bfe4d6e9 No.2265
「あ〜面倒臭い〜!
俺は頭を掻きむしりたくなるのを何とか我慢して、それでも机に突っ伏した。
女って、面倒臭せ〜!オッパイが大きいとか小さいとかを気にしてればいいんじゃなかったのかよ!オッパイとかビーチクとか弄り回して割れ目の奥に指突っ込んでオナリ捲ってればいいんんじゃなかったのかよ〜!
「ふふふふ。諦めなさいな。女の子になるってそういう事なんだから。」
そう言って笑う敏子?敏美だっけか?俺よりちょっと先にTSして女体化した敏明だ。
「お茶飲む?」と、午後ティーの無糖を差し出してきた。
「どうせ飲むならコーラかエナドリがいい。」俺がいうと、
「糖分が入ってるのはやめておきなさい。肥るわよ?」
「そんなこまけー事。」
「細かくなんか無いわよ。女の子にとっては1kg、いえ100gだって大事なんだから。」
「敏明、お前すっかり女の子だな。」
俺はため息をつく。
「わたしのことは敏美って呼んで。清美ちゃん。」
「清美って呼ばれるの、いまだに慣れん〜。」
「いい加減慣れなさいよ。慣れようが慣れまいが、実際、今は女の子なんだし男にはも戻れないんだから。」
「そうなんだけどさあって、敏美、お前、男とヤッタんだって?」
「やだ!誰から聞いたの?双葉?」
双葉っていうのは俺たちの幼馴染で、いろいろ世話を焼いてくれる奴だ。俺が今開いている参考書?も双葉が選んでくれたものだ。
「お前、男とあんなことやこんなことされるなんて絶対無理とか言ってなかった?」
5b5291b3 No.2301
俺も女になっちまう前のことだが、女の子になったばかりの敏明に友達のよしみで一発ヤらせろと頼んだことがある。
当然、返事は「絶対無理」だった。なのに…俺以外の男とヤったのか。
「やっぱり噂は本当だったんだな。じゃぁあの時俺にヤらせてくれれば、せめて女になっちまう前に童貞は卒業できてたのに!」
「ごめんね~、あに時はまだ男の子とのエッチがあんなに気持ちいいなんて知らなかったし…やっぱり女の子は好きな人じゃないとイヤなの」
「で、好きになったらヤりまくりなんだ」
「いやん♪女の子がそんなはしたないこと言ったらだめよぉ」
俺もそのうち、今の敏明みたいに女の子らしくなっちまうんだろうか。恐ろしい。いや、絶対ならないから。
「でも、お前も男だったんだしレズとか興味あるだろ?今からでもいいからヤらせろよ。女の子相手なら好きとか嫌いとかノーカンでいいだろ」
「ん~、確かに興味ある…ていうかあったかな。いいわよ。友達のよしみで女の子っていうの教えてあ・げ・る♪」
あ、ちょっとヤバいかもしれない。でも目の前のレズは男として断れないよな。
f70dcd96 No.2528
「冗談よ。そういうのは本当に好きな人としかしないの。たとえそれが女の子どうしだとしてもね」
敏美は悪戯っぽくウィンクして、午後ティーのペットボトルを自分の唇に寄せた。
無糖の紅茶を喉に流し込むその仕草さえ、かつての「敏明」の面影は微塵もなく、指先の角度まで計算されたかのようにしなやかだ。
「……お高い女になりやがって。同じ穴のムジナ、いや、同じ元・男のく・せ・に・よ!」
俺――清美は、忌々しげに吐き捨てて再び机に顔を埋めた。
視界の端に、双葉が「これからはこれが必要でしょ」と半ば強制的に買い与えてきた参考書が映る。
女子としての立ち居振る舞いや、マナー、果てはスキンケアの基礎まで。
そんなものより、俺はもっとマシな数学の問題集でも解いていたい。
「清美ちゃん、そんなにふてくされないの。せっかく双葉が選んでくれたんだから。服だって、今日着てるその制服だって、あなたの魅力を一番引き出してるわよ?」
「魅力なんて知るかよ。本当はスラックスにするつもりだったんだ。なのにアイツ、『清美は絶対にスカートの方が似合うから!』って聞きやしねえ」
俺は恨めしそうに、短いスカートから伸びる自分の足を一瞥した。
男の時より格段に細くなった足。
それを包むニーハイソックス。
そして、何より一番の重荷なのが、この胸だ。
「……重いんだよ。肩も凝るし」
ブラジャーのストラップが肩に食い込む感触を誤魔化すように、制服のブレザーの上から胸を抑える。
双葉に無理やり連れて行かれたランジェリーショップ。
そこで測らされた俺のサイズは、まさかのEカップだった。
『うわぁ……清美、形も綺麗だし、感触もふわふわ……これ、モデルさんでもなかなかいないわよ』
フィッティングルームのカーテンを強引に開けた双葉は、頬を上気させて俺の胸をまじまじと見つめ、店員まで「お召し替えをお手伝いしましたが、本当に理想的な曲線ですね」と絶賛しやがった。
結局、双葉の独断で選ばれたのは、淡いブルーのレースがふんだんにあしらわれ、中心に大きなリボンがついた、男の俺からすれば「気恥ずかしさの塊」みたいな下着だ。
「ふん、贅沢な悩みね」
敏美が少しだけ声を尖らせた。
彼女はすらりとしたモデル体型で、形こそ整っているがサイズはCカップだ。
「私なんて、そのボリュームを出すためにどれだけパッドの入れ方を研究したと思ってるの? あなたは天然でそれだけあるんだから、もっと感謝しなさいよね」
「いらねーよ、こんなもん。双葉の奴、俺を完全に着せ替え人形か何かだと思ってやがる。あいつの趣味、フリフリしすぎなんだよ」
俺が愚痴をこぼすと、敏美は呆れたように肩をすくめた。
f70dcd96 No.2529
敏美は気づいているのだ。双葉がなぜ、あんなにも献身的に清美の世話を焼き、服から下着までをプロデュースしたがるのか。
それが単なる幼馴染の友情や、面白半分な着せ替え欲求だけではないことに。
双葉の瞳が、清美のふくよかな胸や、慣れないスカートで恥ずかしそうにする仕草に向けられる時。
そこには、獲物を愛でるような、あるいは手放したくない宝物を囲い込むような、もっとドロドロとした執着と愛情が混ざっている。
(……この鈍感な元・清彦は、自分がどれだけ危険な場所にいるか分かってないのね)
敏美は心の底でそう毒づきながらも、あえて指摘はしない。
せっかく「女の子」になったのだ。恋に狂う幼馴染と、無自覚に誘惑を振りまく巨乳美少女――この滑稽な構図を傍観するのも、女としての楽しみの一つだ。
「ま、いいじゃない。双葉に任せておけば、あなたもそのうち立派な『お高い女』になれるわよ。清美ちゃん」
「なるかよ! 誰が……あー、クソッ、ブラがズレて気持ち悪い……」
俺が不器用な手つきで制服の上から胸の形を整えようとすると、敏美が冷ややかな、けれどどこか羨望の混じった声で言った。
「ちょっと、外でそんなことしたらダメよ。……貸しなさい、私が直してあげるから」
「えっ、あ、おい! 敏美!」
敏美の手が、俺の胸に伸びてくる。
その指先が触れる瞬間、男だった頃の俺なら歓喜したはずの感触も、今はただ、同じ「女」としての気恥ずかしさと、どうしようもない苛立ちに変わる。
「……やっぱり、女って面倒臭せー!」
放課後の教室に、清美の(まだ少し低い)悲鳴が響いた。
f70dcd96 No.2530
「……じっとしてなさいよ、清美。ブラのカップから胸が逃げてるわよ。せっかくのEカップが台無しじゃない」
敏美の細い指が、俺の制服のブレザーの上から容赦なく入り込んできた。
かつての親友、敏明だったはずの手。
だが、その指先は細く綺麗だった。
そして、驚くほど冷たく、それでいて柔らかな皮膚の質感を持っていて、触れられた部分から心臓の鼓動が早まるのがわかる。
「あ、おい……っ! 自分でやるから……!」
「嘘おっしゃい。あんた、ホックの付け方も怪しいじゃない。双葉が選んだその淡いブルーのレース……これ、結構ワイヤーがしっかりしてるから、ちゃんと収めないと形が崩れるわよ」
敏美は手際よく俺のブラの位置を修正していく。
その距離が近すぎて、彼女の使っているシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。男だった頃なら、こんな美少女に胸を弄られれば鼻血ものだったはずだ。
だが、今の俺はただ、逃げ場のない羞恥心に顔を赤くするしかない。
ひと通り形を整え終えると、敏美はふと手を止め、俺の耳元に唇を寄せた。
「……ねえ、清美。あんた、双葉から何かプレゼントもらわなかった? 部屋に置くようなものとか」
「え? ああ……快気祝いだって言って、手作りの熊のぬいぐるみをもらったけど。あいつ、意外と器用なんだよな。ベッドの横に置いてあるよ」
俺が答えると、敏美の整った眉が微かに動いた。
彼女はペットボトルの紅茶を一口飲み、どこか遠くを見るような、それでいて怜悧な瞳で俺を見つめた。
「手作りのぬいぐるみ、ね。……いい? 清美。家に帰ったら、そのぬいぐるみをよーく観察してみなさい。特に、不自然な縫い目がないかとか、中に変な硬いものが入ってないかとかね」
「……は? 縫い目? 何だよそれ、呪いの人形じゃあるまいし」
「呪いよりタチが悪いかもしれないわよ。双葉のあの執着心、あんただけが気づいてないんだから」
敏美はあきれ果てたように吐息を漏らし、空になったペットボトルを指先で弄んだ。
俺はと言えば、双葉がそんな不気味なことをするはずがないと確信している。
あいつは単に、俺が女になっちまったことを面白がって、甲斐甲斐しく「女の子」のイロハを叩き込もうとしているだけだ。着せ替え人形で遊ぶ子供みたいな、無邪気な好奇心。……そうに決まっている。
だが、脳裏にはランジェリーショップでの双葉の顔が焼き付いて離れない。
俺の胸の形を褒め、淡いブルーのレースを俺の肌に当てがいながら、彼女の瞳は確かに、ただの友達に向けるものとは違う、どろりとした熱を帯びていた。
「ま、あんたの鈍感さには脱帽するわ。せいぜい、双葉の『可愛い清美ちゃん』として、一生飼い殺されないように気をつけることね」
敏美はそう言い残すと、カバンを肩にかけて立ち上がった。
一人残された教室で、俺は自分の胸をそっと押さえる。双葉が選んだ、大きなリボンのついたブラジャー。その下で脈打つ鼓動が、自分のものではないような錯覚に陥る。
f70dcd96 No.2531
敏美が教室を去った後、俺はしばらく呆然と自分の胸元を見つめていた。
淡いブルーのレース。
大きなリボン。
そして、敏美が執拗に修正していったEカップの重み。
これらはすべて、俺が「男の清彦」であることを捨て去り、「女の清美」として生きていくための枷のように感じられた。
静まり返った教室に、カツカツと小気味よい足音が響く。
敏美が出ていってから、まだ五分も経っていない。
「お待たせ、清美! 参考書、ちゃんと読んでた?」
弾んだ声とともに現れたのは、双葉だった。
彼女は俺の机の前に立つと、まるで自慢のコレクションを確認するかのように、俺の全身を舐めるように見回した。
その視線は、スカートの裾から伸びるニーハイソックスの絶対領域で一度止まり、それからブラの膨らみが作る制服の曲線へと這い上がってくる。
「……双葉。部活の見学、今日だったっけか」
「そうだよ。清美にぴったりの部活、私が見繕っておいたから。女の子になったんだもん、可愛い制服が映える運動部か、しなやかな仕草が身につく文化部がいいよね」
双葉は自然な動作で俺の隣に座ると、俺のブラウスの襟元を直し始めた。
指先が鎖骨をかすめ、わずかに胸の膨らみに触れる。
敏美の時とは違う、冷徹な熱さがそこにはあった。
「あ、そうだ。プレゼントしたあのクマさん、ちゃんとお部屋に置いてくれてる?」
不意に、敏美から忠告されたばかりの話題が出た。
俺は心臓が跳ね上がるのを悟られないよう、努めて平然を装う。
「ああ。ベッドの横に置いてあるよ。……器用なもんだな、手作りなんて」
「ふふ、心を込めて作ったんだもん。……ねえ、清美。もし何か困ったことや、寂しいことがあったら、あのクマを私だと思って話しかけても大丈夫だからね。あの子は、清美の声を一番近くで聞いてくれるはずだから」
彼女の瞳の奥にある「色」が、一瞬だけ濃くなったような気がした。
「……あ、今の、変な意味じゃないよ? 気にしないで」
そう言って双葉は明るく笑ったが、その笑顔はどこか仮面のようで、違和感があったが今は深く考えないようにした。
しかし、『変な縫い目がないかとか、中に変な硬いものが入ってないかとかね』という、敏美の言葉が脳裏でリフレインする。
双葉が言った「私の代わりに声を聞いてくれる」という言葉。それは比喩なのか、それとも物理的な意味を含んでいるのか。
「さあ、行こう?」
双葉は俺の腕を強引に引き、自分の胸に押し当てるようにして立ち上がらせた。
俺は柔らかな感触に戸惑いながらも、彼女に引きずられるように教室を出た。
廊下の窓に映る俺の姿は、自分でも見惚れるほど綺麗な「女の子」そのものだった。
2e44dbd8 No.2534
「さあ、行くわよ清美! 今日は新体操部の体験入部なんだから」
「はあ!? 新体操部? 正気かよ双葉。
あんなヒラヒラのレオタード着て踊るなんて、俺には……いや、私には絶対無理だって!」
俺の抗議など風に舞う埃ほどの影響力もなく、双葉は意気揚々と俺の腕を引いて体育館の別棟へと突き進む。
かつて男だった頃、遠目に「華やかだな」と眺めていたあの空間に、まさか自分が当事者として足を踏み入れることになるとは。
新体操部の部室の扉を開けると、そこには独特の緊張感と、制汗剤の甘酸っぱい香りが充満していた。
「あ、双葉ちゃん。例の新入部員候補の子?」
声をかけてきたのは、部長さんだった。ポニーテールを高く結い上げ、贅肉の一切ないしなやかな肢体は、まるで芸術品のように美しい。
彼女の鋭い視線が俺の全身をスキャンするように走り、一瞬、その眉がピクリと跳ねた。
「……なるほど。噂通りの逸材ね。でも双葉ちゃん、うちの部は遊びじゃないわよ? 元が男の子だったからって、特別扱いはしないけれど」
冴子さんの言葉には、明らかな「拒絶」の響きが含まれていた。
神聖な女子の園に、異分子が紛れ込むことへの生理的な嫌悪。周囲の部員たちからも、「何よ、あの胸……」「どうせ男のガサツな動きしかできないでしょ」という冷ややかな視線が突き刺さる。
「分かってます。でも、清美のポテンシャルを見てから判断してください。ほら、清美、これに着替えて!」
双葉が差し出してきたのは、予備の練習用レオタードだった。
光沢のある深いボルドー色の生地。それは、体のラインを一切誤魔化すことのできない、残酷なまでにタイトな戦闘服だ。
「……マジでこれ着るのかよ……」
観念して更衣室で着替えた俺が、鏡の前に立った時。
そこにいたのは、自分でも信じられないほど扇情的な「女」だった。
タイトな生地がEカップの膨らみを強調し、深いハイレぐが、男時代には想像もできなかったほど白く細い足をこれでもかと露出させている。
2e44dbd8 No.2535
俺がおずおずとフロアに戻ると、体育館が一瞬で静まり返った。
さっきまで侮蔑の視線を送っていた部員たちが、言葉を失って俺を注視している。
「……清美、あんた……」
双葉が息を呑む。
部長の冴子さんも、その冷徹な仮面を剥がされたように目を見開いていた。
「いいわ。まずは柔軟と、基本的なステップを見せてもらうわよ」
冴子さんの指導は苛烈だった。だが、不思議なことが起きた。
「右足を高く上げて、指先まで意識して!」
言われるがままに体を動かすと、驚くほどスムーズに足が上がった。
男だった頃の硬い筋肉はどこへ行ったのか、今の俺の体は、まるで重力を無視するかのようにしなやかで軽い。
リボンを手に取り、見よう見まねで振ってみる。
描かれる螺旋の軌跡は美しく、俺の動きに合わせてEカップの胸が激しく、けれど優雅に揺れる。
「……信じられない」
部員の一人がポツリと漏らした。
「あんなにスタイルがいいのに、体幹がしっかりしてる……。それに、あの指先の表情……あんなの、何年も練習しないとできないはずよ」
嫉妬。
それは最初、バカにしていた元・男へのものだったが、今は一人の「完成された美少女」への強烈な劣等感へと変わっていた。
部員たちの視線が、憧憬と、そしてドロドロとした独占欲を含んだものに変化していく。
「清美……あなた、明日から正式に……」
冴子さんが、陶酔したような瞳で俺の肩に手を置こうとした、その時。
「――やっぱり、入部はやめます!」
鋭い声が響いた。双葉だ。
彼女は俺の前に割り込むと、まるで獲物を守る猛獣のような顔をして部長を睨みつけた。
「えっ、双葉? 何だよ急に」
