庄司 薫「恐竜をつかまえた」
※単行本に収録されておらず、現在では入手がやや困難なので、記録として...
「恐竜をつかまえた」 (『文學界』1969年9月号)
1
この五月の初め、僕は一通の興味深い手紙を速達で受け取った。豪華なクリーム色の封書で大きさはB6判ほどもあり、封の合せ目には花押のような判読できないサインがしてあった。
何よりも僕の目をひきつけたのは (つまり同じような豪華な感じのするデパートの特別内覧御招待状といった種類のものから、その問題の封書を区別したものは)、差出人の名前だった。
現代日本の知的状況における冒険のための委員会
ははあ――。
僕は、とにかく凡ゆる種類の委員会に原則として敬意を払ってみることにしているためもあって、早速丁寧に封を開いてみた。厚手のかなり贅沢な紙でできた二つ折りの (なんて言うのだろう) 案内状のようなものが出てきた。二つ折りの右半分は淡いオリーブ色、左半分は黒で、オリーブ色の方が二センチほど幅が狭いといったものだ。
あなたは恐竜をつかまえたくありませんか?
え?――
僕は、その書状の冒頭、と言うか右側のオリーブ色の紙面のやや右よりに躍るような大きな黒々とした文字で印刷されたこの「キャッチフレーズ」に、確実にキャッチされた自分を確実に認めた。
なにか、どこかできいたか見たかしたような感じが眉間の奥あたりで一瞬パチリとひらめいたが、ぼくはややあせって左側の頁、つまり黒い紙面に白抜きで印刷されたこまかい「本文」を読んだ。
《合理的ならざるものの大衆化時代における狂気の知的統合についての提案》
へえ――
かつて非合理的なるものは、特殊であり、未熟であり、原則として合理的秩序体系の奴隷である大衆、より厳密に言えば合理的秩序体系の服従者でありかつ享受者であると無原則的に規定せられたる大衆、にとっては疚しき憧れ、うしろめたい歓び、ひそやかなる快楽でありました。
しかるに、現代の巨大な価値の混迷期にあっては、「大衆の叛逆」の表現は、狂気の公認という形で広汎に現れ、それが社会全体のメカニズムに組込まれ規格化され浸透するというパターンをとって進行しつつあります。かつて歴史の転換期に、爛熟せる文明にエネルギーを与えてきた「野蛮」としてではなく、それ自体文明化され社会化された野蛮として狂気もまた一つの効用価値を認められ、商品価値をよび、売りつくされるのであります。
これが文明の最も深い危機にあらずしてなんでありましょうか? いまや文明がその土壌そのものから掘り崩され整地されようとしているのであります。この「文明化された狂気」の大衆化をさらに乗越えて、純粋な狂気、構想力の母なる狂気、合理的整序に組込まれることを拒否し得る非合理性を確保・温存するには、いかに巨いなる知性が必要なことか! 現代において知的であることは何よりも野蛮以上の野蛮を己れのうちに鍛えぬくことなのであります。
貴殿の勇気ある参加を切に希望するものであります」
僕はこの手紙をゆっくりと三回読み返してみた。読むごとにこの手紙の多義性と曖昧性が明らかになったが、でもそれなりにその意味する「範囲」のようなものは分るように思われた。問題はむしろ、何故このような種類の手紙がこのような形で印刷され、そして僕のところへも送られてきたのかという意図の点にあった。それに「勇気ある参加を切に希望」されたところで、地図はもちろん「委員会」の住所も電話番号もないのだ。
誰かやたらと退屈した男のいたずらかも知れない――
それにしても「あなたは恐竜をつかまえたくありませんか?」というキャッチフレーズには驚いた。きっとその退屈した男どもの中には、優秀なコピーライターかなんかがまぎれこんでいるのにちがいない。だが、それにしても、一体どんな商品を或いは企業イメージを売ろうというのだろう?
その翌日の夜になって、僕は先輩に当る或る学者から電話をもらった。
僕は手紙のことを思い出した。彼の尊敬する親分筋に当る文化人類学者が確かこの文明とか狂気とかいった問題で面白い論文を書いていて、それについて彼から「解説と註」をきいたことがあるのだ。
「もう一度。」
と、彼は僕がゆっくりと読み上げるのをきいてから言った。僕は繰返し読んだ。
「もう一度。今度は普通のしゃべる速さでやってくれ。」
「あなたは恐竜をつかまえたくありませんか......。」
彼は三度目の朗読をきいてから、少しふざけた調子でこう言った。
「それを書いた悪い奴は、きっと法社会学か美学の奴らだよ。つまりやっかみ半分だ。」
「何をやっかむんですか?」
「つまりね、三派のゲバルトで政治学の連中がフッとんだ。次はなんだ、というところで本来はイデオロギーからソシオロジーへ、つまり社会学の花々しい登場ってわけだったんだが、これがうまくいかなかった。そこで特に境界領域の法社会学の連中なんかは臍をかんだんだよ。それから美学はね、政治学ってのは本来哲学の近似値だってわけで、その政治学のカイライ政権がフッとんだあとには、いよいよ哲学の王政復古、特に美学の登場ってわけだったんだ。ところが実際に出てきてのさばったのはたとえば文化人類学ってわけだ。少くとも僕の知ってる連中でそう思ってるのがいるんだよ。アホくさい。」
「それで?」
「うん、でも実際問題としては、その手紙、なんのことだか分らないな。ちょっと敵意を感じるけれど、理由はわからない。そのうちゴジラとグワンジのプラスチック製モデルを売りつけられるんじゃないか?」
「グワンジ?」
「うん。最新の1969年型恐竜だよ。」
「なるほど。」
「いや、今のはみんな冗談だよ。ああやになるよ自分が。それにこの頃、世の中がなんとなく気味が悪いんだ。忍者が至るところに跳梁していてね。大学じゃ匿名の怪文書が続出するし、わけが分らない。この間、エホバの証者の訪問を受けたよ。世界は1975年に終って、ハルマゲドンが始まるそうだ。」
「ウォッチ・タワー、ものみの塔でしょう? うちへも来ました。パンフレットを一山買いこんでみました。」
「買ったなんて言っちゃいけない。あれは寄付なんだ。僕はパンフだけでなく、単行本もみんな寄付した。」
「1975年じゃ大慌てですね。」
「ああ、ほんとに僕も、その恐竜狩りなんかにポコポコ出かけたいよ。」
「え?」
「いずれにしても空しいな。僕たちにしても、その手紙にしても、要するに言葉の定義の問題にされ得るんだよ。要するに。」
「でもこの手紙には、なんとなく使命感のようなものがあるような気がしませんか?」
「昭和元禄の委員会か?」
彼はゲラゲラ笑い出した。
2
それから四、五日して、僕はまたその「委員会」から速達を受取った。ほとんど忘れかけていた恐竜のことを、僕は思い出した。
トリスをのんでハワイへ行こう!
やや――
今度の手紙はクリーム色の厚手の紙を二つ折りにしたもので、開いて右側の頁には、この「キャッチフレーズ」がやはり躍るような黒々とした文字で印刷されていた。
そして本文は、
少数精鋭主義が古来冒険の鉄則とされているのは、御承知の通りであります。
貴殿の資格に関する若干の考察を行わせていただく御無礼を、お許しいただきたく願う所以であります。
貴殿の夢を冒頭の文案にならって簡潔にお書き下さい。
匆々
そして今度は、左側隅にこの興味深い委員会の宛先が、私書函として書かれてあった。僕は、手紙をまた三度ゆっくりと読んだ。コピーライターがまじっていることは恐らく間違いはない、といったことを漠然と考えながら。それにしても、なんて変てこな奴らだろう。
僕は夜になってから、結局気になって精神衛生上よくないという理由から、返事を書くことにした。
コルシカへ行って伊勢エビを釣ろう!
