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/tachiha/ - たちは板κ

リレー小説用
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e62303d5 No.1774

ea4e125a No.2225

S県S市。海に面した街で今、壮大な実験が行われていた。その名も「ダサダサだけど新日本、少子高齢化改善計画」である。何故少子高齢化が進むのかといえば、年金は毎年のように減らされ、消費税は毎年のように上がり、なのに実質賃金は上がらないからだ。だったらそれらを全部辞めてしまえば、と言う実験だ。さらにはLGBTQの人にも配慮して、ゲイの人たちやレズビアンの人たちも普通に結婚出来るようになっている。
但し、ジェンダーとか言う連中はダメだ。女装するだけならそれは本人の自由だが、女として認めろって言うのは違う。TSしてなりたくもないのに女の子になってしま人たちや生まれてから今までずうっと女性だった人たちに失礼だ。

c2709cbf No.2477

潮騒の音が心地よいS県S市。
だが、この街の市役所裏にある「再開発センター」の地下で行われているのは、都市計画などという生易しいものではなかった。

まずこの経済スキームを改善するためには、少子高齢化社会を打破する必要がある。
そのためにいろんな改善案がだされ、施行されてきたが改善することはなかった。
そのため、政府は単純明快な結論をだした。
『出産する人を作ればいい』
これができないから困っていた。
しかし、科学技術の進歩によってそれができるようになっていても、『倫理観』によってできてこなかた。
そのため、極秘裏にその計画がすすむことになった。
それが、「ダサダサだけど新日本、少子高齢化改善計画」である

c2709cbf No.2478

この計画では、単に姿を変えるだけでなく、社会に「需要のある存在」として再統合することが重視された。
1. 究極のアンチエイジング(TS処置)
・S市の潤沢な予算が投じられるのは、最新のバイオ技術の実験台になることでそのデータを売ることで得ることになる利益。
・若返りと女性化。高齢男性の細胞を活性化させ、単なる女装ではなく、肌の質感や骨格の柔らかさまで「20代〜30代の女性」として再構成させる。
・不十分さの解消。「見た目が不十分」と自認していた男性たちも、科学の力で「誰もが振り返るような美女」へとアップデートされる。

c2709cbf No.2479

2. 「女性」としての再教育(徹底したソフト面)
「中身がオヤジのまま」ではお見合いに失敗するため、数ヶ月の合宿形式で教育が行われます。
・所作とマナー。歩き方、座り方、言葉遣い。長年染み付いた「男性的なガサツさ」を徹底的に削ぎ落とす。
・メンタル・デトックス: 「守られる側の心地よさ」や、パートナーを支える喜びをインストール。かつての「頑固なプライド」を、しなやかな「女性としての自尊心」へと変換します。

c2709cbf No.2480

3. 戦略的マッチング(お見合い)
ここでようやく、働き盛りで経済力のある(しかし独身の)男性たちとの対面です。
・お互いのメリット。 男性側は「若くて美しく、教養のある妻」を得られ、TS側は「経済的不安のない新しい人生」を手に入れます。
・過去の抹消。S市はこのマッチングにおいて、TS側の前身が何であったかの守秘義務を徹底して、戸籍から作り直すようにしている。

c2709cbf No.2481

62歳 佐藤氏のケース

「……信じられん。これが、鏡の中の俺か?」

鏡の前に立つ「彼女」は、震える手で自分の頬に触れた。
透き通るような白い肌、緩やかに弧を描く鎖骨、そして春の陽だまりのような柔らかな髪。数ヶ月前まで、脂ぎった肌と薄くなった頭髪、そして「定年後の孤独」という重圧に押しつぶされそうになっていた62歳の元中間管理職、佐藤の面影はどこにもない。
「佐藤さん、いえ、今日からは『沙織』さんですね」
白衣を着た相談員が、事務的な、しかしどこか温かみのある声で告げる。
「S市の『ダサダサだけど新日本』計画に基づき、あなたの肉体は20代後半の女性へと再構成されました。細胞レベルでの若返りと、徹底したホルモン調整。今のあなたは、この街のどの女性よりも『完璧』です」
ここは、少子高齢化という沈みゆく泥舟から脱出するための最終避難所。
余剰となった高齢男性や、社会に居場所を失った「不十分な」男性たちを、最新のTS(性転換)技術で「需要の高い女性」へとコンバートする。
それがこの街の導き出した、あまりにも合理的で、あまりにも狂った答えだった。

c2709cbf No.2482

沙織となった元・佐藤を待っていたのは、地獄のような「女性教育」だった。
かつての「オヤジ臭い」所作は一切禁止。がに股での歩行、酒の席での下品な笑い、無遠慮な視線。それらすべてを矯正し、代わりに優雅な立ち居振る舞い、相手を立てる相槌、そして「守ってあげたい」と思わせる可憐な微笑みを徹底的に叩き込まれる。
「いいですか、沙織さん。ジェンダー論なんていうまどろっこしいものは、この街にはありません。あなたは『女性』として愛され、家庭を築き、次世代を支える。それがこの街の、そしてあなたの生きる道です」
半年後。沙織は完璧な「淑女」へと仕上がった。
かつての自分が持っていた「男としてのプライド」は、鏡に映る自分の美しさと、周囲から注がれる羨望の眼差しによって、心地よい「女としての自愛」へと書き換えられていた。

c2709cbf No.2483

そして、運命の日。
S市営の高級料亭で、沙織は一人の男性と対面した。
相手は30代後半、IT関連の仕事に従事する清潔感のある男性。彼は沙織の姿を見るなり、ポッと頬を染めて視線を彷徨わせた。
「はじめまして。高橋です。あ、あの、写真で拝見した以上に、その、お綺麗で……」
沙織はその瞬間、かつての自分には決して手の届かなかった「圧倒的な優位性」を感じた。
かつての佐藤であれば、若者に蔑まれ、社会の片隅で消えていくだけだった。
しかし今の沙織は、この若い男を手のひらで転がし、愛され、贅沢な暮らしを約束されている。
「はじめまして、高橋さん。沙織です。……そんなに見つめられると、困ってしまいますわ」
沙織は教育された通り、少しだけ小首を傾げ、上目遣いで微笑んだ。
その仕草に、高橋は完全に射抜かれたようだった。

c2709cbf No.2484

夕暮れの防波堤。
お見合いの帰り道、二人は海沿いの防波堤を歩いた。
沈みゆく夕日が、S市の海を黄金色に染め上げる。
「僕、ずっと一人だったんです。仕事ばかりで、女性とどう接していいか分からなくて。でも、沙織さんとなら……温かい家庭が築ける気がします」
高橋の純粋な言葉に、沙織の胸に微かな痛みが走る。
自分がかつて「男」であったこと。
この美貌が、市の予算による「実験」の結果であること。それを彼は知らない。
だが、沙織はすぐにその思いを振り払った。
この街では、過去は意味を持たない。年金も、増税も、古い性別の縛りも、すべて捨て去ったのだ。
「ええ、私も。……あなたのような方を、ずっと待っていた気がします」
沙織はそっと高橋の腕に手を添えた。

遠くで、S市の広報放送が流れる。
「ダサダサだけど新日本、計画は順調です。市民の皆様、今日も幸せな家庭を――」
海風に吹かれながら、元・佐藤こと沙織は、新しい人生の香りを深く吸い込んだ。

c2709cbf No.2489

ブサイクからのリンカネーション

S市再開発センターの最深部。そこは「ダサダサだけど新日本」計画の心臓部だった。
手術台から身を起こした男――かつて「ドブネズミ」と陰口を叩かれ、万年非正規雇用で女性の目すらまともに見られなかった田中(34歳)は、あまりの体の軽さに眩暈を覚えた。
「……これが、私?」
鏡の中にいたのは、田中ではない。
抜けるような白磁の肌。
濡れたように艶めく黒髪。そして、形の良い桃色の唇。
かつての醜悪な脂ぎった肌や、締まりのない体躯は微塵も残っていない。
そこには、見る者の理性を狂わせるほどに完成された「一ノ瀬 凛」という名の、一輪の蘭のような美女が立っていた。

c2709cbf No.2490

再開発センターの特別個室。
術後の麻酔から完全に覚めた時、そこには「静寂」ではなく、自分の内側から湧き上がる「熱」があった。
凛(かつての田中)は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な天井ではなく、枕元に置かれた一輪の深紅のバラと、見たこともないほど白く細い自分の「腕」だった。
「……あ」
声を出そうとして、自分の喉から漏れた音に心臓が跳ねた。
カサついた野太い声ではない。
湿り気を帯びた、吐息のようなソプラノ。
凛は恐る恐る、その細い指先を自分の顔へと這わせた。
指の腹が触れる肌は、まるで上質なシルクか、あるいは作りたての陶器のように滑らかで、吸い付くような弾力がある。
かつての自分を苦しめていた凸凹とした肌荒れや、硬い髭の剃り跡は、跡形もなく消え去っていた。
「これが……俺なのか?」
ふらつく足取りで全身鏡の前へ立つ。
薄いガウンが肩から滑り落ちそうになるのを、無意識に手で押さえた。
その仕草ひとつに、自分でも驚くほどの「女」が宿っているように感じる。

c2709cbf No.2491

鏡の中にいたのは、誰もが息を呑むような絶世の美女――一ノ瀬 凛だった。
濡れたような漆黒の瞳。
少し伏せ目がちにするだけで、見る者を誘惑するような深い陰影が生まれる。
唇はぷっくりと厚みがあり、何も塗っていないのに微かな熱を帯びた桃色。
豊かな膨らみを描く胸と、対照的に驚くほどくびれた腰つき。
そして、すらりと伸びた白磁のような脚。
「……信じられない」
凛は自分の胸にそっと手を当てた。
手のひらを通じて伝わってくるのは、ドクドクと力強く脈打つ鼓動。
そして、その指先が柔らかな膨らみに沈み込む感覚。
かつては「醜い自分」を隠すために丸めていた背筋が、今は自然と伸び、誇らしげにその美貌を主張している。

c2709cbf No.2492

部屋の温度は適温のはずなのに、凛の体は内側から火照っていた。
ホルモンバランスの劇的な変化のせいか、皮膚の感覚が数倍にも鋭敏になっている。
ふいに窓から吹き込んだ夜風が、薄いガウンの隙間から入り込み、凛の柔らかな肌を撫でた。
「んっ……」
ただの風のはずなのに、触れられた場所が粟立ち、背筋をゾクゾクとした快感が駆け抜ける。
凛はたまらず、自分の肩を抱きしめた。
自分の指先が、自分の二の腕をなぞる。そのセルフタッチですら、今の凛にとっては官能的な刺激となって脳を痺れさせた。
「本当に……女になったんだ」

c2709cbf No.2493

翌朝。
凛はセンターから支給された、ゆったりとな紺のワンピースに身を包んだ。
ヒールがないサンダルを履き、センターの出口へと向かう。
自動ドアが開いた瞬間、街の空気が凛を包んだ。
すれ違う男性たちが、一様に動きを止め、言葉を失って凛を凝視する。
かつては「石ころ」のように無視されるか、不快そうに目を逸らされていた自分が、今は街中の視線を独占している。
凛は、少しだけ唇の端を上げた。
「ダサダサだけど新日本」計画。
この狂った実験の作品として、一ノ瀬 凛は今、新しい人生のステージへと踏み出したのだ

c2709cbf No.2494

S市再開発センターの特別講習室。
そこは、かつての「無価値な男たち」を、蝶のように優雅な「一ノ瀬 凛」へと作り変えるための最終仕上げの場。

計画の理念は「徹底した実利」。
内面のジェンダー論など二の次で、いかに男性から見て「守りたい」「完璧だ」と思わせる外見と所作を身につけるかに特化しています。

最初の講習は「視線」でした。元・田中の頃は、自信のなさから地面ばかり見ていたか、あるいは無遠慮に相手を凝視するかのどちらかでした。
「凛さん、顎を引いて。視線は相手の喉元から、ゆっくりと瞳へ上げるの」
専属の女性講師が、凛の顎を指先でクイと持ち上げます。
鏡の中の凛は、長い睫毛の隙間から、潤んだ瞳で自分を見つめていました。
その破壊力に、凛自身がドギマギしてしまいます。

c2709cbf No.2495

次に叩き込まれたのは、食事の際の所作です。
大きな手、節くれだった指という過去を忘れさせるため、徹底した「指先の脱力」を求められました。
「指を揃えて、小指をわずかに浮かせる。物は『掴む』のではなく、『添える』のです」
冷えたシャンパングラスを渡されます。
凛の白く細い指がクリスタルに触れると、それだけで一枚の絵画のような官能的な美しさが生まれました。
かつて缶ビールを煽っていた頃のガサツさは微塵もありません。

次は座り方と歩行などの所作。
最も苦労したのは、脚の扱いです。
男性特有の「がに股」の癖を矯正するため、凛の膝の間には常に一枚の薄い紙が挟まれました。
「膝と踵を離さない。椅子に座る時は、斜めに流して。それが、あなたの肢体を最も美しく見せるラインよ」
女性講師が凛の太ももを優しく叩き、位置を微調整します。
タイトなスカートの中で、自分の両腿が密着し、熱を帯びる感覚。
「あ……」
思わず吐息が漏れます。
膝を閉じるという行為が、これほどまでに内側に熱を溜め込み、自分を「女」として意識させるものだとは知りませんでした。
逆に凛にとっては甘美な「矯正」として快感に変わっていきました。

c2709cbf No.2496

講習の最後、講師は凛の耳の後ろと手首に、一滴の香水を落としました。
甘く、それでいて官能的なムスクの香り。
「凛、覚えておいて。あなたの最大の武器は、その『隙』よ。完璧な所作の中に、ふとした瞬間に見せる、かつての自分を忘れたような純粋な戸惑い……それが男を狂わせるの」

凛は自分の手首を鼻に寄せ、深く息を吸い込みました。
自分の体から漂う、魅惑的な「女の匂い」。
鏡に映る凛は、頬を上気させ、潤んだ瞳で自分を抱きしめていました。

c2709cbf No.2497

S市の午後の陽光は、新しく生まれ変わった一ノ瀬 凛の肌を、透き通るような真珠色に染め上げていました。
再開発センターの重厚な扉を抜け、凛は初めて「一ノ瀬 凛」として、S市のメインストリートへと踏み出しました。

足元には、細いストラップが食い込む黒のピンヒール。
教育プログラムで何度も練習したはずなのに、アスファルトの上を歩く感覚は、まるで薄氷を踏むような危うさでした。
(……っ。こんなに、世界が高く見えるなんて)
一歩踏み出すたびに、細いヒールが地面を叩き、「コツ、コツ」と乾いた、しかし主張の強い音を響かせます。
膝を閉じ、背筋を伸ばし、腰をわずかに振る。
習った通りの歩き方を意識するたびに、タイトなスリットスカートの中で自分の太もも同士が擦れ、言いようのない熱が肌を伝っていきました。
街ゆく人々の反応は、かつての「田中」の頃とは劇的に違っていました。
トラックの運転手がハンドルを握る手を止め、下校中の大学生が言葉を失って振り返る。
凛が通り過ぎるたびに、物理的な「視線の渦」が背中に突き刺さるのがわかります。
(見られてる……みんな、私を見てる)
かつては恐怖でしかなかった他人の視線が、今は甘美な「承認」となって凛の全身を痺れさせました。
凛はわざと、ショーウィンドウの鏡に映る自分の姿を確認しました。
風に揺れる黒髪、潤んだ瞳、そしてヒールによって強調された、すらりと伸びたカモシカのような脚。
「完璧だわ……」
自分の声に酔いしれ、凛がふっと吐息を漏らした、その時でした。

c2709cbf No.2498

「ねえ、お姉さん。一人? ちょっと綺麗すぎない?」
背後からかけられた低い声に、凛の肩がビクンと跳ねました。
振り返ると、そこにはいかにも遊び慣れた風の、ガタイの良い男が二人。
一人はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、凛の胸元を遠慮なく舐めるように見ています。
「え……あ、あの……」
凛の喉が震えました。
教育で習った「凛とした拒絶」をしようにも、男の力強い視線に射抜かれると、脳の奥がキュンと疼いて言葉がまとまりません。
「そんなに震えて、可愛いなあ。どこ行くの? 俺たちの車で送ってやろうか」
一人の男が、凛の細い二の腕を、大きな手でガシッと掴みました。
男性の節くれだった指の感触が、凛の柔らかい肌に沈み込みます。
かつての「男」としての記憶が、今の「女」としての過敏な触覚に上書きされ、凛の足元から力が抜けそうになりました。
「……や、やめてください。私……」
凛が上目遣いで、困惑の色を浮かべて男を見上げると、男たちの目の色が変わりました。
拒絶しているはずなのに、その仕草はあまりにも無防備で、男の征服欲を煽る「最高級の餌」に見えたからです。