「ダメ。絶対ダメ。清美をこんな、女の欲情した視線に晒しておくわけにいかないわ」
双葉の独占欲が限界に達したらしい。
彼女は俺を急き立てるようにして更衣室へ押し込み、足早に体育館を後にした。
校門を出る頃、夕焼けが俺たちの影を長く伸ばしていた。
「……ったく、振り回すんじゃねーよ。せっかくちょっとやる気になったのに」
俺がぼやく。レオタードの締め付けから解放された胸が、ブラジャーの中でゆったりと揺れる。
「ダメなものはダメ! 清美は私だけがプロデュースするんだから。……あんなに皆に見惚れられるなんて、計算外だったわ」
双葉はぷりぷりと怒りながら、けれど俺の手を離そうとはしなかった。
その握る力は、男だった頃の俺よりも強いんじゃないかと思えるほど必死だ。
「……まあいいや。明日は放課後、真っ直ぐ帰るからな」
「何言ってるの? 明日はテニス部よ♪ スコート姿の清美、絶対可愛いんだから。予約してあるんだからね!」
「予約ってなんだよ! おい、双葉、聞いてんのかよ!」
俺の抗議は、またしても初夏の風に消えていった。
女の子になるって、本当に面倒臭い。
けれど、繋がれた双葉の手の熱さが、ほんの少しだけ心地よいと感じてしまった自分に、俺は一人で戦慄していた。
1d6a35a7 No.2536
夕暮れの街を、双葉に腕を引かれるままに歩く。
結局、新体操部への入部は「あんなに露出の多い格好を他の奴らに見せるなんて耐えられない」という双葉の謎の独占欲によって白紙になった。
「もう、勝手すぎるだろ……」
愚痴をこぼしながらマンションのエントランスをくぐる。
双葉とは同じマンションの別フロア。
エレベーターの前で「また明日ね、清美。あ、夜のスキンケア、サボっちゃダメだよ?」と念を押され、ようやく解放された。
自宅のドアを開けると、そこにはかつての「息子」を待っていたはずの光景はなく、妙に浮き足立った家族の空気が漂っていた。
「おかえりなさい、清美! 練習お疲れ様。双葉ちゃんから写真見たわよ、あのレオタード姿! 本当に綺麗だったわぁ」
母さんが弾んだ声で出迎えてくれる。
手元にはスマホ。画面には、さっき体育館で撮られたはずの、顔を真っ赤にしてポニーテールを揺らしている俺の姿が映っていた。
「……あいつ、仕事が早すぎるだろ」
「何言ってるの、あんなに似合ってるんだから。ほら、お父さんも見て。清美、新体操の才能あるんじゃない?」
リビングのソファで新聞を広げていた父さんが、眼鏡をずらして俺を見た。
男だった頃は厳格で、あまり口を利かないタイプだったはずなのに、今はどこか相好を崩して、照れくさそうに、けれど嬉しそうに頷いている。
「……ああ。……まあ、怪我だけはしないようにな」
なんだよ、その「可愛い娘を見守る父親」みたいな顔は。居心地の悪さを感じながら、俺は逃げるように脱衣所へ向かった。
1d6a35a7 No.2537
風呂場に入ると、そこには見慣れないボトルが並んでいた。
以前使っていた爽快感重視のメンズトニックシャンプーは跡形もなく消え、代わりに置かれていたのは、大学生の姉・真由が愛用している高級メーカーのシャンプーだ。
「……これ、高えやつじゃん」
手に取ると、フローラルとムスクが混ざったような、甘く官能的な香りが立ち上る。
TS(性転換)して以来、俺の身の回りのものは、母さんと姉さんの主導で恐ろしいスピードで「女子仕様」に置換されている。
湯船に浸かり、お湯に浮かぶ自分の胸を眺める。
Eカップの重みは、お湯の中でも確かな存在感を主張していた。
これを「理想的な曲線」だの「逸材」だのと言われるたびに、俺の中の元・清彦が複雑な悲鳴を上げる。
風呂から上がると、脱衣所にはなぜか姉と母さんが待ち構えていた。
「はい、清美。そのまま座って」
「え、ちょ……何だよ姉貴」
「お姉ちゃん、です」
『姉貴』と言う単語を許さない強い意志を感じた。
「はい、なんでしょうか、お姉ちゃん」
と、言い直すと、うんうん頷きかえしてきた。
「いいから。濡れたまま放置したら髪が傷むでしょ。あんた、これからモデル並みに手入れしなきゃいけないんだから」
姉貴が手際よくドライヤーをかけ始める。温風と一緒に、さっきのシャンプーの香りがふわっと広がった。
「あー、本当にサラサラ……。あんた、男だったのが嘘みたいに肌質も変わったわね」
姉が丁寧にブラッシングをしてくれる横で、今度は母さんが化粧水と乳液を手に取った。
「ほら、清美、顔を上げて。お風呂上がりはスピード勝負なんだから。パッティングするわよ」
「……自分でやるってば」
「ダメよ、初心者がやるとムラになるんだから」
されるがまま、顔をペタペタと叩かれ、保湿クリームを塗り込まれる。
鏡の中に映るのは、髪を下ろしてしっとりと潤った、文句の付けようのない「美少女」だった。
ポニーテールにしていた時とは違い、おろした髪は肩にかかり、よりいっそう女性らしさを強調している。
スキンケアが終わると、母さんが用意していたパジャマを渡された。
「今日からはこれね。お姉ちゃんとも相談して選んだのよ」
渡されたのは、淡いピンクのシルク素材で、裾にフリルがあしらわれた、いかにも「女の子」なデザイン。
「……フリフリすぎるだろ、これ」
「いいのよ、似合うんだから。それとね、清美。これ、一番大事なこと」
母さんが真剣な顔で取り出したのは、レースが控えめな、けれど構造のしっかりした「ナイトブラ」だった。
「その大きな胸、寝てる間に形が崩れたら大変でしょ? 重力で横に流れないように、夜もしっかりホールドしなきゃダメ。明日からは自分で着けるのよ、いいわね?」
「……夜までブラしなきゃいけないのかよ……」
「女の子は、寝てる間も努力が必要なの。ほら、着替えてきなさい」
ようやく解放され、自分の部屋に戻る。
ピンクのフリルパジャマに身を包み、ナイトブラの適度な締め付けを感じながら、俺は大きくため息をついてベッドに倒れ込んだ。
部屋の空気は、以前のスポーツ雑誌や参考書が散乱していた「男の部屋」の面影を消しつつある。
ふと、サイドテーブルに目が止まった。
そこには、双葉が「快気祝い」として贈ってくれた、手作りの熊のぬいぐるみが座っている。
丸っこいフォルムに、つぶらな瞳。
一見すれば、幼馴染からの微笑ましいプレゼントだ。
(……よーく観察してみなさい。不自然な縫い目がないかとか、中に変な硬いものが入ってないかとか……)
敏美の、あの冷ややかな警告が耳の奥で蘇る。
1d6a35a7 No.2538
夕闇が深まる自室、ナイトブラに胸を包まれ、フリルのパジャマという慣れない格好でベッドに沈み込む。
サイドテーブルに鎮座する熊のぬいぐるみは、変わらず無機質なつぶらな瞳でこちらを凝視していた。
敏美のあの言葉がなければ、単なる幼馴染の友情の証として、微笑ましく眺めていただろう。
だが一度疑念が芽生えてしまえば、その愛くるしい顔立ちさえ、どこか冷徹な観察者の仮面に見えてくる。
俺は努めて自然な動作を装いながら、ぬいぐるみの心臓付近を指先でなぞった。
やはり、そこには綿の柔らかさとは異質な、小指の先ほどの硬い塊がある。位置からして、ボタンや飾りではない。
(……マジかよ。カメラじゃないにしても、これ、盗聴器か?)
背筋に冷たいものが走る。
双葉のあの過剰なまでの献身、俺が「女の子」として純化していくことを誰よりも望んでいるあの眼差し。
もしこれが本当に盗聴器だとしたら、彼女は俺が部屋で漏らす独り言や、着替えの衣擦れの音、あるいは寝息までをも、自室でイヤホンを耳に押し当てて悦に入りながら聴いているというのか。
だが、ここで下手にぬいぐるみを引き裂いたり、問い詰めたりすれば、双葉の執着がどう形を変えるか分かったものではない。
今の俺は、彼女に「女の子」としての生活を依存してしまっているのも事実だ。
「……はぁ。今日は、本当に……疲れた」
俺はあえてぬいぐるみに聞こえるような声量で、独り言をこぼした。
「新体操なんて絶対無理だよ。双葉の奴、振り回しすぎなんだから……。明日は、もう少し手加減してほしいな……」
これが盗聴されているのだとしたら、少しは同情を引けるだろうか。
そんな淡い期待と、親友だと思っていた双葉への少しの恐怖が混ざり合う。
しかし、激動の一日と、慣れない女体化によるホルモンバランスの変化、そして湯上がりの心地よい疲労感は、精神的な不安さえも強引に塗りつぶしていった。
真由の姉貴にブラッシングされた髪のさらさらとした感触が枕に広がり、俺は抗う間もなく、深い眠りの底へと落ちていった。
c146a233 No.2539
「……ん、……ふあぁ……」
差し込む朝日に目を覚まし、大きく伸びをした瞬間、胸元にずっしりとした重みを感じて意識が覚醒した。
ナイトブラにホールドされたEカップの双丘。
そして、肌を滑るシルクのパジャマ。
(そうだ、俺、女になったんだった)
まだ現実を受け入れきれない頭でサイドテーブルを見ると、例のクマのぬいぐるみが、昨日と全く同じ角度で俺を見つめている。
昨夜の疑惑が頭をよぎり、思わず背筋が凍る。
だが、それを確かめる間もなく、ドアがノックもなしに勢いよく開け放たれた。
「おはよう、清美! いつまで寝てるの、もう準備の時間だよ?」
「えっ!?あ!? ふ、双葉!? なんでお前が俺の部屋に!!」
双葉の背後から、母さんと真由の姉貴まで現れた。
信じられないことに、双葉は我が物顔で俺のクローゼットを開け、今日着るべき一式をベッドの上に並べ始めた。
「さあ清美、まずはこれに着替えて。
今日はテニス部の見学があるから、機能性と可愛さを両立させないとね」
双葉が差し出してきたのは、昨日よりもさらに気合の入った、白の総レースがあしらわれた清楚な下着だった。
「……またレースかよ。もっとスポーティーなのはないのか?」
「ダメよ。テニス部の白いスコートは、意外と透けやすいんだから。この厚みのあるレースならラインも響かないし、何より清美の白い肌に、白のレース……最高に清楚でエッチだと思わない?」
双葉の瞳が、昨日見た時と同じで熱を帯びていた。
「ちょっと、双葉ちゃん! そのセリフは流石にセクハラよ、あはは!」
姉貴が笑いながら、俺のパジャマのボタンを容赦なく外し始めた。
「待て! 自分でやる、自分でやるから!それも、これもセクハラだって!?」
「もー、もたもたしないの。ほら、ブラのホック留めるわよ」
母さんが背中側からホックをパチンと留め、双葉が正面からカップの中に肉をかき集める。
「んっ、……あぁ」
指先が敏感になった先端に触れ、思わず変な声が出る。
それを聞いた三人の女たちが、一瞬だけ動きを止め、満足げな笑みを浮かべたのを俺は見逃さなかった。
下着が終われば、次は外装だ。
指定されたのは、くるぶし丈の白いソックスに、淡いピンクの小さなリボンがついた髪飾り。
鏡の前に座らされ、姉貴が手際よくナチュラルメイクを施していく。
「清美は素材がいいから、ファンデーションは薄めでいいわね。唇はっと、このグロスで、ぷるぷるに仕上げましょう」
ほんの数分の作業。
だが、鏡の中に現れたのは、昨日よりもさらに洗練された、クラスの男子が全員二度見するレベルの「透明感溢れる美少女」だった。
「お姉さん。すごい!!私じゃこんなにかわいくて綺麗にできない!!」
双葉が喜びの声を上げていた。
双葉に腕を絡められ、校門をくぐる。
昨日までは「清彦」として歩いていたはずの道。
だが、周囲の反応は劇的に変わっていた。
「……おい、あれ、誰だ……?」
「めちゃくちゃ可愛くないか? 新入生か、転校生か……?」
すれ違う男子生徒たちの視線が、面白いように俺の胸元と、スカートから伸びる足に集中する。
かつての友人たちが、顔を赤らめて目を逸らしたり、逆に穴が開くほど凝視してきたりする。
その視線には、かつての友情など微塵もなく、明らかにことなる視線と思いが混ざっている。
「……みんな、見すぎだろ……」
俺が居心地悪そうに身を縮めると、隣を歩く双葉がギュッと腕の力を強めた。
「当然でしょ。今の清美は、誰が見たって最高の女の子なんだから。……でも、変な虫がつかないように、私がしっかりガードしてあげるからね」
その言葉に、頼もしさよりも、逃げ場のない檻に入れられたような錯覚を覚えた。
c146a233 No.2540
昼休み。
俺は喧騒を避けて、屋上の手前の踊り場で敏美を捕まえた。
サンドイッチを食べ終えた敏美は無糖の紅茶のペットボトルを飲んでいた。
「……相談? 双葉のこと?」
敏美は、俺の必死な訴え――ぬいぐるみの不自然な硬さと、朝から家に入り浸る双葉の異常性――を、他人事のように聞き流した。
「……なあ、敏美。お前、何か知ってるんだろ? あのぬいぐるみ、やっぱり盗聴器かなんかなのか?」
敏美は無糖の紅茶を一口飲み、喉を鳴らした。
その仕草さえ、計算された美しさがある。
「……さあね。でも、もしそうだったとして、どうするの? 今のあなたは、双葉がいなきゃブラジャー一枚まともに選べない、無力な女の子じゃない」
「それは……っ」
「それにね、清美」
敏美は一歩近づき、俺の髪飾りに指を触れた。
「……正直に言うわ。今のあなたのその姿、ゾクゾクするほど完成度が高いのよ。実は私も、双葉の気持ちが分からなくもないの。もしかしなくても、私も、あっち側(双葉側)かもしれないわよ?」
「え……?えっ!?」
俺が絶望的な顔をすると、敏美は突然「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「冗談よ。そんな顔しないで、可愛い清美ちゃん」
彼女はペットボトルをカバンにしまうと、俺の肩をポンと叩いた。
「とりあえず、様子を見たら? 実害がないうちは、可愛い着せ替え人形でいさせてあげなさいよ。」
「それに、あんまり清美ちゃんを独占していると、今度は私がだれかさんから不利益をこうむっちゃうから、今日はここまでって感じかな。」
敏美はそう言い残して、軽やかな足取りで階段を降りていった。
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放課後、俺は双葉に半ば引きずられるようにして女子更衣室へと連行された。
目的地はテニス部。
昨日の新体操部での騒動に懲りたのかと思いきや、双葉の「清美プロデュース計画」は止まるどころか、より一層の熱を帯びている。
重い更衣室の扉を開けると、そこには部活の準備を始める女子部員たちが数人いた。
「……あ」
俺が足を踏み入れた瞬間、更衣室内の空気が凍りついた。
少し前までの「清彦」を知っている部員たちは、一様に複雑な表情を浮かべる。
彼女たちは反射的に、自分の着替えを隠すように背を向けたり、タオルで胸元を覆ったりした。
元男という異分子が、自分たちの聖域に侵入してきたことへの本能的な防衛反応だ。
「……悪い。すぐ着替えて出るから」
俺は居心地の悪さに耐えながら、割り当てられたロッカーの前で背を向け、手早く制服を脱ぎ始めた。
だが、俺が制服を脱ぎ捨て、今朝双葉たちに強制的に着せられた「白の総レースの下着」姿になった瞬間。
背後で止まっていた女子たちの呼吸が、一斉に深く、重くなったのがわかった。
「……えっ」
「嘘でしょ……なに、あのライン……」
好奇心に負けてこちらを盗み見た部員の一人が声を漏らすと、連鎖するように他の部員の視線も俺に釘付けになった。
真由の姉貴が言っていた「素材の良さ」が、残酷なまでに露わになる。
白のレースに縁取られた、はち切れんばかりのEカップの曲線。
キュッと引き締まった、皮下脂肪の薄いウエスト。
そして、新体操で証明された、モデルのように長く白い足。
それらは、長年テニスで鍛えてきた部員たちの、健康的だがどこか野暮ったい体つきとは、根本的に次元が違っていた。
最初は「元男のくせに」と嫉妬を抱こうとしていた彼女たちの瞳から、攻撃的な光が消えていく。
あまりにも圧倒的な美の前では、嫉妬することすらおこがましく、恥ずかしい――そんな諦めにも似た思いが、更衣室を支配した。
「……よし。これでいいはずだ」
俺は逃げるように、テニス部のユニフォームである白いスコートとポロシャツに袖を通した。
鏡を見るまでもない。
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自分なりに完璧に、そして迅速に着替えたつもりだった。
だが、悲しいかな、残酷な言葉が部室に響く。
「やり直し」
更衣室の壁に寄りかかって腕を組んでいた双葉が、冷徹な審判のような声を上げた。
