羽田談
天魔他化自在天は欲界の頂点の存在。
それは至高の欲とは何かを言うものでもある。
仏典で言う魔王は創造主である神に敵対するサタンとは違う。
人の喜びを自己の喜びと為す。これこそ至高の欲
これに近い姿は我々宗教者や福祉に生きるものだ。
人が喜んでいるのを見るのが好き。
これは悪いことではない。
悪いどころか普通に考えてそれこそが大善人と言えるだろう。
故に至高の欲だ。
だがこれも実は我欲の最たるものには違いない。
そこにとらわれているのが他化自在天 第六天魔王だ。
それがために何よりも自分の支配する欲界から衆生が出ることを嫌う。
これは宗教者、とりわけ現代の新宗教の成り立ちによく似ている姿だ。
自分の理想郷から出るものを許さない。
これは智慧の木の実を食べて「エデンの園」を出ようとするアダムとエヴァを罰する「神」に似ている。
「神」はすべての支配者でありたい。そうあらねばならないからだ。
その意味ではセム族の「神」は自在天魔に酷似している。
世に言う教祖様は人を救い、人の喜ぶ姿を見たいから修行して宗教教団を作る。
教祖様はそれを生きがいに日々頑張る。
一見素晴らしい。
多くの賞賛が集まり、それを喜びとして生きていく。
前に進んでいこうとする。
それの一体何が問題なのか。それで素晴らしいじゃないか?
だが、そうなればそこから人々が自分のもとから逸脱することを許さないのだ。
自分の元から人が去るのは嫌なのだ。
我慢ならない。
自分が削られて矮小化する恐れにかられる。自分のもとでこそ幸せになって欲しい。
そうあらねばならない。
教団が大きくなるにつれ教祖様も変容していく。
気がつけば教祖様の肥大した自我がこそが、実は教団の正体ということになる。
魔王は究極において「一人の求道者」になれない。そこが「真如への道」と違うのだ。
いつも諸大眷属にかしずかれていることを喜ぶ。
魔王は「承認欲求」というボタン一つの掛け違いが生む存在。
大乗仏教などはこの掛け違いが起きやすい。
求道者をやめて救済者一辺倒に堕する。
だからしまいにはだんだん偉くなって、釈迦の再来だの、弥勒のうまれかわりだのと言うような愚にも着かぬことまで言い出すのだ。
魔王は釈迦牟尼に美しい光景や美女の幻影を見せて歓びの娑婆にとどまることをせまる。
「道を求めることなどやめなさい。ここは素晴らしい!ここは美しい!沙門よ。貴方はこの世界を措いてどこに行こうというのか!」
だが釈尊は其の偽物のエデンの園を去る。
魔王はじめ魔衆のあやまちをただすべく他化自在天の宮殿で説かれたのが金剛頂経などの密教経典だ。