Post

Conversation

財務省の私立大学削減方針、X上の文系廃止論。議論は活発ですが、本来、すべての国民はひとしく教育を受ける権利を持っている。憲法26条が掲げるこの理念を、AIの急速な進歩はようやく現実のものへと変えつつあると考えてます。本日は憲法記念日ですので、原点に立ち返って、大学のあり方を考えてみました。 (以下、長文ですが、自分個人の考えを整理する意味もあり、これまでの議論も反映しつつ、今後の議論の叩き台にも使えるよう、できるだけしっかり書いてみました。なお、AIに画像の作成、文章の改善を手伝ってもらっていまして、AI画像に文字化けなどが一部ありますがご容赦を。ご忌憚のないご意見、よろしくお願いいたします。) 【ひとしく教育を受ける権利】 憲法26条は 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」 と定め、教育基本法はこれを受けて 「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」 と規定しています。 私はこの理念に強く共感します。そして、この理念に忠実に受け取れば、教育を受ける権利の主体は18歳の若者に限定されるべきではありません。社会人、定年後の方々、さらには中高生にすら、同じ権利が及ぶと考えるのが自然です。 これまで「その能力に応じて」という条件は、実際には入試という形で運用されてきました。各大学で学ぶに足る知識水準を確認する手段として、それは技術的・実務的な制約のもとで採用されてきた仕組みです。しかし、能力測定の場や学習機会の提供のあり方そのものが、技術によって大きく変わりうる時代に入ってきています。 【AIが迫る教育の根本的変革】 オンデマンド講義、Eラーニング、AIを活用した教育は、空間的・時間的な制約を取り払います。学ぶ意志と適切な教育リソースさえあれば、原則として誰もがアクセスできる学習環境は技術的に実現可能です。インフラの初期投資は小さくありませんが、ひとたび整備されれば限界費用は極めて低くなります。一定の基盤さえ整えば、こうしたリソースを提供することは多くの大学にとって難しくない時代になっています。 特に強調したいのは、近年のAIの急速な進歩が、オンデマンド講義のあり方を本質的に変えつつあるという点です。これこそが、大学に根本的な変革を迫る最大のドライビングフォースだと考えています。AIは、オンデマンド講義に伴走するチューターとして、24時間体制で個別の質問に応答し、学習者のレベルに合わせて説明の深度を調整し、関連する文献や資料を検索して紹介し、練習問題や議論の問いを生成することができます。学生が書いた文章についても、論理の流れ、論拠、用語、表現、文法に至るまで、きめ細やかな添削を行うことができます。さらに、学習者が講義内容を理解できないときには、つまずきの根本原因がどこにあるのかを診断し、必要であれば高校の微分積分、さらには小学校・中学校の分数の計算といった基礎にまで遡って、その学習者専用の補習プログラムを提供することも可能です。古典語・外国語の読解支援、長大な文献の要約、視覚障害のある方への音声化や母語に応じた多言語化といった機能まで含めれば、従来、教員一人では到底全員には提供しきれなかった個別最適化された学習支援が、現実に可能になりつつあります。「マスプロのライブ講義」が担ってきた知識伝達の部分は、AIが伴走するオンデマンド講義によって、むしろより高品質に、より個別に届けられる時代に入りつつあるのです。 放送大学やJMOOC、ZEN大学や京都芸術大学などのネットをベースをした複数の大学などの先行する取り組みもあり、土壌は既にあります。これらが整備するようなインフラを憲法・教育基本法の理念を体現する中核的な仕組みの一つとして十分に位置づけていくことが重要ではないでしょうか。 【マイクロ・クレデンシャルと、学びのダイナミズム】 学習機会の提供と並んで、学習成果の認定の仕組みも問い直されるべきでしょう。学部で多くの単位をパッケージとして履修したものに「学士」を与える仕組みは、教育を受ける権利を実現する手段としてもはや十分とは言えません。「学士」のパッケージは時間的・経済的負担が大きく、仕事を持つ個人の学習意欲を著しく削いでしまいます。