文学は「無用」なのだろうか─「先生、文学はキャリアの役には立ちません」─ある教室での「月」を巡る対話
「文学は、人生やキャリアにおいてはまったく役に立たない。だが……」──イタリア「アヴェニーレ」紙に掲載された、ある国語教師によるエッセイ。生徒との「無用の美」についての議論から彼が考えさせられたこととは。 【画像】10年間で8280時間、本を読んだ記者の悟り「読書は時間の無駄だった」 マッシモは、あと半年で高校を卒業する男子生徒だ。頭の回転が速い生徒で、理工系のコースに在籍し、エンジニアになることが夢だという。私がマッシモを教えるようになって3年が経つ。授業中は無口で、発言することはほとんどない。だが、ノートは書き込みでいっぱいで、私の説明を一言も聞き漏らさない。 私はイタリア語(国語)を教えている。マッシモはこの科目にも興味があるようで、成績は常に優秀だった。ある日の午後、三者面談にマッシモは父親と現れた。面談では、現状の確認をしたが、すべては順調で、私としても特に言うべきことは思い当たらなかった。 「息子はイタリア文学にすっかり傾倒しておりまして」 その話題に触れたのは父親だった。 「存じております。それは私としても、嬉しいかぎりです」 私は答えた。するとマッシモは何かを言い足したい様子で口を開いた。 「先生の授業は、僕の好きな授業の一つです。先生、イタリア文学は本当に美しいと思います。僕の人生やキャリアにはまったく役に立ちませんし、仕事の世界でも役に立つものではありません。でも、本当に美しい。趣味としては最高のものの一つです」 父親がいかにも誇らしげに頷いた。
『月を見つけたチャウラ』
私は言葉を失い、何も返せなかった。面談時間が終わりを迎えると、私は二人と握手を交わし、挨拶をし、作り笑いを浮かべて送り出した。 後味の悪さが残った。イタリア語教師の私はいったい何者なのか。座を盛り上げる芸人の類なのか。それとも道化か。世間に気晴らしを提供するけれども、何の役にも立たない仕事をしている人間ということなのか。時間を無駄にしているけれど、全力で取り組んでいるようだから、咎め立てることはやめておこうと思われている人間なのか。 帰宅する時間になっても、私はまだそのことを考えていた。生徒の言葉が頭を離れなかった。 マッシモは、私を褒めるつもりだったのだ。私を侮辱したり、バカにしたりする意図はまったくなかった。私は自分にそう言い聞かせた。無礼だったのではない。率直だっただけだ。単にあれが、彼のものの見方だったということだ。また、父親の頷き方からして、それは父親のものの見方でもあったのだろう。 数日後、私は彼がいる授業で、ルイジ・ピランデッロの最も美しい短編小説の一つを読みはじめた。 その短編の主人公のチャウラは、硫黄鉱山で働く哀れな男だ。社会の最底辺に位置する無学なバカとして、搾取されたり、嘲笑われたりしている。チャウラは、鉱山の暗さなら平気だが、夜の闇は苦手だ。だから、ある日、遅くまで働かなければならなくなったとき、不安に襲われた。鉱山を出たときに、あのはてしなく恐ろしい夜の闇に放り出されるからだ。すべてを覆い、形あるものを不気味に、謎めくものに変えてしまう闇だ。 チャウラは不安が込み上げてくるのを感じる。いずれ夜の闇と向き合わなければならない。だが、地上へ戻る途中、チャウラは奇妙なことに気がつく。こんなに遅い時間なのに、光が差しているのだ。だんだんと周りの明るさが増していく。地表に出ると、チャウラの驚きは止まらなかった。 ピランデッロはこう書いている。 「光に満ち、ひんやりとした静けさの大海原のように、大きくて穏やかな『月』が、チャウラの目の前にあった」 チャウラにとって、それはまさに啓示だった。 「もちろん、彼はそれが何か知っていた。だが、知っているものの多くがそうであるように、これまでまったく重視したことはなかった。空に『月』が浮かんでいようがいまいが、どんな関係があるというのか? 夜中、こんなふうに地中の子宮口から這い出したいまになってはじめて、チャウラは『月』というものを見つけたのだ」 チャウラは心を揺さぶられた。読者もまた同様だ。短編の結末は見事だ。 「チャウラは、『月』を見つけたことに、言い知れぬ慰めと優しさを感じ、知らず知らず、泣くつもりもないのに涙を流していた。(中略)驚きに満ちた夜のなか、彼女(=月)のおかげで恐怖も疲労も感じなくなった」 面談の数日後、授業でこの短編を読み返すことは、私自身にとっても光が差し込んでくるかのような経験だった。私はチャウラの姿を、あの少年の言葉や、父親の頷きに重ね合わせた。 私は生徒たちに問いかけた。 「月は何の役に立つでしょうか?」