コルシカでは、カニ一匹千円、伊勢エビは一キロで一万円します。
僕はこの無鉄砲なる返事を速達で出したが、明らかに往復ビンタ的迅速さで三日目にはまた委員会からの速達が届いた。
大きいことはいいことだ――または、怒りをこめてふりかえれ!
僕ははしなくも耳に血がのぼるのを覚えた。何故なら、この右側頁の大きな文字はもちろん、以下に記す「本文」もキチンと印刷されていたのだから。
貴殿の巨いなる夢は必ず実現するでありましょう。何故なら貴殿は、当委員会の目した通りの優れた知性の持主であることを、過不足なく証明されました。
つきましては、まことに恐縮ではありますが、左記に従い、面接試験を行わせていただきたいと思います。王者の美徳である寛容をもって、是非御出向いただきたく、御願い申し上げる次第であります。
匆々
僕は「左記」の要項も水に、その手紙を放り出した。「過不足なく」とは何事だ!
僕はこれまでも、世の中にはいろいろと変った奴ら、暇な奴らがいることをよく知っているつもりでいたが、現実は遥かに厳しいものだ。
その夜僕はほとんど十年ぶりに夢を見た。友人の心理学者によれば、僕は毎晩必ず夢を見ている筈で、ただ記憶していないだけだということだが、僕はとにかく久しぶりに夢を見て目が覚めた。その夢も試験の夢なのだ。
――まず僕は、大きな試験場で、稀に見る大きな蜜柑をむかなければならなかった。その蜜柑は小ぶりの西瓜ほどもあって、どういうわけか内部が透けて見えるのだが、その中は二重になっていて、つまり普通の蜜柑の表面を更にそれぞれが円い蜜柑の房がバラバラの真珠の粒のように取り囲んでいて、うっかり皮をむくと、ポロポロこぼれ落ちてしまうように出来ている。そしてもちろん、房がこぼれ落ちたら失格らしく、大きな試験場では、みんな手をつけかねている。突然誰かが (どうも僕らしい) 叫ぶ。コロンブスの蜜柑! 僕はゲラゲラ笑い出して、さっさとむき始める。ポロポロこぼれ落ちる奴は、口に入れて食べてしまえばいい。
気がつくと蜜柑はいつの間にか演奏中のレコードに変っている。僕の目の前には心配そうな顔をした大男の加藤一郎教授が『エリーゼのために』でも弾くような恰好で、かがみこむようにして坐ってレコードを眺めている。そのレコードは中心の穴がヒョウタンの形をしているせいで、中心がしょっ中ずれて回転がおかしいわけなのだ。どうしよう? さあ?
僕はいつの間にか今度は、等高線で描かれたさまざまな山の地図を眺めている。僕は何かの国際コンクールへ「日本一の丸い山」を出さなければならない。さあ弱った。僕は次々と同じ円でいっぱいの地図を眺めているうちに目が廻ってくる。そして突然ゲラゲラ笑い出す。
目が覚めたのはこの自分の馬鹿笑いのせいだった。
僕は目覚めたまま、しばらく笑い続けていた。例の委員会には敵意なんてたしかにこれっぽっちもありはしない。
3
ところが翌日の朝、日曜日だというのに、僕は早々と速達で起された。また来たのだ。
溝をばずんと飛べ、危しと思へばはまるぞ
ウム――
僕は明らかに自分が喧嘩を売られている可能性を発見した。本文は次の通りだった。
前略
昨日は貴殿の御都合もうかがわぬまま、一方的なる試験通知をお送り致し、逆鱗に触れたこともあるにやと心配致しております。御無礼の段は平に御寛恕いただきたく、改めてお詫び申上げる次第であります。
つきましては、当日の面接試験に替って、左記のテーマに関する論文をお送りいただくことも可であります。
一、私の祖先の恐竜について
僕は手紙を三十分も眺めていた。それから僕は、前の日途中で放り出したものも含めて、これまでの「委員会」からの三通の手紙を取出して並べて読み返してみた。
言うまでもないことだが、読めば読むほどわけがわからなくなってきた。
もちろん、いくつかの解釈を並べることは簡単だった。たとえば、
① この委員会は退屈したいたずら者の集まりである。この場合には、連中は知り合いの奴らである可能性が大きい。彼らは、僕をも含めた手紙の受取人どもの反応を思いうかべては、大いに楽しんでいる。
② 彼らは何らかの実験を行っている。つまり、ロールシャッハ・テストのような或る種の心理テストの一方式を開発し、その効果を試してみている。
③ 彼らは、極めて迂回的な方法によってではあるが、ほんとうになんらかの冒険を企んでおり、そのためのメンバーを探している。
④ 彼らは気狂いである。
だが、たとえばこのうちのどれが正解であるかというような段階になると、僕は全く手の施しようがなかった。要するに材料が不足している。
僕は前の日途中で放り出した「面接試験」の通知書を読み返して、時間が他ならぬその日の午後二時からであることに気がついた。試験場の所在地もはっきり図示されているではないか。僕は一時からちょっとした約束を抱えていたので、少し苛いらして考え続けた。うっかりすると、とんだ馬鹿げたことをしでかすことになりかねないから......。
昼近くなって、弟から電話があった。僕はそれまでに、えらく気になっていた「溝をばずんと飛べ、危しと思へばはまるぞ」というどこかで見たような文句の出典を探して、一汗かいていた。なんと沢庵和尚の言葉で、「何事もおづるなおづるな。おづれば仕損ふぞ。おづるは平生の事、場へいでてはおづるなおづるな」と言う句に続いていた。僕は再び頭に血がのぼった。僕が喧嘩を売られたことはどうやら明らかなような気がした。連中は僕が調べることも見越したのにちがいない。
僕は弟をよいこと幸いとつかまえて、事情を簡単に話し、僕の代りに試験場へ行ってみないか、と誘った。彼は、とにかく好奇心が強い愉快な奴だから、すごく嬉しがって、早速かけつけてきた。
「とにかくふざけた奴らだからね、情状酌量の余地なんかない。勝手に眺めてこいよ。」と、僕は言った。
弟は、四通の手紙を目を見張って読みながら、明らかにはしゃいでいるらしく、テニスで真黒に日灼けした顔を紅潮させてうなずいた。
「でも、真面目な話だったらどうする?」
「そうしたら試験を受けておいで。きっと、デカイ蜜柑をむく試験だ。」
「え?」
「それからレコードと、日本一丸い山は何かっていうのだよ。」
「.....?」
「喧嘩を売られたのは確かだと思うだろう? 参った参った。」
僕は十年ぶりに夢を見た話をした。弟はふき出した。
「でも、ただのいたずらにしちゃ、ずい分お金がかかっているな。」と、彼が言った。「友達で雑誌を出してた連中がよくこぼしてたよ。こういうのってのは、沢山刷らないとやたらと割高なんだって。」
「もしかすると、暗殺団か何かかもしれない。」
「え?」
「それじゃ、夜、電話してくれ。」
「無事に帰れたらね。」
夜十時すぎて帰宅すると、すぐ弟から電話があった (何度もかけていたにちがいない)。
「試験場の場所っていうのは公園だったよ。交番でも確かめたんだ。子供たちがサッカーをやっていた。とってもいいお天気だった。」
「それで?」
「よく分らないんだけれどね。一人の御婦人と知り合いになったんだ。おしゃべりしたんだけれど、ちょっとおかしなひとでね。電話じゃ話しにくいな、どうしてかな。」
「すごい美人ちゃんだったのかい?」
「うん、まあね。美人ていうよりセクシイっていうのかな。こう、なんていうんだろう、こう、今、手真似してるんだけど......。」
「それで、おまえを誘惑したのかい?」
「うん、いや、さあどうかなあ、そこが分らないんだよ、よく。つまり、僕を誘ったことは確かなんだ。うちへ来いって。僕は大いに悩んじゃった。」
「いい子だ、いい子だ。」
「うん、ほんとに僕はいい子だね。もしかすると一件に関係があるんじゃないかと思って、ついて行こうかと思ったんだけれど、ちょっとヤバイよ、これは。それにすごく変てこなんだ。そのひとはギリシア語とラテン語を教えているんだっていうんだけれど、それで、ギリシア語なまりでラテン語を話す弟子を相当に持ってるっていうんだ。」