実際に個人が求める知識やスキルは、もっと小さい単位(例えば「ディープラーニングを学びたい」、「ダンテの神曲を深く読みたい」など)であることが多いはずです。そうした小さな単位の教育リソースの提供が技術的に容易になった以上、これを安価に提供し、学習を正式に認定するマイクロ・クレデンシャルを個別に発行し、個人がその履歴に加えられるようにすべきです。 もちろん、マイクロ・クレデンシャルの導入によって「学士」の学位がなくなるわけではありません。むしろ、特定のマイクロ・クレデンシャルを一定の組み合わせのパッケージとして取得した場合には「学士」を授与する、という仕組みを併せて整えるべきです。組み合わせのパターンは複数あってよく、伝統的な学部教育の経路を選ぶこともできれば、社会人が働きながら、あるいは定年後に自分のペースで積み上げて学士を取得することもできる。複線的な経路を許容することで、学位という伝統的な認定の枠組みも、より多くの人にとってアクセス可能なものとなるはずです。 なお、学習者の中には認証を必要としない方もいるでしょう(純粋に学びたいだけ、という方)。一方、認証には試験運営や審査などの一定のコストがかかります。したがって、学習リソースへのアクセスは原則として広く開きつつ、認証を希望する個人がその費用を負担する、という設計が現実的だと思います。その上で、経済的事情によって認証の機会が失われることのないよう、国による費用補助の仕組みを併せて整えることが望ましいでしょう。この方向については、すでに経済産業省の「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」や厚生労働省の「教育訓練給付制度」など、国による学び直し支援の枠組みが存在し、政府も「人への投資」として拡充の方針を示しています。方向性としてはすでに動き始めているわけです。ただし、これらの現行制度は基本的に転職や労働市場への接続を主目的とし、対象も在職者・労働者中心、分野もDX・デジタル領域などに重点が置かれています。教育を受ける権利の理念に立ち返るならば、この支援の枠組みを、転職目的に限らず、あらゆる年齢層と分野を対象とする、より普遍的な学習支援制度へと発展させていくことこそが本筋ではないでしょうか。 加えて指摘しておきたいのは、AIとロボットの急速な進歩が、社会の様々な仕事のあり方そのものに大きな変革を迫っているという事実です。今後、社会人に求められる知識・スキルは、これまでよりはるかに速いスピードで、しかも大きく変化していくと予想されます。だとすれば、人々が大学で学びたいと考える内容のニーズも、定量的に把握され、それに応じてダイナミックに変化していくことが期待されるはずです。ここで重要なのは、マイクロ・クレデンシャル型の学習支援は、既存の「学部」「学科」といった大きな組織単位に縛られにくいという構造的な利点を持つ点です。全ての人が学ぶべきことはしっかり残しつつ、社会のニーズの変化に応じて、新しい単位の学習リソースを機動的に追加する。こうした動的な再編成は、学部・学科という制度的・人事的に硬直した枠組みでは極めて困難ですが、マイクロ・クレデンシャル単位なら現実的に行いやすい。AI・ロボット時代に求められる教育の機動性という観点からも、この仕組みへの移行には大きな意味があります。 【AIにできないこと、そして大学の核機能】 これまで論じてきたように、知識伝達のかなりの部分は、AIが伴走するオンライン教育とマイクロ・クレデンシャルで担える時代に入っています。しかし、それでもAIにできることには明確な限界があります。AIの出力を適切に評価するには、人間側に確かな批判的思考と判断力が必要ですし、身体性を伴う実技、現場での観察眼、対人関係の中で育まれる協働の作法といったものは、画面越しのやり取りでは育てられません。さらに、優れた教員が生身で示す知的探究のあり方、その情熱や姿勢の伝達といった、教育のもう一つの本質も、AIで代替できるものではないでしょう。 しかし、AIには担えないこれらの部分こそ、まさに大学にしか担えない領域でもあります。だからこそ大学は、その活動の重点を、双方向のコミュニケーションやオンサイトでの参加が本質的に求められる領域へと移していくべきだと考えます。