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新しい本、『おやときどきこども』。

6月下旬ごろ本屋さんに並びます。
『おやときどきこども』(鳥羽和久 著)


こんにちは。3月の刊行以来、3か月ぶりとなる新しい本のお話です。

著者の鳥羽さんは、塾の先生であり、経営する塾長であり、単位制高校の校長先生でもあります。
福岡市で小中高生たち約150余人が学ぶ教室「唐人町寺子屋」を開校して20年、そこで出会うのは子どもたちや親たちの心の声でした。えこひいきする先生、子育てに自信のない親、虐待、言葉で伝わるという思い込み、スマホ依存……。教育の最前線で数多くの親子と接してきた鳥羽さんが、現代の親子が抱える多様でリアルな問題を、子どもたちの生き生きとした語りと鋭い考察から描きだしています。

「正しさ」に悩むすべての人に、新しい人間関係を築きたいすべての人に、手渡したい一冊です。
いやいや、ほんとは手渡したいなんてどころじゃなくて、友人のポケットにねじいれて感想をめちゃくちゃ話し合いたい一冊なんです! 

☆ 本の購入情報を、ページの最後にまとめました ☆

【本書の感想!太鼓判をいただきました】

映画の試写会のように、先に読んでいただいた方からの多数の太鼓判をいただきました!順次ご紹介いたします。(敬称略)

東浩紀(批評家、作家
鳥羽さんに子どもを託した親は恵まれていると、
ひとりの親として思った。
学習塾でこんな対話が可能ならば、
地域の未来は明るい。

寺尾紗穂(音楽家、文筆家)
「先生は私に言葉を与えてくれました」
一人の教え子の言葉は、鳥羽さんの教育にかける情熱を伝えるとともに教師や親、大人たちが、いかに子供の言葉を奪い、自らも言葉を手放してしまったかを示している。
大切な誰かにきちんと向き合いたいすべての人に薦めたい一冊。

阿南智史(never young beach)
一度目を瞑って、手のさわりだけであなたを感じられるように。
子が霧の中にいるのと同じように。

齋藤陽道(写真家)
鳥羽さんのことばは、徹底している。
単純な、一律の価値観を、こどもに、いや、誰に対してもあてがうことを認めない。こどもが何歳であろうとも、問題を抱えた大人であろうとも、まず陰影をはらんだ人間として接することを提案し続けている。
善悪や、功利、常識の範疇におさめた便利なことばでは、だれの心も打たない。
「あなた」と「わたし」のあいだで循環する、ノイズまじりの優劣つけがたい正直なことばこそが、哀切を帯び、人間としてのお互いの底をゆさぶる。
親子というデコボコの次元ではなく、人間同士のフラットな次元に立った時、親は子どもに還り、子どもは親に成っている。すべてはそこから始まっていく。
まさしく『おやときどきこども』というタイトルが示している。

田尻久子(橙書店店主)
鳥羽さんはなんて真面目な人なんだろう、と思いながら読んだ。
子どもはひとりひとりがすべて違う人間で、違う資質を持ち、違う環境を持ち、違う希望を持っている。そのひとりひとりを幾人も指導するのは、とても大変なことだろう。しかし、私が受けてきた教育の現場では、その「違い」はあまり重要視されずに、あるいはされないどころかないがしろにされていたように思う。鳥羽さんはおそらく、その「違い」こそを大切にしている。個別の人間として子どもと向き合い、一緒に悩み、考える。本気で一緒に悩んでくれる大人を味方に持つ子どもは運がいい。でも、ほんとうは運ではなく、すべての子どもにそういう大人が必要だ。それは親でなくともいい。塾の先生でも、学校の先生でも、近所のおばさんでもいい。だから、この本を誰もが読んでほしい、と思った。