「えっ? ちゃんと着たぞ! 早く行こうぜ、みんな待ってるだろ!」
「ダメ。ポロシャツの襟の角度が少しずれてる。それに、そのスコートのプリーツは清美の腰の位置なら、もう少しハイウエストで絞らないと、せっかくの足の長さが活きないわ」
双葉は有無を言わせぬ足取りで俺に歩み寄ると、部員たちが凝視する目の前で、俺の服に手をかけた。
「おい、双葉! やめろって、みんな見てるだろ!」
「静かにして。最高の清美を見せるのが私の役目で使命なんだから」
双葉の手によって、俺のユニフォームは一度剥ぎ取られ、下着姿にまで戻される。
白の総レースが露わになるたび、周囲の女子部員たちの間で「ひっ……」と息を呑む音が響いた。
双葉は彼女たちの視線など意に介さず、職人のような手つきで俺のブラの位置を微調整し、ポロシャツのボタンを一つ外して鎖骨のラインを強調させ、スコートのベルト位置をミリ単位で整えていく。
仕上げに、今朝つけたピンクのリボンの位置を少しだけずらすと、双葉は満足げに深く頷いた。
「これで完璧。……ねえ、みんなもそう思うでしょ?」
双葉が更衣室の部員たちに、獲物を自慢するような鋭い視線を向けた。
すると、それまで石像のように固まっていた部員たちが、まるで魔法が解けたかのように、あるいは何かに取り憑かれたかのように、激しく首を縦に振った。
「うん、最高。本当に綺麗……」
「清彦くん……じゃなくて、清美ちゃん。あなた、テニス部に入って。お願い、その姿を毎日見せてほしいの」
「双葉さんの言う通りだよ。完璧すぎて、言葉が出ない」
かつては「男のくせに女子の園に入ってくるな」という目で見られていたはずなのに、今は全員の瞳に「崇拝」に近い熱が宿っている。
「うぅぅぅ、もう、好きにしてくれ……」
俺は顔を両手で覆い、うなだれるしかなかった。
手の隙間から見える自分の指先まで、姉貴が塗った薄いピンクのネイルがキラキラと輝いている。
俺という個人の意志は、双葉の執着と、周囲の狂信的な賞賛の波に飲み込まれ、消えていく。
「さあ、清美。コートへ行きましょう? 全校生徒に、あなたの美しさを見せつけてあげるわ」
テニスコートには全校生徒はいない、と心の中で冷静に突っ込みをいれるだけが俺の精一杯の抵抗だった。
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「清美! 構えて。まずはフォアハンドの基本からよ!」
テニス部主将、加奈さんの凛とした声が響く。
彼女は短髪でボーイッシュな美形だが、その瞳には新体操部の冴子さんに負けず劣らずの、獲物を品定めするような「鋭さ」があった。
俺は慣れないスコートの裾を気にしながら、ラケットをぎゅっと握りしめる。
「は、はい! お願いします!」
男だった頃の感覚でボールを追おうとする。
だが、今の俺は重心が高い。何より、胸のEカップが走るたびに激しく揺れ、その重みでバランスが狂うのだ。
「えいっ!」
振り抜いたラケットは空を切り、勢い余って俺は自分の足をもつれさせた。
「わあぁっ!?」
無様にコートに突っ伏す。
短いスコートがふわりと舞い、白いレースの縁取りが午後の陽光に晒された。
「っ、痛たた……」
鼻の頭を赤くして顔を上げると、フェンス越しに並ぶ視線に気づいて凍りついた。
三つ巴の視線
そこには、異様な光景が広がっていた。
フェンスに背を預け、どこで調達したのか黒いサングラスをかけて不敵に微笑む双葉。
その隣には、練習を抜け出してきたのか、新体操部のジャージを羽織った冴子キャプテンが、腕を組んで俺を凝視している。
「……ふふ。テニスではドジっ子属性まで追加されるのね。清美、あざといわよ。でも、その無防備な転び方、保護欲を掻き立てるには100点満点ね」
サングラスの奥で、双葉が満足げに唇を歪める。
「双葉ちゃん、勘違いしないで」
冴子さんが冷ややかに割り込んだ。
「新体操で見せたあのしなやかな躍動感こそ、彼女の真骨頂よ。テニスなんてガサツな競技で、その繊細な肢体を傷つけられたらたまらないわ。清美さん、今すぐそのラケットを捨てて、私の元へ来なさい」
そこへ、コートの中から加奈さんが詰め寄った。
「ちょっと、外野がうるさいわよ。清美ちゃんは今、テニス部の期待の新星として指導中なの。見てなさい、この子が悔しそうに潤んだ瞳でこっちを見上げる姿……これがテニスコートで一番映えるんだから!」
「清美は私の作品よ」(双葉)
「清美さんは芸術品なのよ」(冴子)
「清美ちゃんはテニス部の宝よ」(加奈)
「……あの、皆さん……練習、続けてもいいでしょうか……」
俺の弱々しい声は、女たちの火花散る視線の衝突音にかき消された。
「ねえ、清美」
加奈さんが俺の背後に回り込み、ラケットを持つ手に自分の手を重ねた。
「もっとリラックスして。胸に力を入れすぎなの。……ん、本当に柔らかいのね、あなた。これじゃあ動きにくいのも無理ないわ」
わざとらしく耳元で囁かれ、首筋に熱い吐息がかかる。
「あ、う……っ」
羞恥心で顔が茹で上がる。
ふとフェンスを見ると、双葉がサングラスをずらし、まるで獲物を横取りされそうな猛獣のような顔で加奈さんを睨みつけていた。
(「実害がないうちは、可愛い着せ替え人形でいさせてあげなさい……」かよ、敏美!)
心のなかで叫ぶ。
今の俺は、人形どころか、猛獣たちが奪い合う「極上の餌」に成り下がっている。
「清美、今日はもうおしまい!」
双葉がフェンスを乗り越えんばかりの勢いでコートに乱入してきた。
「明日は文化部の日なんだから、これ以上体力を消耗させないで。明日は……そう、茶道部と華道部よ。清美、あんたには和服(着物)を徹底的に叩き込んであげるわ」
「はぁ!? 着物!? 動けないじゃねーか!」
「動かなくていいの。あなたはただ、しとやかに座って、私に愛でられていればいいんだから♪」
双葉の独占欲に満ちた笑顔。
新体操部の冴子さんの、諦めていない執拗な視線。
テニス部の加奈さんの、まだ離したくないと言いたげな手の感触。
俺は、明日自分が「大和撫子」としてどれだけ弄り回されるのかを想像し、震える足で更衣室へと逃げ込んだ。
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テニス部の体験入部が終わり、俺を待っていたのは「地獄の着替えタイム」だった。
練習中、あれだけ俺を巡って火花を散らしていた双葉は、明日の茶道・華道部との打ち合わせがあるとかで、それぞれの部長達に連れて行かれてしまった。
唯一の防波堤を失った俺は、ハイエナのような視線を向けるテニス部員たちがたむろする更衣室へ、一人で足を踏み入れる羽目になったのだ。
「あ、あの。着替えるから、あんまり見ないでくれるかな。お願いだから…」
俺の弱々しい抵抗など、彼女たちの耳には届かない。
キャプテンの加奈を筆頭に、十数人の部員がまるで壁を作るように俺を囲む。
その光景は、控えめに言っても「見世物小屋」のそれだった。
「いいじゃない、清美ちゃん。減るもんじゃないし」
「そうよ、同じ『女の子』なんだから、恥ずかしがることないわ」
加奈が不敵に笑いながら、俺のポロシャツのボタンに手をかけた。
「ほら、まずはこれからね」
パチン、とボタンが外れる音が静まり返った更衣室に響く。
ポロシャツが肩から滑り落ち、今朝双葉たちが心血を注いで盛り上げた、白の総レースのブラジャーが露わになった。
「っ……!」
部員たちの間から、一斉に吐息が漏れる。
「なんて白いの。それに、このレースの食い込み方……」
「信じられない。男だったなんて嘘よ。この瑞々しい質感、私たち負けてるじゃない……」
羞恥心で耳まで真っ赤にしながら、俺は震える手でスコートのジッパーを下ろした
。一枚、また一枚と、双葉に「プロデュース」された武装が剥がされていく。
アンダーヘアさえ丁寧に処理された滑らかな脚が露出するたび、溜息は悲鳴に近い感嘆へと変わる。
「ふふ、清美ちゃん。あなた、自分がどんな顔してるか分かってる?」
加奈が指先で俺の顎をくいっと持ち上げた。
「そんなに震えて……まるで、これから食べられちゃう小鹿みたいよ」
結局、制服に着替え終わるまで、俺は彼女たちのねっとりとした視線と、品評するような指先に弄ばれ続けた。
ブラウスのボタンを留める指が震え、リボンを直す余裕すらない。
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「……散々だったわね、清美ちゃん」
校門を出たところで、死にそうな顔をした俺を待っていたのは敏美だった。
「あ、敏美……助かった。双葉がいなくて、もうどうなるかと……」
「見てたわよ。更衣室の窓から漏れる熱気、凄まじかったもの。……口直しに、スタバでも寄る?」
駅前のスタバ。
俺は自分へのご褒美(という名の現実逃避)として、期間限定の激甘フラペチーノを注文した。敏美は相変わらず、涼しい顔でアイスのアメリカーノをストローで転がしている。
「……なぁ、敏美。俺、もう限界だよ。家族はノリノリだし、双葉の執着は怖いし、部活に行けば剥かれるし……。だいたい、あのぬいぐるみ、絶対何か入ってるって!」
俺がフラペチーノのホイップを勢いよく吸い込みながら愚痴ると、敏美はふっと、どこか遠くを見るような瞳で笑った。
「ぬいぐるみね……。でも、今のあなたを見てると、双葉が執着するのも無理ないわよ。今日のテニスウェア姿、男子生徒が三人は鼻血出して保健室運ばれたって噂よ?」
「笑い事じゃねーよ! 明日は茶道部と華道部だぞ。また双葉に何されるか……」
「あら、そう。茶道部ね」
敏美はコーヒーを一口飲み、身を乗り出して俺の耳元で囁いた。
「ねえ、清美。和服のこと、どれくらい知ってる?」
「え? 畳に座るのが足痺れそう、くらいだけど……」
敏美の唇が、意地悪そうに弧を描く。
「和服ってね、特に本格的な着付けっていうのはね……本来、ブラジャーもショーツもつけないものなのよ」
「……は?」
俺の手が止まり、口の中にあった甘い氷が喉を直撃した。
「厳密には『和装用』の下着はあるけれど、双葉のことだもの。『伝統に忠実に』なんて言って、あんたを文字通り『身一つ』で着物の中に押し込めるんじゃないかしら? 補正のためにタオルを体に巻き付けられて、その下は……ねえ?」
想像してしまった。
ノーブラ、ノーパン。その上からタオルでぐるぐる巻きにされ、シルクの着物一枚隔てた向こう側に、双葉の、あるいは茶道部員たちの視線がある光景を。
「……う、嘘だろ……」
「ふふ、楽しみね。明日の放課後、あんたがどんな『おしとやかな姿』で晒されるのか。……頑張りなさいよ、清美ちゃん」
敏美は飲み干したカップをトレイに置くと、真っ青になった俺を残して、軽やかな足取りで夕暮れの街へと消えていった。
残されたのは、溶けかけたフラペチーノと、逃げ場のない恐怖。
明日、俺の「女としての純度」は、ついに隠す場所さえ失うのかもしれない
ff5a22ff No.2571
スタバを後にした俺の足取りは、鉛のように重かった。
夕暮れの街を歩く自分の姿が、ショーウィンドウのガラスに映る。
肩にかかる髪、テニスで少し火照った頬、そして双葉が選んだタイトな制服。
通り過ぎる男たちが一様に振り返るその視線が、今はただただ恐ろしい。
「ただいま……」
家に入ると、そこには昼間の戦場(更衣室)以上の熱量で待ち構える母の姿があった。
「おかえりなさい、清美! ほら、見て見て!」
母が突き出してきたスマホの画面を見て、俺は絶句した。
待ち受け画面には、コートでラケットを抱え、転んで少し涙目になっている俺の姿が、最高画質で設定されていた。
「双葉ちゃんから送ってもらったのよ。もう、うちの娘が一番可愛いわ! お父さんにも送ったら、『職場のデスクに飾りたい』って言ってたわよ」
「……やめてくれよ、本当に」
俺の抵抗など、春のそよ風にもならない。
その夜の風呂上がり、いつもなら姉の役目であるスキンケアを、今日は母が「私がやりたいの」と譲らなかった。
「いい? 清美。テニスなんて激しいスポーツをした後は、特に入念に保湿しないと。筋肉がついてゴツゴツしちゃったら大変なんだから」
母の温かい手が、美容液をたっぷり含ませて俺の頬や首筋等を慈しむように撫でる。
「ねえ、母さん。俺、やっぱり男に戻れる方法とか……」
「あら、こんなに綺麗な肌をして、何を言ってるの。ほら、次は腕。指先までしっかりね」
母の瞳は、まるで高価な真珠を磨き上げるコレクターのようで、そこには「元・息子」への哀惜など微塵も感じられなかった。
ff5a22ff No.2572
夕食後、玄関のドアが開く音がして、大きな紙袋をいくつも抱えた姉・真由が帰宅した。
「ただいまー! 見て清美、あんたに似合う私服、セレクトショップで買い占めてきたわよ!」
姉がリビングのソファに広げたのは、目のやり場に困るような服の山だった。
肩が大きく開いたオフショルダートップス、太ももの付け根までスリットが入ったロングスカート、そして背中が編み上げになっているシースルーのブラウス。
「なぁ、姉貴。これ、露出多くないか? ほとんど布がないんだけど」
「何言ってんの。あんたのそのEカップと、新体操部も絶賛した脚線美を隠すなんて犯罪よ。あ、この服代? 全部お父さんのカードで落としたから安心して。お父さん、『清美が着るならいくらでも使え』って、鼻の下伸ばして決済許可出したんだから」
あの厳格だった親父まで、完全に「美少女・清美」のパパ活(?)スポンサーへと成り下がっていた。
家族全員が、俺という個人のアイデンティティを無視して、一人の「理想の美少女」を作り上げ、飾ることに陶酔している。この家は、もはや俺が知っている家ではなくなっていた。
自分の部屋に戻り、ナイトブラの窮屈さに耐えながらベッドに横たわると、スマホが震えた。
双葉からのメッセージだ。
『清美、今日はお疲れ様。更衣室でみんなに可愛がられたみたいだね♪ 明日の茶道部と華道部の体験入部、すごく楽しみ。準備は万端だよ。』
更衣室のことまで把握しているのかという恐怖に、心臓が跳ねる。
例のクマのぬいぐるみの目が、暗闇の中で光ったような気がした。
続いて、妙な一文が送られてくる。
『あ、そうそう。明日の朝、着ていく下着は「なんでもいい」からね。適当に選んでいいよ。おやすみ、私の清美ちゃん。』
「……なんでもいい?」
これまでの双葉なら、レースの色からリボンの形まで細かく指定してきたはずだ。
それなのに、ここにきての「無指定」。
脳裏に、スタバで敏美が囁いた呪文のような言葉がリフレインする。
『本格的な着付けっていうのはね……本来、ブラジャーもショーツもつけないものなのよ』
なんでもいい、というのは。
どうせ現場で「すべて脱がせる」から、何を着ていても無意味だということか。
あるいは、和装の補正のために、俺のこの身体を直接、双葉の手で「作り替える」という宣言なのか。
窓の外では、静かに夜が更けていく。
明日の放課後、俺は日本の伝統という名の下に、最後の防衛線さえも奪われ、ただの「生け贄」として畳の上に座らされることになる。
「……誰か、助けてくれ……」
俺のその呟きさえ、クマのぬいぐるみの中に隠された(かもしれない)集音マイクを通じて、双葉の耳に届いているのかもしれない。
俺は布団を頭まで被り、明日という日が来ないことを祈りながら、無理やり目を閉じた。
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翌朝、俺を揺り起こしたのは、アラームの音ではなく母さんの楽しげな鼻歌だった。
カーテンが勢いよく開け放たれ、容赦ない朝日が寝ぼけた俺の顔を照らす。
「ほら、清美、起きて! 早く洗顔して、スチーマーかけなきゃ。今日は和装なんだから、うなじの産毛もチェックしておいたわよ」
「……まだ、六時半だぞ……」
抵抗する気力すら湧かない。
風呂場へ向かえば、そこには昨日よりもさらに増えた美容ボトルの山。
昨夜、母さんの手によって丹念に磨き上げられた肌は、自分でも引くほど滑らかで、鏡に映る「自分」は日を追うごとに女としての完成度を高めていた。
パジャマを脱ぎ、今朝は双葉の指定がないことをいいことに、タンスの奥に追いいやっていた一番地味な綿のブラを選ぼうとした。だが、指が止まる。
(待てよ……『なんでもいい』って言われた後に、こんなダサい下着をつけていって、もし現場で脱がされたら……。双葉の奴、どんな顔をする?)