実習、ゼミ、本物の研究・開発、地域貢献活動を通じた教育。これらは画面越しに代替しがたく、まさに大学という場でこそ実現される教育の核です。知識伝達の多くがオンラインとマイクロ・クレデンシャルに委ねられるからこそ、大学は人と人、人と現場が直接に交わる場としての役割を、これまで以上に深く担うことができるはずです。 そして、こうした実習・ゼミ・研究プロジェクト等に参加するために必要な基礎知識・スキルは、それぞれ異なります。したがって、各プログラムごとに前提となる単位の組み合わせをあらかじめ明示・公開し、それを満たした者には所属や年齢を問わず履修の門戸を開く、という設計が望ましいでしょう。スロットが限られる場合には、抽選や、前提単位の成績などによる選抜を行えばよいわけです。社会人であれ高齢者であれ、必要な前提を積んだ者であれば、大学の壁を越え、その中核的な教育機会にもアクセスできる。これこそが「能力に応じて、ひとしく」の現代的な実装と言えるのではないでしょうか。 そして、こうした門戸の開放は、大学外の学習者だけでなく、すでにどこかの大学に所属している学生にとっても重要です。それを実効的なものにするには、大学間でコンソーシアムを組み、可能な限り単位を相互に互換とすることが不可欠でしょう。学習者が一つの大学の枠に閉じ込められることなく、全国の大学から自分の関心に最も合致した講義を選んで履修できる。そうした環境こそが、教育を受ける権利の現代的な実装にふさわしいはずです。「どの大学に所属しているか」ではなく、「どのような学びを選び、積み上げてきたか」が問われる時代に、大学間の壁は今より格段に低くなっていてしかるべきです。 【文理の壁を壊せ】 ここまで、学部・学科、大学間といった制度的な壁を低くする話をしてきました。しかし、もう一つ、より根源的な壁があります。「文系・理系」という制度的・認識論的な分断です。 実は私自身、学部時代は文学部に所属していました。その経験からも、人文学の本質的な価値を心から尊敬しています。その上で申し上げたいのは、「文系・理系」という日本特有の二分法は、もはや学びの本質に照らして時代にそぐわないということです。 学問の歴史を振り返れば、知の巨人たちは文理を自在に横断してきました。デカルトは哲学者であり数学者、ライプニッツは哲学・数学・論理学を統合し、ハーバート・サイモンは認知科学・経済学・AI研究で業績を残してノーベル経済学賞とチューリング賞の両方を受賞しました。「文系・理系」の区分は普遍的な知の構造ではなく、近代日本の制度設計の産物にすぎません。高校段階で文理を選択させる仕組みは、世界的に見ても珍しい部類に属します。 この制度的な壁は、個人の中に「アイデンティティの罠」を生みます。「自分は文系だからAIは無理」「自分は理系だから倫理は苦手」といった自己規定が、本来開かれていたはずの可能性を狭めてしまう。これは個人の損失であると同時に、社会全体の知的資源の損失でもあります。 そして、現代の重要な課題は、ほぼすべて文理横断的(トランスディシプリナリー)です。AI倫理、気候変動、パンデミック対応、生命倫理、デジタル社会のあり方などなど、どれも、技術の知だけでも、人文社会の知だけでも解決できません。理系の技術知と、文系の倫理観・歴史的視座・社会理解の両方が不可欠です。 最近、政府筋から「文系廃止論」のような議論が出てきたり、X上でも文理バトルが起きていたりします。短期的な経済的有用性の尺度だけで人文学の価値を測ろうとする発想には、異を唱えたいと思います。 そもそも、AI・ロボットによる自動化が進み、いわゆる経済的に有用な仕事の多くが機械に置き換えられていく時代にこそ、人文社会学の本質的価値はむしろ増していくはずです。人間の喜怒哀楽、身体性、社会性、人と人との関わりの中で立ち上がる意味。こうした「経済的有用性を超えた人間的価値」を扱ってきたのは、まさに人文学です。文学、哲学、芸術、歴史、宗教学などが探究してきたものは、人間が生きていく中での価値とは何か、人間とは何かなどの根源的な問いです。