鈴木潤(メリーゴーランドKYOTO店長)
小学生5年生と2年生の子どもと暮らしている。日頃から学校教育のあり方については常に斜に構えている私なので「受験」や「進学」という言葉にはあまり興味がない風を装っている。子どものうちから将来(?)のことを考えて塾に通うという選択肢が私の中にはないのだ。
塾という場は私の生活からも思考からも少し遠い存在で、そこに身を置く鳥羽さんの言葉は初めのうちは私の中で上滑りしてなかなか染み込んでこなかった。
なのに最後のページを読み終える頃には自分というものは、なんとも頼りなく心もとない存在なのだろうと思い、ただ大人というだけで、親というだけで油断をすると勘違いしてしまう自分に気づかされた。
人に根っこがあるとするならば、それは子ども時代に育まれるのだろう。私はその根っこを大切にしながら生きているだろうかと考える。そして子どもたちに根っこが大切だと伝えられているだろうかと考える。
根を張る為の土壌(社会)を作るのが大人の役割のはずなのに、一体世の中はどうしてしまったのだろうか?
政府や行政、学校教育を嘆くのは簡単だけれど、「あなたはどうなのですか」と鳥羽さんは問いかける。
常に子どもたちと向き合い、一緒になって迷い、悩み、苦しみ、笑い、喜び合っている人の言葉は時には頼りなくそしてこんなにも心強くあるのだ。

石井勇(MINOU BOOKS&CAFE店主)
「おやときどきこども」を読んで
こんなに読みやすく、体にすっと入ってきて、心の奥の複雑に絡まり合っていた紐をそっと解いてくれるような本には初めて出会いました。
この本が何かの専門的な知見を元に学術的な表現で書かれていたらここまで深くは感じ入ることは出来なかったと思います。
ここに書かれていることばの全ては、鳥羽さんが、子どもたちとの親密な関わり合いの時間のなかで感じた、数多くの実感から生まれ出たものだという確かな事実があります。そのことばの一つ一つが、自分の心のなかの子どもと響き合って、いまここにいる自分自身を捉え直し、親や友達といった周囲の人との関係性を柔らかく結び直してくれるような、そんな不思議な感覚を覚えます。
それは多分、現代社会が抱える様々な問題や矛盾、社会からこぼれ落ちたように感じる自分という存在への違和感や生きづらさみたいなもが、子どもとおとなの関係性に凝縮して現れるからだと感じます。
バブル期から就職氷河期、リーマンショックから東日本大震災を経験し、それまでの価値観に縛られながらも新しい暮らしを模索して生きている親と、まったく違う時代を生きている子ども。その両者は、違う言語感覚、価値観を持っていて、常に分かり合えなさの中で生きています。
鳥羽さんのことばを読むことで、その両者をつなぐことばや関わり方を見つけて関係性を捉え直していく行為は、これからの時代を生きていく上でとても大切なことだと感じます。
そしてそれは、今を生きるこどもとおとなだけでなく、様々な世代のこどもとおとなにも共通する問題です。
鳥羽さんが子ども関わることから見えてきた、親と子、おとなとこどもがどうこころとことばを通わせ合えるか。その実践の18年間の経験が本書には詰まっています。