「ロシア語なまりのイタリア語じゃないのか?」
「僕もそんな種類のことを訊いてみたんだけれど、ちがうんだ。とても真面目なひとなんだよ。何故ギリシア語なまりでラテン語を話したいなんていやったらしい人種を教えるのかって、まあそうはっきりとは言わなかったけれど、訊いたらね、そういう変てこな男っていうのは、みんなそれぞれ実に魅力的な夢と怖れに溢れているって言うんだ。まあ、分るような気もするけれどね。」
「どう分るって?」
「うん、バラなんかせっせと作ってる人がいるだろ? 変てこな色のまじった奴なんかを作ってる亡命型が......。いい人にはきまってるよ。」
「それでバイバイしちゃったのかい?」
「いや、一応ヒモはつけといたんだ。うちの兄貴がきっと是非弟子入りしたがるから連絡先を教えてくれって。そしたら向うから電話するって言うんで、番号を教えといた。」
「おれの番号をかい?」
「うん。」
「ありがとう。」
「なんだかくさいだろう? 一時間も一緒にベンチに坐ってたんだ。恐竜をつかまえたいと思いますか、なんていろいろカマをかけたりして。いずれにしても、もしそうだったら何か言ってくる筈だよ。」
「よおし、完璧だ。ただし、一緒について行けばもっとよかったな。」
「うん。でもね、とにかくすごくしどけないんだ。もし二人きりになったら、僕はだめだと思ったんだ、ね?」
「いいじゃないか。それも、人生の兵学校の必修科目だよ。つまり体育実技だ。」
「ひとのことだと思って、やたらと簡単に言うんだなあ。」
「まあ、そうひがむなよ。」
「うん。それで、あと何かやることある?」
「さあ。」
「成行きを教えてよ。僕は相当猛烈興味あるんだ、このこと。」
「おまえも恐竜をつかまえたいのかい?」
「さあ、なんていうのかな。恐竜はどうでもいいのかな、僕は人間がいろいろなことをやるのがきっととても好きなんだ。」
僕はふき出した。薫って奴は実に相当猛烈に面白い奴なんだ。ヌケヌケとえらくまともなことを言って、それでサマになるようなおかしなところがある。
夜中に僕はふと思いたって、「論文」を書き始めた。
僕の祖先の恐竜について
僕の祖先の恐竜は、パイナップルとおしゃべりと女の子が大好きでした。
これは言うまでもなく、のちの人類の誕生とその繁栄を導くのに貢献しました。
高い樹の上の方に実るパイナップル (と言うのは、当時のパイナップルの樹はみんな東京タワーほどもあったのです) を食べるには、長い首を更に長くのばすだけでは足りず、また、とび上るだけでも永続きはしません。彼は木登りのチャンピオンになりました。(蛇足ながら、首をのばすことだけに精を出していた奴らはキリンの祖先となり、ジャンプをやっていた連中は、カンガルーになりました)
彼は大変おしゃべりが好きで、仲間同士集まっては、温い浅いジュラ期の海に足先を浸して、ピチャピチャ水をはねかえしながら坐りこみ、一日中あきもせずおしゃべりしていました。おかげで尻尾がすりきれてきたのは、やむを得ないことでした。
かくして彼とその変な仲間は、木登りという絶えざる緊張を要するトレーニングで常に贅肉を落し、例の有名なる恐竜的大肥満を免れ、おしゃべりによって感情表現の単純化装置としての尻尾をすり切らし、パイナップルとお世辞で女の子をワイワイたぶらかして、そのおかしな子孫をふやしました。
僕たちが、パイナップルとおしゃべりと女の子が好きなのは、このように一億五千万年もの永い伝統を持つ、僕の血筋によるのです、云々......。
もちろん僕は、実際にはこの名論文を送りはしなかった。赤インクの添削入りの二重丸または3なんてのがついて、往復ビンタ的迅速さで送り返されるような気がしたから。
4
暫くの間、なんの音沙汰もなくすぎた。僕はわが「平常心」の表情とでも言うべきものに、かなりの興味を抱きながら、つまり平たく言えばやや落着かずに「委員会」からの次の手を待った。
敵意を感じたこまごまとしたニュアンスは次第に遠ざかっていって、石けんで出来た彫刻か何かのように、なで廻していろいろやっているうちにカドがとれて、何よりも好奇心が残った。
僕は誰かに出会ったり、電話があったりするたびに、友人どもに「恐竜をつかまえたいか」と訊いてみたりした。どうもクサイと思われる連中、または僕と同様の勧誘を受けそうな奴らには、かなり立入って誘導尋問を試みたり不意打ちをかけたり......。
もうちょっと待ってなんとも言ってこなかったら、一つ例の論文、「僕の祖先の恐竜について」をきちんと書いて送ってやるか――。
日曜の朝 (ちょうど一週間だ)、僕は一人の女性から電話をもらった。弟が出くわしたギリシア語なまりのラテン語を教える女性で、柔らかな抑揚とかすれた声で、僕の弟子入りをうながした。
夕方、僕は出かけた。「教室」は、或る私鉄の駅からちょっと行ったところ、一週間前に弟が偵察に行った例の公園らしきものに隣り合わせたような、八階建てのちょっとした豪華なマンションの七階にあった。
出迎えたのは、黒い袖なしのセーターに白銀色のパンタロンをはいた、ほっそりとしなやかな猫のような肢体をした女性で、二十歳から三十歳までのいくつともとれるような不思議な女性だった。顔もからだも手足も凡てが細く長くのびて、首は片手の中に、ウエストは両手で作った輪の中に柔らかく収まるにちがいない。そして額の中央で無造作に分けられた黒く長い髪が腰の上あたりまで垂れ、一重瞼の大きな切れ長な目と柔らかな唇だけが、くっきり化粧されている。
「お入り下さい。」
彼女は目をあげず、僕の胸あたりを漠然と眺めながら言った。驚くべきものは、彼女の身のこなしだった。僕には、弟が「手真似」したくなった気持がよく分った。衣裳を正確に身につけていても、どことなく裸でいるような雰囲気の女性というのが稀に存在する。からだの線と動きそのものが、あらわで裸な感じの女性が......。
ここでの「ギリシア語なまりのラテン語」テキストは『アルス・アマトリア』かもしれない。
僕はヴェランダに広く続く客間に通された。クリーム色の壁に淡いオレンジ色のカーテン、枯葉を敷きつめたようなじゅうたん。そのなかで、彼女の細くのびたからだが、くっきりとしなやかな線をつくって動いた。ヴェランダに向って左側の開け放たれたドアからは、ベッドのおかれた寝室が見えた。仄暗い青いじゅうたんとカーテンの寝室、そこでは彼女の白いからだが、更にしなやかにくっきりとした線を描くことだろう。
彼女は寝室へ続くドアを背にした椅子に腰を下ろし、素足のままの爪先をそろえて、長い両足を斜めに流れるようにのばした。
僕は、いまだに一度も僕の顔を見ない彼女の様子をいいことに、しばらく彼女を観賞し続けた。例の「ものみの塔」のパンフレットにダーウィン流の進化論を徹底的に否定したものがあった。生命が全く偶然に生まれることなどあり得ない。猿が進化して人間になることなどあり得ない。確かに、僕の祖先の恐竜が、大いにハッスルして口説いた女の子の恐竜たちが、この目の前にいる女性にまで「進化」するのは、どえらい偶然の累積をまっても不可能なことかも知れない――
「いつから勉強を始めますか?」
と、彼女が口を切った。
僕は、口を開けたがすぐには答えかねた。
「ふつうは二週間に一回の授業です。御都合のよい日を言って下さい。」
僕はまだ答えができなかった。僕には、何かの目的があったはずだ......。
「実は。」
と言いかけて、僕は口ごもった。弟子入りを断わることはこの曲線を観賞するチャンスを失うということになるのだろうか? そもそも授業とはなんの授業になるのだろうか?