AI/ロボットで社会の生産性が劇的にあがり、人間の余暇が増えてくるのであれば、その種の根源的な問いの価値が上がることが想定され、狭い意味での経済的有用性の物差しだけで人文学を切り捨てることは、人間社会にとってむしろ避けるべき愚策だと考えます。 加えて、人文系の教育に期待したい役割がもう一つあります。それは「是々非々の冷静で忌憚のない議論を行う習慣」を社会に根付かせることです。X上の議論を見ていると、議論の内容そのものではなく、相手の外形や属人的な属性を攻撃したり、村八分的な態度で排除したり小バカにしてしまったりする場面に、しばしば出会います。相手を敵か味方に分類し、分断を深め、言葉という武器を使って攻撃しあう。残念ながら、これは大学教員と思われる方々の間でも頻繁に見られる現象です。論理を辿り、根拠を吟味し、立場の違う相手とも冷静にリスペクトを欠かさず対話する。こうした作法は、本来、大学の研究者の長い伝統が培ってきたものです。AIが情報を提供してくれる時代にこそ、人間同士が論理と敬意をもって議論する作法は、社会を支える基盤として一層重要になるはずです。他者をリスペクトすることの重要性は古今東西の古典で繰り返し強調されている。間違ったことも言うし、不適切な行いもするのが人間であるが、全ての人間にはかけがえのない価値がある。人間の価値を言語化し、他者をリスペクトすることの重要性を説明するようなことは人文系が得意とするところなのではないでしょうか。人文系をはじめとする大学教育に、ぜひ社会における議論のあり方をリードする役割を改めて深く担っていただくことを期待します。 一方、人文系の一部に見られるAIや新しい技術への強い警戒・忌避についても、率直に申し上げたいことがあります。AIがハルシネーションなどの間違いをおかしがちなこと、AIの倫理的・政治的問題、中立性・正当性の問題、AIでは伝えられないことがあることなどへの懸念は、もっともな部分はあります。しかし、技術を理解した上で批判的に向き合うことと、感情的に拒絶することは別です。歴史的に見ても、新しい技術は嫌悪感・忌避感を誘発してきています。ソクラテスやプラトンは、文字が人間の記憶力を弱め、正しい知識の伝達を損なわせると考え、文字を批判しています。文字の発明から社会への普及はそういった警戒や忌避もあったからか何百年もかかっています。活版印刷技術の発明ですらも教会などからの反発もあり全面的な普及までには数十年もかかってしまったようです。「AIは人をバカにする」という議論はこれらの歴史を思い起こさせる部分があります。人文系の一部に見られる新しい技術への過度の警戒が、結果として社会の進歩を遅らせ国の競争力を低下に繋がるとすれば、それは好ましくないことであり一層分野への風当たりを強くしてしまいかねない。単純で感情的な忌避やごく一部の瑕疵を理由にした全面的な反対ではなく、ターゲットを絞った適切な警戒、是々非々の議論は、AIをはじめとする新技術の健全な発展に資するはずで、そのような形での貢献を期待します。 文理の壁を壊すという話に戻れば、これまで論じてきたマイクロ・クレデンシャルやコンソーシアムによる単位互換は、まさにこの壁を自然に低くする力を持ちます。学習者は、自分の関心と必要に応じて、文理を横断的に組み合わせて学べる。「ディープラーニング」と「ダンテの神曲」を、同じ一人の学習者が同じ仕組みを通じて学ぶことができる。これは、文理の二分法の中では制度的に困難だったことです。文理の壁は、本来、知の本質には存在しない壁です。マイクロ・クレデンシャル時代は、この人為的な壁を壊す絶好の機会でもあります。 以上を踏まえれば、こうした教育リソースを提供する努力も、大学の活動の重点を本質的にオンサイトであるべき領域へと移す努力もせず、従来型の「座学」、「一方向のマスプロ・ライブ講義のみのスタイル」を墨守することは、憲法・法の趣旨に反するとすら言えるのではないでしょうか。国も大学も、誰もがいつでも、必要な学びにアクセスできる権利を実現するために、より大胆に動くべきです。 【私立大学問題 — 偏差値/シグナルから学習履歴へ】 冒頭で触れた私立大学の問題に戻りたいと思います。財務省から私立大学を削減する方針が示され、また、SNSなどでは「入試の選抜性が低いとされる大学はつぶすべきだ」という議論も激しく交わされています。 