八鹿高校事件の犯人/丸尾良昭の現在!被害者や裁判の判決などその後もわかりやすく解説

はじめに

部落差別問題は、現在の日本でもまだ完全には解決していません。一昔前は、この部落解放運動は、今では考えられないほど過激なものでした。その中で起こった事件が八鹿高校事件です。

 

八鹿高校事件の詳細や被害者・犯人、裁判の判決やその後の映画化と現在をまとめました。


八鹿高校事件とは

出典:youtube.com

 

 

八鹿高校事件は1974年11月22日に兵庫県立八鹿高校で、部落解放同盟の同盟員が高校の教職員らに13時間にわたりリンチを加えた事件です。八高事件とも呼ばれることもあります。

 

この事件で八鹿高校の教職員48名が負傷し、そのうち29名が重傷、1名が危篤になりました。

 

死者は出なかったものの、教職員48名が負傷するという大規模なリンチ事件になりましたが、この事件はアンタッチャブル&タブー視されていたこともあり、マスコミはあまり大々的に報じることはなく、警察も積極的には介入しませんでした。

 

 

八鹿高校事件をわかりやすく解説①:事件に至る背景

八鹿高校事件を正しく理解するためには、まずは事件に至る背景を確認しておきましょう。

 

 

但馬地方は部落同盟運動が活発

出典:youtube.com

 

八鹿高校があるのは兵庫県の但馬地方です。但馬地方はいわゆる被差別部落・同和地区があり、「部落民」と呼ばれる人たちがいました。八鹿高校にも部落出身の生徒がたくさんいました

 

また、部落解放運動も活発でした。部落解放同盟支部が1973年に結成され、差別糾弾闘争と行政闘争が活発に行われていて、それに対抗・反対する勢力も出てきていたのです。

 

 

結婚差別事件があった

出典:youtube.com

 

部落解放運動が活発化する中、1974年1月、八鹿高校の女子生徒が関係した結婚差別事件が起こります。

 

同和地区在住の八鹿高校の女子生徒と兵庫県幹部職員の息子が交際していました。しかし、息子の父親(兵庫県幹部職員)が息子の交際相手が部落出身であることを理由に、息子の交際に反対しました。

 

「○○さん(交際相手の女性)を諦めてほしい。同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく、部落の人同士の結婚を前提として行われているにすぎない」という内容の手紙を息子に送ったのです。

 

このことは結婚差別事件として大問題になり、部落解放同盟兵庫県連合会は糾弾闘争費として、行政から1500万円の支給を受けるきっかけになりました。

 

また、この結婚差別事件と前後して、同じ但馬地区では同和地区の女子生徒が同じ理由(部落差別)で失恋し、ショックのあまりに家出し、奈良県で凍死するという事件も起こっています。

 

この部落差別事件によって、但馬地方・八鹿高校では部落解放運動がさらに盛り上がっていくのです。

 

 

八鹿高校事件をわかりやすく解説②:事件の直接的なきっかけ

前述のような背景があり、部落解放運動が盛り上がる機運がありましたが、八鹿高校事件につながる直接的なきっかけが部落解放研究会の設置要請です。

 

部落解放研究会を八鹿高校内に設置するかどうかで、八鹿高校と八鹿高校の生徒たちは、部落解放運動に巻き込まれていくことになるのです。

 

 

八鹿高校に部落解放研究会を要求

出典:youtube.com

 

結婚差別事件が起こったことをきっかけに、1974年5月に八鹿高校の部落出身の生徒が、日本社会党(現在の社会民主党)系統の部落解放同盟系統の部落解放研究会を設置するように八鹿高校に申請しました。

 

しかし、この部落解放研究会の設置は、職員会議で却下されています。その理由はこちらです。

 

・生徒の自主的な要求で運営されるものではない
・教師の指導の下に運営されるものでもない
・八鹿高校には部落問題研究会がすでにあった(生徒自治会と職員会議で承認済み)

 

部落解放研究会は部落解放同盟の指導を受けることが前提でした。部落解放同盟の指導を受け、確認・球団の行動隊として運営される組織です。つまり、高校内の研究会(団体)なのに、生徒たちの自主性もなければ、教師が中心になるわけでもない。高校とは関係ない外部団体である部落解放同盟の下部組織のようなものでした。