「いいじゃん、ちょっとお茶するだけだって」
男の顔が近づき、強い香水の匂いが鼻腔を突きます。
凛は、自分のヒールが震えているのを感じました。

c2709cbf No.2499

するとすぐに別な男の声がすぐ近くからした。
「ちょっと、そこまでですよ。彼女が困っているのが見えませんか?」
凛の二の腕を掴んでいた男たちの背後から、低く、冷徹なまでに落ち着いた声が響く。
現れたのは、紺色の端正な制服に身を包んだ「S市特別巡回員」だった。
彼は「ダサダサだけど新日本」計画において、TS処置を受けた女性たちが街に馴染めるよう監視し、同時に外敵から保護するエスコートのスペシャリストでした。
「あ? なんだお前。警察か?」
男たちが威嚇するようにS市特別巡回員を睨みますが、彼は眉ひとつ動かさない。
S市特別巡回員は懐からシルバーのライセンスカードを提示すると、有無を言わさぬ威圧感を放ちました。
「私はS市再開発センターの執行官です。この女性は市の重要管理対象にあります。これ以上の無作法は、市の条例に基づき『公共の福祉を乱す行為』と見なしますが?」
「執行官」という単語に、男たちは顔を引きつらせました。
この街でその肩書きに逆らうことが何を意味するか、市民なら誰でも知っています。彼らは「ちっ、シケてんな」と捨て台詞を吐き、足早に去っていきました。

「……大丈夫ですか、凛さん」
S市特別巡回員は、凛の震える肩にそっと手を添えました。
その手つきは、先ほどの男たちの粗野なものとは対照的に、壊れ物を扱うように繊細で、それでいて確かな安心感を与えるものでした。
「あ……はい。ありがとうございます……」
凛は安堵のあまり、ガクガクと震える膝を支えきれず、S市特別巡回員の胸元に崩れ落ちそうになりました。
7センチのヒールで張り詰めていた緊張が、一気に解けたのです。
「慣れない靴で、少し歩きすぎたようですね。さあ、こちらへ」
S市特別巡回員は凛の腰を優雅に引き寄せると、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと歩き出しました。
彼の腕に添えられた凛の指先は、制服越しに伝わる男性の硬い筋肉の感触に、またしても微かな熱を帯びていきます。
「凛さん、先ほどの彼らへの対応ですが。恐怖を浮かべるだけでなく、視線を少し逸らして顎を引く。そうすれば、我々パトロール員がより早く異変に気づけます。……もっとも、今のあなたの危うい美しさが、彼らを刺激してしまったのは否定できませんがね」
S市特別巡回員は歩きながら、耳元でそっと囁きました。
その言葉は指導のようでありながら、どこか甘い賛辞のように凛の鼓膜を震わせます。
「私の……美しさが?」
凛は上目遣いでS市特別巡回員を見上げました。
夕暮れ時のS市。ハイヒールの「コツ、コツ」という音と、東郷の規則正しい足音が重なります。
守られているという安心感と、男性にエスコートされる高揚感。
凛は、自分がもはや「ただの元男性」ではなく、守られるべき価値のある「高貴な女性」として、この街に受け入れられていることを深く実感していました。

bb60cf16 No.2501

佐藤は、目の前に座る一ノ瀬 凛という女性から目が離せなかった。
30代後半になり、仕事一辺倒で積み上げてきた経済力。
それに見合う「若くて教養のある妻」を求めて、これまで数多の婚活パーティーや紹介をこなしてきたが、これほどまでに『しっくりくる』存在は初めてだった。
(……信じられない。この落ち着き、そしてこの透明感は何だ?)
佐藤の心臓は、まるで初心な学生のように高鳴っていた。
凛がティーカップを持ち上げる、その白く細い指先の動き一つに、無駄がまったくない。
安っぽい若さとは違う、どこか酸いも甘いも噛み分けたような「包容力」を感じさせる佇まい。
(最近の若い女性は、どこか自分を誇示しようと必死なところがある。だが、彼女は違う。まるで、俺が何を求めているのかを、すべて最初から知っているみたいだ)

凛がふと、伏せていた睫毛を上げて佐藤を見つめた。
その瞳には、深い慈愛の色が混じっている。
「佐藤さんは、お仕事がお忙しいと伺っています。……外で戦う方は、家では静かに羽根を休めたいものですよね。私は、そんな場所を作れる人になりたいんです」
その言葉が、佐藤の乾いた心に深く突き刺さった。
(……これだ。俺がずっと、誰かに言って欲しかった言葉だ)
一瞬、佐藤の脳裏をかすかな違和感がよぎる。
これほど完璧な女性が、なぜ今まで独身だったのか? なぜS市の「再開発センター」という、少し特殊な窓口から紹介されたのか?
だが、その疑念は、凛の『女性としての自尊心』に満ちた柔らかな微笑みによって瞬時に霧散した。
(いや、そんなことはどうでもいい。この美しさと、この気遣い。戸籍も素性も、市役所が保証しているんだ。何より、この俺をこれほどまでに『男』として立ててくれる女性を、放したくない)
佐藤は、凛の細い手首に目をやった。
そこには、かつて男だった痕跡など微塵もない。
バイオ技術によって再構成された、吸い付くようなキメの細かい肌。
(この人を守りたい。そして、この人を俺のものにしたい)
佐藤の心の中で、独身男性特有の「孤独への恐怖」が、彼女を手に入れることへの「執着」へと書き換えられていった。
彼は知らない。
目の前の凛が、『年非正規雇用で女性の目すらまともに見られなかった田中という中年男性』であったことなど。
「凛さん、もし……。もし差し支えなければ、この後、少し海沿いを歩きませんか? あなたをもっと知りたいんです」
佐藤の声は、わずかに震えていた。
それは、獲物を手に入れた確信と、それ以上に『自分を救ってくれる女神』に出会えたという、盲目的な歓喜からくる震えだった。

bb60cf16 No.2502

潮風に吹かれながら、佐藤は確信していた。
この女性を今夜、自分のものにしなければならない。
単なる独占欲ではない。
彼女という存在を、自分の人生の欠けたピースとして完全に嵌め込みたいという切実な飢えだった。
「凛さん……。少し、冷えてきましたね。あそこに見えるホテルのラウンジで、温かいものでも飲み直しませんか?」
佐藤が指さしたのは、湾岸沿いにそびえ立つ、市内最高級のグランドホテルだった。凛は一瞬、ためらうような仕草を見せ、伏せ目がちに微笑んだ。
「佐藤さんが……そうおっしゃるなら。私は、どこへでもついて参ります」
その慎ましやかな全肯定が、佐藤の理性を焼き切った。



ホテルの部屋の柔らかな照明の下、佐藤の手によって凛のシックな濃紺のワンピースのファスナーがゆっくりと下ろされた。
滑り落ちた上質な生地の下から現れたのは、佐藤の想像を絶するほどに「完成された」女性の姿だった。
佐藤は思わず息を呑んだ。
清楚なワンピースの下に隠されていたのは、雪のように眩い純白のレースの下着。
そして、その繊細な刺繍を縁取るように、細いストラップが伸びるガーターベルト。
凛のすらりと伸びた太ももには、薄いベージュのストッキングが吸い付くように纏い、その履き口のレースが柔らかい肉をわずかに食い込ませている。
(……なんて、扇情的なんだ。この慎ましやかな彼女が、これほどまでに僕を誘っているのか)
佐藤の視線は、その食い込んだストッキングの境界線に釘付けになった。
それは、清純さと妖艶さが同居する、計算され尽くした「理想」の体現だった。

凛――かつて田中だったその意識――は、佐藤の熱を帯びた視線に、内側から焼けつくような感覚を覚えていた。
(見られている。俺の体が……)
かつて、安いトランクス一丁で万年床に転がっていた田中にとって、ガーターベルトやストッキングという装具は、異世界の住人のものだった。
しかし今、自分の足にはその官能的な締め付けがあり、佐藤の指がその履き口のレースに、震えながら触れている。
再開発センターでの「フィッティング」の時間を思い出す。
『男性は、ギャップに弱いのです。表向きは淑やかに、内側にはこの純白を。それが男の独占欲を最も刺激します』
教官の冷徹なアドバイス。
だが、佐藤の指がストッキングの薄い生地越しに肌をなぞった瞬間、そんな冷めた計算は吹き飛んだ。
(熱い……。この人の手は、こんなに熱いのか)
「凛さん、君は……本当に、僕を狂わせるつもりだね」
佐藤の声は低く掠れていた。
彼の手がガーターの金具を外し、ストッキングをゆっくりと、愛おしむように引き下ろしていく。
凛は、自分の足が露わになるたびに、かつての「男」としての自己が剥ぎ取られていくような錯覚に陥った。
佐藤の愛撫によって、忌まわしい過去の自分という「汚れ」が、純白のレースと滑らかな肌によって浄化されていく儀式なのだ。
佐藤が凛をベッドへ押し倒した時、凛は自ら脚を割り、彼を受け入れる姿勢をとった。
食い込んだストッキングの跡が、彼女の白い肌に淡い赤みを残している。
その「生」の証に、佐藤は狂おしく唇を寄せた。
(いいんだ。俺が誰だったかなんて、もう関係ない)
凛は、佐藤の背中に爪を立て、深く、深く彼を抱き寄せた。
純白の下着がシーツに散らばり、二人の肉体が重なり合う。
かつて孤独に震えていた「田中」は、今、誰よりも美しい「女」として、佐藤の情熱に溺れていった。

4df9be75 No.2587

一度目の交わりは、荒々しいまでの征服と、それを受け入れる純潔な儀式だった。
佐藤の猛る衝動をその身に刻みつけられた凛は、嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、乱れた呼吸を整えながら彼を見つめた。
シーツに散らばる純白のレース、外されたガーターベルト、そして肌に残ったストッキングの食い込み跡。
それらすべてが、自分が「佐藤の女」として上書きされた証拠のように思えて、凛の胸に得も言われぬ充足感が満ちていく。

しかし、佐藤の瞳にはまだ、消えやらぬ渇きがあった。凛はそれを敏感に感じ取った。
かつての「田中」という男の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
男が何を求め、何に跪くのか。それを知っているのは、今の凛にとって最強の武器だった。
凛は、佐藤の逞しい胸板にそっと手を置き、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「佐藤さん……まだ、お返しができていません」
彼女はしなやかな動作で身を起こすと、跪くようにして彼の脚の間に潜り込んだ。
佐藤が驚きに息を呑む。
凛は、乱れた黒髪を耳にかけ、慎ましやかな微笑みを湛えたまま、彼の中の「雄」の象徴をその唇で迎え入れた。
「ん……っ、凛さん……?」
「静かに……。綺麗にさせてくださいね」
かつては自分も持っていたはずの器官。
しかし今、凛にとってそれは、愛でるべき、そして奉仕すべき「異物」だった。
丁寧な舌使いで、先ほど自分を貫いた熱を丹念に掃除していく。
再開発センターで叩き込まれた「女性としての作法」と、田中としての「男の弱点」への理解。
その二つが混ざり合い、佐藤を未体験の陶酔へと引きずり込んでいく。

佐藤の指が、凛の柔らかな髪を強く掴んだ。
その快楽の呻きが、凛の喉を震わせる。
十分なほどに彼を昂ぶらせた後、凛はゆっくりと顔を上げ、口元を艶やかに拭った。
その表情は、聖女のような慈愛と、魔性のような欲望が同居していた。
「次は……私が、あなたを独り占めしてもいいですか?」
凛は、まだ余韻に震える佐藤の体をベッドに押し戻した。
そして、剥き出しのままの、雪のように白い肢体で彼に跨る。
かつての自分には決して持ち得なかった、豊かな曲線を描く腰のライン。
凛は自らの手で、その確かな「女」の肉体を佐藤の胸に押し付けた。
「凛さん、君は……なんて……」
「私の体を、もっといっぱい感じてほしいんです。だから……動かないで。私に任せてくださいね」
凛はそう囁き、挑戦的で、かつ慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
彼女は自分の意志で、再び彼を自らの中へと招き入れた。
一度目とは違う、自発的な結合。ストッキングの跡が残る白い太ももが、佐藤の腰を強く締め上げる。

「ああ……っ、すごい……凛さん、君が、こんなに……っ!」
「動いちゃ、だめですよ。私の……ここが、熱いのを……わかりますか?」
凛は腰をゆっくりと、だが執拗に動かし始めた。
されるがままの「客体」から、快楽を支配する「主体」への転換。
自分の動き一つで、このエリート然とした男の表情が歪み、理性が崩壊していく様を、凛は特等席で見つめていた。
かつての田中の面影は、もはやどこにもない。
激しく揺れるたびに、凛の髪が佐藤の頬を打ち、甘い香りが部屋に充満する。
彼女は欲望に忠実に、それでいてどこまでも優雅に、佐藤という男を自分の色で染め上げていった。
「佐藤さん。私、もう、あなたなしではいられない……」
絶頂の予感に凛の背中が美しく反る。
彼女は佐藤の手を強く握りしめ、自分という存在の深淵へと、彼をさらに深く、深く引きずり込んでいった。

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ホテルの遮光カーテンの隙間から、容赦のない朝の光が差し込み、重厚なスイートルームの絨毯を鮮やかに照らした。
昨夜の狂乱を物語るように、ベッドの傍らには佐藤のネクタイと、凛の白く細いガーターベルトが、まるで脱け殻のように力なく横たわっている。

凛は佐藤がまだ微睡みの中にいることを確認し、音を立てずにベッドを抜け出した。
全身を包む気だるい熱は、彼に深く愛された証だ。
鏡に映った自分の肩には、淡い赤紫の痕が刻まれている。
凛はその痕を指でなぞり、かつての「田中」という男の無骨な皮膚を思い出した。しかし、今そこにあるのは、きめ細やかで滑らかな、一片の曇りもない「女」の肌だった。

バスルームに入り、凛は先にシャワーを浴びることにした。
熱い湯が、佐藤の残り香と、肌に残ったわずかなべたつきを洗い流していく。
再開発センターの教官の言葉が蘇る。
「朝のバスルームこそ、あなたが『凛』であることを再定義する聖域です。昨夜の情熱を一度リセットし、再び彼にとっての『手に入りそうで入らない、高嶺の花』へと戻るのです」
凛は備え付けの高級ボディソープを丁寧に泡立て、佐藤に触れられた場所を、まるで宝物を磨くように優しく洗った。
シャワーの飛沫が顔にかかるたび、田中としての過去が排水溝へと吸い込まれていく錯覚に陥る。
今の自分は、この滑らかな曲線と、繊細な感性と、佐藤の愛によって形作られた「凛」という作品なのだ。