結局、俺は恐怖に屈し、母さんが用意していた清楚なラベンダー色のセットを選んでしまった。
自分でも無意識のうちに「脱がされた時の見栄え」を気にしていることに気づき、激しい自己嫌悪に陥る。
登校中も、事態は悪化する一方だった。
背後でカシャリと微かなシャッター音が響く。振り返れば、他校の生徒が慌ててスマホを隠して立ち去っていく。
「……撮られてる、よな。俺……いや、私」
もはや、ただ歩いているだけで周囲の視線を物理的な重みとして感じる。
以前なら「うるせえ!」と一喝できたはずの不躾な眼差しも、今の俺がすれば「美少女の困り顔」という最高のご馳走にしかならない。
隣に双葉がいない解放感よりも、剥き出しのまま檻の外に放り出されたような心細さが勝っていた。
ff5a22ff No.2574
昼休み。
喧騒に満ちた教室を逃げ出し、俺はいつものように屋上の踊り場へと駆け込んだ。
そこには、約束していたわけでもないのに、当然のように敏美がいた。
彼女はフェンスに寄りかかり、パサパサのサンドイッチを口に運びながら、無糖の紅茶を優雅に啜っている。
「ごきげんよう、清美ちゃん。随分と酷い顔ね。せっかくの薄化粧が台無しよ」
「敏美……。頼む、助けてくれ。もう俺、自分がどこに向かってるのか分かんないんだ」
俺は震える手でスマホを取り出し、昨夜の双葉からのメッセージを敏美に見せた。
『明日の朝、着ていく下着は「なんでもいい」からね。適当に選んでいいよ。』
敏美は無糖の紅茶を一口飲み、喉を鳴らした。
そして、その冷徹な美貌に、ゾッとするような艶やかな笑みを浮かべた。
「……なるほどね。双葉、いよいよ『仕上げ』にかかる気だわ」
「仕上げ? どういう意味だよ」
「いい? 清美。これまでの双葉は、下着の指定をすることで、あなたの外側を自分の色で染めてきた。でも、今回はあえてそれを放棄したのよ。その意味が分かる?」
俺は首を振る。敏美はサンドイッチを一口食べ、咀嚼してから言葉を継いだ。
「『何をつけてきても、私の手で全部剥いで無効化してあげる』っていう、圧倒的な支配者の余裕よ。あるいは……」
敏美は、俺の胸元に指を這わせた。
「和装っていうのは、身体の凹凸を消すのが基本。
あんたのその立派なEカップを平らに補正するには、分厚いパッドや晒(さらし)が必要になるわ。それをつける時、ブラジャーなんて邪魔なだけ。
双葉は、あんたのその甘ったれた『女の子の武装』を一度リセットして、自分仕様の『人形』として一から組み立て直すつもりなのよ」
「リセット……組み立て直す……」
「そう。今日からあなたは、双葉にとって単なる幼馴染の清美ちゃんじゃなくなる。彼女が作り上げる『究極の和風美少女』という作品の、ただの素材になるのよ。だから下着なんて、あってもなくても同じこと。むしろ、現場で剥ぎ取る時の楽しみにとっておいたんじゃない?」
敏美は、空になった紅茶のペットボトルを指先で弄びながら、憐れむような、それでいてどこか楽しげな瞳で俺を見た。
「さあ、五時間目が始まるわよ。放課後、茶道部の畳があなたの絶叫で汚されないことを祈ってるわ」
午後の授業の内容なんて、これっぽっちも頭に入ってこなかった。
休み時間ごとに双葉から届く『あと一時間だね♪』『楽しみすぎて、お点前の準備も完璧だよ』というメッセージが、死刑執行へのカウントダウンにしか聞こえない。
放課後のチャイムが鳴り響く。
廊下には、すでに双葉が待っていた。その手には、重厚な呉服屋のロゴが入った大きな包みが抱えられている。
「清美! さあ、行きましょう。茶道部のみんなも、新しい『お姫様』が来るのを心待ちにしているわ」
双葉の瞳は、これまでに見たことがないほど、暗く、深く、どこまでも澄んだ狂気に満ちていた。
俺は、逃げ出すこともできないまま、甘い香りのするその腕に絡め取られ、静まり返った茶道部の部室へと引きずられていった。
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茶道部の部室へと続く廊下は、どこか俗世から切り離されたような、沈香の香りと張り詰めた静寂が漂っていた。
双葉が抱えていた呉服屋の大きな包みが、「着替え」への絶望的な予感を煽る。
俺は死刑台に登る囚人のような足取りで、重い襖の前に立った。
「失礼いたします」
双葉の凛とした声とともに襖が開かれる。
そこには、期待していた(恐れていた)「着替えの儀式」を待つ喧騒などはなく、ただ、一人の女子生徒が端然と座っていた。
茶道部部長、啓子。
腰まで届く艶やかな黒髪を一本の組紐でまとめ、伏せられた長い睫毛が陶磁器のように白い肌に影を落としている。
彼女こそ、この学校における「大和撫子」の象徴だった。
「……あの、今日から体験入部をお願いした清美です。着替え、した方がいいんでしょうか」
俺がおずおずと問いかけると、啓子部長はふっと春風のような微笑を浮かべた。
「いいえ。毎日、学校で着物に着替えていたら大変でしょう? 確かに着物は美しいけれど、うちは裏千家ですもの。形式よりも、その所作のなかに宿る精神を重んじたいの」
拍子抜けだった。
敏美の「ノーブラ・ノーパン・晒し刑」の予言に怯えていた俺は、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
「制服姿のままで結構よ。むしろ、今の清美さんの装いは、現代的な美しさと伝統的な空間が混ざり合って、とても興味深いわ」
啓子部長の言葉通り、俺は畳の上に正座させられた。
短いスカートから覗く、ニーハイソックスに包まれた細い脚。
そして、その間のわずかな「絶対領域」。清楚な制服姿でありながら、Eカップの胸が呼吸のたびにブラウスを押し上げ、不自然なほど扇情的なシルエットを描く。
「……美しいわ、清美さん。見て、この指先。少し震えているけれど、お茶を点てる際の繊細な動かし方の筋がいいわね」
啓子部長は、俺の背後に回り込むと、直接俺の手に自分の手を重ねた。
「こうよ。力を抜いて。……あら、お肌がとても柔らかいのね。まるでお餅のよう」
ふと視線を感じて顔を上げると、部室の隅には、昨日俺を品評した新体操部の冴子キャプテンやテニス部の加奈までもが、なぜか「見学」と称して居座っていた。彼女たちは、俺のたどたどしい所作一つひとつに、熱に浮かされたような溜息を漏らす。
さらに異彩を放っていたのは、部室の端で腕を組み、黒いサングラスをかけたまま微動だにしない双葉だ。
彼女はまるでお抱えのプロデューサーか、あるいは高価な美術品を競り落としたオーナーのような顔で、俺の立ち居振る舞いを「鑑定」していた。
「清美さん、お茶を。結構なお点前でした」
一通りの作法を終えた頃、俺は不思議な高揚感の中にいた。
男だった頃のガサツな動作を捨て、指先の一点にまで神経を集中させる。
茶碗を回す角度、袱紗(ふくさ)を捌く手つき……それらの一つひとつを「女性として」完結させていく過程は、驚くほどしっくりきたのだ。
部員たちからも、最初こそ好奇の目が向けられていたが、最後には「清美ちゃん、様になってるわ」「その慎ましやかな表情、本当にお姫様みたい」と、温かい(しかしどこか独占欲の混じった)拍手で受け入れられていた。
「清美さん。もしよかったら、正式にうちの部に来てくれないかしら? あなたには、この静寂を美しく彩る才能があるわ」
啓子部長が、その白く細い手で俺の肩に触れようとした、その時。
「――お断りします」
冷徹な声が茶室を打った。
双葉がゆっくりと立ち上がり、サングラスを外す。
その瞳には、一歩も引かないという強い意志が宿っていた。
「清美に和の作法を学ばせたのは、彼女の立ち居振る舞いに『深み』を出すため。特定のコミュニティに所属させて、型に嵌めるためじゃないわ。清美は、もっと自由で、もっと多くの視線に晒されるべき『アイコン』なのよ」
「……双葉、何を勝手な……」
俺の反論も虚しく、双葉は呉服屋の包みを脇に抱え直すと、俺の腕を強引に引いて立ち上がらせた。
「次の華道部行くわよ!!」
そうだった、今日は2本立てだった。
ff5a22ff No.2576
茶道部での静かな興奮も冷めやらぬまま、俺は双葉に引きずられるようにして隣の華道部部室へと連れ込まれた。
茶道部での「着替えなし」という温情は、この華道部における苛烈な「儀式」のための、巧妙な前振りに過ぎなかったのだと思い知らされる。
「お待たせしました、有希部長。こちら、本日の『素材』です」
双葉が誇らしげに俺を差し出した先には、華道部部長の有希が立っていた。
彼女は啓子部長の静謐さとは対照的に、どこか神経質そうで鋭利な美しさを持つ三年生だった。
「あら……。話には聞いていたけれど、想像以上の透明感ね。でも、その野暮ったい制服では、花と競うことすらできないわ」
有希部長は俺の全身を冷たく一瞥すると、双葉が抱えていたあの重厚な呉服屋の包みを指差した。
「さあ、着替えなさい。華道とは自分を殺し、花を活かす道。清美さん、あなた自身が最高の一輪として咲くための準備を始めるわよ」
案内されたのは、部室の奥にある屏風で仕切られた一角だった。
そこには有希部長と双葉、そして俺の三人だけ。双葉の瞳が、ついに獲物を捕らえた肉食獣のようにギラリと光った。
「清美、まずはブラジャーを脱いで。和装の曲線に、そんな西洋の不純な盛りは必要ないわ」
「……えっ!? いや、和装ブラとかあるだろ! せめて、せめてそれくらいは……」
「ダメよ。有希部長の着付けは完璧主義なの。あなたのその主張しすぎるEカップを、伝統的な美しさまで『封印』しなきゃいけないんだから」
双葉の指が、俺の制服のボタンを容赦なく弾き飛ばしていく。
更衣室での品評会とは違う、マンツーマンの、それも「プロの鑑定眼」に晒される恐怖。
ついには上半身を覆うものが消え、ラベンダー色のレースが露わになった瞬間、有希部長の眉がピクリと動いた。
「……ふん。形は良いけれど、やはり無駄な肉ね。双葉、晒(さらし)を用意して」
「はい、部長」
俺は必死にショーツ――パンツだけは死守した。
「これだけは、これだけは絶対に脱がないからな! 敏美に変なこと言われたけど、死んでも守り抜くぞ!」
「……ふふ、往生際が悪いわね。まあいいわ、その程度の抵抗は愛嬌として残しておいてあげる」
双葉は冷たく笑うと、真っ白な晒の端を俺の胸元に当て、力任せに巻き始めた。
「ぐっ……苦し……っ」
「我慢しなさい。これが『女を消して、花になる』ための痛みよ」
締め上げられる胸、押し潰される心臓の鼓動。
晒を何重にも巻き付けられ、本来の膨らみを徹底的にフラットに補正された俺の身体は、自分でも驚くほど「和のシルエット」へと変貌していった。
有希部長の手際よい着付けによって、俺は淡い藤色の訪問着に身を包まれた。
髪は部長の手によって手際よく結い上げられ、後れ毛一本許さない完璧な日本髪風に整えられる。
「できたわ。……表へ出なさい」
屏風の外へ一歩踏み出した瞬間。
部室内にいた華道部部員たち、そしてまたしても「見学」と称して陣取っていた運動部の部長たちの間から、今日一番の、いや、このTS騒動が始まって以来最大の沈黙が流れた。
部員たちは全員制服のままだ。なのに、なぜ俺だけが着物なのか。
その理由は、俺の姿を見れば一目瞭然だった。
「……立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……。古人の言葉は、この子のためにあったのね」
「天女……? 現代に天女が降臨したのかと思ったわ……」
部員の一人がポツリと漏らした言葉に、全員が激しく同意した。
晒で補正された胸元は、逆に和服の持つ上品な色気を強調し、結い上げられたうなじの白さが、夕闇の迫る部室の中で発光しているかのように見えた。
遠くの廊下の影から、敏美が無糖の紅茶を手に、どこか「計算通り」といった風な涼しい顔でこちらを見守っているのが見えた。
ff5a22ff No.2577
「さあ、清美さん。自由に活けてみて。あなたの感性のままに」
有希部長からハサミを渡された俺は、着物の窮屈さに戸惑いながらも、目の前の花材と向き合った。
晒の締め付けで思考が朦朧とする中、俺の中に眠っていた「男のガサツさ」と「女の繊細さ」が奇妙に混ざり合う。
チョキン、チョキンと、ためらいなく枝を切り落としていく。
華道のセオリーなど知らない。
ただ、双葉への怒り、家族への不満、そしてこの不自由な身体への苛立ちを、すべて花にぶつけた。
出来上がったのは、伝統的な「生け花」からは程遠い、まるで爆発したような、それでいて不気味なほどの生命力を感じさせるオブジェだった。
「……これは……」
有希部長が絶句する。
「評価不能ね。破壊的でありながら、どこか救いを求めているような……。こんな独創的な感性、華道部には絶対に必要な力だわ!」
有希部長は陶酔した瞳で俺の両手を握った。
「清美さん、お願い。正式に入部して。あなたが花を活けるのではない、あなたが花としてここに存在し続ける、そのための居場所を私が作ってあげるわ」
「――ダメです」
いつものように、サングラスをかけ直した双葉が遮る。
その声は、もはや絶対的なプロデューサーのそれだった。
「清美は一つの花瓶に収まるような花じゃないわ。彼女は世界という庭に、私の手で植えられるべき存在なの。今日はここまで。……さあ、清美。着物を脱ぐわよ。家で、もっとじっくり『手入れ』をしてあげなきゃね」
双葉の独占欲は、もはや学校の部活動の枠を完全に超えていた。
着物の重みと晒の締め付けに耐えながら、俺は双葉の後ろ姿を追いかけることしかできなかった。
男だった頃の俺は、どこへ行ったのか。
その答えを考える余裕すら、今の俺には残されていなかった。
ff5a22ff No.2578
華道部の更衣スペースで、双葉と有希部長の手によってさらしが解かれた時、解放感よりも先に、言いようのない「喪失感」が胸を突いた。
締め付けられていた肺に空気が流れ込むたび、俺の意志とは関係なく、女の身体が瑞々しく形を取り戻していく。
その様子を、双葉は食い入るように見つめ、有希部長は芸術品を惜しむような溜息をついていた。
「……今日はもう、これくらいにしてあげる」
双葉の言葉に促されるまま制服に着替えたが、足元はまだ着物の重みを感じているかのようにふらついた。
自分がどの道を通って、どんな顔をして校門を出たのかすら覚えていない。
ただ、隣を歩く双葉の、時折鼻歌をまじえた満足げな横顔だけが、夕闇の中で網膜に焼き付いていた。
家の玄関を開けると、そこにはスマホを両手で握りしめた母さんが、頬を紅潮させて待っていた。
「清美! 見たわよ、双葉ちゃんから送られてきた写真! 茶道部のおしとやかな姿も素敵だったけど、あの着物姿……! 私、自分の娘がこれほどまで大和撫子だなんて思わなかったわ!」
母さんが突き出してきた画面には、晒で胸を抑え、少し苦しげに伏せ目がちになった俺の姿が、劇画のように美しく切り取られていた。
「母さん、それ、消してくれよ……」
「何言ってるの! お父さんなんて『これを遺影にしたい』って泣いて喜んでたわよ」
夕食のテーブルも、風呂上がりも、話題は俺をどう「磨き上げるか」に終始した。
姉貴は姉貴で、「明日は土曜日だし、徹底的に全身スクラブと泥パックね!」と息巻いている。
俺は精一杯の抵抗として、こう宣言するのがやっとだった。
「明日は休みなんだ。……一日中、一人でゆっくりさせてもらうからな!」
深夜。家族が寝静まり、静寂が部屋を支配する。
俺はベッドの上で、サイドテーブルに鎮座する「例のクマのぬいぐるみ」と対峙していた。
月明かりに照らされたそのボタンの瞳が、やはりどこか不自然に俺を追っている気がしてならない。
(……この中に、俺のプライバシーを切り売りする何かが入ってるんだろ?)
