なぜ始まった?辺野古「海の座り込み」 平和な島願い、非暴力の抵抗 沖縄


なぜ始まった?辺野古「海の座り込み」 平和な島願い、非暴力の抵抗 沖縄 辺野古「海の座り込み」はなぜ始まったのか
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 今年3月に辺野古海域で起きた海難事故で二人の尊い命が失われた。依然として沖縄は強い衝撃と悲しみの中にある。まだ検証の途上だが、なぜ安全を確保できなかったのか、そのシステムに全国から批判が向けられるのは当然だ。一方で、辺野古の住民運動そのものを揶揄(やゆ)する声や、主体が外国人だ、などのデマまで飛び交っている。沖縄の「平和学習」は「反日教育」だと決めつける言説も目に余る。「悪者」を作りたい空気ばかり膨らみ、事実に基づく冷静な思考が欠落してはいないか問い直す必要がある。そもそもなぜ海に出てまで反対運動をするのか。2004年から続く海上行動の経緯を知らない人には理解し難い面もあるだろう。初期から取材してきた者として改めて振り返っておきたい。

「命を守る会」

 私が沖縄で報道の仕事を始めたのは1995年、奇しくも米兵3人による少女への暴行が激震となって島を揺るがす時だった。県民大会に集う8万5千人の怒りと悲しみに接し、背景には米軍統治時代から続く無数の残酷な事件や事故があることを学ぶ。そして怒りも限度を超える時、県民は思想信条を超えて団結することも知った。

 ところがその怒りを受ける形で日米両政府が合意した「普天間基地返還」は「県内移設」にすり替わり、移設先に辺野古の名が挙がる。1997年、地元のお年寄りを中心に「命を守る会」が結成された頃から私は名護市東海岸の人々の取材を始めた。

 当初から辺野古区は反対決議を上げていた。辺野古だけではない。瀬嵩・汀間・嘉陽にも「新たな基地など作られてたまるか」と立ち上がった元気な老女たちがいた。この地域に通う中で私は、日米両政府という大きな存在が相手であっても、勝算があろうとなかろうと立ち向かっていく民草の胆力が、この島に深く根を張っていることに気付く。デモ行進や集会は人で溢(あふ)れ、住民投票で名護市民は反対の意思を明確に示した。ところが2004年4月、国はすべて無視し力ずくでボーリング調査に取り掛かる。

 辺野古のお年寄りたちは港で座り込みを始めた。工事資材を持って来る防衛局員にはお茶を出して説得し、追い返した。その頃、おばあたちはよく「海に入ってでも止める」「戦争でたまたま拾った命。これで終わるなら惜しくはない」と覚悟を口にした。命を守る会の代表だった金城祐治さんも、沖縄防衛局に出向き「僕を殺してからやれ!」と泣きながら膝まずいたこともある。

一列に並び抗議行動を展開するカヌー隊=2004年11月16日、名護市辺野古沖

 お年寄りたちの命を差し出すわけにはいかない。その前に何ができるか。この座り込みを海の上でも続けられないか。その発想で始まったのが、カヌーを連ねて海に座るという形だった。仮に資金があっても、立派なエンジン付きの船を並べるのでは、弱さを武器に素手で座り込んできた沖縄の非暴力の精神から外れる。それで20艇ほどのカヌーと、それをけん引する小型ボートで「海の座り込み」が立ち上がっていく。

 とはいえ、同年9月のボーリング調査の初日、私は初めて海に出るカヌー隊を見て正直ハラハラした。海で泳いだ経験がない人や高齢者が波に翻弄(ほんろう)される姿に、ここまでやらねばならないかと胸が痛んだ。だが、これは続かないと踏んだ私の予想は外れる。

 非暴力の抵抗

 「無事に帰って来いよー!」。早朝の浜で、辺野古の嘉陽宗義さんは大きく手を振り、カヌー隊を毎朝見送る。80歳余るが、元海軍の自分が行けるなら海に出たいと悔しがった。やがて海上にボーリング調査のやぐらが建ち、その上に座る抵抗が24時間体制になると、浜のテントで座り込む老女たちも「灯を絶やしてはいけない」と夜遅くまで起きて、暖かいものを準備して待っていた。沖から見えるテントの光に勇気づけられながら「おじい・おばあの想い」を背負って暗い海に座り込む人々。夜の海上行動を撮影しながら、この人々の気持ちと戦争体験者の覚悟を何とか全国の人に届けねばと思った。

 「無謀だ。何かあったらどうするのか」。その批判は当初からあった。特に防衛局の仕事に協力する海人(うみんちゅ)たちは不慣れな反対運動の船を煙たがった。でも係留の仕方が甘いと言っては怒鳴る一方で、危機を救ってくれたことも何度もある。1日でも、1時間でも工事を遅らせようと現場が踏ん張る間、県民大会を開き、署名を集め、選挙で民意を示し、いくつも裁判をし、民主主義でできることはすべてやるが建設は止まらない。基地だらけの島ではまた戦争がやってくる。そんな島を子や孫に渡せないと命の限り座り込んでくれたお年寄りの姿はもう、テントにはない。が、その精神を受け継いで30年続く辺野古の座り込みが、平和な島を諦めない沖縄の戦後最大の住民運動であることは疑いない。

作業船から次々とやぐらにのぼる作業員ら=2004年11月30日、名護市辺野古沖

 なぜそこまで続けられるのか。誰のために座り込むのか。学生から海外の平和団体から、大勢の人々が辺野古から何かを学ぼうと訪れる。修学旅行先の思想調査が必要だと言う国会議員がいたが、ここにあるのはイデオロギーでも偏った思想でもない。当たり前に安心して暮らせる島を目指した祖父母の闘いを無駄にしないための営み、それは沖縄のアイデンティティーだ。「過激な活動をされる方が多いのは沖縄の特殊事情」と言うが、非暴力の抵抗の歴史をどこまでご存じなのか。この島の戦中・戦後の苦しみを少しでも学んでいたら「特殊事情」という心無い言葉で括(くく)ることはできないだろう。

 「平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である」とノーベル平和賞作家のエリー・ヴィーゼルは言った。自分の国の歪(ひず)みが露呈している場所に関心を寄せ、出向き、考えることはまさに平和を構築する力を養う、優れた「平和学習」ではないだろうか。若者のみならず、私たち主権者一人一人が平和を学ぶ歩みを止めてはならない。


 三上 智恵 みかみ・ちえ ジャーナリスト、映画監督。1995年から琉球朝日放送でキャスターを務めながら基地問題や沖縄戦のドキュメンタリーを多数制作。代表的な映画作品は「標的の村」「沖縄スパイ戦史」。著書「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)ではJCJ賞、城山三郎賞、石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。

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