シャワーを終え、バスローブを羽織って脱衣所に戻ると、入れ替わりで目を覚ました佐藤がバスルームへと入っていった。
閉まった扉の向こうから、シャワーの音が響き始める。
「さあ、ここからが、私の本番ね」
凛は持参しポーチを開いた。そこには、再開発センターが彼女の肌質と佐藤の好みに合わせて厳選した、一級品の化粧道具が整然と並んでいる。
まずはベースメイク、 シャワー上がりの火照りを活かしつつ、血色の良い透明感を演出する。
そして、アイライン:、伏せ目にした時、佐藤が「守りたい」と感じるような、わずかな憂いを含ませる。
最後にリップ、 昨夜の熱を思い出させるような、瑞々しいコーラルピンクを薄く引く。
鏡の中の凛は、見る間に「昨夜の情熱的な愛人」から「清楚で品のある淑女」へと戻っていく。
それは、佐藤の征服欲を再び掻き立てるための、緻密な計算に基づいた変装だった。

化粧を終えた凛は、床に落ちていた純白のレースの下着を拾い上げた。
一度佐藤に乱暴に扱われ、脱ぎ捨てられたはずのそれは、彼女の細い指先で再び整えられ、身体の一部へと戻っていく。
ガーターベルトの金具を留めるパチンという小さな音が、静かな部屋に響いた。
ストッキングの履き口、昨夜佐藤が狂おしく唇を寄せたその境界線に、再びレースを食い込ませる。
そして、最後に濃紺のワンピースに袖を通した。
背中のファスナーを引き上げる時、凛の口元には微かな笑みが浮かんだ。
この清楚なワンピースの下に、昨夜彼を狂わせた「あの秘密」が隠されていることを、今は自分だけが知っている。
佐藤がシャワーを浴び終え、濡れた髪を拭きながらバスルームから出てきたとき、そこにはすでに完璧な「凛」が立っていた。
「凛さん、もう準備を? 驚いたな、昨夜あんなに……」
「佐藤さん。おはようございます。あまりに素敵な朝だったので、早くあなたの隣に並びたくて」
凛は少しはにかんだように微笑み、佐藤のネクタイを手に取った。
「朝食の前に、お結びしましょうか?」
その慎ましやかな佇まいは、数時間前に彼の体の上で欲望を露わにしていた女性と同一人物だとは到底信じられないものだった。
佐藤はその完璧なギャップに、再び抗いようのない眩暈を覚えるのだった。

4df9be75 No.2589

ホテルの最上階に位置するスカイレストランは、全面ガラス張りのパノラマビューから注ぐ朝光に包まれていた。
佐藤と凛はエスコートされるように窓際の席へと案内される。
膝にナプキンを広げる、その所作一つひとつに無駄がなく、昨夜、彼の背に爪を立てていた奔放な姿は微塵も感じられない。

その時、隣のテーブルから愛らしい声が響いた。
「わあ……ママ、見て! あの人、すっごくきれい!」
声の主は、五歳ほどの小さな女の子だった。
キラキラとした瞳で凛を凝視し、フォークを止めて夢中になっている。
「まるでお姫様みたい……。ねえ、ママよりきれいかも!」
「こら、結衣。失礼でしょ」
母親が慌てて嗜めるが、女の子は無邪気に続けた。
「だって、パパもそう思うでしょ? さっきから、ずーっと見てるもんね!」
不意を突かれた父親がゴホゴホと咳き込み、顔を赤くして視線を逸らした。
母親の視線が鋭くなり、そのテーブルに気まずい沈黙が流れる。
凛は困ったように、けれど慈愛に満ちた微笑みをその家族に向けた。
その余裕さえも、周囲の男性たちの目を惹きつけて離さない。



「――佐藤じゃないか。こんなところで奇遇だな」
背後から掛けられた重厚な声に、佐藤の背筋が伸びた。
振り返ると、そこには彼の勤める会社の上司である、営業本部長の姿があった。
家族サービス中らしく、横には上品な夫人を連れている。
「本部長! 休日にお騒がせしております」
「いや、構わんよ。……しかし」
本部長の視線が、佐藤の隣に立つ凛に釘付けになった。
その目は驚きと、隠しきれない羨望に揺れている。
「お前、こんなに綺麗な人と付き合っていたのか? 驚いたな、仕事一筋だと思っていたが」
佐藤が返答に窮したその瞬間、凛が絶妙なタイミングで立ち上がった。
彼女はしなやかに腰を折り、完璧な角度で頭を下げた。
「はじめまして。凛と申します。いつも主人が大変お世話になっております」
「主人」――。
その言葉が紡がれた瞬間、佐藤の心臓が大きく跳ねた。
まだ籍も入れていない、昨夜結ばれたばかりの関係。
しかし、凛はそれを当然の事実であるかのように、凛とした、それでいて柔らかい声で告げたのだ。
「ああ、いや、こちらこそ……。佐藤君は期待の若手でしてね。いや、これほどの方が内助の功を務めていらっしゃるとは。彼は幸せ者だ」
本部長は、明らかに凛の放つオーラに圧倒されていた。
凛は、佐藤の腕にそっと自分の手を添えた。
指先が、昨夜彼を愛でた時と同じ熱を帯びているように感じられ、佐藤は理性が揺らぐのを感じた。
(凛さん、君という人は……)
「主人」と呼ばれた誇らしさと、彼女が演出する「完璧な婚約者」という虚構の甘美さ。佐藤は、彼女を手放すことなど、もう一生できないだろうと確信した。

4df9be75 No.2590

レストランを後にした二人は、ロビーの喧騒から少し離れたエントランスの車寄せに立っていた。
朝の空気は凛として冷たく、それがかえって昨夜の熱を鮮明に思い出させる。
佐藤は、先ほど本部長の前で見せた彼女の「完璧な婚約者」としての振る舞いが頭から離れなかった。
自分の腕に触れていた柔らかな感触、そして「主人」と呼んだときの少し誇らしげな横顔。
「凛さん、今日は本当にありがとうございました。本部長にあんな風に挨拶してくれるなんて、正直、驚きました。でも、すごく嬉しかった」
佐藤は彼女の細い肩を引き寄せたい衝動を抑え、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「また、すぐに会いたいです。次は僕の行きつけのレストランに招待させてほしい。それに、もっと君のことを知りたいんだ。もしよければ、直接連絡を取り合える番号を教えてもらえませんか?」
凛は、少しだけ寂しげな、けれど決然とした微笑みを浮かべた。
彼女は佐藤の胸元に指先を這わせ、ネクタイの結び目を整える振りをしながら、静かに首を振った。
「佐藤さん。私も……あなたと同じ気持ちです。昨夜のことも、今朝のことも、一生忘れません。でも、私との連絡は、すべて『S市再開発センター』を通していただけますか?」
「センターを? どうして……」
「どうしてもそうしないといけないんです。私はあそことの繋がりがあるのです。私という人間が、あなたの隣にふさわしい存在であり続けるために。正式な手続きを踏んでいただくことが、私を守ることにも繋がるんです。待っていてくださいますか?」
その慎ましやかな拒絶は、佐藤の独占欲をかえって激しく燃え上がらせた。
彼女は自分にとって単なる交際相手ではなく、しかるべき手順を踏まなければ手に入らない「至宝」なのだと、改めて突きつけられたのだ。



一方その頃、S市の外郭団体である「再開発センター」の特別会議室では、プロフェッショナルなチームが慌ただしく動いていた。
凛が佐藤を籠絡し、さらに有力な上司にまでその存在を知らしめたという報告は、リアルタイムでセンターに届いていた。
彼女は今や、センターの「人間再生プロジェクト」における最高傑作であり、多額の次期予算を獲得するための、動く宣伝塔となっていた。
「田中という過去は、一滴の塵も残さず消去しろ」
プロジェクトリーダーの冷徹な号令の下、『一ノ瀬 凛』*の人生を再構築する作業が始まった。

戸籍の完全置換:
かつて万年床でくすぶっていた男・田中のデータは、デジタルの海から組織的に抹消された。代わりに、地方の旧家の出身で、若くして両親を亡くした薄幸な、しかし気品ある女性としての戸籍が新造される。

学歴の捏造:
無名の地方高校は、都内のミッション系お嬢様学校から、名の知れた女子大学の文学部へと上書きされた。同窓会名簿のハッキング、卒業写真の合成、教授陣との「架空の縁」さえもが捏造されていく。

記憶の調教:
凛には、新しい人生の履歴書が何百回と叩き込まれた。子供の頃の遊び、好きだった教科、初恋の淡い記憶……。それらはすべて、佐藤という男が「愛さずにはいられない完璧な女性像」を裏付けるためのパーツだ。

「さあ、一ノ瀬 凛。君はもう、どこから見ても完璧な淑女だ」
モニターに映し出される彼女の優雅な微笑みを見ながら、技術者たちは冷酷にキーボードを叩く。

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佐藤の執務室のデスクに、一通の封筒が置かれていた。
差出人は『S市再開発センター』。凛の言葉に従い、正式な交際と将来的な展望を含めた照会をセンターに申し入れた回答だった。
佐藤は逸る心を押さえながら、同封された数枚の書類に目を落とした。
完璧すぎる「一ノ瀬 凛」の真実
そこに記されていたのは、佐藤の想像を遥かに超える、非の打ち所がない淑女の歩みだった。

出自: 北陸地方の歴史ある旧家の長女。
学歴: 都内名門ミッション系中学・高校を経て、聖心女子大学文学部を卒業。在学中はフランス文学を専攻。
家庭環境: 5年前に両親を不慮の事故で亡くしている。
特筆すべきは、その後の彼女の身の振り方だった。
書類によれば、彼女は広大な実家の土地や遺産を相続したが、そのほとんどを地元の児童福祉施設や環境保護団体に匿名で寄付したという。
現在は、センターの支援を受けながら、都内の古いアパートで慎ましく、しかし誇り高く自立した生活を送っている。
(なんて……なんて清らかな人なんだ)
佐藤は書類を握る指先が震えるのを感じた。
昨夜のあの情熱的な姿、そして今朝の「主人」という言葉。
それらはすべて、この気高く、孤独な背景を持つ女性が、初めて自分に心を開いてくれた証だったのではないか。

佐藤は疑り深い性格ではないが、エリートとしての習性から、念のため独自に興信所へ調査を依頼していた。しかし、今日届いた興信所の報告書は、センターの書類をなぞるだけのものだった。
「ご指摘の女性、一ノ瀬凛氏について。家系図、学歴、寄付の記録に至るまで、すべて裏付けが取れました。近隣住民の評判も『清楚で控えめな、現代には珍しいお嬢様』で一致しております。なお、資産については報告の通り、寄付によってほぼ底を突いておりますが、借金等のマイナス要素は一切ございません」
デジタルに構築された「偽りの過去」は、今や現実を侵食し、誰にも暴けない「真実」へと昇華されていた。
興信所のベテラン調査員ですら、かつて「田中」という男の形跡など、一端も見つけ出すことはできなかったのだ。

凛は、その高貴な血筋や学歴を鼻にかけるどころか、すべてを投げ打って一人で生きている。
そして今、資産さえ持たない「一介の女性」として、自分の前に立っている。
「彼女は……僕が守らなければならない。僕の人生のすべてを懸けて」
資産がないという事実は、佐藤にとってマイナスどころか、最大の魅力となった。
何も持たない彼女に、自分のすべてを与えたい。
その衝動に突き動かされ、佐藤はすぐに受話器を取り、センターの担当者へ連絡を入れた。
「佐藤です。一ノ瀬さんの履歴、拝見しました。……至急、彼女との次回の面会を設定してください。場所は、前回以上の場所を僕が用意します」
その声には、もはや疑念などひとかけらもなかった。
センターのモニター越しにその様子を観察していたプロジェクトチームが、冷酷な勝利の笑みを浮かべていることなど、佐藤は知る由もなかった。

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二度目のデートの舞台として佐藤が選んだのは、会員制のクラシックなフレンチレストランだった。
かつての貴族の邸宅を改装したその場所は、重厚な石造りの壁と、磨き上げられた銀食器が鈍く光る、まさに「本物」を知る者のみが許される空間だ。

佐藤は、センターから届いた彼女の履歴書を頭の中で反芻していた。
(名門の家柄を捨て、寄付を行い、今は慎ましく暮らす女性……。今日のこの場所さえ、彼女には眩しすぎるのではないだろうか)
そんな保護欲に似た高揚感の中、迎えの車から降り立った凛を見て、佐藤は呼吸を忘れた。
今日の凛は、柔らかなベージュのシルクドレスに身を包んでいた。
露出は控えめだが、その仕立ての良さが彼女の完成された曲線を際立たせている。
首元には、昨夜の情熱を隠すように、細いパールのネックレスが一つだけ。
「佐藤さん、またお会いできて……本当に嬉しいです」
少しはにかみ、伏せ目がちに微笑むその姿は、興信所の報告書にあった「現代には珍しいお嬢様」そのものだった。

食事の間、佐藤は彼女のあらゆる仕草に目を凝らした。
複雑な魚料理を捌くナイフの角度、ワインを口に含む際のエレガントな指先。
センターによって叩き込まれた「一ノ瀬凛」としての教養は、佐藤のようなエリート層から見ても完璧だった。
「凛さん。センターから、あなたの歩んでこられた道のりを聞きました。ご両親のこと……そして、遺産をすべて寄付されたことも」
佐藤がそう切り出すと、凛は一瞬、ナイフを止めて悲しげに微笑んだ。
「お恥ずかしい話です。私のような者が、あのような大きなものを抱えて生きていくには、器が足りなかっただけなのです。それよりも、こうして佐藤さんのような方と、温かい時間を過ごせる今の方が、ずっと……幸せですから」
その無欲で純粋な言葉が、佐藤の胸を激しく撃った。
(ああ、やはり彼女は本物だ。僕がこの手で、彼女に失った以上の幸福を与えなければならない)

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デザートのフォンダンショコラが運ばれてくる頃、店内の照明が心持ち落とされた。
佐藤は、上着の内ポケットに忍ばせていた小さな、しかし重みのある箱に指を触れた。
本来ならば、二度目のデートで出すようなものではないことは分かっている。
エリートとしての冷静な判断力は、彼女の「無欲な告白」を前にして、完全に霧散していた。
「凛さん。僕は……君のような女性がこの世界にまだ残っていたことに、救われたような気持ちなんです」
佐藤は意を決して、ベルベットの箱をテーブルの上に置いた。蓋を開けると、最高級の輝きを放つダイヤモンドのリングが、キャンドルの炎を反射して凛の瞳を射抜いた。
「この指輪は、僕の決意です。センターを通した正式な交際はもちろんですが、僕はその先……君と一生を共にしたいと考えている。君が失った温かな家庭を、今度は僕と一緒に作ってくれませんか?」
凛は、驚いたように小さく息を呑み、両手で口元を覆った。その指先がわずかに震えているのを、佐藤は見逃さなかった。
(震えている……。無理もない、こんなに急な申し込みに戸惑っているんだ。だが、この純粋な反応こそが彼女の育ちの良さだ)
「佐藤さん……私、私のような、何も持たない女に、そんな……」
凛の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それは計算し尽くされたタイミングであり、同時に「田中」という男がかつて持っていた、社会への劣等感を「美しき悲劇」へと昇華させた瞬間でもあった。



