まひるは、端的に言って「理論そのもの」です。このレヴューで露崎まひるのしていること、そのキラめきをなんとか言葉にしたいと思い生み出されたと言っても過言ではありません。このレヴューでの彼女の全てが、演技であり本心なのです。
皆殺しのレヴューで自らの弱さと向き合い、トマトを食べて「私たちはもう舞台の上」に立ったまひるが相対するのは、既に舞台を降りた自認だったところをキリンに呼び出された素の神楽ひかり。レヴュー曲は何とか歌えるものの、セリフでは困惑するばかりのひかりの上掛けを落とし「どうして演技しないの?舞台の上なのに」と詰問しています。神楽ひかりは上掛けを落とされ、追い詰められ、高所から「落下」することで否応なしに自分の本心と向き合うことになる。逆に露崎まひるは、既に「本心と向き合い、演じる覚悟」をしてこの舞台に立っているからこそ、落下シーンがありません。
ひかり「演じてた、ずっと……?」
まひる「うん、ずっと」
ひかり「怖かったの、まひるも」
まひる「今も、まだ怖いよ」
という台詞は、現在進行形の覚悟を示しています。本心だけれど、それも演技で、舞台の上。そして神楽ひかりに「風を起こす」。その本心を肯定し、もう一度華恋の元に送り出す。実際にこのあと列車の上に立つ神楽ひかりには強い風が吹きつけています。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
その流れでこの後の野菜キリンと相対するシーンまで書いてしまうと、あそこはまさに「なんなのよ、wi(l)d-screen baroqueって」の「答え合わせ」をしています。何度も言ってるけど、もう全部セリフで言ってるし全部画で表してるんだよな。キリンは燃料の役を与えられた喜び、本心を曝け出しながら「落下」する。そして残ったトマトを齧ることで、神楽ひかりの舞台にも「私たち」が取り込まれ、最後の「そうよ」に繋がっていく。
狩りのレヴュー
えー、これについては大場ななさんに謝罪しなければならないことがあって、私は本心と演技という読みをできるようになるまで、ななが本当に純那ちゃんにガチギレしてて、本当に純那ちゃんに逆転されてめちゃくちゃ狼狽えてたのかと思ってました。彼女、(もちろん本心も多大にあると思いますが)ちゃんと演技をしています。申し訳ありませんでした。なぜ大場ななは星見純那を殺さなかった(※上掛けを落とさず宝石を砕いた)のか→演技だったから、です。
これについてはそれなりに根拠もあり、「ななが口上で与謝野晶子を引用しているのは、彼女も演じ切れるか不安だったから」という話が監督か樋口さんかどこから出ていたはずなんです。なんですが、ソースが私の過去のツイートしかない。どこでの話だったかな……。覚えてる方おられたらこっそり教えて欲しいです。2023年より前の話です。
ただ一方、「ペン:力:刀」の大場なな歌唱パートがほんの一部しかない=演技で発している言葉が少ないと読めるのも事実なんですけどね。
で、一方の星見純那は、一人だけ野菜キリンのシーンでピンと来ていないですが、それでも本能でトマトを齧り、「この、狩りのレヴューで!」と役を演じています。ですがこれは皆殺しのクロディーヌのような身体が動いているだけの状態にすぎません。そのため偉人の引用でしかセリフを発することができず、ななに宝石を砕かれてしまう。
しかしそこから自分の言葉で立ち上がり、大立ち回りを繰り広げ、自分の意思で地を蹴り舞台から飛び降り、ななのボタンを飛ばします。つまり本心を逆転の舞台の〆に使っている。この後の二人、状況的には一緒に落下しているがそれを直接描かれていない。二人の本心が果たして通じ合ったのかどうかは「観客」には見せられていない、というのがにくい演出だなぁと感じます。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
魂のレヴュー
皆殺しのレヴューの節で真矢クロは他より一段上のレベルにいると書きましたが、それを全開で押し出してきているレヴューです。小手調べに「他の舞台少女が観客として観ている」「劇場でレヴューを行う」ところから格が高い。そして真矢は観客席までも舞台に使い、「神の器」の概念を語り出します。しかしここで考えるべきは、「素の天堂真矢」を消し去るというでも言うべきその概念が、wi(l)d-screen baroqueに相応しいかということ。その結論は「ポジションゼロキャンセル」と「神の器の断頭」というクロディーヌの活躍によって否定されます。対する天堂真矢は本心からの怒りをむき出しにし、西條クロディーヌと向かい合い、そして風が吹く中で向かい合う二人。完璧な流れだ……。