あやか(福岡県・16歳・学生)
私は「おやときどきこども」を読んで、母親や教師などのどんなをレッテルを持つ人でも、もとはひとりの人間なんだと気づかされました。
私は、中学生のとき教師に対して多くの不満を抱いていました。
「教師」という職業に就いたからには、完璧にその仕事をこなしてほしい。
生徒のことをちゃんと考えてほしい。そんなことばかり思っていました。
しかし、この本を読み終えた今では教師を、「教師」というレッテルをはがしてみることでそのひとはそのひとなりの努力をしていたんだろうなぁと、受け入れることができました。
それと同時に自分のこころにゆとりができたような気分がしました。
この本はたぶん大人に向けて書かれた作品だろうと思います。
けれど、わたしみたいなまだ親のもとで暮らしているこどもが読むことで
親にたいする見方が少なからず変化すると思います。
私の母親は勉強に対して厳しい人です。高校の定期テストで順位を落とすと、部活を辞めさせると脅されたこともあります。
正直、母親のことは全く理解できませんでした。
「脅したことで成績があがるわけないじゃないか。」と、こころのなかでつぶやいていました。
でも親の気持ちを少し理解できた気がします。
私の母親もきっと私のことを考えこみすぎてこんな言葉をくちにしたんだと思います。
こんなふうに考えれる余裕ができたのは、この本を読んでからです。
鳥羽先生の生徒のひとりとして、これはいつも生徒全員と真摯に向きあって、一緒になって悩んでくれる鳥羽先生だからこそ書ける文章だなと
読んでいながらずっとおもっていました。
鳥羽先生らしい本だとすごく思います。
とても考えさせられる本でした。

吉田晃子、星山海琳(AI-am)
親にも、子どもにも、ひとつずつの孤独がある。「わかる」ではなく「わからない」を知る鳥羽さんの言葉は、こんなにもよく聴こえてくる。

学習塾という場所は、ときどき、数値ばかりが建物を覆っているかのように見えてしまう。けれどその場所で鳥羽さんは内側からの声を見せあい、孤独と孤独のままに交わり、人間の淋しさと切実さを受容する。安全靴を履かせようとはせずに、地面の感触をたしかめる一人ひとりの裸足を見ている。そして子どもたちは鳥羽さんを介して「私」を再発見し、発展させていく。それはまちがいなく、本質的な教育の空間だ。

大人は、長い年月をかけて「正しさ」の病に侵されてきた。親は、子どもが子ども自身の「私」と握っていた手を外し、「正しさ」へ押しこめていく。人間は割り切れないものなのに、偶数の存在であることを求めてしまう。けれど鳥羽さんのひたむきな言葉は、「私」を味わう時間を切り詰められてきた親と子のあいだに引かれた境界線を滲ませていく。わからなさ、割り切れなさへと近づく勇気を灯し、親が帰るべき「いま」を見せてくれる。

この本を読んでいるあいだ、わたしたちはひとりになる。そして、その喜びを湛えて大切なひとのそばへ行き、ひとつずつの孤独で呼応しあうのだ。

仁藤匠(19歳・男子学生)
まず本書の特徴は、巷に数多存在する子育てのハウツー本の一つだと思い読むと痛い目を見ることである。この特徴は前著『親子の手帖』にも共通しているが、本書の方がより顕著である。
本書は十五年に渡り、生徒やその親達との関わりを大切にし、対話を重ねた著者の経験を基に書かれている。その結果子供や親、ひいては親子関係までもが余りにも自然に綴られている。
自然かつありのままであるが故に、親が本書を読むと、自分がいかに子供のままの部分を残したまま親になってしまったのかを気付かされる。身につまされる思いになり、目を覆いたくなるかもしれない。しかしそれこそが本書が自然であることの証明である。
親自身の子供の部分を受容し、その上でどのように子供と関わっていくのか、そのヒントを得られるのがこの『おやときどきこども』の大きな役割の一つである。
本書のもう一つの役割は第三者の視点からの子供の姿を知れる点である。著者の視点を通し、親としての先入観がない状態、つまり子供を子供としてではなく、一人の人として見ることできる。
本書を通じ、親の立場からでは見えにくい子供の一面を認識すると、真に子供を理解することは出来ないという受け入れ難い結論に至るかもしれない。しかし、それもまた本書がありのままである故なのだ。
この結論が諦めから来る消極的なものではないことは、本書を読み進めれば納得できるだろう。
『おやときどきこども』は、親も子供であることを再認識すること。自分の子供を理解しなくてはいけないという強迫観念にメスを入れること。この二つを通じて、親の肩の力を抜かせ、結果として親子関係をより良い方向へと向かわせる手助けをしてくれる本である。