「パパ、おかえりなさい!」
玄関を開けた佐藤を、三人の愛娘たちが弾けるような笑顔で迎えた。
どの子も凛に似て、透き通るような肌と気品に満ちた顔立ちをしている。

佐藤は、幸せの絶頂にいた。
あのプロポーズから数年。
何より驚くべきは、凛の「出産能力」だった。最新の生殖医療の粋を集めた処置により、彼女は次々と子宝に恵まれた。
佐藤にとって、名門の血を引き、献身的に家庭を守る凛と、その面影を残す娘たちは人生の宝物そのものだった。
「あなた、お疲れ様。今日はお好きなお肉料理ですよ」
エプロン姿の凛が、慈愛に満ちた微笑みで現れる。かつて「田中」と呼ばれた男の面影は、もはや細胞の隅々まで洗浄され、一滴も残っていない。
彼女は今、夫の愛を一身に受け、三人の母として、完璧な「幸せな女性」としての生を謳歌していた。

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S市再開発センターの地下実験室。
「次は、さらに効率を上げる。20代後半から30代での出産は、生物学的なコストがかかりすぎる」
プロジェクトリーダーの視線の先には、カプセルの中で眠る「素体」があった。
元は70歳の独り身の老人、門倉。
長年、工場の守衛として働き、誰に看取られることもなく孤独死寸前だった男だ。
だが、最新の「若返り細胞再構成プログラム」は、彼の枯れ果てた肉体を土台に、全く新しい生命を彫り出した。
「70年の人生経験を消去し、19歳の『無垢な才女』へ書き換える。ターゲットは、将来有望な国立大学の学生だ」

数ヶ月後。
S大学のキャンパスに、一人の編入生が現れた。
名前は「佐伯 陽葵(ひまり)」。
風になびく潔いショートカット、陸上競技でもやっていたかのようなスレンダーな体型。
無駄な脂肪を削ぎ落とし、しなやかな筋肉のラインが浮き出るその姿は、キャンパス中の男子学生の目を釘付けにした。
「佐伯さん、この前の講義のノート、見せてもらってもいいかな?」
声をかけたのは、法学部の特待生であり、地元有力者の息子でもある河野だった。
陽葵は、少し照れたように、しかし完璧に計算された角度で首をかしげて微笑んだ。
「ええ、私のでよければ。でも、河野君のほうが頭いいから、間違ってたら教えてね」
その声は鈴を転がすように澄んでいる。
かつて門倉だった頃の、煙草で焼けたダミ声の破片すらそこにはない。
センターによる「徹底した若返り」は、骨格レベルで彼女を「出産に適した最高の器」へと作り変えていた。

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「……本当に、これが俺なのか?」
薄暗い調整槽の底。
ぬるま湯のような培養液に浸かりながら、俺――門倉だった「モノ」は、震える手で自分の身体をなぞった。
指先に触れるのは、ゴツゴツした節くれだった感触じゃない。
吸い付くように滑らかで、驚くほど薄い、瑞々しい肌の質感。
70年連れ添った、あの脂臭くて、重苦しくて、明日をも知れぬ老いた肉体は、どこにもなかった
「お目覚めですね、門倉さん。いえ、今はまだ『個体識別番号09』と呼ぶべきでしょうか」
強化ガラスの向こう側、白衣を着た女性相談員が、タブレットを操作しながら事務的に、けれど慈しむような声で告げた。
「心拍、血圧、ホルモン値……すべて正常。おめでとうございます。S市の『ダサダサだけど新日本』計画に基づき、あなたの肉体は19歳の女性へと再構成されました。細胞レベルでの若返りと、徹底した骨格矯正。今のあなたは、この街のどの女性よりも『完璧』な、出産と知性の器です」
「完璧、か……」
自分の口から出た声に、自分自身で驚いた。
ガラガラと咳き込むようなあのダミ声じゃない。
春の微風に揺れる鈴のような、高く、透き通った音色。
俺は、自分の意思でここに志願した。
守衛の給料は減り、腰は曲がり、冷たいアパートで孤独死を待つだけの「余剰人員」。
それが俺の人生の終着駅のはずだった。
「嫌だったんだ。あんな、誰にも必要とされないまま消えるのは」
「ええ、分かっています。だからこそ、あなたは選ばれた。社会を支える側へと、生まれ変わるチャンスを掴んだのです」
相談員がボタンを押すと、調整槽の液が抜かれ、正面の壁が全面ミラーへと変わった。
「見てください。これが、あなたの新しい『現実』です」
鏡の中に立っていたのは、少年のような危うさと、女性のしなやかさを同居させたスレンダーな美女だった。
風を切り裂くようなショートカット。
陸上選手のように引き締まった長い脚。
そして、何よりも力強い、生命力に満ちた瞳。
「……これが、俺。佐伯、陽葵」
「そうです。あなたの過去――門倉という男の70年は、すべてこの街のデータベースの深淵に封印されました。あなたは今日から、将来有望なエリート学生と結ばれ、この国の未来を産み落とす『希望』です」
俺は、鏡の中の自分にそっと触れた。
指が頬を滑る。
男だった頃のプライドなんて、この圧倒的な「若さ」と「美しさ」の前ではゴミ同然だった。
誰かに、強く、激しく必要とされる快感。
俺は、俺自身を消し去ることで、初めて「生きる価値」を手に入れたんだ。

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「驚きましたか? でも、変わったのは外見だけではないのですよ」
相談員がタブレットをスワイプすると、鏡の横のモニターに膨大なデータが流れ始めた。
最新の神経可塑性チューニング。
門倉の、石灰化しかけていた老いた脳細胞は、若返り処置と同時にナノマシンによって回路を組み直されていた。
「あなたの脳は、19歳の柔軟性と、70年の経験則を統合した『超・最適化状態』にあります。記憶力、演算速度、論理的思考――今のあなたは、かつてのあなたとは比較にならないほどの知性を有しています」
試しに渡されたタブレットのテキストに目を走らせる。
かつては数行読むだけで目が霞み、内容も頭に入ってこなかった高度な法学や経済学の論文が、まるで水が乾いた砂に染み込むように理解できた。
一度見ただけで、その構造が、論理の骨組みが立体的に脳内に構築される。
「すごい……文字が、知識が、勝手になだれ込んでくるみたいだ」
「それが『佐伯陽葵』としてのスペックです。あなたは国立大学の編入試験も、最高得点でパスする予定になっています。
さて――ここからは、さらに重要な『教育』に移りましょう」


それからの数週間、俺……陽葵は、センターの特別客室で「女としてのいろは」を叩き込まれた。
かつてのガサツな歩き方は、重心移動の最適化により、無駄のない、しなやかなモデル歩行へと矯正された。
指先の動かし方一つ、視線の外し方一つに、男を惹きつけるための「計算された隙」を埋め込んでいく。
「陽葵、男を惹きつけるのは露出ではありません。『理解者である』という幻想を与えることです。
特にあなたが狙うエリート層は、自分の知性を肯定しつつ、家庭的な安らぎをくれる存在に飢えています」

相談員の言葉を、最適化された脳が即座に戦術へと変換する。
ショートカットを耳にかける仕草。
相手の言葉の合間に挟む、微かな、けれど確かな感嘆の溜息。
それらすべてを「武器」として、俺は身につけていった。
「完璧よ。次はあなたの『物語(カバーストーリー)』を記憶して」
脳内に、偽りの人生がダウンロードされる。
佐伯陽葵: 瀬戸内海の小さな島出身。
背景: 漁師だった祖父に男手一つで育てられ、その祖父を亡くしたばかり。
性格: 芯が強く、自立心が旺盛だが、都会の喧騒にはまだ不慣れで純朴。
「この『寂しげな自立心』こそが、若くて血気盛んな男の保護欲を最大級に刺激します。あなたは、誰かに頼らなければならない状況を嫌いながらも、運命の相手にだけはその門戸を開く……そういう物語を演じるのです」
準備は整った。
最後の日、俺は改めて鏡の前に立った。
かつて工場の隅で、油まみれの作業着を着て、誰からも名前を呼ばれずに死を待っていた門倉の姿は、もう思い出そうとしてもぼやけている。
今の俺は、白のスウェットにタイトなデニム、そして知性を象徴する細縁のメガネをかけた、誰が見ても目を奪われるような「19歳の才女」だ。
「……行ってきます」
鈴を転がすような、凛とした声。
俺は、自分の中にインストールされた「佐伯陽葵」という人格のスイッチをオンにした。
「はい。いってらっしゃい、陽葵さん。素晴らしい家庭を、そしてこの国の未来を、その手で掴み取ってくださいね」
相談員に見送られ、俺はセンターの地下から地上へと繋がるエレベーターに乗り込んだ。
扉が開けば、そこにはまばゆいばかりのキャンパスライフと、俺を「妻」として、そして「母」として熱望する獲物たちが待っている。

70年の孤独を代償に手に入れた、この完璧な偽りの人生を、俺は一滴残らず味わい尽くしてやる。
スレンダーな腹部にそっと手を当て、俺は唇の両端をわずかに吊り上げた。

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野立。公園や自然の中など屋外で行うカジュアルなお茶会での和服姿。

普段着姿。

テニスサークルの時のテニスウェア姿。

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編入からわずか一ヶ月。S大学のキャンパスで「佐伯陽葵」の名を知らない者はいなかった。
初夏の陽光を浴びて、プラチナ通りを歩く彼女の姿は、周囲の学生たちとは明らかに「密度の違う」オーラを放っている。
「ねえ、あれが例の編入生?」
「法学部の佐伯さんでしょ。編入試験、過去最高得点だったって噂だよ」
「見た目あんなにモデルみたいなのに、中身はガチの秀才って……天は二物を与えすぎじゃない?」
背後から聞こえる囁き声。最適化された陽葵の耳は、それらの羨望と嫉妬を正確に拾い上げる。
(…ふん、二物どころか、こっちは70年分の『泥をすするような経験』が詰まってるんだよ)
内心で毒づきながらも、陽葵は絶妙な角度で眼鏡を押し上げ、小脇に抱えた厚い基本書を抱え直した。その仕草一つが、計算された「ストイックな才女」を演出する。


彼女が目立つ理由は、その美貌だけではない。
講義中、教授の鋭い問いかけに対し、淀みない声で判例を引用し、論理の穴を突くその知性は、老練な法曹界の人間を思わせるほどだった。
「佐伯さんの論証、隙がなさすぎて怖いよね」
「でも、ゼミの後はニコニコしてて、地方出身の素朴な感じも出すじゃん? あのギャップがヤバい」
そして、その評価を決定的にしたのは、学内最大のテニスサークルでの活躍だった。

「ナイスショット、陽葵ちゃん!」
コートを駆ける陽葵の脚は、無駄な脂肪が一切ない、彫刻のような筋肉のラインを描いている。
70歳の頃は階段の上り下りだけで息を切らしていたのが嘘のようだ。
再構成された心肺機能と、老練な勝負勘。
相手の重心の揺らぎを見抜き、最短距離でボールを打ち込む。
華麗なフォームでスマッシュを決めると、ギャラリーから歓声が上がった。
「あーあ、また陽葵さんの勝ちか。女子で相手になれる奴、もういないんじゃない?」
タオルで汗を拭い、陽葵はわざとらしく少し肩を上下させて、荒い息をついてみせる。
「そんなことないよ。最後の一球、ギリギリだったもの」
謙遜し、彼女は視線をコートの隅へ向けた。
そこには、このサークルの部長であり、法学部の特待生・河野がいた。
地元選出の国会議員を父に持ち、端正な顔立ちと明晰な頭脳を併せ持つ、この大学の「頂点」の一人。センターが弾き出した、陽葵の第一ターゲットだ。
「佐伯さん、お疲れ様。君のプレーは、なんていうか……すごく合理的だね。無駄が全くない」
河野がスポーツドリンクを差し出しながら近づいてくる。その瞳には、明らかに知的好奇心と、男としての独占欲が混じり始めていた。
「河野君……。見ててくれたの? 恥ずかしいな。私、必死だったから」
陽葵は少し顔を赤らめ、視線を伏せる。
かつての門倉なら、こんな若造、煙草の煙と一緒に吹き飛ばしていただろう。
だが今の陽葵は、彼が「守ってやりたい」と思うような、それでいて「対等に語り合える」唯一の女性として振る舞う。
「今度、試験対策の勉強会を少人数でやるんだ。もしよければ、君も来ないか? 君の意見を聞いてみたいんだ」
「私でいいの? 嬉しい。一人で図書室にこもるの、少し寂しかったから」
微笑む陽葵の脳内では、センターで叩き込まれたシミュレーションが着実に進行していた。
彼との結婚、有力政治家一族への食い込み、そして「新しい日本」を担う次世代の出産。
(悪いな、坊ちゃん。あんたが恋しているのは、70歳の老人の執念が作り上げた『最高の幻』だ)
太陽の下、瑞々しい肌を輝かせながら、陽葵は心の中で冷酷に笑った。

70c3c6ce No.2900

試験対策の勉強会は、河野の高級マンションの一室で行われた。
参加者は河野と陽葵、そして河野の取り巻き数人。
数時間に及ぶ議論。
陽葵は時折「わからないふり」をして河野に質問を投げ、彼の自尊心を絶妙に満たしながら、核心を突く回答でその知性を認めさせた。
「……今日はありがとう、河野君。すごく勉強になったわ」
夜の帳が下りる頃、マンションのエントランス。
陽葵は、名残惜しそうに微笑んで河野に別れを告げた。
だが、その背後から刺さるような冷たい視線があることに気づいていた。
サークルのマドンナを自負していた法学部の真奈美。
河野の婚約者候補を自称する彼女にとって、突如現れた「19歳の完璧な編入生」は、排除すべき障害でしかなかった。

帰り道。街灯のまばらな公園の横を通る際、ガラの悪い男たちが三体、陽葵の行く手を阻んだ。
「お姉ちゃん、ちょっと時間ある? 大学の勉強より楽しいこと教えてやるよ」
男たちの背後、植え込みの影に真奈美の姿がある。スマホのカメラを構え、陽葵が辱めを受ける決定的瞬間を待っているようだ。
(ふん……安い。安すぎるぜ、お嬢様)
70年の人生、工場裏の暗がりや修羅場をいくつも見てきた門倉の意識が、最適化された脳内で冷徹に状況を分析する。
今、この場から逃げ切る方法はいくらでもある。
だが、それでは「佐伯陽葵」の価値が減ってしまう。
うまいぐわいにこのシチュエーションを利用させてもらうことにする。
「……やめてください。私、急いでるんです」
震える声。
陽葵は男たちに詰め寄られながら、わざと真奈美のカメラから死角になる位置、かつ追ってきた河野から一番よく見える位置へと誘導した。
案の定、心配して後を追ってきた河野が角から姿を現した。
「おい! 何をやってる!」
河野の叫び声。それが合図だった。
「ああっ!」
男の一人が陽葵の肩を強く突く。
陽葵はその力を利用し、物理法則に従って——しかし劇的なまでの放物線を描いて、コンクリートの地面へと吹き飛ばされた。
プツン。
あらかじめ細工しておいたブラウスの第一、第二ボタンが、転倒の衝撃で弾け飛ぶ。
はだけた襟元から、若々しく、それでいて暴力的なまでに瑞々しい肌と、センターが選んだ「清楚だが煽情的な」レースの下着が露わになった。
「陽葵さん!」
河野が男たちを突き飛ばし、地面に倒れた陽葵を抱きかかえる。
陽葵はわざと焦点の合わない瞳で彼を見上げ、震える手で胸元を押さえようとした。
「ごめん、なさい……河野君。私、みっともない格好で……っ」
涙を浮かべ、細い肩を震わせる。
その姿は、襲われかけた恐怖に怯える、守るべきか弱き乙女そのものだった。
河野の目には、陽葵の乱れた服から覗く肌が、決して卑猥なものには映らなかった。
むしろ、その純白の下着と、汚されることのない聖域のような美しさが、彼の独占欲と「正義感」に火をつけたのだ。
「……君のせいじゃない。許せない、こんなことをさせるなんて」
河野の視線が、植え込みの影で凍りついている真奈美を射抜いた。
男たちに指示を出していた証拠——真奈美の存在に、彼は即座に気づいた。
「真奈美……君がやったのか? ここまで卑劣な女だったとはな」
「ち、違うの! これは……!」
逃げ出す真奈美。
だが、河野の心はもう完全に陽葵のものだった。