その時、恐らくは僕が浮足立ったのに気づいて、彼女は初めて目をあげて僕を見つめた。一重瞼と思っていたのが、幕のようにあがって深いひだを作り、驚くべき大きな目が見開かれていた。
彼女は微かに首をかしげて、僕をうながすようにした。その或るやさしさを、僕は見覚えがあるように思ったが、頭が働かなかった。僕は凡ゆる迂回作戦を結局放棄して、訊いた。
「僕はあなたにうかがいたいことがあります。よろしいでしょうか?」
彼女はうなずいた。
「率直にうかがいますが、例の恐竜の手紙について、何か御存知ではありませんか?」
「恐竜――。」
と、彼女は歌うように呟いた。そして僕にまたあのうながすようなうなずき方をした。僕はまたためらった。
「僕のところに、おかしな手紙が何度か来ました。恐竜をつかまえたくないか、というのです。何かの冒険をめざしていて、僕にも参加せよというのですが、そのほんとうの目的や方法については、よく分りません。冒険への参加資格を判定する試験は、先週の日曜日、そこにある公園で行われる予定でした。僕は弟を代りに行かせました。弟はあなたに会いました。」
僕は、僕の口が自分のものとはとても思えないような気持に襲われた。何かを話すというのでなく、活字を呑みこんでいて、それを吐き出して言葉を綴っていくようなもどかしさがあった。
「現代の知的状況における冒険のための委員会とか言うのが、差出人の名義です。」
彼女は例の或るやさしさを見せて、うなずき続けていたが、僕はやっとそのやさしさが、医師や看護婦の職業的柔らかさに通じることに気がついた。僕の頭には血がのぼった。
「あなたは、何か御存知でしょう、このおかしな、馬鹿げた出来事について?」
彼女は目を閉じ、それからゆっくりと立上がって、流れるような身のこなしで静かにヴェランダの方へ歩いて行った。そして戻ってくると今度は僕の坐っている長椅子に、僕と並んで僕と向き合うように斜めに腰かけた。
「何が馬鹿げているかは、そう軽々しく決められませんでしょう?」
と、彼女はやさしく言った。
「その通りです。それから――。」
と言いかけて僕は辛うじてこらえた。僕が言おうとしたのは、念のため言いますが、僕は恐らく最も正常な精神の持主です、といった種類のことだったのだ。
「そこの公園で、試験が行われたのですね?」
と、彼女が訊いた。
「ええ。いや、指定された試験場を訪ねたら、どうしてもそこの公園になるということだったのです。」
「それで試験はあったのですか?」
「いいえ。弟はあなたに会っただけだと言いました。あとはサッカーをやる子供たちが......。」
「あなたは、恐竜をつかまえてみたいの?」
「え......?」
僕はまた、僕はごく正常な男です、と言いそうになった。
「恐竜が怖いのですか?」
僕は、背をそらせるようにして胸を円くつきだし、唇を寄せるような風情で僕の顔をやさしくのぞきこんでいるこの「看護婦」に見入った。僕は、証拠物件とも言うべき例の委員会からの手紙を持って来なかったことに、絶望的な意味を認めた。凡ての説明は、僕がいかにごく普通のまともな男であるかの主張になるだろう。そして、誰にだって、どうしても言いたくない種類の説明というのがあるものだ。
「つまり恐竜というのは......。」
と言いかけて僕はやはりあきらめた。
その時彼女の両手がしなやかにのびて、僕の膝の上で苛いらと暴れていた僕の右手を包むようにした。僕の、今にも爆発しそうだった馬鹿笑いが、とたんにひっこんだ。
「怖いものがあるのは、勇気のある証拠です。」
と、彼女は囁くように言ってくれた [「くれた」に傍点]。
僕は彼女の方にはっきりとからだを向け、彼女の目をのぞきこんだ。
彼女は二度、はげますようにうなずいた。
「あなたには夢があるのですよ。夢を持つ人は、必ず怖れを抱きます。」
恐竜はともかくとして、彼女の言うことはほんとうだ、と僕は思った。僕は、彼女の手を強くにぎりしめた。そして引き寄せると、彼女は蛇のようにしなやかにからだをくぬらせて、僕の腕の中に入りこんだ。そして僕のからだとの間に一分のすきもないほどぴったりとその柔らかいからだを押しつけ、両腕を僕の首にまわして抱きしめ、頬をすり寄せて囁いた。
「あなたは、ほんとうは、男の中の男なのよ。」
5
海の底のように青い寝室で、僕は奇妙な経験をした。彼女は、その細くてしなやかな白いからだを、雄々しいまでに奇抜にくねらせ、最も女性的なからだの表情をくりひろげながらむしろ男のように積極的に僕を愛した。(ああ、どういう意味だと思われるだろう?)