柴田 由香里(福岡おもちゃ箱)
「親子の手帖」を開く時もそうだったが、「おやときどきこども」をいざ手に取ると、少し緊張した。4人の子どもを育て経験豊かに見られがちだが、自分の子育てに自信などなく、どこか「巧妙に企てを織り交ぜている、ずるい親としての姿を見透かされて暗に責められるのでは」と思ったのだ。我が子二人が塾で鳥羽先生にお世話になり、三者面談等で先生の言葉を聞く機会のあるわたしにとって、「親子の手帖」を読んだときに、「親に配慮して、少しお手柔らかに書いたかな?」と勝手に思った(笑)。だからこそなお、今回は更なる覚悟のようなものを抱えて頁を開いた。
まるで、子どもたちからの声を聞かされているようで、少し笑って少し胸が苦しくなった。子どもたちは苦しさをあらわにしない。苦しさの原因すら本人たちが理解していない場合もある。それを親たちは(余裕のない日々の生活の中で)感じ取れるのだろうか?
今、この瞬間も、この言葉にならない苦しさを感じている子がいるのだ。それは我が子かもしれない。
言葉を持たない赤ちゃんに、「おなかが空いたかな?」「眠いのかな?」「どこか痛いのかな?」と、想像することからでしか始められない子育ての中で、自分の想像が当たっていた、という出来事を積み重ね、我が子のことはわたしならわかる、という思い違いになる。
わたしは一所懸命、良い子育てをしようとしてきた。未熟な自分とわかっていても、その時考え得ることを精一杯考えて、その都度出来ることをやってきた。でも、我が子が「良い子」に育って「社会的に通用する思いやりのあるおとな」になるわけじゃない。そもそもそんな教育目標みたいなもの、子育てに設定は出来ないのに、どこか薄っすら掲げてしまう。だからこの本に出てくる親の姿は決して他人事とは思えない。
子どもが大きくなればなるほど、「この子って、こんな子だった!?」と幼い彼らからはその様子を捉えられなかった我が子の言葉や行動に勝手に驚き、心の中で苦笑いしている。「あの子が小さい時、わたしが良かれと思って働きかけたことは、なんかずれてたかもしれないな」と。
それは切ないけれど、子どもがわからなくなる、ということは、わたしと違う個としての成長をしているからだ、と思えば、少しは悩みから喜びにもなるだろう。ならば、喜んで距離をとろう、と決意しつつも、心は離そうにも離しきることは出来ない。そんな厄介な関係だけど、その関係性すら実は常に変化している。(と、日々肝に銘じている)
どうせわからないのだから、と開き直るわけにもいかないし、独りよがりに悩み続けるわけにもいかない。だとしたら、子どもだけを見るのではなく、悩みうろたえながらも、わたし自身を同時に見ながら生きるしかない。
育った家庭の中で知らず知らず形作られたであろうわたしや、妻や女性や親や社会人という役割を生きているわたしと、誰かに対しての期待に応えたいと思いつつも、わがままにも生きてみたいと葛藤して生きているわたし…など、いろんなわたしを見つめるしかない。
今までの子育て中の自分の姿が心の中で勝手に浮かび上がってくる、そんな本だった。
そして、子どもがおとなになっても、ふと頁を繰ってしまう、そんな本になるのだろう。

士野彩子(友人)
私もかつては確かに子どもだった。
大人になるにつれて子どもだった頃のことを忘れてしまった。覚えているのに思い出さなくなったこともある。
大人としてできるだけ『正しく』生きるために。

前作の『親子の手帖』よりぐっと子どもに寄った視点で書かれた今作は、子どもに寄った分だけ私が感じた苦しさも増した。
「どうして私、こんなふうになっちゃったかなぁ…」とページをめくる度に考えた。
「子どもの頃どう思ってたっけ?」「あのときお父さんお母さん、何て言ってたっけ?」と30年前に思いを馳せた。