河野は自分のジャケットを脱ぎ、陽葵の肩を優しく、しかし力強く包み込んだ。
「大丈夫だ。僕が送っていく。……もう、誰にも君を傷つけさせない」
(チェックメイトだ、坊ちゃん)
河野の胸に顔を埋めながら、陽葵は人知れず口角を吊り上げた。
男という生き物の単純さ、そして「自分が守ってやった」という誤解がどれほど深く女を支配させるか。
門倉だった頃に嫌というほど見てきた「人間の業」を、今の彼女は最大限に利用している。

dfffee83 No.2902

大学のキャンパスに春の気配が混じり始めた、勉強会から二週間後のこと。
陽葵としての生活は、驚くほどスムーズに進んでいた。
河野は、法学部のエリートとしての顔を保ちながらも、陽葵に向ける視線には隠しきれない独占欲と熱が混じるようになっている。
​そんな二人が、講義の空き時間に中庭のベンチで参考書を開いていた時のことだった。
​「――佐伯さん! 探したわよ!」
​不意に投げかけられた切実な声に、陽葵は顔を上げた。
そこには、茶道サークルの部長を務める三回生、上田と、腕をギプスで固定した副部長の佐藤が、必死の面持ちで立っていた。
​「あの……私に何かご用でしょうか?」
陽葵は、少し驚いたように首をかしげた。
隣で河野が、自分の領域を侵されたかのようにわずかに眉を寄せる。
​「お願い、佐伯さん! 来週の他大学合同大茶会、うちのサークルの『お点前(おてまえ)』を代わってほしいの!」
部長の上田が、周囲の目も構わず頭を下げた。
「副部長が不運にも骨折してしまって……他の部員はみんな『お客様』としてお菓子を食べるのが専門の素人同然なの。このままじゃ、うちは席を設けることすらできないわ」
​「でも、私はそんな、人前でお点前を披露できるような腕なんて……」
陽葵は困惑を装い、視線を伏せた。
センターでの研修で茶道の所作などは履修済み。
表千家、裏千家の作法はもちろん、茶懐石のマナーや掛軸の読み解きまで、門倉だった頃の「泥臭い記憶」を上書きするように、洗練されたデータが脳に刻まれている。
​「噂で聞いたの。佐伯さんは瀬戸内の方で、お祖父様から厳しい躾を受けたと……。お願い、勝ち負けやプライドなんてどうでもいいの。ただ、茶道の心を繋いでほしいだけなのよ!」
​(噂……。センターが裏で動いたか。あるいは、私の日常の立ち居振る舞いから、誰かが勝手に憶測を膨らませたか)
​陽葵は、隣で興味深そうにこちらを見ている河野の視線を感じた。
「河野君、どうしよう……」
「……佐伯さんのそんな姿、僕も見てみたい気はするな。力になってあげたらどうだい?」
​河野の後押しを受け、陽葵は「仕方ありませんね」という体裁で、茶道サークルの部室へと向かった。

dfffee83 No.2903

伝統的な日本建築を模したサークル棟の一室。
部室の障子を開けた瞬間、陽葵の嗅覚は、庭に咲き誇る白梅の微かな香りと、畳のいぐさの匂いを鋭敏に捉えた。
部室には、特別講師として招かれた高齢の茶道家、松村先生が厳然と座していた。
​「一応、基本だけでも確認させてね。道具は全部こちらで用意するし、当日の着物も私が最高のものを選んであげるから」
​部長が差し出した茶道具一式。
陽葵はそれを手に取ると、流れるような動作で畳に正座した。
その瞬間、部室の空気が張り詰めた。
​(裏千家の所作で行くか。上品だが、あまりに手慣れすぎていると疑われる。少しだけ『島の娘』らしい、素朴なひたむきさを混ぜよう)
​陽葵の無駄のない指の動き。
背筋は一本の糸で吊られたように美しく、それでいて肩の力は完璧に抜けている。
茶筅(ちゃせん)を振るう音が、静かな部屋に心地よく響く。
​「……っ!」
​見守っていた部長と副部長が、言葉を失って顔を見合わせた。
彼女たちの目に映っているのは、ただの「代役」ではない。
長い年月を経て磨き上げられた風格と、若さゆえの瑞々しさが奇跡的に同居した、一幅の絵画のような少女の姿だった。
​最後の一服を点て終え、陽葵が静かに茶碗を差し出す。
​「お粗末様でした」
​その場に沈黙が流れた。
沈黙を破ったのは、厳格なことで知られる講師の松村先生だった。
​「……見事。これほどまでに、迷いのないお点前は初めて見ました」
松村先生の声は震えていた。
「佐伯さん、あなた。これまでどこで……。型は裏千家ですが……あなたの点てる茶には、人生の重みがある」
​(人生の重み……。まあ、中身は70年の苦労人だからな)
​陽葵は内心で苦笑したが、表面的には頬を赤らめ、謙虚に頭を下げた。
「そんな……私はただ、祖父に教わった通りにしているだけです」
​河野はその様子を、もはや信仰に近い眼差しで見つめていた。
「佐伯さん……君は、一体どれだけ僕を驚かしてくれるんだ」

​部室からの帰り道、夕闇に沈むキャンパスを歩きながら、陽葵は自分の手のひらを見つめた。
茶道サークルの部長たちは、涙を流さんばかりに感謝し、来週の合同茶会での「主演」を陽葵に託した。
これで、他大学の有力者や地元の名士たちが集まる舞台に、最高の形で「デビュー」することが決まった。
​「陽葵。当日は、僕が一番近くで君を見守るよ」
河野が自然な動作で、陽葵の細い腰に手を回した。
門倉だった頃なら、若い男に腰を抱かれるなど想像するだけで反吐が出ただろう。
だが今の陽葵は、その接触に心地よい優越感さえ覚えていた。
​「嬉しい。河野君がいてくれたら、私、もっと頑張れそう」
​甘く、高く、澄んだ声で答える。
​陽葵は、隣を歩く「獲物」の腕に、そっと自分の胸を押し当てた。

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合同大茶会当日。
舞台は大学近くの広大な植物園。
早春の柔らかな日差しが、満開の梅の香りを空気に溶かし、野点(のだて)にはこれ以上ない佳日となった。
​開始一時間前、植物園内の茶室を兼ねた控え室は、各大学から集まった女子学生たちの熱気と緊張感に包まれていた。

​多くの学生が自宅から着替えてくるか、あるいは鏡の前で数人がかりで帯の結び目を確認し合う喧騒の中、陽葵は一人、部屋の隅で静かに荷を解いた。
​「佐伯さん、これ。サークルで用意した着物だけど……」
部長の上田がおずおずと差し出したのは、手入れの楽な現代的な洗える着物だった。
しかし、陽葵はそれを柔和な微笑みで辞退した。
​「部長、お気遣いありがとうございます。でも、今日は祖父から『亡き祖母の形見だ』と持たされたものがありますので、そちらを袖に通そうと思います」
​取り出したのは、一目で「本物」と分かる、しっとりと重みのある朱色のもの。
京友禅の老舗で仕立てられたであろうその布地は、控え室の蛍光灯の下でも、深い生命力を宿したような独特の光沢を放っていた。
​陽葵の着付けは、周囲の学生たちの手を止めさせるほどに異常だった。
普通なら長襦袢の襟元で手こずり、帯の位置で何度も鏡を見るはずが、彼女の動きには一切の迷いがない。
まるで自分の皮膚を纏うかのように、流れるような所作で腰紐を締め、お端折りを整えていく。
​「信じられない。あの子、鏡も見ずに二重太鼓を仕上げたわよ」
​ざわつく周囲を余所に、陽葵は慣れない手つきでプリント着物と格闘していた部長に歩み寄った。
「部長、よろしければお手伝いしますね。背中の中心を少し合わせるだけで、ずっと楽になりますから」
陽葵の細い指先が部長の背を滑る。
わずか数分で、部長の着姿は見違えるほど凛としたものに変わった。
センターでの「淑女教育」は、こうした裏方の立ち回りにおいてこそ、その真価を発揮するのだ。

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植物園の芝生広場。
紅白の梅が咲き乱れる中、野点の席が設けられた。
見学者の最前列には、河野が誇らしげな表情で座っている。
その隣には、河野の父親の秘書が、鋭い審美眼を湛えて控えていた。
​陽葵が用意した道具は、サークルの備品ではなかった。
祖母の形見という設定で持ち込まれたのは、使い込まれた跡がありながらも、手入れの行き届いた名品ばかり。
特に、彼女が茶碗を取り出した瞬間、他大学の経験者たちの顔色が変わった。
​「ねぇ、あれ、本物じゃない? 19歳の学生が持ち出していい代物じゃないわよ」
​他大学の茶道部で「天才」と持て囃されている三条の視線には、明らかな敵意と嫉妬が混じっていた。
(道具の良さでマウントを取るつもり? お点前なんて、一朝一夕で身につくものじゃないわ。恥をかけばいい)
​しかし、陽葵が茶筅を振るい始めた瞬間、三条の邪念は粉々に打ち砕かれた。
​陽葵の動きは、もはや「動作」ではなかった。
風に揺れる梅の枝と、茶碗に注がれるお湯の音。
それら周囲の自然と完全に調和し、陽葵自身が景色の一部と化していた。
​お点前が終わり、最初の一服が客に渡された時、会場を支配していたのは静かな感動だった。
秘書は、深く頷きながら手帳に何事かを書き留めている。
河野は、もはや彼女を直視できないほどの眩しさを感じていた。
​席が終わると、先ほどまで棘のある視線を向けていた三条が、ふらふらと陽葵のもとへ歩み寄ってきた。
​「なんてこと。あんなの、勝ち負け以前の問題じゃない。そんな醜い感情を抱いた私自身が恥ずかしいわ」
​三条は、陽葵の前で深く頭を下げた。
「ごめんなさい、佐伯さん。あなたの所作を見ていたら、自分が今まで積み上げてきたものが、どれほど表面的なものだったか思い知らされました。今の私は、あなたに嫉妬する資格すらない……」
​陽葵は、困惑したような「純朴な少女」の表情を作り、美月の手を取った。
「そんな、熱心な視線を感じて、私も身が引き締まる思いでした。私、この街に来たばかりで友達も少なくて。もしよろしければ、これからはぜひお茶を通して、友人として仲良くしていただけませんか?」
​「友人……私でよければ、ぜひ。教えてほしいことが山ほどあるわ」
​三条は感激に震えながら、陽葵の手を握り締めた。
その光景を、河野は「なんて心の清らかな女性なんだ」と心酔しきった目で見つめ、秘書は「河野家に相応しい、非の打ち所がない器だ」と確信を持って報告書をまとめる。
​陽葵は、朱色の着物越しに感じる春の風を楽しみながら、心の中で門倉だった頃の自分に語りかける。
(見てるか、爺さん。これが『必要とされる』ってことだ。誰からも見向きもされなかった俺が、今や街の有力者を、若きエリートを、そしてライバルさえも掌の上で転がしている)
​陽葵は微笑んだ。
その微笑みは、誰の目にも春の陽光のように温かく、慈愛に満ちて映った。

dfffee83 No.2906

野点の席が終了した後も、陽葵の周囲だけは異様な熱気に包まれていた。
他の大学が用意した席には閑鳥が鳴く時間帯があっても、陽葵が茶筅を振るう一角だけは、そのあまりの美しさと静謐なオーラを一目見ようとする人々で、途切れることのない大行列ができていたのだ。
​「佐伯さん、本当にお疲れ様……! あなたのおかげで、うちのサークル始まって以来の快挙よ!」
​片付けが始まろうとする喧騒の中、部長の上田と、ギプス姿の副部長・佐藤が駆け寄ってきた。
二人の目は真っ赤に充血し、感動のあまり言葉にならないといった様子で陽葵の両手を握りしめる。
「ありがとう、本当にありがとう……!」
特に部長の上田は、感極まって陽葵の手を握ったまま、ブンブンと激しく上下に振り続けた。そのあまりの勢いに、陽葵は「いえ、私はただ……」と、困ったような、それでいて可憐な微笑みを浮かべてバランスを取る。
​そんな感動の渦を切り裂くように、一台の黒塗りの高級セダンが芝生広場の縁に滑り込んできた。
先ほどまで最前列で鋭い視線を送っていた秘書が、足早に歩み寄ってくる。
​「佐伯陽葵様。急なお願いで大変恐縮ですが、これより河野家へご同行願えないでしょうか。主人のスケジュールの都合上、本日このお時間の他に調整がつかず……。河野も、ぜひにと申しております」
​隣では、河野が申し訳なさそうに、しかし期待に満ちた目で陽葵を見つめていた。
「陽葵さん、急に悪かったね。でも、父がどうしても今、君に会いたいと言い出して……」
​「えっ、でも、この格好のままでは失礼に……」
陽葵が自分の朱色の着物に目を落とすと、背後から部長たちが力強く背中を押した。
「何を言ってるの! その着物姿が一番素敵なんだから! 片付けは私たちが責任を持ってやっておくから、あなたはそのまま行ってらっしゃい!」
「そうですよ、佐伯さん。こんなチャンス、逃しちゃダメです!」
​二人の熱い声援に送り出され、陽葵は河野にエスコートされる形で車に乗り込んだ。
車窓から遠ざかる植物園の景色を見ながら、陽葵の脳内では「門倉」としての老獪な計算がフル回転を始めていた。