彼女は、あなたは男の中の男なのよ、と繰返し囁き、その言葉で自らの興奮をあおりたてて、まるで樹にからみついたつる花が独りでに次々と花開くように、彼女ひとりの妖しい恍惚の世界をさまよい続けた。
初めは、或るうしろめたさにとらわれていた僕も、次第にこの不可思議な状況の魅力にひきこまれ、彼女の囁きかける「男の中の男」のイメージを探りながら、そのイメージに身を任せることに説明のつかぬ歓びを見出していった。
そして、彼女がついに力なく倒れた時、僕は極めて自然に自分をとり戻し、改めて彼女の魅力を確かめつつ彼女を抱きしめた。
「あ。」
と彼女は、一瞬その目を見開いて、それこそ異様な獣でも見るように僕を見つめ、微かに僕の腕の中から逃れようとする意志を示した。でも、彼女がとらえたつもりでいたにちがいない「男の中の男」はもはや消え去っていて、いまや「ごく普通のまともな男」がいたわけだ。
僕は、例の僕の祖先の女の子好きの恐竜のように、この素晴しい肢体を持つ女性に楽しく襲いかかった。彼女のその一瞬の驚きの表情に、何かを踏みこえたことを感じながら――この恐竜騒ぎの馬鹿馬鹿しさから、やっと自由になれたような、或る快感を抱きながら。
彼女が、その短い眠りから目覚めた時、僕は彼女の長いなめらかな背筋と長い黒髪を無意識になでていた。
「くすぐったいわ。」
と彼女は身をよじって囁き、背筋をそらし、僕にからだをぴったりと寄せるようにして、背中をなでる僕の手を避けた。僕は驚いた。
目覚めたとたんに、怒りにふるえるまなざしで僕をにらみつけ、僕の腕をふり払って起上がる彼女を想像していた僕には、この彼女の意外な動きが理解できなかった。
彼女はそれから、顔を僕の胸にうずめたまま、急にクスクス笑い出した。
「ねえ、おかしいわ。」
と、しばらく笑いにからだをふるわせていたのち、彼女は言った。
「滑稽ね、おかしい――。」
「何が、ですか?」
「何もかも。」
「恐竜のことですか?」
「え?」
彼女はまた激しい笑いの発作に襲われた。
「やっぱりあれを、あなたは知っていたんですね。」
彼女は、顔を動かして、笑いすぎて涙でうるんだ目を、今度は惜し気もなくまばたきして僕を見た。
「恐竜って?」
「え?」
「恐竜って、あなた――。」と言って、彼女は絶句した。
「あれはなんなの?」
「え?」
と、口を開けて今度は僕が呆然とした。
「私、すっかり本気にしちゃった。」
「本気にした?」
「ええ。」
「だって、あれは本当の話なのです。」
彼女はまた顔をうずめて笑い出した。そしてその笑いをとめるためとでも言うように、両腕を僕の背中に廻してきた。僕は繰返した。
「あの恐竜の手紙の話は、みんな本当のことなんですよ。」
彼女は嬉しそうにうなずいた。そして目を閉じて、唇をつきだすようにして、のどがカラカラだけれど動けない、と言った。僕はまたもやあきらめた。
僕は起上がって台所へ行き、タンブラーを探し、冷蔵庫を開けて氷をとり出し、氷水を作った。冷蔵庫からの冷気と、水のしぶきが腰のあたりにかかって、僕は思わず身をふるわせた。
何かが変だ――どうでもいいことかも知れないが――
寝室へ戻ると、彼女は引張り上げたシーツに首まですっぽりくるまって、恥ずかしそうな表情をして僕を待っていた。初めの、あの、あなたは男の中の男なのよ、とささやき続けた奔放で大胆な彼女はすっかりどこかへ行ってしまって、ごく普通の女性がそこにはいることを僕は確認した。
彼女は右手を差出してタンブラーを受取り、喉を鳴らして呑みほした。
それから彼女は一息つくと、急にせきが切れたようにしゃべりだした。
「ほんとうにおかしいのよ。あなたも変だと思ったでしょう? 最初の私、気狂いだと思った?」
「......。」
「どう話したらいいか、私にも分らないの。結婚していて今別居中なの。」
そして彼女は或る名前を囁いた。それは翻訳でかなり名の知れた学者だった。
彼は異常なまでの語学の才能を持っていた。彼は次々とさまざまな言葉を征服し、風のように自由に、見知らぬ国国を旅することを夢見ていた。ところが或る日、彼には突然他の優れた能力があることが明らかになった。彼には金儲けの才能が備わっていたのだ。最初は友人とのつき合いで始めた投機で、彼はまたたく間にその異常な新しい才能を発見した。彼は儲けに儲けた。
それまで彼は、ごく限られた範囲の静かな信者を抱えて、乞われるままに古い言葉を教える小さなサロンを作っていた。静かで風変りで、或る倦怠と熱っぽさに溢れた男たちの集まり......。なかには大臣級の政治家、著名な芸術家、学者もいた。彼らは、このおかしな「季節はずれの」語学塾に、中学校またはサウナバスへでも通うように、勉強に通ってきた。
しかし、彼が新しく見つけた投機の才能、特にその「ツキ」は、あっという間に巨大な信者集団を形成した。彼の所属する大学の関係者を初めとした多くの知り合いが、その彼らの知的世界に現れたこの「新しいコロンブス」目がけて、ひそかに貯金と委任状を抱えて群がってきた。
語学クラスはたちまちにして崩壊した。大ていは、辞書とテキストを小切手や委任状にとりかえたのだから。
彼は悩みい暴れふてくさり、やがてあきらめると同時に、新しい力の感覚に酔った。彼は突然肥満し始め、大きな声で堂々としゃべるようになった。
最も滑稽な彼の真面目の名残は、彼の極端な性的能力の減退、特に妻への不能症状だった。彼は、異常な刺激を求めてさまざまな女を「試す」ことに熱中し、そして、少しも変ることなくほっそりとした妻に、離婚しないでくれ、と哀願し始めた。彼女は驚いて、そして離婚を申し出て、別居した。
一人になって彼女が始めたのは、例の語学サロンの復活だった。多くの「生徒」は、金儲けクラスにくら替えしていて、残った三人の男は打ちのめされて蒼ざめ、夢ともどもしぼみきっていた。それから他にも、夢を抱えた男たちが......。
「みんなにこういう授業をしたのですか?」
と、僕はさすがに気になって訊いた。
「とんでもない。」と言って彼女は笑い出した。「それに私って、こういう、いろごと [「いろごと」に傍点] って余り好きじゃないのよ。ほんとです。笑ってる?」
「いいえ。」
「それに、みんな真面目だったの。私は、予習で大変だった。プラトン、アリストテレース、カエサル、ボエティウス――。」
彼女はまた、笑ってる? と訊くように僕の喉に聴診器のように耳を押しつけた。僕は笑うどころではなかった。
「あなたをだます奴はいなかったのですか?」
「あなたみたいに?」
「僕は別にだましたつもりはありませんが、でも、たとえば僕みたいに、でもいい。」
「あなたって、ほんとうに、おかしいほど平凡なことを訊くのね。気になります?」
「ええ。」
「ほんとうにみんな真面目で、だますどころじゃなかったのよ。私はハラハラしていたの。男たちを尊敬して、巫女のように胸をときめかせて、気を配っていたのね、男も変だけれど、女も変ね。」
「みんな、どんな夢や怖れを持っていたのでしょう。」
「そうね、そう言われると説明に困るの。僕が或る夜死んでいく時も、後楽園は満員だろうか、とか――みんなに訊いてみたくなるんですって。あなたはどう思う、どうするって。」
「......。」
「僕は気のきいた言い廻し一つできれば、あとは死んでもいい――。」
「......。」
彼女は僕のわきの下に鼻をつっこむようにもぐりこんで、くすくす笑い出した。その笑いがやがて涙のなかにとけていくのを、僕は肌で感じた。
僕は深い疲労の中で考えこんだ。この世界にいる僕の知らぬ男たちのことを、その夢と怖れを――。一つの考えが次第にはっきりと形をなしてきた。
やがて僕は身を起してベッドを下りた。
「どうしたの?」
「僕は帰ります。」
「何故?」
僕は考えて、そして言った。
「たとえば、あなたが素敵にきれいでしなやかなバクだとします。あなたは男たちの夢を食べて美しく生きる。ところが僕は、実は恐竜なんですよ。その折角の素敵なバクのあなたを頭から食べてしまう。」
6
なんとも苛だたしい日が続いた。
僕が、恐竜とは他ならぬ僕自身だ、といったことをほんとに考えているわけでは勿論なかった。
僕は百戦錬磨の海賊よろしく、どんなに揺れる船板の上でもなんとかやっていけるといった一種の平衡感覚を、いつの間にか呆れるほど身につけていた。つまり、僕が転んだら、それはわざとにちがいない――、誰にでも、生き続けていく限り、それぞれおかしな自信が苔のように生えてくるわけだ。
僕は結局のところ、この事の成行きがなんとなく凡て気に入らないにちがいなかった。特に気に食わないのは、僕がなんとなく後悔していることだった。凡てに対して、真面目に応じていたら、どうだったろう?