しかし、こうした議論を眺めていて感じるのは、その背景に、「大学の価値とは、そこで学ぶ内容ではなく、その大学を出たという『シグナル』にある」という暗黙の前提が共有されているのではないか、ということです。日本では、人を評価する際に「どの程度の偏差値の大学を出たか」が過度に重視される傾向が強いとよく指摘されますが、これはまさに教育経済学でいうシグナリング(A. M. Spence "Job Market Signaling", 1973)の議論そのものです。「シグナルとしての価値が低い大学には存在価値がない」という論理が、削減論や、入試の選抜性が低いとされる大学への廃止論の根底にあるように思えます。 しかし、ここまで述べてきた視点に立つならば、この前提自体を問い直すべきです。大学の価値はシグナルではなく、何を学ぶことができるか、その学びが本人と社会にどう生きるかにあるはずです。そして、その実体を可視化する仕組みこそ、マイクロ・クレデンシャルの集積による学習履歴です。「どこを出たか」というシグナルから、「何を、どう学んできたか」という実体で人を評価する社会への移行は、ここまで述べてきた教育を受ける権利の理念とも自然に整合します。 【背景の多様性に目を向ける】 偏差値/シグナルから学習履歴へという視点に立ったとき、もう一つ目を向けたいことがあります。入試の選抜性が低いとされる大学に在籍している学生たちが、実際にどのような背景を持って大学に至っているのか、ということです。 ・家庭の経済状況や文化的環境による格差は、日本においても決して小さくありません。国立教育政策研究所の濱中義隆氏らの研究をはじめとして、家計収入と大学進学率には強い相関があることが繰り返し示されています(濱中義隆「大学進学機会の格差と学生等への経済的支援政策の課題」)。文部科学省の「全国学力・学習状況調査」の保護者調査でも、親の学歴や世帯所得と子の学力との関連が確認されており、慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センターの赤林英夫氏らの研究は、家庭内の文化的資源(蔵書、楽器、コンピュータなど)と学力の関連を統計的に示しています(赤林英夫ほか「学力指標と家庭要因・他の子ども要因の相関」)。ピエール・ブルデューが論じた「文化資本」の格差は、日本社会にも色濃く存在しており、OECDの "Education at a Glance" の国際比較でも、日本は親世代の学歴と子世代の学歴の連関が比較的強い社会であることが指摘されています。「勉学に向かうモチベーションが湧きにくい」「家庭の事情で勉強に時間を割けない」といった状況は、本人の努力不足というより、構造的な背景の問題であることも多いはずです。 ・ヤングケアラーの問題があります。文部科学省・厚生労働省の「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」(2020-2021)では、「世話をしている家族がいる」と答えた中学生は約17人に1人、定時制高校生では約12人に1人、通信制高校生では約9人に1人にのぼるそうです。家族の介護や幼いきょうだいの世話に追われる日々の中で、勉学に十分な時間を割けない子どもたちが、確実に存在します。 ・スポーツや芸術といった他の領域に、人生の若い時期を集中して投じてきた人たちです。日本では「文武両道」が建前として語られる一方、現実には競技や創作と学業を両立できる支援体制は不十分で、競技や芸術に集中せざるを得なかった結果として学業に十分な時間を投じられなかった、というケースは少なくないはずです。 ・ディスレクシア(読字障害)をはじめとする限局性学習症(SLD)など、何らかの学びにくさを抱えた人たちです。日本国内の有病率はおおむね4〜7%程度と推定されており(日本学生支援機構JASSO「発達障害 限局性学習症」資料等)、決して稀な存在ではありません。知的能力に問題はないにもかかわらず、文字情報の処理に他人より時間がかかるために、従来の入試や学習評価で本来の能力を発揮できなかった人は少なくないと考えられます。 これらの事情を抱える人々にとって、これまでの大学制度が必ずしも公平に機会を提供できてきたとは言えません。AI伴走型のオンライン教育は、まさにこうした方々にとって大きな福音となる可能性があります。