0b148c4e No.2907

黒塗りのセダンが静かにタイヤを転がし、辿り着いたのは市内でも指折りの歴史を誇る、河野家の広大な本邸だった。
重厚な門をくぐり、手入れの行き届いた前庭を抜けると、玄関先には既に「出迎え」の陣容が整っていた。
​車から降り立った陽葵の目に飛び込んできたのは、威厳と警戒心を隠そうともしない、二人の女性の姿だった。
​一人は、正統派の訪問着を隙なく着こなした河野の母親。
その眼差しは、息子の将来を左右する「外部からの侵入者」を厳格に査定する、冷徹な鑑定士のそれだった。
そしてその隣で、腕を組み、挑発的な笑みを浮かべて立っていたのが、長女の望(のぞみ)である。
既に他家へ嫁いでいる身ながら、年の離れた弟を溺愛する重度のブラコンとして親戚中にも知れ渡っている彼女は、弟が「特別な女性」を連れてくると聞きつけ、わざわざ実家へ乗り込んできたのだ。
​陽葵は、彼女たちが発する独特の圧迫感に怯むどころか、むしろ内なる昂揚を感じていた。
​(なるほど。まずはこの女人禁制のような城壁を崩せばいいわけだ)
​陽葵は河野のエスコートを解き、二人の前へ進み出ると、朱色の着物の裾を優雅に捌き、その場に深く、淀みのない角度で頭を下げた。
​「はじめまして。佐伯陽葵と申します。本来であれば、日を改めてしかるべき装いで伺うべきところを、不躾な形でお邪魔いたしましたこと、誠に申し訳ございません。本日、お茶の席で河野様のお力添えをいただきましたご縁で、このような身に余る機会を賜りました。何卒、ご海容くださいませ」
​澄んだ声。
そして、形見分けという設定の「本物」の着物が放つ、圧倒的な品格。
母親の鋭い観察眼が、陽葵の着付けの技術、指先の揃え方、そして完璧な言葉遣いを捉え、わずかに揺れた。
望もまた、文句の付け所を探そうとして、その洗練された所作に毒気を抜かれたような表情を浮かべる。
​しかし、その静寂を破ったのは、背後の扉が勢いよく開く音だった。
​「お兄ちゃん、おかえり!」
​弾けるような声と共に飛び出してきたのは、高校の制服姿のままの次女、光(ひかり)だった。
彼女もまた、姉の望に負けず劣らずのブラコンであり、家族の中では自由奔放な末っ子として愛されている。
光は玄関に漂う緊張感などどこ吹く風で、陽葵を無視するように河野の元へ駆け寄ると、当然のような顔をして彼の逞しい右腕に自分の両手を絡ませた。
​「遅いよお兄ちゃん! ずっと待ってたんだから。で? その子が、お兄ちゃんが言ってた『お友達』なの?」
​光は、兄の腕にしがみついたまま、陽葵を足元から頭の先まで品定めするように見上げる。
その瞳には、大好きな兄を奪いに来た「敵」に対する隠しきれない敵意と、同時に、同じ女として認めざるを得ない陽葵の圧倒的な美しさへの戸惑いが混在していた。
​陽葵は、光の無礼な振る舞いに対しても、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを崩さない。
​(可愛いもんだ。若さゆえの独占欲か……。だが、お前のその『お兄ちゃん』を、俺がこれからどう料理するか、楽しみにしておくがいい)
​内なる門倉の老獪な意識が、鏡のように凪いだ陽葵の瞳の奥で冷たく光る。
​「光さん、ですね。お兄様から、とても聡明で可愛らしい妹様だと伺っておりました。こうしてお会いできて、本当にうれしいです。」
​陽葵が優しく語りかけると、光は一瞬、気圧されたように言葉を詰まらせた。
兄の腕を掴む力に、無意識の焦燥が混じる。
河野家の女たちが築いた「拒絶の壁」に、今、陽葵という完璧な楔が打ち込まれようとしていた。

62481ce1 No.2934

書斎の重厚な扉が開くと、そこにはS市の政財界を影で操る実力者、河野正蔵が鎮座していた。
室内には沈香の香りが漂い、壁一面に並んだ古書が独特の圧迫感を放っている。
​「君か。息子が心酔しているという娘は」
​正蔵の眼光は、まるでレントゲンを撮るかのように陽葵の全身を舐め回した。
しかし、陽葵は臆することなく、朱色の着物を翻して完璧な挨拶を返す。
​「お初にお目に掛かります、佐伯陽葵です。本日はお招きいただき、身に余る光栄に存じます」
​「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにしよう」正蔵は手元の資料に目を落としながら、独り言のように呟いた。
「最近、この街の『再開発センター』が面白い試みを始めていると聞いてな。行き場のないの老人に、新しい人生を与える。そんな魔法のようなプロジェクトだ。君のような非の打ち所がない若者が、あまりに唐突にこの街に現れると……つい、そんな組織の影を疑ってしまうのは、私の職業病かな?」
​冷徹な「カマ」が投げかけられた。
正蔵はセンターの存在を知っており、その「成功報告」も受けている。
しかし、陽葵がその最高傑作であることまでは知らない。彼は陽葵の正体を暴こうとしているのではなく、目の前の少女が「本物」か、あるいは「造り物」かを見極めようとしていた。
​陽葵は、瞬時に脳内で門倉の記憶をシャットアウトし、「純粋な佐伯陽葵」としての感情を回路の最前面に出した。
​「……再開発センター、ですか? ニュースで少し耳にしたことはございます」
​陽葵は、少しだけ寂しげに、けれど凛とした微笑みを浮かべて続けた。
​「行き場のない、という言葉は悲しいですね。……私の祖父も、最後まで『誰かの役に立ちたい』と願いながら、瀬戸内の小さな島で静かに息を引き取りました。もし、そんな魔法のようなプロジェクトが本当にあるのなら、孤独だった祖父にも、もう一度だけ、日の当たる場所を歩かせてあげたかった……そう願わずにはいられません」
​瞳の奥にわずかな哀愁を宿し、嘘偽りのない「身内を思う孫娘」を演じきる。
門倉だった頃の孤独な死への恐怖が、陽葵の言葉に逆説的な真実味を与えていた。
​正蔵は数秒間、陽葵の瞳をじっと見つめ返した。
(この揺らぎのない瞳、そして言葉の端々に宿る情念……。これがセンターの造り物だとすれば、神の領域だ。だが、この娘には『生』の重みがある)
​「……ふむ。失礼なことを聞いた。老い先短い老人の妄言だと思って聞き流してくれ」
​正蔵の表情から、刺すような鋭さが消えた。
「君の所作は、秘書から報告を受けた通りだ。いや、それ以上だな。……河野の家には、君のような『芯のある美学』を持つ者が必要だと思っていたところだ」
​陽葵は静かに頭を下げた。心の中では、門倉が冷酷に笑っている。
(危ねぇところだったな、親父さん。あんたの知ってる『成功例』なんて、俺に比べればただの試作品だ。本物は、あんたの目の前で、あんたの息子を食い破る準備をしてるぜ)
​その時、書斎の戸を遠慮がちに叩く音がした。
「お父様、お話中に失礼します。お食事の準備が整いましたけれど……」
姉の望だった。
彼女の視線は、まだ陽葵への警戒を解いていない。
​「ああ、行こう。陽葵さん、今日はゆっくりしていきなさい。君の故郷の話、もっと聞かせてほしい」
​「はい。喜んで」
​陽葵は立ち上がり、河野の横に並んだ。
その背中を見送る正蔵の目には、もはや疑念はなく、家系を繁栄させるための「至宝」を手に入れたという満足感だけが浮かんでいた。

1d3a8a00 No.3021

晩餐の席は、豪華な会石料理が並ぶ円卓。
河野正蔵が上座に座り、その左右を正妻と長女の望が固める。
対面に座る陽葵にとっては、まさに審問会の法廷のような配置だった。
​しかし、陽葵の脳内にある「門倉」としての70年の経験は、この状況を冷徹に分析していた。
(名家の女たちが一番飢えているのは何か? それは、自分の「苦労」を正当に理解し、評価してくれる存在だ)
​食事が進み、話題が河野家の伝統や家風に及んだ時、陽葵は箸を置き、ふっと視線を落とした。
​「お母様、そして望様……。今日、このお屋敷に足を踏み入れてから、ずっと圧倒されておりました」
​望が不敵な笑みを浮かべる。「あら、気後れしてしまったかしら?」
​「いえ、そうではなく……」陽葵は切実な、それでいて深い敬意を込めた瞳で二人を見つめた。「これほどまでに完璧に整えられた家、そして揺るぎない空気。これを作り上げ、守り続けてこられたのが、お二人の並々ならぬご苦労の上に成り立っているのだと痛感したのです。外から見る華やかさの裏で、どれほどご自身を律し、嫁として、娘として、家系の重圧を一身に背負ってこられたか……」
​母親の、お茶を運ぶ手がわずかに止まった。
​「私は独り身で育ちましたので、こうして『家』を守ることの峻烈さを、今日初めて肌で感じました。お二人のような凛とした立ち振る舞いは、一朝一夕で身につくものではありません。……もし許されるのであれば、私はお二人の背中を見て、その覚悟を学びたい。嫁としての立場の難しさ、その孤独な戦いを、どうか教えていただけないでしょうか」
​この言葉は、河野家の女たちの心の最深部を射抜いた。
名家の嫁は、夫や子供からは「やって当然」と思われ、周囲からは「恵まれている」と羨まれる。
その裏にある、分刻みのスケジュール、親戚付き合いの神経戦、そして自分を殺し続ける忍耐――その「孤独」を、この19歳の少女は、まるで経験してきたかのように言い当てたのだ。
​母親の目が、これまでの「値踏み」から「同志」を見るものへと変化した。
​「……佐伯さん。あなた、まだお若いのに……そんなことまでお分かりになるのね。今の娘さんは、権利ばかり主張して、家の根を張ることの尊さを知らない方ばかりだと思っていましたわ」
​「本当よ」望も、組んでいた腕を解き、少しだけ身を乗り出した。「弟が連れてくる子はみんな、表面的な華やかさにばかり目を奪われる。でも、家の内側を守るのがどれほど血の滲むような思いか……。それを学びたいなんて言う子は、あなたが初めてだわ」
​「お恥ずかしい話ですが、私には何もございません。だからこそ、お二人の築いてこられたこの聖域を汚さぬよう、泥を塗らぬよう、一から厳しく仕込んでいただきたいのです」
​陽葵は、センターで叩き込まれた「理想の嫁」のデータに、「老いた知恵」を混ぜ合わせ、二人を精神的に優位に立たせた。
女たちは、陽葵を「排除すべき敵」ではなく、「自分たちの苦労の継承者」として認め始めたのだ。
​「いいわ。そこまで言うなら、河野家の流儀を厳しく教え込んであげる。覚悟はいいかしら?」
望の言葉には、もはや敵意ではなく、期待に近い熱が籠もっていた。
​「はい。望様のような気高さ、お母様のような深淵なる慈愛。少しでも近づけるよう、精進いたします」
​陽葵は深々と頭を下げ、その表情を隠した。
(かかったな。あんたたちが俺を『仕込む』んじゃない。俺があんたたちの『理解者』という仮面を被って、この家を内側から支配してやるんだよ)

1d3a8a00 No.3022

晩餐が進むにつれ、母と望が陽葵を「磨けば光る原石」として囲い込み始めた光景は、末娘の光にとって耐え難い屈辱だった。
自分の聖域である兄の隣に、これほど早く家族の承認を得て居座る女。
光は、朱色の着物に守られた陽葵の「奥ゆかしさ」という武装を剥ぎ取りたい衝動に駆られていた。
​「お兄ちゃん、陽葵さん。お食事の後は、まずお風呂でさっぱりしてきなよ。植物園で一日中外にいたんだし、不衛生だもんね」
​光が不敵な笑みを浮かべて提案した。
その瞳には、ある計算があった。
着物という「魔法」を脱がせ、同じ土俵に引きずり出せば、若さとスタイルの差で圧倒できる。
光は自分のモデルのような四肢の長さに絶対の自信を持っていた。
​「陽葵さん、私と一緒に入ろう? 広いお風呂だし、背中流し合いっこしよ!」
​陽葵は一瞬、困ったように視線を泳がせた。
「いえ、そんな……。光様のようなお若いお嬢様とご一緒なんて、私のような者が……」
「いいじゃない、陽葵さん。光もこう言っているんだし、遠慮しないで」
兄の河野が、妹の珍しい「歩み寄り」を喜んで後押しする。
母もまた、陽葵の肉体に欠陥がないか、出産に適した健やかな体つきをしているかを確かめる絶好の機会だと判断し、静かに頷いた。
「そうね。光、しっかりおもてなしして差し上げなさい」
​逃げ場を失った陽葵は、伏せ目がちに「……では、お言葉に甘えさせていただきます」と承諾した。

​河野家の浴室は、高級旅館を思わせる檜造りの大浴場だった。
光は脱衣所で、見せつけるように素早く服を脱ぎ捨てた。
しなやかな肢体、キュッと引き締まったウエスト。彼女は鏡の前で髪をまとめながら、横目で陽葵を伺う。
​(どう? これが本物の『若さ』よ。着物で誤魔化してた体型なんて、一瞬でバレるんだから)
​しかし、陽葵が静かに着物を解き、襦袢を脱ぎ捨てた瞬間、光の呼吸が止まった。
​そこに現れたのは、センターの技術と骨格再構成が導き出した、生物学的な「究極」だった。
門倉だった頃の重苦しい肉体は、一片の無駄もない、大理石のような滑らかさを持つ肢体へと変換されている。
肌は内側から発光するような透明感を放ち、細い鎖骨から流れるような肩のライン、そして豊かでありながら重力を感じさせない胸の曲線。
光が誇っていた「若さ」が、陽葵の放つ「完成された美」の前では、単なる未熟な素材に見えてしまう。
​湯船に浸かりながら、光は必死にマウントを取ろうと言葉を絞り出した。
「陽葵さん、意外と……その、しっかりしてるのね。でも、私の服、貸してあげるから。お兄ちゃんに見せてあげようよ。私、海外ブランドのタイトなやつ持ってるし」
​陽葵は、湯気に顔を上気させながら、どこまでも無垢に微笑んだ。
「光様、そんな……。私に、光様のようにお洒落な服が似合うでしょうか。自信がありません……」
​(負けてる……。何、この敗北感……)
光は湯気の中で、すでに自分の戦術が根底から崩れ去っていることを直感していた。


1d3a8a00 No.3023

入浴後、光は予告通り、自分のクローゼットから一番自信のある、身体のラインを強調するミニ丈のタイトドレスを陽葵に貸し与えた。
光自身は、お揃いの色違いを着用し、念入りにメイクを施す。
対照的に、陽葵は「私にはこれで十分です」と、センターで叩き込まれたナチュラルメイク――素肌の美しさを最大化する繊細な技術――を自分に施した。
​先に準備を終えた光は、兄の待つリビングへと飛び込んでいった。
「お兄ちゃん! 見て、お揃いだよ!」
光は兄の腕に抱きつき、得意げに自分のスタイルを強調するポーズを取った。
​しかし、数分後。
廊下から、微かな衣擦れの音と共に陽葵が現れた瞬間、リビングの空気は完全に凍りついた。
​光の服は、確かにスタイリッシュだった。
だが、それを纏った陽葵は、単に「似合っている」という次元を超えていた。
その服は、陽葵の肉体の美しさを際立たせるための「器」に過ぎず、彼女の放つ知的な色気と気品が、普通の布地を最高級のオートクチュールのように変貌させていた。
​河野は、椅子から立ち上がったまま、言葉を失って陽葵に見惚れていた。
「……陽葵さん……。なんて、可憐なんだ」
​その呟きは、魂の底から漏れた感嘆だった。
自分の隣で兄の気を引こうとポーズを取る光は、背伸びをして大人びた服を「着せられている」子供のように見え、陽葵は服そのものを支配し、自らの美しさを拡張させる「完成された女」だった。
​「お兄ちゃん、私は!? 私だって似合ってるでしょ!」
光が焦燥に駆られて叫ぶ。
​河野は陽葵から目を離さないまま、生返事で妹に答えた。
「ああ、光か。うん……元気そうに見えていいんじゃないか」
​「元気そう」――。
それは、女としての魅力を完全に否定されたに等しい、最も残酷な言葉だった。
光は握りしめた拳を震わせ、隣に立つ陽葵を見上げた。
陽葵は、どこまでも申し訳なさそうに、そして優しく光の肩に手を置いた。
​「光様のおかげで、こんなに素敵な服を着せていただけて……本当に幸せです」
​その微笑みは、もはや勝者の余裕ですらなかった。
陽葵――かつての老人は、自分を「モノ」として扱い、若さを誇示しようとした未熟な少女を、圧倒的な「格」の違いで踏みつぶしたことを確信し、冷酷な満足感を胸に刻んでいた。