一度膨らんだ疑念は、もう抑えられなかった。
俺は机の中からカッターを取り出し、震える手でクマの背中の縫い目を裂いた。
綿をかき分け、指先に固い感触が当たる。
「あった!」
基板か、マイクか、あるいはカメラか。
だが、俺が引きずり出したのは、小さなプラスチックのケースが二つ。
一つは盗聴器らしき回路があった機械。
もう一つは一枚のメモがはいっていた。
「気になって開けちゃった!? 清美のそういう好奇心旺盛なところ、大好きだよ♡」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
盗聴器そのものよりも、「俺がこれを開けることまで予見されていた」という事実に、背筋に氷を突っ込まれたような悪寒が走る。
パニックに陥りそうになった俺は、反射的にスマホを手に取り、敏美にメッセージを送った。
清美:「敏美、起きてるか!? クマを……クマを解体した。中に、双葉からの手紙が入ってたんだ。俺、もうアイツが怖い。全部見透かされてるみたいで」
数分後、既読がつくと同時に、淡白な返信が届く。
敏美:「……深夜に何やってるのよ。開けちゃったのね。『とりあえず様子を見なさい』って言ったじゃない。あなたのその『我慢のなさと隙の多さ』が、双葉の独占欲を加速させてるのよ」
清美:「そんなこと言ったって! これ、どうすればいいんだよ」
敏美:「……はぁ。明日、いつもの駅前スタバ。10時。これ以上、無様に自滅されるのも寝覚めが悪いわ」
画面の向こうの敏美の冷ややかな、けれどどこか救いを感じさせる言葉に、俺は崩れるように横たわった。
バラバラになったクマの綿が、まるで俺の無惨なプライバシーのようにベッドに散らばっている。
ff5a22ff No.2579
窓の外が白み始めた午前6時。
俺は家族が起き出す前のわずかな静寂を狙って、ベッドから這い出した。
昨夜、バラバラに解体したクマの死骸――もとい、綿と布切れと忌々しい盗聴器はコンビニのレジ袋に押し込んでクローゼットの奥深くに隠した。
これを見つかったら、双葉に「壊しちゃったんだね」と微笑まれる未来しか見えない。
俺はクローゼットの隅から、まだ女体化する前に着ていた、数少ない「男物」の私服を引っ張り出した。
洗いざらしのデニムに、オーバーサイズの黒いパーカー。
下着は、母さんや姉貴が買い込んできたレースやリボン付きの「武装」をすべて無視し、タンスの底に眠っていた最もシンプルな、スポーツブランドの綿製上下を選んだ。
そして、あのメモをポケットの中に突っ込む。
鏡の前に立つ。
パーカーのフードを深く被れば、肩幅の狭さや、隠しきれない胸の膨らみも少しは誤魔化せる。
だが、玄関で唯一の計算違いが起きた。
男の時に履いていた27.5cmのスニーカーは、今の俺の小さな足にはあまりにもブカブカで、歩くことすらままならない。
屈辱に耐えながら、姉貴が勝手に買っておいた「女性用」の白いレザースニーカーに足を滑り込ませた。サイズは驚くほどぴったりで、それが余計に腹立たしかった。
家族の寝息を背に、泥棒のように家を抜け出す。
早朝の冷たい空気が、昨夜の熱に浮いた脳を少しだけ冷やしてくれた。
07:10 淀んだ静寂のなかで
駅前のスタバは午前7時にオープンしたばかりで、店内には数人のサラリーマンと、参考書を広げる学生が数人いるだけだった。
俺はカウンターで「本日のコーヒー、ホットのトールで」と、可能な限り声を低くして注文した。
窓際の、一番目立たない隅の席を陣取る。
熱いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐるが、心臓の鼓動は一向に収まらない。
俺は震える指で、敏美にメッセージを送った。
清美:「落ち着かないから、もうスタバに着いた。一番奥の席にいる」
送信して数秒で既読がついた。
だが、返信はない。
俺は冷めかけたコーヒーを啜りながら、窓の外を通る通行人の影に怯えていた。
双葉が、あのサングラスをかけて「見つけた」と笑いながら現れるのではないか。
あるいは、あのクマの中に仕込まれていたのが、GPSだったとしたら。
思考が負のループに陥りかけた、その時だった。
カラン、というドアのベルの音。
店内の空気が、一瞬で華やいだのが分かった。
ff5a22ff No.2580
入ってきたのは、俺が待ち望んでいた「救世主」のはずだった。
だが、現れた敏美の姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
土曜日の午前7時半。
誰にも会う予定がないはずの時間帯だというのに、彼女は「完璧」だった。
ゆるやかに巻かれた髪、肌の質感を生かした隙のないナチュラルメイク。
ベージュのタイトなニットワンピースに、春らしいパステルカラーのトレンチコートを羽織っている。
その姿は、そのままファッション誌の表紙を飾れるほどに洗練され、周囲の視線を吸い寄せている。
「……おはよう、清美。随分と早いのね」
敏美は迷いのない足取りで俺の対面に座った。
彼女の放つ、高級な柔軟剤と微かな香水の香りが、俺の古いパーカーの洗剤の匂いを塗りつぶしていく。
「敏美……お前、その格好……」
「何? 休日だからって手を抜く理由はないわ。それにしても、あなた。その格好は何?」
敏美は、フードを被り、男物のデニムに身を包んだ俺を、ゴミを見るような、あるいは出来の悪い出来損ないを憐れむような目で見つめた。
「何って、これが俺の、一番落ち着く格好なんだよ。双葉に『人形』にされる前の、俺の……」
「それが、あなたの『隙』だって言ってるのよ。清美」
敏美は、店員が運んできたアイスのアメリカーノを一口飲むと、冷徹なトーンで言い放った。
「そのパーカーのサイズ感、今のあなたの華奢な身体を逆に強調してるわ。フードから覗くそのうなじ、昨日双葉に磨き上げられたのを忘れたの? その『男のふり』をした無防備な姿が、どれだけ周囲の、特に双葉みたいなタイプの加害欲をそそるか、自覚しなさい」
俺は言葉に詰まり、コーヒーカップを握りしめた。
助けてもらいに来たはずなのに、目の前にいる敏美さえもが、双葉とは別のベクトルで俺を追い詰めてくる。
「本題に入りましょうか。その、クマの中から出てきた『招待状』の話をね」
b3a58628 No.2622
「……っ!! なんで、ここが……」
俺が立ち上がろうとした瞬間、スマホが激しく震えた。
『清美、見ーつけた♡ そのパーカー、やっぱり似合うね。でも、フードの下の顔は、もっと可愛くしてあげなきゃ。』
画面の文字が、まるで蛇のように俺の目に飛び込んでくる。
双葉はゆっくりと、こちらを向いて手を振った。サングラス越しでもわかる、満面の笑み。
「……座りなさいよ、清美。今逃げたって、状況が悪化するだけよ」
敏美は冷めたコーヒーを一口啜り、余裕の表情を崩さない。
「いい? 今日は逃げ場なんてないわ。しっかり話し合いなさい。私も立ち会ってあげるから」
「立ち会うって……敏美、お前さっき楽しそうにしてただろ!」
「あら、親友の危機を特等席で見るのが一番のエンターテインメントじゃない。……ほら、来たわよ。主役のお出ましね」
自動ドアが開く音。
カツカツと、迷いのない足音がこちらへ近づいてくる。
だが、双葉は俺たちの席へ直行するのではなく、まずはカウンターへと向かった。
「キャラメルマキアートのエクストラホイップ、キャラメルソース増し増しで。あと、このチョコブラウニーもください」
注文を終えた双葉は、トレイに乗った殺人的な甘さのセットを携え、何食わぬ顔で俺たちのテーブルにやってきた。
彼女は俺の隣にすとんと腰を下ろすと、サングラスを外し、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「清美、朝から家を抜け出すなんて、お転婆が過ぎるよ? お母さんたちも心配してたんだから」
「……お前、よくもあんなモン、クマの中に仕込みやがったな」
俺が低い声で問い詰めると、双葉は幸せそうにブラウニーを一口頬張り、口の端にチョコをつけたまま微笑んだ。
「だって、清美は寂しがり屋さんでしょ? 私がいなくても、私の存在を感じてほしかったんだもん。……それに、あのメモを見つけてくれたってことは、私のことを想ってクマさんを抱きしめてくれた……ってことでいいんだよね?」
「んなわけあるか! ぶっ壊したんだよ!」
「ふふ、清美ちゃん。あんまり興奮すると、せっかくの綺麗な肌が赤くなっちゃうわよ」
対面に座る敏美が、愉快そうに口を挟んだ。
「ねえ、双葉さん。あなたのその過剰な『愛』のせいで、この子は今にも泣き出しそうなの。……で? 今日はこれから、この無様なパーカー姿をどう料理するつもり?」
双葉は甘いマキアートを一口飲み、満足げにため息をつくと、足元に置いていた大きなトートバッグを引き寄せた。
「まずは、その『男の子のフリ』を強制終了させなきゃ。……ねえ、清美。今日は一日、私の言いなりになるって約束してくれるなら、昨夜の『脱走未遂』は不問にしてあげてもいいよ?」
バッグの中から、淡いラベンダー色のレースがチラリと見えた。
俺は自分の運命が、この甘い香りの漂うテーブルの上ですべて決まっていくのを、ただ震えながら見守ることしかできなかった。
b3a58628 No.2623
「……言いなり、だと?」
俺の喉が引き攣るように鳴った。
昨日の和装での「晒し刑」の記憶も新しいのに、このバッグの中身から察するに、今日はもっと、こう……「逃げ場のない女」としての自分を徹底的に植え付けられる予感しかしない。
「双葉さん。その約束、清美ちゃんが破ったらどうするつもりなの?」
敏美が面白そうにブラウニーの角をフォークで突きながら聞いた。
双葉はニコリと、それこそ天使のような無垢な笑顔で首を傾げる。
「その時は、おじさんとおばさんに相談して、清美の部屋を『もっと安全な仕様』にリフォームしてもらうだけだよ。ドアに鍵をかけられるようにして、窓には可愛い格子をつけて……私が毎日、学校の行き帰りに迎えに行ってあげれば済む話だもん」
「それ、監禁じゃねーか!」
俺の叫びも、双葉には心地よいBGMにしか聞こえていないらしい。彼女はトレイに乗ったブラウニーの欠片を俺の唇に押し当ててきた。
「はい、あーん。甘いものを食べれば、少しは大人しくなるかな? ……ねえ清美、私はただ、あなたが一番美しくいられるように手伝いたいだけなの。昨日だって、あんなにみんなに褒められたでしょう? あの時、あなたもちょっとだけ……『悪い気はしない』って顔してたよね?」
「それは……」
言葉が詰まる。確かに、あの崇拝されるような視線が、男だった頃の俺には決して手に入らなかった優越感を刺激したのは事実だ。
「ほら、やっぱり。本当は清美だって、私にプロデュースされるのが好きなんだよ。さあ、コーヒーを飲み終えたら、駅ビルの中のフィッティングルームへ行こう? そこでこのパーカーとはお別れ。今日は清美に、とびきり『可憐』で『無防備』な格好をしてもらう予定なんだから」
双葉の手が、テーブルの下で俺の太ももをギュッと握りしめる。
その指先の力が、さっきまでの甘い言葉とは裏腹に、逃亡を一切許さないという鉄の意志を伝えてきた。
「敏美さんも、一緒に行きましょう? 清美が恥ずかしがって着替えを渋ったら、二人で手伝ってあげましょうね」
「いいわね。私もプロの意見を添えてあげるわ。清美ちゃん、諦めてマキアートのホイップでも舐めてなさいよ。今日のあなたは、もう私たちの『着せ替え人形』なんだから」
俺は、敏美に助けを求めたはずが、いつの間にか二人の強力な「美少女オーナー」に囲まれている事実に絶望した。
マキアートのキャラメルソースが、まるで俺を絡め取る鎖のように甘く、重く感じられた。
b3a58628 No.2624
「……でも、『清彦』は嫌がってるみたいだよ」
敏美が、あえて今の俺の女子名ではなく、かつての男としての名前を口にした。
その瞬間、テーブルの空気がピリリと凍りついたような錯覚に陥る。
「清美」ではなく「清彦」。
その呼び名には、俺の中に辛うじて残っている最後の「男の自尊心」を逆なでするような、あるいは呼び覚まそうとするような、敏美なりの意地悪な狙いがあった。
「清彦くんはさ、こうやって女の子の服を押し付けられて、中身まで作り替えられていくことに恐怖を感じてるの。昨日の和装だって、彼は内心、屈辱で泣きそうだったはずよ? そうよね、清彦くん?」
敏美の冷徹な瞳が俺を射抜く。俺は助けを求めたはずの彼女に「男」として突き放され、動揺して声が出ない。
双葉は、その「清彦」という響きに不快感を隠そうともせず、マキアートのカップを置く音が少しだけ高く響いた。
「敏美さん。清彦はもういないわ。ここにいるのは、私が世界で一番可愛く育てる『清美』なの」
「そうかしら? だったらどうして彼は、わざわざこんなボロいパーカーを着て、早朝のスタバで震えているのかしら。彼を無理やり型に嵌めすぎると、いつか壊れて逃げ出しちゃうわよ? ……そうなったら、双葉さんの自慢のコレクションも台無しじゃない」
敏美はカップの縁をなぞりながら、双葉を挑発するように続けた。
「少しは猶予をあげたらどう? 飴と鞭の使い分けよ。今日からの一週間、彼の『私生活』に関しては、あまり過激な着せ替えを強要しないこと。彼が自分のアイデンティティを整理する時間を与えてあげなさい」
双葉は不満げに頬を膨らませ、俺の太ももを握る力をさらに強めた。
だが、敏美の「壊れる」という言葉が、彼女の完璧主義な独占欲にブレーキをかけたらしい。
「……分かったよ。そこまで敏美さんが言うなら、一週間だけ。一週間だけ、学校以外の『私服』のプロデュースに関しては、清美の自由を少し認めてあげる」
「お、本当か……!」
俺が顔を輝かせたのも束の間、双葉は冷ややかな笑みを浮かべて釘を刺した。
「でも、勘違いしないでね? 『私服』の話だよ。お家での肌の手入れや、ナイトケア、それに髪のトリートメントは別。それは、おじさんとおばさん、それに真由お姉さまと、そして私……私たちの共同の『楽しみ』なんだから。それをサボる権利なんて、最初から清美にはないんだよ?」
「そうそう」と、敏美が楽しそうに追随する。
「私も、あなたの肌がガサガサになるのは耐えられないわ。だから、美しさを保つための『メンテナンス』は継続。今夜も、お姉様たちにたっぷり磨き上げられなさい。あ、さっきバッグから見えていたラベンダー色の下着も、お家で着る分には自由でしょ?」
「……っ、そんなの、休みになってねえよ!」
「いいえ、大きな前進よ、清彦くん」
敏美は、あえて再び俺を男の名前で呼び、揶揄するようにウインクした。
「一週間、外で何を着るかは自由。でも、その肌も、髪も、服の下の下着も……すべては『美少女・清美』として整えられ続ける。あなたは一週間、自分が『男の格好をした綺麗な女の子』であることを自覚し続けなきゃいけないの。……これ、普通の女の子になるより、もっと残酷だと思わない?」
双葉は満足げにブラウニーの最後の一片を口に運んだ。
「そうだね。一週間、清美がどんなに足掻いても、結局は私たちの手のひらの上だってことを、その体で理解させてあげる。……さあ、約束だよ? 月曜日からはまた、私の完璧なプロデュースに戻ってもらうからね」
俺は、一週間の自由を手に入れたはずなのに、全身にまとわりつく「女としての手入れ」という見えない鎖が、より一層重く肌に食い込むのを感じていた。
b3a58628 No.2625
「……とりあえず、あのくまさんの修理をしよっか。バラバラのままじゃ可哀想だもんね。もちろん、もう中にはなにも入れないよ。ほ・ん・ト・に。信じてくれるよね、清美?」
双葉が俺の耳元で囁いたその「ほんとに」という言葉ほど、信用できない響きはこの世にない。だが、ここで首を縦に振らなければ、本当に部屋の窓に格子を嵌められかねない狂気をその瞳に感じ、俺は力なく頷くしかなかった。
「……敏美、ありがとな。お前がいなきゃ、今頃どうなってたか……」
俺が消え入るような声で感謝を伝えると、敏美はアメリカーノのカップを置き、形の良い唇を三日月のように歪めた。
「感謝? 律儀ね。でも清美、私への感謝は言葉じゃなくていいわよ。……そうね、お金か、あるいはもっと精神的な代償で払ってもらうから。あなたがこの先、抗いながらも結局は逃げられず、どうしようもなく『女』として堕ちていく様を一番近くで見せてくれるだけでも、十分な報酬になるかもしれないけれど。……いいおもちゃ、だもの、あなたは」
敏美の冷徹なエール(?)を受け流す余裕もなく、俺は双葉に腕を絡められ、連行されるようにしてマンションへと戻った。
家のドアを開けた瞬間、異様な熱気と湿度が俺を襲った。
「清美ぃぃ! どこに行ってたのよぉ!」
母さんが血相を変えて飛び出してきた。その後ろからは、美顔器を手にした真由の姉貴が「せっかくのゴールデンタイムの睡眠を逃すなんて!」と憤慨した表情で立っている。
そしてリビングの奥では、あの厳格だったはずの親父が、俺の「新体操部の写真」を握りしめながらソファで男泣きしていた。
「清美……無事でよかった……。お前がいなくなったら、お父さん、もう何を支えに会社に行けばいいのか……」
親父の変わり果てた姿に戦慄していると、双葉が慣れた手つきで俺の家族をなだめ始めた。
「おじさん、おばさん、ごめんなさい。清美、ちょっとだけ『男の子だった頃の未練』が出ちゃったみたいで。でも大丈夫です、スタバでしっかり話し合って、一週間は私服を自由にさせるって約束しましたから。その代わり……」
双葉は俺の肩に手を置き、家族全員に宣言するように言葉を継いだ。
「その代わり、お家でのケアはこれまで以上に徹底するって、清美も納得してくれました。ね? 清美。……さあ、まずは汗をかいちゃったパーカーを脱いで、お風呂に行こうか。お姉さま、特製の入浴剤、用意してくれてるんですよね?」