自分のペースで学ぶことができる、つまずいた箇所までいくらでも遡って補習が受けることができる、文字情報を音声化したり多言語化したりできる、24時間いつでも質問できる。こうした柔軟性は、画一的な教室での集合学習では実現できなかったものです。もちろん、オンデマンド+AIで全て足りるわけではないので足りない部分は人間の教員/チューターが補うことも必要。シグナルの強弱で大学を切り捨てる議論の前に、こうした多様な背景を持つ人々にこそ、教育を受ける権利の理念が届くべきだという視点が必要ではないでしょうか。 【業態転換と、閉学時のセーフティネット】 背景の多様性とともに、もう一つ考えたいのは、大学そのものが持つ専門性の活かし方です。具体的に考えてみてください。地方の私立大学で、非常にスペシフィックな専門性をもって研究をしている教員のことを。その研究内容に興味を持つ人が、その大学の周囲、あるいはその地域に都合よく住んでいるわけではありません。むしろ、研究の専門性が尖っていればいるほど、それに惹かれる人々は全国、さらには全世界に散らばっているはずです。従来の枠組みでは、そうした研究者の講義は、たまたま近くにいる少数の学生にしか届きませんでした。しかし、オンライン化とマイクロ・クレデンシャルを前提とすれば、そうした散在する関心層を一挙に対象とすることが可能になります。教育の受け手の規模は飛躍的にスケールし、本来届けるべき相手に研究と教育が届く、ということになるはずです。 だとすれば、「定員が埋まらない」、「経営効率が悪い」、「入試が選抜として機能していない」といった尺度で大学を切り捨てるのではなく、そこに蓄積された専門性を活かして業態転換を進めてもらうことこそ、本来取るべき道筋ではないでしょうか。すなわち、その教員の専門研究を全国・全世界の関心層に届ける拠点として再構築する。対面で意味のある実習、地域連携、研究プロジェクトに、所属を問わず学習者を受け入れるハブとして位置づけ直す。「18歳人口に対して定員を埋める」というモデルから、「あらゆる年齢・背景の学習者に専門教育を届けるハブ」というモデルへの転換です。 もっとも、すべての大学が業態転換を成功させられるとは限らず、やむを得ず閉学に至る、あるいは現実に閉学が決まってしまうケースも出てくるでしょう。その際に重要なのは、そこに在籍していた研究・教育実績の高い教員が、別の場で活躍を続けられる仕組みが用意されていることです。研究の側面で言えば、外部研究費の間接経費比率が、欧米のように、自身の人件費の一部までも支出可能で、雇用先の大学の経営にも明確な恩恵をもたらす水準にまで引き上げられていれば、優れた研究者は他大学からも積極的に迎えられる存在となり得ます。教育の側面でも、オンデマンド講義のニーズが高く、多くの学習者から支持される教員は、所属大学を越えてその講義が求められるはずです。研究・教育に対する社会的ニーズが高い人材については、所属機関の盛衰にかかわらず、その能力を活かす場が得られる、そうした流動性ある人材エコシステムの整備こそが必要です。これは、閉学せざるを得ない大学が出てきた場合のセーフティネットであると同時に、平時においても研究・教育の質を高める方向に作用する仕組みとなるはずです。 【国が果たすべき役割と、憲法の理想】 ここまで論じてきた一連の改革は、もちろん、個別の大学の自助努力だけに委ねられる話ではありません。オンライン教育とAIの基盤整備、マイクロ・クレデンシャルの認証制度とそのパッケージから学士を授与する仕組み、学習履歴を社会が正当に評価する文化、大学間コンソーシアムによる単位互換、文理の壁を超える分野横断的な学びの環境、そして優れた研究者・教育者が機関の枠を越えて活躍できる人材流動の仕組み。こうした構造的・制度的な整備が前提となります。その整備こそ、国が果たすべき本来の役割であり、削減ありきの議論よりも先に問われるべき論点なのではないでしょうか。 憲法の掲げる高い理想を実現することは、結果として国力や競争力を高め、より豊かな社会へとつながるはずです。諸外国に対する相対的な国力の低下が続く今、理念の実現という王道こそが、最も実効的な処方箋になりうるのではないでしょうか。
Image