40b92bb2 No.3034

時計の針は22時を回り、重厚な河野家のリビングに夜の静寂が降りてきた。
「名残惜しいけれど、夜道は物騒だわ。陽葵さん、今日は本当にありがとう。また近いうちにお会いしましょうね」
母親の言葉は、もはや完全に「身内」として彼女を受け入れた響きを持っていた。
玄関で見送る光は、兄の言葉に打ちのめされたまま、抜け殻のような顔で立ち尽くしている。
​河野が運転席に座り、助手席に陽葵をエスコートする。車が走り出す直前、姉の望が窓越しにこっそりと河野の耳元で囁いた。
「送り狼になってもいいんじゃない? お父様も、今日に限っては目を瞑ってくださるわよ。あんなに素敵な子、他の誰かに取られたら一生の不覚だわ」
姉の言葉に、河野の握るハンドルに力がこもる。
​車内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように甘く、重苦しい沈黙に支配されていた。
(アパートに帰したくない。このまま、彼女を僕だけのものにしたい……)
河野の脳裏には、妹のタイトなドレスを完璧に着こなし、圧倒的な美しさで自分を魅了した陽葵の姿が焼き付いて離れない。
​「陽葵さん、実は……大学の近くに、僕が勉強用に借りているマンションがあるんだ。少し資料を取りに寄ってもいいかな?」
「ええ……河野さんの場所なら、どこへでも」
陽葵は、すべてを察したような、それでいて無垢な微笑みを返した。
(計算通りだ。男の独占欲に火をつけるのは、嫉妬と優越感のブレンド。あとは、俺がその火に薪をくべるだけだ)

​大学近くの高級デザイナーズマンション。オートロックを抜け、室内に入った瞬間、河野は照明のスイッチを入れる間も惜しむように、陽葵を玄関の壁に押し当てた。
​「……陽葵さん、もう、限界なんだ」
河野の声は、いつもの冷静なエリートのそれではなく、飢えた獣のような熱を帯びていた。
彼は陽葵の細い腰を引き寄せ、貪るような、濃密なキスを仕掛けた。
​「ん……っ、河野さん……」
陽葵の唇から、甘い吐息が漏れる。河野の舌が、彼女の口腔内を強引に、かつ切実なほど深く蹂躙していく。
​(……ああ、これだ。男が理性を失い、俺という虚構の『至宝』に溺れていく瞬間。70年間の孤独が、この熱い唾液と体温で塗りつぶされていく……!)
​「陽葵さん、今日は本当に綺麗だった。でも、誰にも見せたくなかった。妹にさえ、君の身体を触れさせたくなかったんだ。君は、僕がこの手で守って、僕の色に染め上げなきゃいけない存在なんだ……!」
河野はキスの合間に、狂おしいほどの独白を吐き出す。
彼の指が、タイトなドレスの背中のジッパーに震えながらかかる。
​「嬉しい……。私も、河野さん以外の人に触れられるのが、こんなに怖いなんて……。あなたに会うまで、知らなかった」
陽葵は潤んだ瞳で彼を見上げ、嘘の涙をひとしずく、その頬に伝わせた。
(泣け、もっと俺を欲しがれ。あんたの将来も、家柄も、そのプライドも、全部俺の胎の中に溶かしてやる。陽葵という名の、底なしの沼にな)
​「愛しているなんて言葉じゃ足りない。陽葵さん、君を……君のすべてを、今夜僕に刻み込ませてくれ。君が失った過去も、これから歩む未来も、全部僕が買い取る」
​河野の指先が、ドレスの下の滑らかな肌に触れる。
「……はい。私、あなたのものです。どうなっても……いい。壊れるくらい、愛してください」
​陽葵は、河野の首筋に腕を回し、自分からさらに深く口づけをねだった。
暗闇の中、門倉だった男の意識は、若く美しい肉体の快楽の波に乗りながら、河野家の権力を完全に掌握するための最終フェーズへと突入したことを確信していた。

40b92bb2 No.3035

河野は陽葵の細い手首を壊れ物のように握りしめ、リビングの淡い照明から逃れるように寝室へと導いた。
重厚なダブルベッドに押し倒された瞬間、背中に伝わるマットレスの弾みが、陽葵に「引き返せない一線」を自覚させる。
​(……ついに、この時が来たか)
​内なる老人が冷徹に状況を俯瞰する。
センターでのシミュレーション、そして「淑女」としての反応パターン。
それらはすべて脳内に完璧にインストールされている。
だが、再構成されたこの瑞々しい肉体にとって、実戦としての「交わり」は文字通り初めての経験だった。
​「陽葵さん……そんなに震えて。怖いのかい?」
河野が覆いかぶさり、耳元で熱い吐息を漏らす。
実際、陽葵の指先は微かに震えていた。
それは演技ではなく、未知の刺激に対する生物学的な緊張だ。
だが、主導権まで渡すつもりはない。
​「少しだけ、お時間をいただけますか? 光様の……借りたお洋服ですから。汚してしまっては申し訳なくて。それに、今の私は、あなたの前で……ちゃんとした『私』でいたいんです」
​絶妙な「間」を作る。
河野の焦燥をあえて放置し、期待感を極限まで高めるための空白。
陽葵はゆっくりと起き上がり、河野の刺さるような視線を全身に浴びながら、タイトなドレスのジッパーを降ろした。
​服が床に滑り落ち、下着姿になった陽葵の肢体は、月光に照らされた白磁の彫刻のように美しかった。
河野の瞳は、その完成された曲線に釘付けになり、喉を鳴らす音が静寂に響く。
その視線の熱に煽られるように、河野もまた、自らの理性を象徴するスーツを剥ぎ取っていった。
​ベッドの上で、互いの肌が触れ合う。
若く、力強い男の熱量。
陽葵は、自分の膝の間に潜り込んできた河野の「証」――荒々しく脈打つその存在を、戸惑うような手つきでそっと握りしめた。
​「あっ、陽葵さん……!」
河野が短い悲鳴のような喘ぎを漏らす。
​陽葵は上目遣いに彼を見上げ、潤んだ瞳に困惑と期待を混ぜ合わせた。
「私、こういうこと……本当にはじめてで。本の中や、噂でしか知らなくて。……河野さん、どうしたらいいですか? 私は、どうなっちゃうんですか……?」
​(……壊してみろ。この偽りの純潔を、あんたの独占欲で塗り潰してみせろ)
​「大丈夫。僕が全部教えてあげる。君を、世界で一番幸せな女にしてあげるから」
​河野の声は震えていた。
彼は、目の前の少女が自分によって「女」へと変えられていくという征服感に酔いしれ、その背後に潜む「70年の老人の知略」に気づく余地など微塵もなかった。
陽葵は、彼を迎え入れる準備を整えながら、心の中で薄く笑った。
この夜、奪われるのは処女ではなく、河野家の未来そのものなのだ。

40b92bb2 No.3036

薄暗い寝室の空気は、河野の荒い吐息と、陽葵の放つ微かな甘い香りに支配されていた。
​河野は、自分が獲物を追い詰めた狩人であると信じて疑わなかった。
彼は陽葵の細い手首をベッドに押しつけ、征服欲を満たすように彼女の白い肌を貪っている。
若く、将来を嘱望されるエリートとしての全能感が、目の前の「無垢な処女」を自分色に染め上げるという快楽によって増幅されていた。
​「陽葵さん……苦しくないかい? 僕が、君を大人の女にしてあげるからね……」
​河野の声は情欲で濁り、余裕を失っていた。
彼は主導権を握っているつもりで、強引に、かつ独占的に彼女の肢体を弄んでいる。
​しかし、その下に横たわる陽葵――再構成された肉体の奥底に沈殿する老人の意識は、氷のように冷徹だった。
​(そうだ、もっと強く握れ。あんたの欲望がどこにあるのか、その指先の震えが全部教えてくれる。エリート様が、19歳の小娘の肌一枚にここまで理性を溶かすとはな)
​陽葵は、河野の動きに合わせて、計算し尽くされたタイミングで小さく身体を跳ねさせた。
​「あ、っ、河野さん……そこ、は……。私、なんだか、頭が真っ白になって……」
​彼女は、わざと拙い手つきで彼の背中に爪を立て、拒絶と懇願の絶妙な境界線を綱渡りする。
河野がさらに激しくなれば、怯えるように身を縮め、彼が不安げに動きを緩めれば、縋るようにその首筋に顔を埋める。
​「いいんだ、陽葵さん。僕に身を任せて……君の『はじめて』を、僕が全部受け止めるから」
​河野は陶酔していた。
自分が彼女を導き、守り、開発しているという全能感。
だが実際には、彼は陽葵が意図的に作り出した「隙」に誘い込まれ、彼女が望むリズムで踊らされているに過ぎなかった。
​陽葵は、河野の「証」を再びその柔らかな掌で包み込み、震える声で囁いた。
​「どうしたら、あなたを喜ばせられますか……? 私、本で読んだみたいに……こうして、動かしてみても……いいですか?」
​「あ……っ、陽葵、さん……! ああ、そうだ、それでいい……!」
​河野は快楽の奔流に飲み込まれ、視界が歪むのを感じた。
彼が主導権を持って彼女を「抱いている」はずの時間は、いつの間にか、陽葵が彼を「受け入れ、操作する」時間へと変質していた。
​陽葵の指先の動き、吐息の熱、そして時折見せる痛みに耐えるような切ない表情。
それらすべてが、河野の脳内に「この女は僕なしでは生きていけない」という強烈な刷り込みを完了させていく。
​(……チョロいもんだな。プライドの高い男ほど、『自分だけが知っている彼女の秘め事』に弱い。あんたのその真っ直ぐな愛情も、執着も、全部俺が飼い慣らしてやる)
​ついに理性の結界が崩壊し、河野が本能のままに陽葵を突き上げた瞬間、彼女は彼の耳元で、甘く、毒を含んだ声で鳴いた。
​「私……あなたから、もう離れられません。私を……あなたのものに、して……」
​その言葉は、河野にとっての「勝利の宣言」に聞こえただろう。
だが、それは陽葵による「完全な捕獲」の合図だった。
夜の帳の中で、若きエリートは自分が「主」であると信じたまま、狡猾な老人が仕掛けた美しき檻の中へと、自ら深く沈んでいった。

40b92bb2 No.3037

薄暗い寝室の静寂を、二人の重なり合う鼓動が刻んでいく。
河野は陽葵の細い膝を割り、その間に深く身を沈めた。
正常位――互いの視線が、吐息が、逃げ場もなく交差する最も濃密な体勢。
​「陽葵さん……いいかい? 怖くないよ、僕を見て……」
河野の瞳は、エリートの理性が完全に焼き切れた、独占欲に満ちた熱を帯びている。
​陽葵は、シーツを握りしめる指先に力を込め、震える声で応えた。
「はい……河野さん。あなたになら……私、どうなってもいい。痛くても、それがあなたからの『証』なら……受け止めたいんです」
​(……さあ、来い。あんたの若さと、情動のすべてを俺に叩きつけてみろ。この処女の痛みすら、あんたを縛り付ける鎖に変えてやる)
​河野が腰を沈め、ついに「その時」が訪れた。
瑞々しい肉体が初めて受け入れる、異物の侵入。
陽葵の喉から、押し殺したような、鋭く切ない悲鳴が漏れる。
​「っ、あ……! く、るしい……っ、河野、さん……!」
陽葵の瞳に、生理的な涙が溢れ、頬を伝う。彼女は逃げるように顔を背けるのではなく、あえて河野の首筋にしがみつき、その肩に歯を立てた。
​「すまない……陽葵さん、すぐ、すぐに慣れるから……。ああ、君はなんて、なんて狭くて、温かいんだ……」
河野は、彼女の「はじめて」を奪うという残酷なまでの征服感と、自分を受け入れてくれたという聖母のような包容力に、脳を掻き回されていた。
​陽葵は、痛みに耐えるふりをしながら、体内を蹂躙する感覚を冷静にモニタリングしていた。
再構成された神経系が、鮮烈な快楽の信号を脳に送り込んでくる。
​(ああ、これか。これが『女』の悦びってやつか。悪くない……。あんたが俺を壊しているつもりで、俺があんたの魂を搦め取っている。この結合は、契約の調印だ)
​河野のリズムが、次第に荒々しく、本能的なものへと変わっていく。
彼は陽葵の腰を掴み、逃がさないように自分へと引き寄せ、何度も、何度も深く突き上げた。
​「陽葵……! 陽葵……! 君は僕のものだ! 誰にも、一歩も譲らない……!」
「ああ、っ……あ、あ……! 河野、さん……私……私、壊れちゃう……! もっと、もっと、私の中に、あなたを……刻んで……っ!」
​陽葵は、快楽に溺れたふりをして腰を浮かせ、河野が最も悦ぶ角度へと自分を導く。
彼が主導権を握って攻めているようでいて、その実、彼は陽葵が作り出す「波」に翻弄され、彼女の望む絶頂へとひた走らされていた。
​寝室に、肉体と肉体がぶつかり合う湿った音と、混じり合う獣のような喘ぎが響き渡る。
河野が陽葵の体内にすべてを解き放った瞬間、彼は彼女の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくるような声を漏らした。
​「……陽葵……愛している。一生、君を離さない……」
​(あんたは今、俺という虚構に、一生分の忠誠を誓ったんだよ)
​陽葵は、ぐったりと力なく横たわる河野の髪を優しく撫でながら、暗闇の中で冷酷な勝利の笑みを浮かべた。
その表情は、誰の目にも届かない、美しき魔性の素顔だった。

40b92bb2 No.3038

カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨夜の狂乱を白日の下に晒していた。
陽葵は、まだ深い眠りの中にいる河野の、無防備でどこか幼さの残る寝顔を数秒だけ見つめた。
​(……おやすみ、エリート様。あんたの将来は、今この瞬間から俺が運営してやるよ)
​陽葵は音を立てずにベッドを抜け出し、浴室で手早く身を清めると、キッチンへと向かった。
冷蔵庫を開けると、独身男のマンションらしく中身は乏しい。卵、ベーコン、少し萎びた小松菜、そして賞味期限間近の食パン。
​陽葵は迷いなく包丁を握った。
センターの調理実習での経験から、最適解を導き出す。
ベーコンの脂で小松菜をソテーし、卵は絶妙な半熟のオムレツに。
パンを焼き、香ばしい香りがリビングに広がり始めた頃、寝室のドアがゆっくりと開いた。
​「陽葵、さん……?」
​髪を乱し、スウェットを引っ掛けただけの河野が、夢遊病者のように現れた。
陽葵はエプロン代わりのシャツの袖をまくり、最高の「家庭的な微笑み」を浮かべて振り返る。
​「おはようございます、河野さん。勝手に台所をお借りして……ごめんなさい。あまり材料がなかったので、簡単なものですけれど」
​「いや……いい匂いだ。信じられない。僕の部屋が、こんなに温かい場所になるなんて……」
​河野は吸い寄せられるように陽葵の背後から歩み寄り、その細い腰を抱きしめた。昨夜の情事が、単なる行きずりではなく、決定的な「日常の始まり」であることを、彼はこの朝食の香りで確信したのだ。
​「陽葵さん。昨夜のことは……忘れない。僕は本気だ」
​陽葵は、フライパンを火から下ろすと、わざと少し悪戯っぽく、小悪魔的な光を瞳に宿して彼を見上げた。
​「まあ、河野さん。そんなに真剣なお顔をされて……。もしかして、昨夜の『一生離さない』っていうお言葉、本気にしてしまってもよろしいのかしら?」
​「もちろんだ! 嘘なわけがないだろう!」
​焦る河野を見て、陽葵は笑い、彼の胸に指先を這わせた。
​「ふふ、嬉しい。でも、河野さん。私、欲張りなんです。ただの『恋人』じゃ、満足できないかもしれませんよ? ……もし、おじいちゃんが生きていたら、きっとこう言うでしょうね。『陽葵、その方にちゃんと、名字を変えていただけるようにお願いしなさい』って」
​「名字を……」
​「ええ。冗談ですよ? でも……。今朝、こうしてあなたの朝食を作っていたら、なんだか本当の『奥様』になったような気がして、少しだけ……未来を夢見てしまったんです。……ダメ、でしょうか?」
​首を少し傾げ、上目遣いに彼を射抜く。
その表情には、19歳の少女の可憐さと、河野家の嫁としての自覚、そして「一生を共にする」という重い契約の誘いが完璧な比率で混ざり合っていた。
​「ダメなわけがない! ……陽葵。今すぐにとはいかなくても、僕は必ず、君を僕の妻にする。これは、僕の人生を懸けた約束だ」
​(……言ったな、坊ちゃん。その言葉、言質としてしっかり保存させてもらうぜ)
​陽葵は幸せそうに彼の胸に顔を埋めた。
朝の光の中で交わされた、結婚の約束。