 

わかりやすく言えば、部落解放同盟が八鹿高校を乗っ取ろうとしたようなものです。

 

しかも、部落問題に関する同好会は、八鹿高校に既に存在していました。だから、八鹿高校の職員会議で部落解放研究会の設置は拒否されました。

 

部落解放研究会の設置が拒否されたことで、部落解放同盟は八鹿高校の教員を批判しています。

 

 

校長と教頭に無理やり認めさせるが職員会議でNG

出典:youtube.com

 

部落解放研究会の設置を拒否された部落解放同盟と八鹿高校の部落出身の生徒たちは、1974年6月に『「部落解放」にたちあがる高校生一泊研修会』を開き、そこに八鹿高校の校長先生と教頭先生を参加させました。

 

そこで生徒のサークルとして部落解放研究会を7月中に作ることを約束させられたのです。この時の約束は校長・教頭を平和的に説得し納得させたうえでの約束ではなく、一泊研修会の中で長時間糾弾され、心身ともに限界を迎えた状態で無理やり約束させられました。

 

部落解放研究会の設置を約束したことで、校長・教頭は解放されましたが、八鹿高校の職員会議では部落解放研究会の設置は再度拒否されました。

 

八鹿高校の教職員や生徒たちは、部落解放研究会の設置を希望する生徒たちと、1974年5月~6月にかけて9回もの話し合いを行っていました。

 

 

八鹿高校事件をわかりやすく解説③:部落解放同盟からの圧力

出典:youtube.com

 

部落解放研究会の設置を拒否したことで、部落解放同盟からの圧力は強くなっていきます。

 

但馬地方の部落解放同盟は、1974年9月から10月にかけて次のような襲撃事件を起こしています。

 

・9月8日~9日:元津事件
・10月20日~10月26日:橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件
・10月25日:生野駅・南真弓公民館事件
・10月26日:新井駅事件・青倉駅前事件
・10月27日:大藪公会堂事件

 

このようなことで但馬地方の部落解放運動は過激化していきます。

 

11月18日部落解放研究会は校内の職員室前の掲示板に3つの要求を貼りだしました。

 

・教員から解放研の顧問を3名つけること(人選は解放研の希望を入れる)
・解放研と先生の話し合いを持つ
・同和教育は部落解放と生徒の幸せにつながっていないと認める

 

この3項目を教員側は拒否しています。すると、部落解放研究会の生徒25名は職員室前に座り込みをするようになり、さらに20日には他校の部落解放研究会の生徒や青年行動隊らが校内になだれ込み、職員室の出入りが自由にできない状態になりました。

 

11月21日には、職員室前に座り込みを続けている部落解放研究会の生徒がハンストを始めます。

 

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さらに、校外では11月18日には八鹿町内に解放車が入り、八鹿高校を糾弾したり、解放歌を流したりました。また、八鹿高校の正門前では部落解放同盟員らが八鹿高校の教職員を非難するビラを配るなどしました。

 

このような状況となり、八鹿高校の教員は身の危険を感じるようになり、11月20日からは集団で城崎の民宿に宿泊し、個人行動を避けて集団で登校するようになりました。

 

身の安全のために、みんなで民宿に泊まり、集団で登下校をするというのは異常な事態であることがわかります。

 

事件前日の11月21日、教職員たちは城崎で対策会議を開き、その日の状況から「22日に部落解放同盟による糾弾が起きるのは必至」という結論に至りますが、22日にどう行動するのか?という意見は教職員の間で一致せず、「一応、登校だけして、その後は同和教育室主任が判断する」ということにしました。

 

 

八鹿高校事件をわかりやすく解説④:事件発生から終了まで

朝から異様な雰囲気

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11月22日朝、教職員たちは集団登校をしますが、2台の解放車にぴったりと付きまとわれます。
そして、解放車や部落解放同盟員から次のような言葉を投げかけられました。

 

・この教師たちの笑顔はいつまで続くんでしょうか
・お前ら、今日は楽にしたるわな

 

リンチを予測させるような異様な雰囲気が校内には漂っていました。

 