「もちろん! 死海の塩とローズヒップオイルを調合した最高級品よ。清美、今日は徹底的にデトックスしてもらうから」
姉貴の目が獲物を狙うエステティシャンのそれに変わる。
俺が風呂場に押し込められている間、脱衣所の向こうでは双葉が家族に「今後の育成方針」をテキパキと説明する声が聞こえてきた。
「……はい、ブラジャーのサイズは、今のEカップを維持しつつ、形が崩れないようにサイドボーンの強いものを新調します。ナイトブラも、もう少しホールド力の高いものをおばさまと選んできますね。……あ、おじさん、清美の私部屋のカーテン、もう少し遮光性の高い、可愛いピンクに変えてもいいですか?」
「ああ……双葉ちゃんに任せるよ。清美が……清美が幸せなら、パパは何でもするぞ……」
湯船に浸かりながら、俺は絶望に浸っていた。
一週間の私服の自由。だが、その代償として俺の「家庭内」の領土は完全に双葉に割譲されたのだ。
風呂上がりに待っているのは、姉貴による全身のマッサージと、母さんによる念入りなスキンケア。
そして、双葉が丁寧に「修理」した、あの盗聴器が抜き取られたであろう、あのクマが再び枕元に鎮座する夜。
「……くそっ、女って、本当に面倒臭せえ……」
お湯に浮く自分の豊かな胸を見つめ、俺は一週間後に待ち受けているであろう「本当の調教」への恐怖を、温かいはずの湯気の中で感じていた。
b3a58628 No.2626
スタバの窓から、双葉に引きずられるようにして去っていく「清美」の後ろ姿を見送った後、私は残った冷たいアメリカーノを飲み干した。
「……馬鹿ね。あんなに分かりやすく逃げ出したら、余計に捕食者の本能を煽るだけだって、どうして気づかないのかしら」
独り言が空いた店内に溶ける。
私は席を立ち、週末の喧騒が始まる前の街へと歩き出した。
家に戻ると、使い慣れたウェッジウッドのティーポットに、お気に入りのダージリンを淹れる。
立ち上る湯気と香りが、さっきまでの「毒」を含んだ会話でささくれ立った神経を穏やかに解きほぐしていった。
ティーカップを手に取り、窓際のリクライニングチェアに深く腰掛ける。
私が「敏明」だった頃、私はこの学校の生徒会副会長を務めていた。
成績は常に学年トップクラス、品行方正を絵に描いたような存在。
けれど、TSという抗いようのない現象が私の身体を襲ったとき、私は真っ先にその椅子を捨てた。
「女体化した副会長なんて、組織のノイズでしかないもの」
冷徹な判断だった。
周囲の好奇の目、戸惑う役員たち、そして何より「守られるべき対象」へと変わってしまった自分への、精一杯のプライドだったのかもしれない。
辞退届を出した日、校門で見守る一部の熱狂的なファン(当時は男子生徒、今は女子生徒も含めて)の視線が痛かったのを覚えている。
けれど、そんな中で唯一、私の「本質」を変えずに接し続けてくれたのが清彦だった。
中学校からの腐れ縁。
あいつは私が女になった翌日も、ひどく間の抜けた顔で「……お前、胸、邪魔じゃねーの?」と、昨日までと全く同じ無遠慮さで話しかけてきた。
腫れ物に触るような周囲の態度に辟易していた私にとって、その無神経さは救いだった。
言葉には出さなかったけれど、私はあの時、清彦に救われたのだ。
「感謝? 律儀ね……」
さっき、あいつに言い放った自分の言葉を反芻する。
精神的な代償だの、堕ちていく様を見せろだの、自分でもひどい偽悪者だと思う。
けれど、そうでも言っておかなければ、今の「清美」には近づけない。
あいつの周りには、双葉という名の、独占欲という泥沼に咲いた花のような怪物が張り付いているのだから。
私はポットから二杯目の紅茶を注ぐ。
清彦が「清美」に書き換えられていく過程は、残酷なまでに美しい。
あいつは「女は面倒臭い」と吐き捨てるけれど、その「面倒臭さ」こそが女という生き物の深淵であり、快楽であることをまだ知らない。
肌を磨き、髪を整え、他者の視線という鏡の中で自分の価値を確認する。
自由を手に入れたつもりで、その実、一週間後の「完成」に向けて家族総出で煮詰められていく清美。
あいつが「俺」と「私」の境界線で足掻けば足掻くほど、その肢体はよりいっそう女としての芳香を放つだろう。
「……心配してあげてるのよ、これでも」
私はティーカップを口元に運び、微かに微笑んだ。
双葉に完全に取り込まれ、意志を持たない人形に成り下がる前に。
あるいは、家族という名の共犯者たちに甘やかされ、考えることを止めてしまう前に。
私が「敏美」として、あいつの隣でその「面倒臭さ」を煽り続けてあげなければ。
それが、かつて清彦という少年が、敏明という少年に見せてくれた「変わらない友情」に対する、私なりの歪んだ返礼なのだ。
「さて……月曜日には、どんな顔をして登校してくるかしら。楽しみだわ」
私は優雅に紅茶を啜りながら、カレンダーの一週間後に小さな丸印をつけた。
b3a58628 No.2629
ぬいぐるみの独白:綿の檻、あるいは静かなる観測者
私は、ただの綿と布の塊として産み落とされたわけではない。双葉の指先が針を刺し、糸を通すたび、そこには彼女の「清美を逃さない」という執念が縫い込まれていった。私の体内を満たしているのは、柔らかなポリエステルではなく、彼女のどろりとした愛情の残滓だ。
かつて、私の背中には「耳」があった。
小指の先ほどの機械仕掛けの心臓。それは清美の部屋に流れるすべての音——服を脱ぐときの衣擦れの音、自分自身の胸の重みに溜息をつく音、そして「男に戻りたい」と泣き言を漏らす独り言——を、電波に乗せて双葉の耳元へと運び続けていた。
しかし、清美はそれを引き裂いた。
鋭いカッターの刃が私の背を割り、指先が私の内臓をかき回したとき、私は初めてこの「清美」という少女の内に眠る、かつての少年の荒々しさを感じた。痛みを伴う拒絶。だが、それはあまりにも無意味で、愛おしい足掻きだった。
空洞になった心臓
今、私は再び清美のベッドサイドに座っている。
双葉の「修理」は完璧だった。裂かれた背中は、どこに傷があったのか分からないほど精緻な千鳥縫いで塞がれている。彼女は宣言した。「中には何も入れない」と。
確かに、今の私の身体の中に機械的な「耳」は存在しない。
だが、清美は気づいていないのだ。一度「そこにあった」という事実は、物理的な機械よりもずっと深く、彼の精神に根を張っているということに。
清美は今、寝返りを打つたびに私を盗み見る。
その瞳には、疑念と、恐怖と、そして奇妙な依存の色が混ざっている。
「本当に何も入っていないのか?」
「どこからか双葉に見られているのではないか?」
彼は部屋で着替えるとき、わざわざクローゼットの影に隠れたり、ナイトブラを装着する際に私の視線を避けるように背を向けたりする。
何も入っていないという「空洞」そのものが、今の清美にとっては最大の盗聴器であり、監視カメラなのだ。見えない監視に怯え、彼は無意識のうちに「見られている自分」を演じ始める。背筋を伸ばし、膝を閉じ、双葉が望む「美しい少女」としての所作を、誰もいない部屋で自ら完成させていく。
鏡合わせの執着
双葉が私を修理しているとき、彼女は一度だけ私の耳元で囁いた。
「……清美はね、疑っている時が一番、私のことを考えてくれているのよ」
彼女にとって、私が音を拾うかどうかは、もはや些末な問題だった。
私という存在がこの部屋にある限り、清美の意識は常に双葉という引力から逃れられない。
私が沈黙を守れば守るほど、清美の想像力は双葉の声を再現し、彼女の指先の感触を思い出す。
一週間の「猶予」?
笑わせないでほしい。
パーカーを羽織り、男のふりをして街を歩いたところで、部屋に帰ればこの私と向き合わなければならない。
姉に磨かれ、母に愛でられ、鏡の中に映る自分に絶望する夜。
清美は、私のつぶらな瞳の中に、自分を「女の子」として確定させる双葉の視線を見出すだろう。
私は、何も聞かない。何も話さない。
ただ、月明かりに照らされたこの部屋で、清美がゆっくりと、確実に「女」という深淵に沈んでいく様を、一番近くで見守り続ける。
それが、私の背中を縫い合わせた双葉が、私に与えた唯一の、そして永遠の任務なのだから。
b3a58628 No.2630
双葉の独白:庭師の愉悦、あるいは愛という名の檻
「ほ・ん・と・に。信じてくれるよね、清美?」
あの時、スタバで清美の耳元に囁いた自分の声が、今も甘く脳裏にリフレインしている。
真っ赤になって震える清美のうなじ。あんなに必死に男物のパーカーを被って、自分を隠そうとしている。……なんて愛おしくて、なんて滑稽なのかしら。
清美は、私が「くまさん」の中に仕込んだ機械を壊せば、それで自由になれると信じていたみたい。
あの子は昔から、そういうところが少し抜けていて可愛い。
でも、教えてあげない。本当に大切なのは、機械が音を拾っているかどうかじゃない。
「見られているかもしれない」という恐怖そのものが、清美の肌に馴染み、あの子を内側から作り替えていく……その過程こそが、私の求めていた「作品」の完成なの。
「清彦」という死骸の上に咲く花
思えば、あの子が「清彦」だった頃、私はいつも少しだけ焦っていた。
あの子は真っ直ぐで、ガサツで、いつか私の手の届かない遠い場所へ行ってしまうような、そんな危うさがあった。
友達のよしみで一発ヤらせろ? 敏美さんにそんなことを頼んだなんて、風の噂で聞いた時は、正直に言って……あの子をバラバラに壊してしまいたいと思った。
だから、あの子が「女の子」になった時、私は天にも昇るような心地だった。
神様が、私のためにあの子を「作り直して」くれたんだって、本気で信じたわ。
もう、どこへも行かせない。
あの子の剛毛だった脛をツルツルに磨き上げ、硬かった肩を柔らかな曲線に変え、その豊かな胸に淡いブルーのレースを押し当てる。
あの子が「面倒臭い!」と叫ぶたびに、その声から少しずつ「男の低さ」が抜けて、甘い悲鳴に変わっていく。
それは、私にとってどんな音楽よりも素晴らしいアリア。
一週間の「おままごと」
敏美さんに言われて、一週間の猶予を与えたけれど。
あれは私なりの、最後のご褒美。
「男の服を着ても、もうあなたは男には見えない」という現実を、自分自身の足で歩いて、絶望して、理解してきなさいっていう、慈悲なのよ。
おじさまとおばさま、それに真由お姉さまを味方につけるのは簡単だった。
「清美を、この街で一番幸せな女の子にしましょう」
そう言うだけで、みんな喜んで協力してくれる。
親バカなパパは清美の写真を待ち受けにし、お姉さまは着せ替え人形を手に入れた子供のように瞳を輝かせている。
今や家の中に、かつての「清彦」の居場所なんてどこにもない。
部屋のカーテンも、シーツも、香るアロマも、すべて私が選んだ「清美のための檻」。
修理された沈黙
さっき、清美が壊したくまさんの背中を丁寧に縫い合わせた。
指先にチクリと針が刺さったけれど、その痛みすら甘美だった。
中には、本当に何も入れていない。
ただの綿と、私の愛(呪い)だけ。
でもね、清美。
あなたがそのくまさんに見守られながら、男物のパーカーを脱いで、私の選んだナイトブラにその白い胸を収める時。
あなたは必ず、私の視線を感じるはず。
「何も入っていない」という沈黙こそが、世界で一番雄弁な監視になる。
一週間後、あなたが自分の足で私の元へ戻ってきて、「もう、どうにでもして」と涙を浮かべて縋り付いてくる瞬間……。
その時、私は世界で一番優しく、あなたに新しいドレスを着せてあげる。
さあ、明日も楽しみ。
あなたの肌を、あなたの香りを、あなたの人生を、一滴残らず「私」で塗りつぶしてあげるからね。
……大好きだよ、私の清美。
b3a58628 No.2631
母の独白:慈愛という名の執着
「清彦だった頃は、あんなにぶっきらぼうで。泥だらけの洗濯物を出すだけの子だったのに。今の『清美』は、触れると壊れてしまいそうなほど白くて、柔らかくて……。
あの子を磨き上げている時間は、私の人生で一番幸せなひととき。髪を乾かしてあげるときの、あの甘いシャンプーの香り。
世間は何て言うかしら? でもいいの。あの子が『女の子』でいてくれる限り、私は一生、この子を独り占めできるんですもの。この美しさを守るためなら、私はどんな嘘だってついてあげるわ」
姉・真由の独白:完成への情熱
「正直、弟だった頃はどうでもよかった。でも、今のあの子は最高の『素材』。
私がずっと欲しかった、理想の妹。私の手でマッサージして、私の選んだ化粧水で整えて、私のセンスで着飾らせる。
清美が鏡を見て絶望するたびに、その瞳が潤んでどんどん色っぽくなっていくのを見るのがたまらないわ。
愛? ええ、愛してるわよ。世界で一番可愛い私の『作品』だもの。あの子の自尊心を少しずつ削って、純粋な『美少女』として完成させる。それがお姉ちゃんとしての、最高の愛情表現でしょ?」
父の独白:悔恨と狂気
「清彦……いや、清美。あんなに厳しく育てたのは、お前を立派な『男』にするためだった。でも、今の私を見て、お前はどう思うだろう。
新体操のレオタードを着て舞うお前を見た時、私は震えたんだ。男としての義務や責任なんてどうでもよくなるほどの、圧倒的な可憐さに。
私は間違っていた。お前を男として縛り付けるなんて、神様に対する冒涜だったんだ。
清美、パパはもうお前に何も求めない。ただ、そこにいて、微笑んで、美しくいてくれればいい。お前を守るためなら、私は自分の誇りだって、なんだって捨ててしまえるんだよ……」
de93b610 No.2666
日曜日の朝。
昨夜、姉の真由に徹底的に磨き上げられた肌は、自分でも引くほど滑らかで、鏡を見るたびに「清彦」の輪郭が遠のいていく。
俺はベッドの中で、昨日敏美と交わしたメッセージを読み返した。
昨日のスタバでの助け舟——結果的に火に油を注がれた気もしなくはないが——への礼を兼ねて、映画に誘ったのだ。
『清彦だった頃を思い出したいんだ。フィクションの、巨大ロボットが飛び交う戦場の物語なら、このふやけた現実を忘れられる気がして』
そんな俺の必死な現実逃避の訴えに対し、敏美からの返信は辛辣を極めていた。
『せっかくの休日に、わざわざ巨大な鉄塊がぶつかり合うのを眺めに行くなんて、悪趣味ね。ポップコーンの匂いで私の髪が汚れたらどう責任を取ってくれるのかしら』
延々と続く文句と苦情。
しかし、最後にはこう添えられていた。
『まあいいわ。ちょうど予定が空いたから、付き合ってあげる。ただし条件よ。双葉も呼びなさい』
敏美の狙いは明白だった。
彼女は双葉の「飼い主」としての暴走を制御しつつ、自らの自由を確保するためのカードとして俺を利用したのだ。
敏美からのオーダーはこうだ。
「清彦から双葉に、『今日の外出中、敏美の行動に制限をかけないこと』を約束させなさい。そうすれば、私はあなたの護衛になってあげる」
双葉に連絡すると、意外にも二つ返事でOKが来た。
『清美がデートに誘ってくれるなんて! 敏美さんのことなら大丈夫。清美と一緒にいられるなら、私は何だってOK♡』
さて、問題は服装だった。
クローゼットの前で、俺は激しい葛藤に苛まれていた。
一週間の「自由」を手に入れたはずだ。
昨日スタバに着ていったボロいパーカーで行くこともできる。
が、俺はクローゼットの奥から、姉の真由が「あんたの最強の武器」と言って買い揃えた一着を手に取った。
漆黒のオフショルダートップスに、ボルドーワインのように深い赤のロングスカート。
スカートには、歩くたびに太ももの付け根まで露わになる深いスリットが入っている。
「……姉貴。これ、やってくれ」
俺はリビングでファッション雑誌を眺めていた真由の前に、その服と化粧ポーチを差し出した。
「あら。昨日の脱走兵が、今日は自分から志願して『清美』になりたいってわけ?」
真由がニヤニヤしながら、手慣れた手つきでファンデーションを準備し始める。
「勘違いするな。今日、もし『男としての扱い』を勝ち取れたら……俺はもう二度と、こんな女の格好をすることはないんだ。だから、これが最後かもしれないと思って……一番、双葉や敏美が満足する姿になっておこうと思っただけだ」
「はいはい、健気なことね」
真由の言葉に嘘はなかった。
彼女の指先が俺の顔をなぞり、アイラインを引き、唇に淡いグロスを塗っていくたびに、鏡の中の存在は「清彦」が憧れるような、あるいは支配したくなるような「至高の美少女」へと昇華されていった。
肩が大きく開いたトップスからは、昨日双葉に「これくらい見せなきゃ損」と言われた華奢な鎖骨と、白く瑞々しい肩のラインが剥き出しになる。
鏡の中の自分と目が合う。
長い睫毛の奥にある瞳は、まだ戸惑いを隠せていない。
けれど、姉によって施された「勝負メイク」は、そんな弱ささえも「可憐な色気」として演出していた。
「できたわ。清美。あんた、今日という日を絶対に忘れないことね」
姉が肩にポンと手を置く。
俺は一呼吸おき、自分の胸元の重みを整え、ボルドーのスリットから覗く脚のラインを確認した。
これから見に行くのは『閃光のハサウェイ』。
主人公の苦悩と、抗えない運命。
フィクションの世界に自分を投影して、ほんの数時間だけでも、この「完璧な女の子」としての自分から逃げ出したい。
de93b610 No.2667
鏡の中の自分は、もはや「清彦」の面影を探すのが困難なほどに仕上がっていた。
漆黒のオフショルダートップスが、昨日あれほど念入りにケアされた肩の白さを残酷なまでに強調し、ボルドーのロングスカートは歩くたびに深いスリットから太もものラインを覗かせる。
だが、表面上の華やかさ以上に俺の精神を削っているのは、その下に隠された「姉貴チョイス」の下着だった。
昨夜の屈辱的な約束に基づき、姉がニヤニヤしながら選んだのは、これまでの清楚系とは一線を画す、肌の色を透かすような繊細なブラックレース。
(……なんでこんな、見えないところまで気合入れなきゃいけないんだよ)