それに、まるで行きがけの駄賃といった案配に、なんの努力もせずに一人の素敵な女性を抱いたことも、どこか釈然としなかった。
委員会からは何も音沙汰がなかった。
だから三日たって、彼女の夫が酔っ払って僕を訪ねてきた時、僕はむしろほっとした。
彼は、彼女の言った通り肥満しきっていたが、その身のこなしには、いかにもデリケートな感じのよさがあった。
彼は、すすめた椅子に腰かけもせず、つっ立ったまま大声でどなった。
「私は君のことを前から少しばかり知っていた。君の或る種の論文も読んだことがある。でも君が、こんなとんでもないペテンをやるとは知らなかった。卑劣じゃないか。」
「まあ、おかけ下さい。」
と、僕は驚いて言った。
「恐竜だとは何事ですか。」
「え?」
「君は一体何をやったんだ、彼女に。」
「おかけ下さい。よろしければ、説明しましょう。」
彼はやっと腰を下ろした。僕は、机の抽出をあけて、例の手紙を取出して彼に渡した。
彼が眼鏡をふいて一通り目を通すのを見てから、僕は言った。
「三番目の手紙にある地図を御覧下さい。ちょうどそこが、あなたの奥さんのマンションのそばの公園です。弟がそこで奥さんに会いました。この一連のおかしな手紙に関係があるのではないかと思って、僕は出かけました。」
「こんな手紙は、誰でもすぐ作れる。」
と、彼はブツブツ言い、それからまた大声を出した。
「君は彼女に何をふきこんだんだ。」
僕は少し心配になった。
「彼女がどうかしましたか?」
「彼女は、ギリシアとラテンの教授をやめると言った。みんな心配しているんだ。彼女はみんなの夢だったんだ。」
僕は考えこんだ。
「よろしければ、僕の推測をお話ししましょう。」と僕は言った。「御承知のように、彼女は大変ロマンチックな女性で、男がいつまでも夢を抱くことを望んでいます。そしてあなたに対する不満を、ギリシア語なまりのラテン語を習いたがる或る種の魅力的な男たちで埋めようとしている。」
「そんなこと分ってる。」
と、彼は不機嫌に言った。
「そこへ僕のような、御覧の通りのリアリストが......実際に僕はなんでも理屈で説明して、種子も仕掛けもないんですよ。そんなのが突然出かけていったから、彼女はびっくりしたのでしょう。」
「しかし、彼女は恐竜をつかまえたと思っている。」
「え?」
「彼女はあなたを恐竜だと思っている。つまり、恐竜のように大きな、われわれみんなを馬鹿にするような夢を持っていると、君はふきこんだ。」
「それは間違いです。僕が恐竜だといったのは、簡単に言えば彼女を脅かしたのです。ちょうど現実が夢をこなごなに噛み砕いてのみこんでしまうように、僕のような男は、あなた方の美しい夢を理解し説明して、骨までしゃぶりつくしかねない。恐竜のように危険だから、近づくなという意味です。」
「すごく自信がおありですな。」
「危険標識は大袈裟に立てるものでしょう?」
彼は僕を穴のあくほど見つめ、それからうつむいて考えこんだ。
「悪いけれど、お酒をもらえませんか。」
と彼は言った。
僕は、台所へ言って、氷とウイスキーとグラスを持ってきた。彼は氷も入れずにグラスに注いだウイスキーを一気にのみほした。
それから彼は、突然立上がった。そして、お尻のポイケットに手をつっこむと、大きな登山ナイフを取出した。彼は両手で刃を引き出そうとしたが、指に肉がつきすぎているせいか、なかなか出せなかった。(手伝いましょうか?)
ところが、やっと刃を出すと、彼はゆっくりとテーブルをまわって僕の方へやってきて、ナイフをふりかざし僕めがけてとびかかってきた。僕が身をかわすと、彼は僕が腰かけていた椅子にぶつかって、見事に頭から床に転がってはいつくばった。
僕は、転がったナイフをスリッパの先で壁際のピアノの下に蹴りこんでから、のびてしまった彼を抱き起しにかかった。だが起したとたんに彼は、明らかに僕の股間を狙って足を蹴りあげ、空振りに終るや、体当りでつかみかかってきた。僕は思わず彼の股間に膝で一突きくれてやった。彼は大きくうめいて、股間を両手で抑えてしゃがみこんだ。
そして彼は、オイオイ声をあげて泣き出した。
僕は、なんとも言えぬ笑いをこらえながら、すっかり酔いがさめたように蒼ざめた彼を、今度は慎重にうしろから抱えて起し、椅子に坐らせ、眼鏡を拾って渡してやった。
「一度はどうしてもやらなくてはいけないと思っていました。」と、彼は弱々しく呟いた。
「水をいただけませんか。」
僕は台所へ言って水を持ってきて彼に渡した。テーブルの上においた例の手紙がなくなっていることにすぐ気づいたが、僕は黙っていた。言うまでもないことだが、僕はこの肥った暴漢におかしな親しみを感じていたのだ。
「彼女は離婚をせいています。あなたと約束ができているのじゃありませんか。」
「そんなことはありません。」
「もし彼女がやってきても、断わってくれますか?」
「それは僕とあなたで決めるべきことではないと思いますが。」
「あなたは全くずい分はっきりした人ですね。私はお金なら沢山持っていますが......。」
彼は口をつぐんで、そして立上がった。
「どうもお騒がせいたしました。悪く思わないで下さい。」
「勿論です。」
玄関のドアを開けながら、彼は僕を眺めて訪ねた。
「あれを抱いたんでしょう?」
「いいえ。」
と僕は言った。
あなたは、はっきりした人だから......