教職員が八鹿高校に到着した時には、校内には部落解放同盟員10数名が入り込み、校庭には糾弾会の準備が整っている状態でした。

 

 

危険と判断し集団下校

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危険を感じた同和教育室主任の提案で、すぐに職員会議が開かれ、22日の授業は中止して、生徒たちは帰宅させ、教職員も集団下校することに決まりました

 

午前9時40分~45分ごろに集団下校をしますが、校門から出る前に部落解放同盟員たちがピケットラインを張って、力づくで教職員が下校するのを阻止しようとします。教職員はみんなでスクラムを組んで、部落解放同盟員たちを押し返して、少しずつ校外に出て、商店街を進みます。

 

 

教職員を学校に連れ戻す

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集団下校をしていた教職員たちは、途中で部落解放同盟員たちにつかまり、暴行を受け、引きずられるようにして学校に連れ戻されます

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教職員が部落解放同盟員たちに捕まったのは、「立脇履物商店」の前でしたが、この現場から60m離れたところではすでに車が進まない状態になっていたということですから、現場がいかに混乱していたかがわかります。

 

シャツを後にだした先生が、左右から腕をとられ、小突かれ、背後から押されて連行されている。この時、逆方向から走ってきた男が下腹部にこぶしを固めて一撃を加え、さらに往復ビンタをくらわし、膝をついたところを他の者が持ちあげて地面へ落とした。これはY教諭であることがあとでわかった。道の向こう側の同盟員に写真をとるところを見つけられ、「差別者がいるぞ!」「やっちまえ!」のかけ声で十数人に囲まれ、もみくちゃにされた。

 

引用:八鹿高校事件 – Wikipedia

 

集団下校していた教職員は約60名。60人の大人が引きずられるようにしながら、高校に連れ戻されるなんて、現在では考えられない光景でしょう。

 

 

凄惨なリンチ

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部落解放同盟員たちによって八鹿高校に連れ戻された教職員たちは、第二体育館に連れ込まれます。そして、そこで凄惨なリンチを加えられました。

 

具体的なリンチの内容は次のようなものです。

 

・「差別のことを考えたらお前らの命なんて大したことはない」という怒号
・頭や顔、腹部、腰を蹴る
・肩を踏みつける
・頭髪を引っ張り、「折ったろか」と言いつつ腕をねじ上げる
・バケツを頭にかぶせてガンガン叩き「殺したろか」と言う
・ハンドマイクを耳元に当てて怒鳴り、水をかけ、腹を踏みつける
・雑巾バケツや汚水を無理やり口の中に注ぐ
・往復ビンタをする
・メリケンサックで殴る
・火のついたタバコを顔に押し付ける
・無理に自己批判書を書かせて、それを自分の意思で書いたと認めさせれ鵜
・手を机に押さえつけ、左手の小指めがけて椅子を打ち下ろす
・女性4人で取り囲んでリンチを加える
・女性教師に冷水をバケツで浴びせて投げ飛ばす
・女性教師に暴行を加えて、両脇を抱えられて吊るされて、身体中を触る
・女性教師のタイツを脱がせようとして、無理に自己批判書を書かせる
・出産後の女性教師を下着一枚で乳房を出した状態にする

 

これらのリンチは民事裁判で認定されています。

 

 

13時間後に解放、警察は頼りにならず

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部落解放同盟による教職員へのリンチは約13時間続きました。教職員が解放されたのは11月22日22時45分のことです。10時からずっと監禁され、リンチを受け続けていたのです。

 

八鹿高校の教職員は、約13時間も監禁されリンチを受け続けていましたが、注目すべき点は教職員は「解放された」のであり、警察に「救出」されたわけではありません。

 

もちろん、警察はこのリンチを知らなかったわけではありません。教職員が校内に引きずられるように戻された時、現場には警察官がいました。

 

また、下校していた生徒たちは教員たちがリンチを受けていることを知り、救出を求める町内デモを行い、教師救出に尽力しました。

 

さらに、事件後は日本共産党(部落解放同盟に敵対する政党)の支持・不支持関係なく、生徒を先頭に部落解放同盟に対する抗議集会が行われ、大半の町民が参加して教職員側を支持しました。抗議集会には18,000人も参加したそうです。

 

 

八鹿高校事件の被害者

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