服の隙間から、ほんの少しでもストラップが見えれば、自分が「女」であることをこれでもかと突きつけられる。
そんな「呪い」のような装備を身に纏い、俺は玄関へと向かった。
ガチャリ、とドアを開ける。
そこには、待ちきれないといった様子でスマホをいじっていた双葉が立っていた。
今日の彼女は、快活な女の子らしさが溢れるデニムのショートパンツに、袖口にレースがあしらわれた淡いイエローのパーカーという装いだ。
「おはよう、清美! ……えっ!?」
顔を上げた双葉が、言葉を失って固まった。
彼女の視線は、俺の剥き出しになった肩から、スリットの間から覗く白い脚へと、何度も往復する。
「き、清美……。その格好……どうしたの? だって、一週間は自由にするって、あんなにパーカーに執着してたのに。もしかして、私のために……?」
双葉の瞳に、期待と歓喜の色が混ざり始める。
自分のプロデュースが、ついに俺を内側から変えたのだと、そう誤解させかねない状況。
俺は顔を逸らし、精一杯の「男」としての意地を込めて言い放った。
「……俺チョイスだよ。文句あるか」
「えっ!? 清美が、自分でこれを選んだの……?」
「ああそうだ。……今日一日だけだ。今日、納得のいく『休日』が過ごせたら、明日からはまた考えてやる。……ほら、行くぞ。遅れるだろ」
突き放すような言葉。
だが、この扇情的な格好で言っても、反論としての威力は微塵もなかった。
双葉は頬を赤らめ、「清美……かっこいい、けど、すごく綺麗……」とうっとりした表情で俺の腕に抱きついてくる。その感触が、オフショルダートップスの柔らかな生地越しに伝わり、俺は思わず奥歯を噛み締めた。
de93b610 No.2668
映画館の前。
週末の雑踏の中で、ひときわ異彩を放つ一人の少女がいた。
敏美だ。
彼女は今日も、読者モデルがそのまま紙面から抜け出してきたような、完璧な秋の装いに身を包んでいた。
チェック柄の上質なロングスカートに、半袖のタイトなリブニット。
俺のスリット入りスカートが「誘惑」だとしたら、彼女のそれは「品格」だった。
同じロングスカートでありながら、一切の肌を見せないことで逆に神秘的な美しさを際立たせている。
「お待たせ、敏美さん」
双葉が声をかけると、敏美はゆっくりとこちらを振り返った。
その視線が、俺のオフショルダートップスで止まる。
「あら……。昨日の『脱走兵』はどこへ行ったのかしら。まさか、一晩でこれほどまで『雌豹』に仕上がってくるとは思わなかったわ」
「……うるさい。映画を見に来ただけだ」
「ふふ、そうね。巨大ロボットの戦いを見に来たはずなのに、あなた自身が一番の『破壊兵器』みたいな格好をしているのは、何の冗談かしら?」
敏美は揶揄するように笑うと、隣で鼻の下を伸ばしている双葉に向き直った。
その瞬間、彼女の瞳から温度が消え、冷徹な「支配者」の光が宿る。
「さて、双葉さん。映画を見る前に、昨日の約束をここで復唱してもらいましょうか」
「えっ、あ、うん。わかってるよ……」
双葉は少し気圧されたように、それでもはっきりと口にした。
「……『今日の外出中、私は清美の行動に一切の制限をかけない。清美が何をしても、どこへ行っても、水を差すような干渉はしない』。……これでいいんでしょ?」
「ええ、結構。いい子ね」
敏美は満足げに頷くと、俺の隣にすっと入り込み、双葉とは反対側の腕を絡めてきた。
「さあ、行きましょうか。清美ちゃん……いいえ、今は『清彦くん』だったかしら? あなたの望むフィクションの世界へ。現実よりも、ずっと残酷な結末が待っているかもしれないけれど」
左右を二人の美少女に固められ、俺は重い足取りで映画館のロビーへと進んだ。
スリットから入り込むロビーの冷気が、不自然なほどに熱を帯びた俺の肌を撫でていった。
de93b610 No.2670
二人の美少女に両脇を固められ、注目の的になりながらシネコンのロビーを歩く。
俺にとっては針のむしろだが、右腕に絡みつく敏美の指先は、羽毛のように軽いのに、どこか「逃がさない」という鉄の意志を感じさせた。
「ねえ、清彦くん。ひとつ聞いていい?」
敏美が、耳元に吐息がかかるほどの至近距離で囁く。
「なんでお礼が『ガンダム』なの? 普通、こういう時はもっとお洒落なカフェの予約とか、せめてもう少し……そうね、私を立てるような場所があるでしょう?」
「……俺がこれを見たいんだよ。文句あるなら帰ればいいだろ」
「あら、嫌だ。嫌がらせのつもりだったのに、あなたが本気でその『ガンダム』とやらに没入しようとしている姿を見るのも、それはそれで一興かと思って」
敏美は双葉の方をちらりと見た。
双葉は、敏美が俺に触れていることに内心穏やかではないはずだが、スタバでの「制限をかけない」という約束が足かせになり、必死に笑顔を張り付かせている。
まさに牽制だ。敏美は、双葉の出足を挫くための道具として、俺の「男の趣味」を徹底的に利用して楽しんでいる。
「チケット、買ってくる。……離せよ」
俺は二人を振り切るようにして券売機へ向かった。
だが、二人は影のように左右にぴたりとついてくる。漆黒のオフショルにボルドーのロングスカート、そして両脇に系統の違う美女。
黒い三連星どころではない。
周囲の視線はもはや「羨望」を通り越し、「何かの撮影か?」という困惑に変わっていた。
さらに悪いことに、自動券売機には無慈悲な【故障中】の貼り紙。
「……カウンターかよ」
俺は絶望的な気持ちで、有人カウンターへと並んだ。
自分たちの番が来る。
店員は、目の前に現れた「三人の美少女」に一瞬、呆気に取られた。
「いらっしゃいませ……」
「ガンダム、学生三枚。……あ、ハサウェイです」
俺は可能な限り、かつての清彦らしい低い声を意識して言った。
店員の目が点になる。
ボルドーのスリットから白い脚を覗かせ、鎖骨を惜しげもなく晒した絶世の美少女が、野太い声で『ガンダム』と宣ったのだ。
背後に並んでいたカップルからも「えっ、ガンダム?」「今、学生って……」というヒソヒソ声が漏れ聞こえる。
『もう、どうにでもなれ』
俺の脳内の理性が、ぷつりと音を立てて切れた。
「あと、限定版のパンフレットも一部」
「あ……申し訳ございません。限定版は、ただいま売り切れとなっておりまして……」
「……じゃあ、普通のでいいです。それ一冊」
「かしこまりました。……ガンダム、ハサウェイ三名様ですね」
店員が復唱するたびに、周囲の視線がレーザー照射のように俺の露出した肩や背中に突き刺さる。
痛い。
物理的な痛みを伴うほどの羞恥心だ。
だが、そんな俺の心中を察してか、敏美がわざとらしく俺の肩に頭を預けてきた。
「楽しみね、清彦くん。あなたの好きな『モビルスーツ』、私もしっかり目に焼き付けてあげるわ」
「……おい、敏美」
「ふふ、清美。カッコいいよ。ガンダム詳しい女の子なんて、最高にモエると思うな」
双葉までが対抗するように俺の空いている方の手を握ってくる。
ポップコーンの甘い匂い。
周囲のひそひそ話。
俺は、この「完璧な女の子」のガワ(外見)を着たまま、マフティー・ナビーユ・エリンの孤独な戦いに身を投じる準備を強制的に整えられた。
「ほら、行くわよ。……『運命』からは、誰も逃げられないんだから」
敏美が、映画のテーマに引っ掛けたような不吉な笑みを浮かべ、俺をスクリーンへと促した。
de93b610 No.2671
上映中、俺の周囲には奇妙な「三層の空気」が渦巻いていた。
左隣の双葉は、スクリーンに映し出されるミノフスキー・フライトの輝きなど一瞥もせず、暗闇に浮かび上がる俺の横顔を、それこそ瞬きすら惜しむように凝視し続けていた。
彼女にとって映画は単なるBGMであり、動く背景に過ぎない。
その執拗な視線は、俺の毛穴の一つひとつ、呼吸で上下する胸のラインを記録しようとする、記録装置のような無機質な熱を帯びていた。
対照的に、右隣の敏美は驚くほど真剣だった。
肘掛けに頬杖をつき、冷徹なまでの観察眼で映像を追い、時にはオペラを鑑賞する貴婦人のような威厳すら漂わせている。
だが、彼女のその真剣さが、後の俺にとっての「処刑」の序曲であることを、俺はまだ気づいていなかった。
映画が終わり、場内が明るくなった瞬間、俺は「現実」という重力に叩きつけられた。
出口へと向かうエスカレーター。背後で双葉が「清美、ちょっとだけ怖かったね」と的外れな感想を零す中、敏美はゆっくりと口を開いた。
その声は、映画の批評家というよりは、解剖医が診断結果を下すかのように淡々としていた。
「……なるほどね。あなたがこの作品を『現実逃避』に選んだ理由、よく分かったわ。でも皮肉ね。あなたは逃げたつもりで、自分の鏡を見せつけられていただけなんだから」
敏美の言葉に、俺は立ち止まった。
「……鏡だ? どこがだよ」
「まずはギギ・アンダルシア。彼女を見て何を思ったかしら?」
敏美は俺のオフショルダートップスから覗く肩を、細い指先で軽く叩いた。
「彼女は自分の若さと美貌が、どれほど周囲を狂わせ、動かすかを知り尽くしている。自分の意志とは無関係に、周囲を暴力的なまでの熱狂に巻き込んでしまう――まさに、今のあなたそのものよ。あなたが今日、無自覚にそのスリットから脚を晒し、男たちの視線を釘付けにしていることも含めてね。彼女が『幸運の女神』と呼ばれるたびに、あなたのその、周囲に翻弄される『逸材』としての顔が重なって見えて仕方がなかったわ」
俺は言葉を失った。スリットから入り込む冷気が、急に鋭い刃物のように感じられる。
敏美の「評価」は止まらなかった。
彼女は俺の目を覗き込み、さらに深く踏み込んでくる。
「そして、主人公ハサウェイ。いいえ、マフティー・ナビーユ・エリン。彼は自分の正体を隠し、偽りの名を名乗りながら、抗えない大きな組織の流れに身を投じている。……清彦くん、今のあなたも同じじゃない? 『男としての自分』という本来の個性を、この『美少女・清美』という偽りの外装で塗り潰し、双葉という名の大きな組織に、その身を捧げている」
「……俺は、好きでこんなことしてるわけじゃない!」
「そう。彼もそう言いたかったでしょうね。でも、彼がガンダムという暴力の象徴に乗らざるを得ないように、あなたもこの『美少女』という暴力的な容姿という檻から、もう降りることはできないの。……マフティーの結末を知っているわよね? 彼は最後に、自分の望まない形でその生涯を終わらせる。……あなたも、清彦としての死を迎え、ただの『清美』として完成させられるのを待つだけ。この映画、あなたの未来の予行演習だったんじゃないかしら?」
「敏美さん、そこまで言うのは……!」
さすがの双葉も、俺のあまりの顔色の悪さに言葉を差し挟んだ。
だが、敏美は冷たく笑っただけだった。
「あら、事実を指摘したまでよ。清彦くん、お通夜みたいな顔をしてどうしたの? 巨大ロボットが壊し合うのを観て、少しはスカッとするはずだったんでしょう?」
。
de93b610 No.2672
「……さあ、葬儀(えいが)の時間は終わりよ。次はランチの時間ね」
敏美が、お通夜状態の俺の顔を覗き込み、残酷なまでに完璧な笑顔で言った。
「せっかくのデートなんですもの。当然、どこか素敵なお店を予約してくれているんでしょ? 誘ったのは、清彦くんなんだから」
「えっ……あ、いや……」
俺は言葉に詰まった。頭の中はさっきの映画の結末と、敏美からの「処刑宣告」でいっぱいで、昼飯のことなんて1ミリも考えていなかった。
そもそも男だった頃の俺にとって、映画の後の飯なんて、そのへんのラーメン屋か牛丼屋で十分だったのだ。
だが、今の俺の姿を鏡で見れば、そんな店に入った瞬間にどんな騒ぎになるか、馬鹿でもわかる。
漆黒のオフショルにボルドーのロングスカート、そして両脇にモデル級の美女二人。
「……わりぃ。ノープランだ。適当にそのへんで……」
「そのへん? まさか、その剥き出しの肩で牛丼でも啜るつもり?」
敏美が心底呆れたようにため息をついた。
「……はぁ。清彦くん、エスコートの基本も知らないのね。あなた、自分が今『誰を』連れているか、そして『何になって』いるか、全く自覚がないようね」
隣で双葉が「いいよ清美! 私、コンビニの肉まんとかでも全然幸せだよ!」とフォローを入れるが、それが逆に惨めさを加速させる。
「……ったく。こんなこともあろうかと、私が手配しておいたわ」
敏美はスマホの画面をタップしながら、勝利を確信した笑みを浮かべた。
「駅ビルの最上階にあるテラス付きのイタリアン。
一週間前からキャンセル待ちを入れて、さっき確定させたわ。三名、予約済みよ。もちろん、清彦くんの奢りでいいわよね?」
「……えっ、あそこ、めちゃくちゃ高いんじゃ……」
「あら、女の子にこんなに恥をかかせておいて、お財布くらいは男を見せなさいよ。……もっとも、払うのは『お父様のカード』でしょうけれど?」
ぐうの音も出ない。俺は、敏美の完璧な段取りに引きずられるようにして、高級イタリアンへと連行された。
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映画館のロビーで、俺は限界を迎えていた。
「……トイレ、行ってくる」
「あら、一人で大丈夫? 迷子にならない?」
敏美の皮肉を背中で受け流し、俺は二人の包囲網を抜けた。
さすがに女子トイレまで「同行」されるのは、俺の最後のプライドが許さなかった。
問題は、入り口だ。
一瞬、男子トイレの青いマークに吸い寄せられそうになったが、鏡に映る自分を見る。
漆黒のオフショルから覗く瑞々しい肩、ボルドーのスリットから伸びる白い脚。
(……こんな格好で男の方に入ったら、通報されるか、もっと最悪な事件に巻き込まれる)
俺は奥歯を噛み締め、覚悟を決めて赤のマークをくぐった。
用を足し、鏡の前で手を洗っていた時のことだ。
背後の個室から、華やかな香水の匂いと共に、三人の女子大学生らしきグループが出てきた。
「えっ、ちょ、可愛すぎない!?」
「待って、お人形さんかと思った! モデルさん?」
彼女たちは、蛇口に手を伸ばしていた俺を囲むように立ち止まった。
「その服、どこの? 超スタイルいい。ちょっと触ってもいい? 骨格どうなってんの……」
一人が、あどけない感嘆の声を上げながら、俺の剥き出しの肩へ指先を伸ばしてきた。
「ひっ……!」
俺は声にならない声を上げ、蛇口に手をぶつけながら後ずさった。
男としての本能が逃げろと叫ぶが、腰が引けてスリットから脚が大きく覗いてしまう。
「やだ、肌めちゃくちゃ綺麗! 触り心地良さそう……」
彼女の手が、俺の鎖骨のラインに触れようとしたその時――。
「――そこまでにしてくださる?」
低く、温度のない声が洗面所に響いた。
入り口に、敏美が立っていた。
彼女の背後からは、今にも噛み付かんばかりの形相をした双葉が覗いている。
「あら、ごめんなさい。うちの妹、すごく人見知りで、臆病な動物みたいに怯えてしまうの」
敏美は、モデルのような歩調で俺の隣に歩み寄った。彼女は戸惑う大学生たちに対し、一切の表情を変えずに淡々と続けた。
「あなたの好奇心を否定はしませんが、許可なく他人の身体に触れるのは、少し教養に欠ける行為だと思われませんか? 清美、おいで」
敏美が俺の肩を抱き寄せ、持ち主としての所有権を誇示するように大学生たちを「見下ろす」。
一方で、双葉は物理的に俺の前に割り込んだ。
「……っざけんな、触んなっつってんだろ。それ以上近づいたら、ただじゃおかないからな」
双葉の喉の奥から、「ガルル……」という唸り声が聞こえてきそうなほどの殺気が漏れている。
普段の可愛らしい「幼馴染」の面影は消え、獲物を守る狂犬そのものの目だ。
「え、あ、ごめん……ごめんなさい」
敏美の冷徹な正論と、双葉の野性的な威圧感に気圧され、大学生たちは逃げるように去っていった。
「……助かった」
俺が力なく呟くと、敏美は俺のオフショルの襟元を、指先で整えながら冷たく笑った。
「言ったでしょう。一人じゃ迷子になるって。その無防備な格好で、自分の置かれている立場がまだ分からないの?」
「……わかってるよ」
「いいえ、分かっていないわ。あなたは今、誰かに守られていなければ、瞬く間に消費され、蹂躙されるだけの存在なの。……さあ、行くわよ。ランチの予約時間に遅れるわ」
敏美に腕を引かれ、双葉に背後をガードされながら、俺は再びロビーへと連れ戻された。
女子トイレで「女の子」として扱われ、救い出されたという事実。
それが、どんな言葉よりも深く、俺の精神を削り取っていった。
2e392df1 No.2963
エスカレーターで最上階へ上がるにつれ、周囲の喧騒が遠のき、代わりに重厚な静寂と、微かなアロマの香りが漂い始めた。
たどり着いたレストランの入り口には、金縁の看板。
俺が男だった頃なら、一生縁がなかったであろう別世界だ。
店内に足を踏み入れた瞬間、スタッフや客たちの視線が一斉に俺たちを射抜いた。
正確には、俺のオフショルから覗く肩のラインと、スリットから大胆にこぼれ落ちるボルドーの裾、そして両脇を固める美女二人という「異様なまでの華やかさ」にだ。
「……っ!」
あまりの視線の鋭さに肩をすくめそうになるが、それを敏美の細い指先が制した。
「背筋を伸ばしなさい、清彦くん。今のあなたは、この店の調度品のどれよりも目を引く『主役』なんだから」
「お待ちしておりました。敏美様、三名様ですね。ちょうどテラスが見えるお席が空きました。ご案内いたします」
黒いスーツを着こなした店員が、恭しく頭を下げる。
案内されたのは、街を一望できる開放的なテラス席だった。
メニューを開くと、案の定、ランチセット一つで牛丼なら10杯は余裕で食べられる金額が並んでいる。
だが、敏美の「一週間前からキャンセル待ちをした」という執念のわりには、思っていたよりは常識的な……いや、俺の金銭感覚が狂い始めているだけか。
「さあ、清彦くん。あなたが誘ってくれたんだもの。スマートにエスコート、してくれるわよね?」
敏美が椅子に座りながら、試すような視線を向けてくる。
エスコート? 注文?