「サウナ風呂へ通おうかと思っています。」
と彼は呟いて、では、と言って出て行った。
僕は椅子にどっかとからだをうめて、思いきりはっきりと笑い出した。何故なら、事実として笑ったということが、貴重なものになるといった種類の出来事というのが確実にあるのだから。
7
彼が出て行って十分もたたぬうちに、僕は例の「ギリシア・ラテン語教室」の「生徒」から電話を受けた。恐らくは緊張のためか、老人のようにしわがれた声で、僕と話し合いをしたいと伝えてきた。僕は承諾したが、真夜中に例の公園という要求をきいて、彼は「話し合い」でなく「果し合い」と言ったのかも知れないと気がついた。
僕は、用心のため電話で弟について来るように言った。彼は「恐竜の一件」に関係があると聞くと、大喜びだった。
僕は途中で弟を拾って、公園に向った。僕はこれまでのおかしな経過を弟に話してやった。
「相手はどんな人なの?」
と彼が訊いた。
「分らないんだ。話し合いじゃなく、果し合いかも知れない。」
「変てこな話だね。」
「うん、この間或る友達が言ってたけれど、世の中がなんとなく気味が悪いんって言うんだ。怪文書と忍者が至るところに跳梁しているってね。みんなが、人間たちが、それぞれ勝手なことをし始めた感じがあるんだな。」
「自由になったのかな。」
「そういう言い方もあるだろうね。ただ、みんなお互いに慣れないで、ぎごちないようなところがある。」
「それで果し合いやるわけ?」
「さあ。とにかくこういうわけが分らん時は、或る程度の現場確認主義でやってかなきゃ、話にならないんだよ。」
「君子は危ないことをしちゃいけないんだろう?」
「うん、でも、やむにやまれぬ大和魂ってのもあるわけだ。」
「やむにやまれぬ好奇心じゃない?」
「うん。とにかく、少しでもヤバかったら一目散に逃げるからね。」
「うん。あの公園からちょっと行ったとこに交番があるから、行きがけに確かめておこうよ。」
僕たちは、交番のすぐ横に車をとめ、歩いて公園に行った。僕たちは目立たぬよう木陰を選んで歩き、誰もいない公園をあれこれ偵察し、照明灯に照らされた噴水のある中心部を見渡す、小高い築山の木陰のベンチに腰を下した。
僕たちが到着したのは約束の真夜中より十五分も前だったが、五分も待たぬうちに、数人の人影が現われた。
「六人だ。あれだよ、きっと。」
と弟が言った。
「うん。」
「白髪のおじいさんもいるじゃないか。」
彼らはみんなきちんとネクタイをつけ、背広を着こんで、大学紛争さ中の教授団のように寒々と噴水のまわりに集まった。彼らはうつむきがちに、小声で何かポツリポツリとしゃべり合ったり、落着かぬ様子で周囲を見廻したりした。
「行こうか。」
「ちょっと待って。」と弟が言った。「もう一度言うけれど、何がなんだか分らない。変てこな話だね。」
「うん。」
僕たちが照明灯の光の中に出て行くと、六人の男たちは一斉にこちらを見た。僕たちはゆっくりと近づいていった。
一人の、いかにも「紳士」といった感じの男が、背広の上衣をとって、傍らの男に渡すのが見えた。僕は弟と顔を見合せた。
「うしろへ廻る奴は頼むぞ。」
「だって、果し合いだったら逃げるんじゃないの?」
「うん、でも、ぎりぎりまで粘るからな。」
「よしきた、ホームズ。」
僕たちは、彼らの五米ほど手前で立ちどまった。
「お話をうかがいにまいりました。」
と、僕は言った。
「話すことなどありません。」
と、右端にいた背の高い白髪の品のいい紳士が、ポケットにつっこんだ手を出して、腕組みしながら言った。僕は彼の足がガクガクふるえているのに気づいた。
「話し合いとうかがいましたが。」
「果し合いです。」
「説明していただけませんでしょうか。」
「説明しろっていうのか!」
と、左側の小肥りのまだ三十前後の男が怒鳴った。
僕は、六人の顔をつくづくと眺め、どこかに冗談のかげを探そうと思ったが、どうしても見つからなかった。
上衣を脱いだまん中の男が、一歩前へ出てきた。僕は一歩うしろへさがった。
「お待ち下さい。僕はけんかは好きですが、わけの分らぬけんかはやりたくありません。つまり、あなた方の解釈をうかがいたい。」
「卑怯じゃないか。」
と一人がきめつけた。
「問答無用!」
と、甲高い声がつづいた。
「どうしようか?」
と、僕はジリジリと後退しながら、かたわらの弟に囁いた。
「もうちょっと粘って。」
と、彼が言った。
「せめて、男らしく名前をうかがいたい。」
と、僕は、彼女の言った「男の中の男」という言葉を思い出しながら言った。
「名乗る必要はない。私たちは、あなたに侮辱されたのです。」
と、右端の年長者が言った。
「あなた方が死んでいく時、後楽園が満員かどうかは、僕のはかり知るところではありません。」
と、僕は少し頭にきて、皮肉ってみた。
「こいつ!」
と、一人がうなった。。
「君、やれ!」
と、白髪の男が声をふるわせて言った。
上衣を脱いだ中年の男が、ボクシングの構えをしてビョンビョンとフットワークをしながら近づいてきた。
「まあ、まあ。」
と、僕は両手を前に出してうしろへ退りながら言った。男が急に頭を低くして殴りかかってきて、かわし損ねた僕の肩口を浅くポンと叩いたが、僕は、まだこの奇妙な男たちの顔を長柄mて、何かほんとうの意図のようなものを探そうとしていた。まあ、まあ。
だがその時、みんなでやっちゃえ、という声がかかって、後にいた男たちが一斉にドタバタと僕めがけて襲いかかってきた。
さあ、逃げろ!