本心と演技が一致したまま剣を交える二人は、上に落ちます。上に落ちます!?でも実際上に落ちてますよね。そう、瞬間的に本心が晒される落下の逆であり、ここにある本心の全てを演技として舞台に立っているということ。私たちはもう舞台の上の本懐。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
最後のセリフ
さて、神楽ひかりはキリンという観客を己に取り込み「私たち」を拡張することで、再び舞台の上に立つことができました。一方の愛城華恋は、まず次の舞台に行くべき「素の自分」の役を作らなければならず、その過程を経て舞台に立っています。砂漠を歩き自分の人生を見つめなおすことによって、「私にとって舞台はひかりちゃん」という回答をもう一度出します。スタァライトの舞台に立っている〝愛城華恋〟と「素の愛城華恋」が限りなく一致していることを自覚するプロセス自体が、必要な役作りなのです。
しかし次の段階である「観客を取り込む」ことは未だできていません。だから神楽ひかりが「こちら側」を認識させるという荒療治を行うのです。そのショックによって愛城華恋のトマトは再び破裂し、死んでしまう。けれど神楽ひかりには、愛城華恋の演技ではない本物の死すら、演技によって「演技だったこと」にする演技力があるのです*1。「全部演技だったんだ」とそう思わせられるだけの役者であるという圧倒的なスタァ性を持ち合わせているという証明を、観客に向けて行う。ここがレヴュースタァライトの舞台少女賛歌の部分というか、全部演じてるから舞台少女なんだよ!というのをわからせてくる部分だと思います。彼女にとって、「本当に華恋が死んじゃったのかもしれないと思って焦ってる!?」と観客=我々に思わせたら、それはまさに勝ちであり、価値なのです。
劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトより
©Project Revue Starlight
しかしこのレヴューの中でも、(おそらく)本心からの言葉が演技でなく出てしまっている部分があると考えています。それは列車が砂煙に突入したシーンでの「華恋、戻ってきて!」。東京タワーにいるはずのひかりがいきなり出てきて幼少期の華恋に呼びかけるという唐突なシーンで解釈に悩んでいた時期があったのですが、素直にここだけは神楽ひかりの心からの叫びであり、「愛城華恋という役者に舞台の上に戻ってきてほしい」という願いの発露なのではないでしょうか。その願いは幼少期の華恋が持っているトマトに託されます。あのトマトは「愛城華恋の観客」という概念に捧げられるもので、少女☆歌劇 レヴュースタァライトを追いかけてきた我々でもあり、神楽ひかり自身でもある。それを燃やして愛城華恋は生まれ変わります。
「列車は必ず次の駅へ。舞台少女は、次の舞台へ!」
本心と演技と観客という3つの要素が揃った時、愛城華恋はレヴュースタァライトを目指してきた〝愛城華恋〟とは違うところにある一つの感情を自覚し、それを舞台の上のセリフとして演じ発するという境地に辿り着きます。「素の愛城華恋の感情」だけれど、観客に観られていることを自覚している舞台の上で発すれば、それは「本物のセリフ」であり「演技」である。演者であり続ける、という生き方を選ぶこと。かくして9人の舞台少女の本心が演じられ、それを観客が目撃し「私たちはもう舞台の上」となったからwi(l)d-screen baroqueは終幕し、そしてTVシリーズからの運命に決着が着きレヴュースタァライトという舞台も同時に「演じ切」られる。レヴュー曲とセリフの「ポジションゼロ」が重なるのはそういうことだと思っています。
そうして愛城華恋と神楽ひかりは、舞台少女たちが見守る中柔らかな風に吹かれ言葉を交わし、神楽ひかりは愛城華恋にもう一度トマトを渡します。幼少期の華恋に渡したトマトはwi(l)d-screen baroqueを、レヴュースタァライトを演じ切るための燃料。そして今渡したトマトは次の舞台、次の役を探しに行くための燃料として。
©Project Revue Starlight
あとがき!
何とか4/30に間に合ったということで、楽しかったです、まだ擦りたいと思える限り一生劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライトを擦ろうと思っています。古川監督が
そのときの自分の環境や気分、年齢などによって受け止め方や感じ方が変わるようなフィルムにしたかった
と言われている術中にまんまとハマっているね。
望むところです。99年続くコンテンツになるようこれからも応援していきたいと思います!!!!!!!!!
*1:書いてて何言ってるかわかるかなこれになってきた