文中で子どもたちの状態を表すのに「そうなっている」という言葉が何度かでてくる。「そうなっている」子どもをありのまま受け入れることの難しさに、心がざわざわする。毎日「そうなっている」子どもと「大人として正しくありたい」私のせめぎあい。「大人として正しい」なんて、無いこと知ってる(はずな)のに、いつの間にか『大人』になってしまったんだと再認識しながら、読んでいる最中は本当に苦しかった。

大人って切なくて悲しくて可笑しい。みんな子どもだったのに、すっかり忘れちゃってて。

著者は、曖昧なまま存在する子どもの媒介なくして大人が正直になることはできないと言う。
正直になると様々な葛藤が起こる。
今作を読んで、以前友人に悩みを打ち明けたとき「葛藤を葛藤として持ちながら生きる生き方があってもいいと思うよ」と言われたことを思い出した。
慌ただしく過ぎる日常は、友人からのこんな大切な言葉さえも忘れさせてしまう。

鋭くも優しいまなざしで大人と子どもを見ている。
そして多くの引用を紹介しながら、少しでも肩の荷をおろして生きていくためのヒントを与えている。
読後に何とも言えない苦しさと切なさを感じながらも、それでもなお、前を向いて歩みを進めてみようと思う私の背中を、著者の言葉がそっと押してくれていると思う。

寺嶋悠(ライター・一児の親)
3歳の娘が、本書に登場する子どもたちの年代になるのはもう少し先のこと。一人の親として遠くない未来を想像しながら、そして、自分が子どもだった頃を思い出しながら、ページをめくった。
子どもとは、こんなにも純粋で複雑で、痛々しいほどはかなく脆いものなのか。読み進めるうちに、そもそも子育てに正解などなく、自分の子どものことを「分かる」と思うのは幻想だという、それまでぼんやりと感じていた予感が、確固たる現実として突き付けられた。なるべく上手に子育てしたいと思ってきたが、無いものねだりだったわけだ。
本書には、子ども、親とのさまざまなエピソードが登場する。自分勝手で残酷にも見えるさまざまな親たちの言動の中に、私にもそんな一面があるかもしれないと、自身の欠片を見る。わが子のためにと願い、どれほど「理解ある親」となるよう心掛けても、子どもに逆に作用し、知らずに子どもの主体性を奪い、未来を制限することすらある。親だからわが子のことは一番よく分かるなんて前提も、最初から誤っていたのだ。
次々と先入観が崩れ、茫漠とした海に一人ぽつんと投げ出されるような、心もとない気持ちになった。ほの暗い海をゆらゆら漂う私を、著者の言葉は、灯台のように導く。強く煌々と光る明かりではない。おぼろげに見え隠れするその明かりは、正解がないからこそ、私たち大人はその時その時で目の前の子どもと向き合い、心を通わせるしかないと語りかける。
学校でも家庭でもない、塾という第三の居場所で日々繰り広げられる、鳥羽先生と子ども、親との対話。親の期待、それに応えようとする子ども、歪みやもつれ、親の呪い、子どもの嘘、親や子が抱える危うさや脆さ。子どもと親に対する著者のまなざしは、どこまでも柔らかくあたたかく、時に現実的で厳しい。情熱と希望を見失わずに、著者が子どもや親に向き合う姿や、教師として、一人の人間としての迷いや葛藤、喜びが等身大で語られる。著者の人柄や生い立ちもうかがえて、読後には、良き友に出会えたような清々しさが残る。途中、社会学や哲学者の著書、小説、音楽や映画などからさまざまな一節が引用され、読みながら自然にこちらの思索を深めてくれる。より深く知りたい方への、読書や音楽、映画案内としても興味深い。
本書には、育児書にありがちな、非の打ちどころのない「理想」の親の姿は見当たらない。リアルな現代の子どもと親の姿、彼らと対話する著者のまなざしは、私の心にほんの少しの余裕を与えてくれる。多少の心づもりがあれば、苦しみや悩みも含め、これから子どもと向き合う長い時間を、楽しみとして受け止められるかもしれない。
本書は、さまざまな立場の方に勧めたい。同年代の子どもを持つ親は、子との関係が膠着し、どうすべきか自分自身すら持て余した際に、あるいは、正しいと信じてきた日々でふと立ち止まって後ろを振り返る際に、自分を理解するための手がかりを得るだろう。これから親となる人、幼い子を持つ親には、「分からない」ことを分かった上で将来どう子どもと向き合い得るかを考えるためのヒントが見つかるだろう。教育に携わる人は、子どもや親、教育現場について、新たな角度から捉え直すヒントを見つけるだろう。
かつて子どもだったすべての大人が、本書のページのどこかに、親とは何か、子どもとは何かを考え、子どもだった頃の自分を思い出すきっかけを見つけるはずだ。
親になることが不安な人、親となった後も不安を抱きながら子どもと向き合う人は多い。そのうち不安を抱えていたことすら忘れ、わが子という存在への深い愛情が、逆説的に子どもと自分を縛り、身動きできなくなることもあるかもしれない。本書によって、そんな多くの親と子の今日が、昨日より少しだけ楽なものになることを願う。