僕と弟はパッとかけ出した。
僕たちは風をきって逃げたが、まだ照明灯の光の中を出ないうちに、追跡者たちはずっと遅れてしまった。僕たちは、とにかく繁みの中にまで逃げこんで、そこから改めて彼らの様子を眺めた。
彼らは、僕たちが姿を消した繁みの前まで次々とたどりつくと、なれない全力疾走にからだ全体で喘ぎながら、しばらくは口もきけないでいた。
最後に、白髪の老紳士と、上衣を脱いだチャンピオンが、支え合うようにして到着した。
「逃げ、まし、たか?」
「ええ、すばやい、やつ、です。」
僕たちは、二十米とは離れていない繁みの蔭から、彼らを眺めていた。
彼らはしばらくの間喘ぎ続け、それからお互いにいたわり合いだした。そして白髪の老紳士が腰を抜かしたように、無造作に地面に坐りこむと、みんな大発見でもしたように、同じように腰を下した。フーッ、と彼らの溜息が一斉にもれたのがよく聞えた。
それから「クックッ。」というような忍び笑いが誰かから始まり、またたく間に彼ら全員に広がった。その忍び笑いは、やがて彼らのそれぞれの特徴ある笑い声に変っていった。
そしてその笑いの波がひとしきりひと気のない深夜の公園に響きわたったと、奇妙な静けさが訪れた。
僕は、彼らの何人かが、明らかに泣いているのを知った。
永い沈黙ののち、彼らは誰からともなく立上がった。そしてズボンのお尻を叩いたり、乱れたネクタイを整えたりしたのち、お互いに囁きかわしながら、握手を交換した。しみじみとした、固い戦友の握手を。
そして彼らは、戦い終わった野戦兵のように少しバラバラに、しかし一団となって、一直線に公園の中心をつっきって歩いていった。
その先には、彼女の住むマンションが、柔らかな光の中にそびえていた。
僕と弟は、彼らが公園を出ていくのを見届けてから、言葉もなく、黙って肩をならべてぶらぶらと歩き出した。
帰りの車の中で、弟がやっと口を開いた。
「昔、まだ小学校のチビの頃にね、クラスのみんなと後楽園の遊園地へ遊びに行ったことがあるんだよ。二十人ぐらいいで。下条さんが一緒でね、彼女はとにかく怖がり屋だから、ジェットコースターにしても何にしても表面は黙ってても、すごく緊張してビクビクしてることがよく分るんだ。それで、お化け屋敷ってのがあるだろう? あれに入ろうって時になったら、彼女はもうブルブルふるえてるんだよ。やめればいいのに、あいつ、あれで勝ち気だから、絶対にそんなこと言えないわけなんだ。それで僕は、列作って並んでいる間に、べらべら説明してやったんだ。中はどうなっていて、どういうお化けが出て、それはどういう仕掛けになっているかってことを。ちょうど『少年マガジン』かなんかで読んだばかりだったんだよ。お化け屋敷に入ってからも、いちいち説明してやってね。彼女はとうとう笑っちゃったりしたんだよ。そして、明るい外へ出てきてから、ちっとも怖くなかったわ、なんて僕にお礼を言って、まあ僕もいい気持になっちゃってさ。
ところが、気がついたら、他の友達は、みんな怖かった怖かったって騒いでるんだな。何が怖方、あれがすごかったなんて、キャーキャーやってさ。......変な気持だった、とっても。」
「......。」
「なんだか、えらくややこしいところがあるね、いろんなことに。」
「うん。」
「あの人たちは、きっとすごく嬉しくて悲しくて、あれでよかったんだろうね。」
「何がよかったって?」
「彼らは、あの女のひとをすごく愛しているのかな。」
「......。」
「あーあ、僕はなんだか、いっぺんに沢山のことを考え始めちゃった。分らなくなった。もう黙るよ。」
僕は黙って自分の考えを追っていった。でも僕が全力をあげたのは、むしろ自分の考えを、言葉をとどまらせずに流していくということだった。言葉をつかまえずに次々とやさしく柔らかに流れるに任せること、ちょうどヘッドライトの光の中で、道が標識が風景が鮮やかによどみなく流れ去るように。いかなる説明も解説も網にかからぬように――。
8
十日ほどして、僕は彼女から電話をもらった。
「あなたに教えてあげたいことがあるの。」と彼女は言った。
「あなたの言っていた、恐竜の手紙ね。あれは、うちの肥った御主人が出したんですって。」
僕は、いつかの彼の訪問を思いだした。
「知っています。この間、彼は自分で僕のところへ来て、教えてくれました。」
「ああ、そうですってね。」
僕は耳に全神経を集中して、彼女の表情を探った。そして言った。
「驚きました。」
「ええ、私も。みんな彼が仕組んだことだった、ってことになるわけ......。」
「ええ......。」
彼女は黙りこんでしまった。微かな苦い後悔が僕のなかに芽生えた。
「私は、はっきり彼と、別れたと思っているの。でも彼は、もう少し待ってくれって......何してるか分る? サウナ風呂へ通っているの。」
僕は言った。
「あなたのそういう言い方は、なんだかとても不愉快です。」
「私は、あれからすっかりやせました。」と彼女は言った。「骨と皮になっちゃって、何考えているかと言うと、一人っきりになりたい、そして健康に毎日働きたいってことなの。」
僕は思わず恥ずかしさにひとりで耳を染めていた。
「どうして、誰かを何かをつかまえないと生きられないのかしら......。」と彼女は呟いた。「一人でいたいわ、とても。男はもっとそう思うんでしょう?」
僕には答えられなかった。
「私、別に前がよかったとか、前に戻りたいとか思ってるわけでもないらしいの。ただ淋いのね。」
「僕に出来ることがあったら言って下さい。」と僕は言った。
「私には分らないわ。それにあなたは、女より男を大事にするでしょう? 男はみんなそうなのね......。でも女にも夢とか怖れとか、そういったものがあるのです。」
「こういう考え方はできませんか?」と僕は言った。「もともとごく単純な事実が重なっただけだ、と。」
「時間がたつと、そうなるんでしょう? でもそれが怖いような気もします。」
彼女はちょっと黙りこんだ。それから言った。
「いつか、元気になって、またお会いしたいわ。ごく単純な事実のように、ね? そして、またきかせてもらう。何もかもメチャクチャになるような話を。」
僕はやっぱり言うことにした。
「今すぐお逢いできませんか。」
「いいえ。」と彼女は言った。「私は誰にも逢いたくないの。でもありがとう。」
僕はその夜、いつまでも目覚めていた。考えたのだ、山のようなことを。夢をつかみ、怖れをふり切るためには、或る分りやすい力、恐らくは知性がどうしても必要なのだろうか? そして、もしそうだとすれば、問題はもともと端も終りもありはしない。僕たちの恐竜は、ただ偶然を、突然変異をいつまでも待ち続ける......。
9
五日ほどして、僕は「委員会」から、恐らくは最後の挨拶とも思われる葉書を受取った。ふつうの官製葉書にタイプ印刷というあっさりしたものだった。
ごきげんよう!
私たちは、これより冒険に出発致します。
貴殿にかような挨拶を送るのは、貴殿の無関心という関心の持ち方を咎めようとする意図からではないことを御承知下さい。何故なら、人は、真剣になるほど真剣さを怖れるという点について、当委員会は貴殿と理解を共有できると考えるからであります。
幸運を祈ってくれることを信じます。
僕は記憶に残っていた私書函を調べに出かけた。それは或る有名な製薬会社がテレビの懸賞募集用に古くから使っているものだった。
僕は友人を通してその製薬会社へも、テレビ局へも手をのばして調べた。しかし、結局は何も分らなかった。何故なら、僕が調査を依頼した理由そのものが、どうしても、少くとも重大な真剣な調査を必要とするものとしての具体性を欠いていたのだから。あなたは恐竜をつかまえたくありませんか......? 誰が真面目になるだろう?
10
それから一カ月ほどたって、つい先日、僕は例の先輩の学者から電話をもらった。
「僕のところへも来たよ。恐竜をつかまえたくないかって。どうもほぼ完全に同じ文章のようだ。ただ差出人がちがう。恐竜撲滅のための委員会だってさ。」
「ははあ。」
僕は一瞬いろいろなことを考えた。僕のところから例の手紙を盗んでいったあの男のことなどを。
「君のとこのあれは、その後結局どうなったんだ?」
「あのあとで、資格審査のための論文提出と、試験通知がありました。」
そして、最後の挨拶が、と言いかけて勿論僕はやめた。
「それで、つきあったのかい?」
「え (?)」
「ハハハ、全くおかしな話だね、なんだか。ほんとに気味が悪いよ。ハルマゲドンはほんとうに始まってるのかも知れない。」
僕は考えこみ、そして言った。
「差出がましいかも知れませんが、ごくごく真面目に答えてみたらどうでしょう?」
「え? この手紙か?」
「ええ。」
「そうすると、どうなるんだ?」
「分りません。」
「しかし、何が真面目か、そこが僕には分らないんだよ、このところ。全く、きっと、地球のタガがゆるんでるんだ。まあ、お互い、なんとか正気でくっついていこうや。」
「ええ。」
でも、と言いかけて僕はやめた。どうしても言いたくない種類のことが、やっぱり僕のなかに、どうしても、どうしてもあったのだ......。誇りよりも空しさへとどうしてもつながり、そして、しかも、馬鹿笑いさえもふるえちぢこまらせるようなそんな何かが。


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