40b92bb2 No.3039

「あら、ずいぶん早起きなのね? 昨夜の『報告』、直接聞きに来てあげたわよ」
​カチリ、と無機質な音を立てて玄関の鍵が開いた。
朝食の香りに満ちたダイニングに、場違いなほど完璧な装いの望が、悪びれもせず入り込んできた。
その後ろには、昨夜の屈辱から立ち直れず、目の下に隈を作った光が、呪わしいものを見るような視線で立ち尽くしている。
​「姉さん!? どうして合鍵を……」
河野が慌てて立ち上がるが、望は優雅な動作で椅子を引き、陽葵が作ったオムレツを一瞥した。
​「お父様から言われたのよ。『朝の様子を見てこい』ってね。でも、心配いらなかったみたい。この空気、この香り……。陽葵さん、あなた、想像以上に『仕事』が早いのね」
​望の言葉には、弟の恋人を冷やかす姉のそれとは違う、組織の幹部が有能な部下を評価するような、冷徹な響きがあった。
彼女は陽葵の目を真っ直ぐに見据え、河野に聞こえないほどの低音で囁いた。
​「いいわ、合格よ。あなたなら、この家の『格』を落とさずに済む。河野家の繁栄という大きな目的のために、私とあなたは『同志』になれる……そうでしょう?」
​(……なるほどな。この女、家系を守るためなら、弟の純愛すら『駒』として利用する気か。面白い、俺と同じ人種の匂いがするぜ)
​内なる老人がニヤリと笑う。
陽葵は、どこまでも殊勝に、そして力強く望の手を握り返した。
「望様……。お言葉、身に余る光栄です。私はまだ未熟ですが、この家の一員として、お姉様のお力添えをいただければ、これほど心強いことはございません」
​「ふん。話が早くて助かるわ」
望は満足げに頷き、陽葵を「河野家の資産」として正式に承認した。
​しかし、その横で爆発寸前の火山のように震えているのが光だった。
「……認めない。私、絶対に認めないから!」
光がテーブルを叩き、叫んだ。彼女の目には涙が溜まっている。
​「お兄ちゃん、騙されないで! この女、昨日まで着物で大人ぶってたのに、今は私の服を着て、お兄ちゃんの胃袋を掴んで……全部計算だよ! お兄ちゃんを、河野家を乗っ取るつもりなんだよ!」
​「光! 言い過ぎだぞ!」
河野が声を荒らげるが、光のヒステリーは止まらない。
「お姉ちゃんもおかしいよ! なんでこんな、どこの誰かもわからない女を味方するの!? 私はお兄ちゃんの妹なんだよ! 一番近くにいたのは私なのに!」
​光の剥き出しの敵意。それは、論理や気品では解決できない、血の繋がった身内ゆえの「執着」だった。
陽葵は、あえて光の前に歩み寄り、彼女の冷たい手を包み込んだ。
​「光様。お辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい。でも、私はあなたの居場所を奪うつもりなんて、微塵もありません。むしろ……お兄様をこれほど愛していらっしゃる光様だからこそ、私、本当の妹のように仲良くさせていただきたいんです」
​「触らないでよ! 気持ち悪い……!」
光は陽葵の手を振り払い、玄関へと走り去った。バタン、と激しいドアの音が響く。
​「……放っておきなさい。あの子もいつか、感情より『実利』が大事だと気づくわ」
望は冷ややかに言い放つと、陽葵にだけ分かる微かな笑みを浮かべた。
「陽葵さん。これから、お父様に話をしっかりしておくわ。あなたの居場所、しっかり固めてあげるから」

bb5c57f2 No.3196

河野家での地位が盤石なものとなり、正式な婚約発表を控えたある日の夜。
大学近くのマンション、月明かりだけが差し込む静謐な寝室で、陽葵は再び河野の腕の中にいた。
昼間、政財界の重鎮たちの前で見せる「完璧な才女」の仮面を脱ぎ捨て、薄い絹の寝具に沈み込む。
河野の指先が、慈しむように、しかし抗いがたい執着を持って彼女の肌をなぞっていく。
「陽葵……。君を抱いている時だけ、僕は自分が自分であることを許される気がするんだ」
河野の低い、情熱を孕んだ声が耳元を打つ。
彼は陽葵の首筋に深く顔を埋め、その柔らかな肢体を壊れ物を扱うように、それでいて激しく求めてきた。
(ああ。求められている)
陽葵は、河野の背中に回した指先に力を込めた。
再構成されたこの肉体は、彼が与える刺激の一つひとつに、甘く、鋭い反応を返す。
ナノマシンで整えられた神経系が、かつての自分が決して知り得なかった純度の高い快楽を脳へと送り込んでくる。
男に、世界で一番価値のあるものとして扱われる快感。
誰にも見向きもされず、路地裏の塵のように消えるはずだった存在が、今や一国の未来を担うエリートを跪かせ、その魂を支配している。
この圧倒的な「全能感」こそが、陽葵にとっての最高の媚薬だった。
「あっ、河野、さん。もっと、私を……。私がいなくなっちゃうくらい、強く……っ」
喘ぎ声とともに、陽葵は彼を迎え入れる。
正常位で繋がる瞬間、互いの視線が至近距離でぶつかり合う。
河野の瞳に映っているのは、間違いなく「佐伯陽葵」という美しき偶像だ。
だが、快楽の波が最高潮に達しようとするその刹那。
陽葵の意識の深淵で、ふっと冷たい風が吹いた。
(……俺は、どこにいる?)
激しく腰を振る河野の肩越しに、暗い天井を見つめる。
そこにあるのは、門倉という老人が70年間引きずってきた、あの油臭くて、重苦しくて、惨めだった「自分」の残骸だ。
名前を呼ばれることもなく、社会の歯車ですらなく、ただ朽ち果てるのを待っていたあの「個体」は、今やこの世界のどこを探しても存在しない。
戸籍も、記憶も、肉体も、すべてがこの19歳の少女という「虚構」に塗り潰された。
寂しい、と思った。
それは、失った人生への未練ではない。
自分を自分たらしめていた「最低の現実」すら失い、この完璧な幸福という名の「檻」の中に閉じ込められてしまったことへの、寄る辺ない恐怖だ。
「陽葵、愛しているよ。僕のすべてを君に捧げる……」
河野が絶頂の中で彼女を強く抱きしめる。
その腕の力強さが、かえって陽葵に「自分」という存在の希薄さを突きつける。
今の俺を構成しているのは、センターが用意したデータと、河野が望む理想像、そしてこの「借り物の肉体」が発する快楽だけだ。
(門倉。お前はもう、本当に死んだんだな)
陽葵は、溢れそうになる涙を「悦びの雫」として河野の胸に擦り付けた。
かつての自分がいなくなった寂しさを、目の前の男が与えてくれる強烈な愛撫で強引に上書きしていく。
「私も、愛しています。河野さん。ずっと、私を離さないで……」
それは、愛の告白というよりも、この虚構の世界から自分が零れ落ちないための、切実な悲鳴だった。
若きエリートの腕の中で、陽葵は自らの消失を噛み締めながら、二度と戻れない「かつての自分」に、心の中で静かに別れを告げた。

bb5c57f2 No.3197

卒業式の喧騒から2年。
S市の名門ホテルで執り行われた河野家と佐伯家の結婚式は、政財界の重鎮が顔を揃える、まさに「世紀の披露宴」となった。
純白のウェディングドレスに身を包んだ陽葵は、もはやどこから見ても、名家に相応しい気品と知性を兼ね備えた「完璧な若夫人」だった。
かつての門倉の記憶は、今や古い図書館の奥底に封印された禁書のように、意識の表層に現れることはほとんどない。
披露宴の最中、河野は誇らしげに、そして陶酔しきった瞳で隣の陽葵を見つめていた。
「陽葵、世界で一番綺麗だよ。君と出会えたことが、僕の人生最大の幸運だ」
「私も……河野さんの妻になれて、これ以上の幸せはありません」
(ああ、そうだな。俺はこの『役』を、死ぬまで演じきってやるさ)
内なる声は、もはや門倉のものではなく、完全に「河野陽葵」としての冷徹な意志へと昇華されていた。


結婚からさらに2年。
河野家の本邸は、新たな生命の誕生という歓喜に包まれていた。
最新の設備を整えた産院の特室で、陽葵は激しい陣痛の波を乗り越え、ついにその時を迎えた。セ
ンターによる「肉体再構成」の極致――それは、かつて70歳の孤独な老人だった男が、自らの胎内から「未来」を産み落とすという、生物学的パラドックスの完成だった。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
産室に響き渡る力強い産声。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」
助産師の手によって、温かく、血の通った柔らかな塊が陽葵の胸に抱かれた。
河野家の跡取り、長男の誕生。
「陽葵、ありがとう。本当によく頑張ってくれた。僕たちの、宝物だ」
駆けつけた河野が、陽葵と赤ん坊を包み込むように抱きしめ、感極まって涙を流す。その横には、ついに陽葵を認め、「同志」として微笑む姉の望と、複雑な表情ながらも甥の誕生を喜ぶ妹の光の姿があった。
陽葵は、胸の中で動く小さな生命を見つめた。
吸い付くように柔らかな頬、力強く指を握り返してくる小さな手。
(この子は……俺の血を引き、河野家の名を受け、輝かしい未来を歩む。俺が、門倉が、決して手に入れられなかった『光』そのものだ)
赤ん坊に授乳をしながら、陽葵は窓の外に広がるS市の街並みを見下ろした。
かつて門倉が油まみれの作業着で歩き、誰にも気づかれずに消えようとしていたあの街。今、その街を支配する一族の「母」として、自分はここに立っている。
「陽葵……? どうしたんだい、泣いているのか?」
河野が優しく彼女の目元を拭う。
「いえ……。ただ、この子が、あまりに愛おしくて。私、この子のために、この家の未来のために、すべてを捧げようって、改めて思ったんです」
その言葉に嘘はなかった。
長男を産んだことで、陽葵の中の「門倉」は、完全な死を迎えたのだ。
もはや、失った過去を寂しがる自分はいない。この子の成長こそが、自分の存在を証明する唯一の真実となる。
(さあ、新しい時代を始めよう。俺が築き上げた、この完璧な偽物の天国を、本物の王国に変えていくんだ)
陽葵は、赤ん坊の額にそっと唇を寄せた。
その微笑みは、一族を統べる慈愛に満ちた母のそれであり、同時に、全てを計画通りに進めた勝者の、冷酷で美しい微笑みだった。

27cb74b1 No.3209

40代半ば、髪はボサボサで肌はくすみ、何年も日光を浴びていない。
小泉は、唯一の繋がりであった両親を亡くし、残された実家の畳の上で「緩やかな死」を待つだけだった。
「このまま孤独死して、誰にも見つからず腐っていくのか……」
そんな絶望の果てに、彼はかつてネットの広告で見かけた「S市再開発センター」の窓口を叩いた。
それが、彼にとっての最後の「救い」であり、異世界への招待状だった。


センターの地下、冷徹な照明の下で、プロジェクトリーダーは小泉のデータを眺めていた。
「小泉。社会経験なし、執着心も薄い。……いいじゃないか、まっさらな『器』に最適だ」
「彼の再構成プランは?」
「今の日本が求めているのは、少子化を食い止める圧倒的な『母性』だ。それも、大人しいだけじゃない。血気盛んな、やんちゃな男たちを何人も手なずけ、次々と子を産み落とす『女王蜂』のような素質を持たせる」
小泉の肉体は解体され、再構築された。
数ヶ月後、調整槽から現れたのは、かつての面影など微塵もない、眩いばかりの美女だった。
名前は「リナ」。
彫りの深い目鼻立ちに、男の本能をダイレクトに刺激するような、しなやかで肉感的なボディ。
鏡の前に立った小泉――リナは、自分の指先をなぞり、震えた。
「これが、私? 嘘だ……こんなに、綺麗……」
容姿が変わっただけでは、小泉の「引きこもりのマインド」は変わらない。
センターは次に、彼を「コミュニケーション特訓教室」へと叩き込んだ。
しかし、それは上品なマナー教室などではなかった。
「リナ。あなたが相手にするのは、理屈で動くエリートじゃない。血の気の多い、粗野で、だが生命力に溢れた男たちよ」
相談員は、モニターに映し出される「ターゲット候補」たちの写真を見せた。
改造車を乗り回し、徒党を組んで夜の街を闊歩する、いわゆる「ヤンキー」や「半グレ」に近い層の男たち。
彼らは生命力が強く、多産である。
「彼らを惹きつけるのは、高潔さではなく『圧倒的な女の武器』と、彼らの自尊心をくすぐる『懐の深さ』です。いい? 転がすのよ。彼らの荒々しさを全て受け止め、自分がいなければ何もできない子供のように手なずけるの」
リナは、鏡の前で表情を作る練習を繰り返した。
少し顎を上げ、挑戦的に微笑む。
相手の言葉を鼻で笑いながら、耳元で甘い声を囁く。
引きこもり時代、誰とも目を合わせられなかった小泉にとって、この「訓練」は、他者を支配する快感への目覚めでもあった。
「すごい。私が笑うだけで、教官の男の人が、あんなに顔を赤くして……」
容姿が変わったことで、他者からの視線が「恐怖」から「快感」へと変わる。
自分には、世界を、男たちを屈服させる力がある。
その自信が、リナの瞳に獲物を狙う猛獣のような光を宿らせた。


「準備はいいわね、リナ。あなたの任務は、あの界隈で最大勢力を誇るグループのリーダーを籠絡し、彼の一族をあなたの『子供』で埋め尽くすことよ」
「分かっています。私を、あんな惨めな場所から救い出してくれたんですもの。精一杯、可愛がってあげます」
リナは、センターから支給された露出度の高いタイトな服を纏い、夜の街へと踏み出した。
かつての小泉なら一分も立っていられなかったはずの、喧騒と暴力の匂いが漂う夜の街。
だが今のリナは、風になびく髪をかき上げ、最高の「女王の微笑み」を浮かべていた。
彼女の背後で、センターの技術者たちが冷酷にキーボードを叩く。
「これより、新たなカップリングをターゲットとした『多産拡大プロジェクト』を開始する」
リナの物語は、欲望と繁殖が渦巻く、新たな戦場へと幕を開けた。

cf5351ae No.3411

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