岩切もも(ブックハウスカフェ)
わたしはこの本を2回読んだ。
1回目は「呪いの言葉」についてばかりが目について、正直少し辛い気持ちでこの本を読んだ。

「女の子なのに恐竜が好きなんだ。珍しいね。」
少し前、ある人が発したこの言葉がずっと引っかかっていた。意識しなかったら聞き流していた言葉かもしれない。
でもわたしはその言葉がずっと忘れられず、しばらく経って「あれは呪いだったのかも」と思うようになった。

「お姉ちゃんなんだから」
「男の子でしょ」
「みんなと仲良くしよう」

呪いの言葉は、目立たないけれど、あふれている。
その多さに気が付いた時、自分が言われてきた言葉よりも、自分が発してきた言葉はどうだっただろうと急に不安になった。
『おやときどきこども』を読み始めた頃のわたしの心の隅っこには、こんな不安がいつもいた。
だから、この本に書いてあるどこかの親が子どもに言った呪いの言葉が、自分の言葉のように感じられて、焦ったり、反省したり、後悔のような気持ちにもなった。
自分はどれだけ多くの人に呪いをかけてきたんだろうと想像すると、言葉を発するのが怖くなった。

重い気持ちを抱えたままにどうにか読み終え、わたしは別の本を読み始めた。でもすぐにその本を途中でやめ、もう一度『おやときどきこども』を手に取った。この本の、何かを見逃しているような気がしてならなかった。

すると、はじめに読んだ時には目に止まらなかった「対話」という言葉が目に入ってきた。
鳥羽さんは「対話」が大切だと何度も書いていた。
「何でもないおしゃべりを通して自分の心と相手の心の中身をじっくり確かめ合うことからしか、解決の糸口はつかめません。」
「解決にこだわらずに、ただ心を通わせる対話ができれば、それで十分です。」
こんな言葉が、どんどん目に止まった。

その中でも、2回目の読書で1番のお気に入りになったのは、「孤独という避難所」の章。
そこに書かれた祈りにも似た「これでいいのだ」という言葉。
自分を否定しそうになった時、そっと呟こう。
自分を否定している人に出会った時、そっと呟こう。
そんな風に決めたら、気持ちが軽くなっていた。

もし、また呪いの言葉について不安になる時があれば、何度でもこの本を読もう。
ここに書かれたさまざまな子どもたちの言葉が、自分の正直な気持ちを取り戻してくれる。
わたしにとってこの本は、呪いを解いてくれる薬のような一冊です。

【試し読みをどうぞ】「はじめに」から冒頭を少し。


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