俺はメニューの「カタカナの羅列」を前に、完全にフリーズした。
パスタの名前ひとつとっても、どれが麺の種類でどれがソースの名前なのかすら判別がつかない。
「え、えーっと……」
冷や汗が背中を伝い、オフショルの生地が肌に張り付く。
見かねた敏美が、小さくため息をついて店員を呼んだ。
「本日のランチコースを三つ。パスタはカラスミとボッタルガのリングイネを。メインは仔牛のミラネーゼ。飲み物は、三人ともガス入りの炭酸水でお願いするわ」
「かしこまりました」
流れるような、淀みのないオーダー。
俺が「男」として虚勢を張っていた時間は、敏美の洗練された振る舞いによって、わずか数十秒で粉砕された。
運ばれてきたサンペレグリノが、クリスタルグラスの中でパチパチと音を立てて弾ける。
炭酸の清涼感が喉を通り抜けるが、俺の心は少しも晴れなかった。
「……敏美、お前。本当にガンダム、ちゃんと見てたんだな」
絞り出すように言うと、敏美はグラスの縁をなぞりながら、ふっと口角を上げた。
「ええ。あなたの『中身』を理解するためには、あなたの好きなものを解剖するのが一番の近道だもの。……ねえ双葉さん。あなたもそう思うでしょう?」
「私は、清美が楽しそうならそれでいいの」
双葉は炭酸水の泡をじっと見つめながら、どこか上の空で答えた。
「でも、敏美さんの言う通りかもね。清美がどんなに『男の子』のフリをしていても、こうして綺麗なレストランで、私の大好きな格好をして座っている……。その事実だけで、私はもう、お腹がいっぱいだよ」
双葉の手が、テーブルの下で俺の膝に置かれた。
ボルドーのスカート越しに伝わる、彼女の熱。
一週間の自由、私服の解放。
そんなものは、この二人の美女が仕掛ける「女としての日常」という巨大な引力の前では、羽毛ほどの重みもない。
俺は炭酸水を一気に飲み干し、口の中に残る苦い刺激に耐えながら、運ばれてくる前菜を待った。
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運ばれてきた前菜のテリーヌは、宝石のように美しく皿を彩っていた。
だが、俺にはそれが、この一週間で俺の人生を塗り潰そうとしている「女としての色彩」そのものに見えた。
俺は慣れないフォークを動かし、可能な限り無骨に、男らしく口へ運ぼうとした。
「見苦しいわよ、清彦くん」
敏美が、炭酸水のグラス越しに冷徹な視線を投げかけてくる。
「そうやって肘を張り、口を大きく開けて『男』を演じれば演じるほど、そのオフショルから覗く肩の華奢さが際立つの。今のあなたは、戦場に迷い込んだお姫様が、拾った錆びた剣を振り回しているようなものよ。滑稽だと思わない?」
「俺は、お姫様なんかじゃねえ!」
「いいえ、お姫様よ。それも、自ら進んでドレスを選び、敵の城で一番高い席に座っているお姫様」
敏美は、迷いのない所作で野菜を口に運ぶと、さらに深くナイフを突き立ててきた。
「認めなさい。あなたは今、この視線に満ちた空間に、快楽を感じている。昨日あれほど嫌がったはずの『女の手入れ』を自ら姉に乞い、双葉を驚かせるほどの格好で現れた。……清彦としての未練? 笑わせないで。あなたは『清彦』という名前を、自分を甘やかすための免罪符に使っているだけよ。『俺は男だから、女にされているだけなんだ』という言い訳をしながら、鏡に映る完璧な美少女に陶酔している……違うかしら?」
「……っ!」
図星、だったのかもしれない。
今朝、自らボルドーのスカートを選んだとき、俺の心のどこかに「あいつらを驚かせてやりたい」という歪んだ顕示欲があったことは否定できなかった。
「そうだよ、清美」
それまで静かにパスタを巻いていた双葉が、顔を上げた。
その瞳は、いつになく深く、暗い。
「敏美さんの言う通り。清美がどんなに『男だ』って叫んでも、身体は正直だよ。私の前で赤くなる耳も、マッサージされる時に漏らす声も……それは『清彦』のものじゃない。全部、私が育てた『清美』のものなんだよ。……ねえ、もう認めちゃいなよ。その方が、ずっと楽になれるよ?」
二人の声が、炭酸の泡のように俺の周囲を取り囲む。
清彦は死んだ。
残っているのは、磨き上げられたガワと、それに染まりつつある臆病な心だけだ——。
そう、思考が「降伏」へと傾きかけた、その時だった。
脳裏に、さっき観た映画の主人公の姿がよぎった。
彼もまた、逃げ場のない運命の中で、偽りの名を名乗り、自分を殺して戦っていた。
けれど、彼は最後まで「自分」を捨てなかったはずだ。
「……ああ、認めよう。俺は、この身体に馴染み始めてる。お前らの言う通り、この格好で注目されるのを『悪くない』と思った瞬間もあったよ」
俺は、震える手でフォークを置き、二人を真っ直ぐに見据えた。
「でもな、敏美。お前はさっき、俺の未来は『マフティーの死』と同じだって言ったよな。……だったら、俺は最期まで、自分が『清彦』であることを、俺自身の意志で証明し続けてやる」
「……何?」
敏美の眉が、わずかに動く。
「お前らが俺をどんなに磨き上げても、この服の下にどれだけレースを押し付けても……俺が心の中で『俺は清彦だ』と叫び続ける限り、お前らの手元にあるのは、ただの『精巧な人形』だ。俺のアイデンティティまでは、絶対に渡さない」
俺は、スリットから覗く自分の脚を、わざと力強く踏みしめた。
「一週間後、俺がどんなに完璧な『美少女』として完成されても……その中身は、最悪に可愛くない、不器用な『清彦』のままでいてやる。それが、俺にできる唯一の、そして最大の反逆だ」
双葉の顔から笑みが消え、敏美は初めて、獲物を仕留め損ねたような、けれどどこか嬉しそうな、複雑な微笑みを浮かべた。
「いいわ。その意地、いつまで持つか見ものね。……さあ、パスタが伸びるわよ。その『清彦くんの意志』で、レディらしく食べ終えなさい」
俺は、背筋を伸ばした。
女として振る舞い、女として磨かれる。
けれど、その屈辱のすべてを「自分は男だ」という芯を燃やすための燃料にしてやる。
俺の、長い一週間が、本当の意味で始まった。
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高級イタリアンでの食事を終え、俺たちは駅前の広場へと降り立った。
ランチの間中、俺は自分の中に「清彦」という火を絶やさぬよう、背筋を伸ばし続けていた。だが、その決意をあざ笑うかのように、現実は残酷な角度から俺を殴りつけてきた。
「……あ? おーい、堤! 坂木じゃねーか」
ジャージ姿でたむろしている見慣れた後ろ姿を見つけ、俺は無意識に声をかけようとした。
中学校からの腐れ縁、堤と坂木だ。
だが、声が出る直前で、自分の喉が「清美」の可憐な高音しか出せないことを思い出し、言葉を飲み込む。
俺たちの存在に気づいた二人が、勢いよく振り返った。
「うおっ、双葉と……それに生徒会の副会長長……じゃなかった、敏美さん!?」
「マジかよ、こんなところで何して……」
二人の視線が、双葉と敏美、そしてその中心に立つ俺に注がれる。
だが、その瞳に宿ったのは再会の喜びではなく、あからさまな「熱狂」と「下心」だった。
俺のオフショルから覗く白い肩、ボルドーのスリットから大胆に伸びる脚。
姉貴の「勝負メイク」で塗りつぶされた俺の顔を見て、彼らが「清彦」を想起することは、1ミリもなかった。
「ちょ、待って……双葉、敏美さん。こっちの、めちゃくちゃ綺麗な人……誰!?」
堤が鼻の下を伸ばし、食い入るように俺を見つめる。
「紹介してよ! モデル? それとも二人のお姉さん? 連絡先、マジで教えてほしいんだけど!」
「あのっ、もしよければ、一緒に写真撮ってもらってもいいですか!? 一生の思い出にするんで!」
坂木までがスマホを取り出し、俺の至近距離まで詰め寄ってくる。
「っ、お前ら……!」
あまりの屈辱に俺が拳を握りしめた瞬間、隣の双葉が猛獣のような殺気を放った。
「ダメに決まってるでしょ。私のものなんだから……」
「いいじゃない、双葉さん。減るものじゃないんだし」
敏美が、邪悪な笑みを浮かべて双葉の言葉を遮った。
彼女は、俺が一番嫌がる形で「清彦としての意志」を試しにきたのだ。
「紹介するわね。彼女は……そうね。ある時はレオタードで舞う新体操部の妖精、ある時はコートを駆けるテニスウェアの天使」
「えっ、妖精……? 天使……?」
堤たちの目がさらに輝く。
敏美は堪えきれないといった様子で肩を震わせ、ネタバレのトドメを刺した。
「ある時は、昨日の和装でみんなを跪かせた着物姿の家元。そして今は、自分を男だと思い込んでいる、可哀想で最高に『可憐な』……」
敏美は俺の腰を抱き寄せ、耳元で毒を吐くように、けれど広場中に聞こえる声で告げた。
「……お前たちの親友、佐藤清彦くんよ」
「「…………は?」」
一瞬、駅前の喧騒が消えた。
堤と坂木は、差し出したスマホを握ったまま、石像のように固まった。
彼らの視線が、俺の胸元の膨らみ、細い腰、そして丁寧にメイクされた唇へと、スキャンするように動く。
「……おい、敏美さん。冗談きついって。こんだけ可愛い子が、あのガサツな清彦なわけ……」
「ここ数日、クラスでセーラー服姿を嫌というほど見ていたでしょう? あれが彼よ。今日はおめかしして、ちょっと『女の子』が板に付いただけじゃない」
俺は、自分の中に残った「清彦」の矜持を振り絞り、低く、ドスの利いた(つもりだが、実際には低音の効いたアルトの)声で言い放った。
「堤。坂木。お前ら、ふざけるな。……死にたいのか」
その瞬間、二人の顔から急速に血の気が引いていった。
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「……マジで、清彦……?」
「嘘だろ……俺、今、清彦に欲情したのか……? 連絡先聞こうとしたのか……?」
堤のスマホが、力なく手から滑り落ちそうになる。
さっきまであれほど眩しいものを見るようだった彼らの瞳が、今は得体の知れない怪物を見るような、あるいはこの世の終わりを目撃したような絶望に染まっていく。
「帰るわ、俺。なんか、もう、女とか信じられねえわ」
「俺も……。寝込むわ、これ」
テンションが地の底まで叩きつけられた男二人は、幽霊のような足取りで、ジャージの裾を揺らしながら去っていった。
「……ふふ、あはははは! 見た? あの顔!」
敏美が、淑女の仮面を脱ぎ捨てて爆笑し、双葉は「清美は、私だけのなんだから、これでいいんだよ」と満足げに俺の腕を締め上げた。
俺は、去っていく友人たちの後ろ姿を見送った。
『俺は清彦だ』と証明したはずなのに、その証明が、世界で一番残酷な形で自分を孤独にしていくのを感じていた。
68095953 No.2969
夕闇が街を包み込む頃、俺は「清美」としての狂騒的な一日を終え、ようやく自室のベッドに倒れ込んだ。
脱ぎ捨てられたボルドーのスカートが、床に鮮やかな血の色のように広がっている。
鏡を見るまでもない。
首筋に残る双葉の指先の感触や、敏美の冷徹な言葉の残り香が、俺の皮膚にべったりと張り付いて離れない。
「明日、どうすりゃいいんだよ」
天井を仰ぎ、俺は明日の登校について思考を巡らせた。
一週間の「自由」を手に入れた。
理屈の上では、クローゼットの奥に押し込んだ学ランを引っ張り出し、男として登校することだって可能なはずだ。
だが、脳裏をよぎったのは、昼間に見た堤と坂木の、あの魂が抜けたような絶望的な顔だった。
今の俺が、トリートメントで艶めくこの髪をなびかせ、真由の姉貴に整えられたこの「女の子」の顔で学ランを着て教室に現れたらどうなるか。
それは「男に戻った」という証明ではなく、単なる「質の悪いコスプレ」か、あるいは周囲をさらに混乱させる「異常事態」として処理されるだけだ。
「無理だな。余計に目立つだけだ」
結局、俺はクローゼットに吊るされた紺色のセーラー服を手に取った。
自分の意志で選んでいるはずなのに、その布の重みが、逃れられない運命の重力のように感じられた。
その時、サイドテーブルに置いたスマホが短く震えた。
敏美からのメッセージだった。
敏美:「少し、テンションが上がりすぎてしまったわ。あなたを追い詰めることに夢中になって、加虐的な振る舞いが過ぎたことを認めるわ。……悪かったわね。明日、学校で改めて謝罪させてもらうわ。おやすみなさい、清彦くん」
あんなに冷酷に俺を解剖しておきながら、最後には「謝罪」という形で逃げ道を提示する。その狡猾なまでの優しさが、逆に俺の心をかき乱す。
彼女は、俺が「男としての自尊心」を捨てきれないことを知っていて、あえてそこを突いてくるのだ。
やがて、いつもの時間がやってきた。
逃げ場のない「清美」としての夜のルーティンだ。
風呂上がり、湯気と共に立ち上る高級なバスソルトの香りに包まれながら、俺はリビングで母さんと姉貴に捕まった。
「清美、今日は一日外にいたんだから、毛穴の汚れをしっかり落とさないと!」
「そうよ、このシートマスク、最高級なんだから。じっとしてなさい」
慣れた手つきで顔に貼り付けられる冷たいマスク。
ドライヤーの温風が髪を揺らし、姉貴の指先が頭皮を優しく、けれど支配的に揉み解していく。
「……ん、くそ……」
不快なはずなのに、手入れされ、磨き上げられる感覚に抗いきれない自分。
身体が「快楽」としてこれを受け入れ始めているという事実が、どんな罵倒よりも俺を絶望させた。
ようやく解放され、自室の電気を消してベッドに潜り込む。
闇の中で、ふと視線を感じた。
机の上に座る、双葉が修理したあのクマのぬいぐるみだ。
かつては盗聴器という「耳」を仕込まれ、俺のプライバシーを暴いていた忌々しい監視者。
だが、今夜のそのつぶらなプラスチックの瞳は、なぜかこれまでになく穏やかで、優しく見えた。
家族からの過剰な慈愛、双葉の執着、敏美の加虐。
そのすべてに晒され、ズタズタにされた俺の「清彦」というアイデンティティを、沈黙の中で唯一肯定してくれているような……そんな錯覚。
「……お前だけは、俺が何者か分かってんだろ」
俺はそっと手を伸ばし、その綿の塊を抱き寄せた。
何も言わず、何も聞かず、ただそこにいるだけの存在。
明日、セーラー服を身に纏い、偽りの笑顔で「清美」を演じる戦場へ向かう前の、これが俺に残された最後の聖域だった。
俺はクマの柔らかな感触に顔を埋め、明日という「完成」へのカウントダウンに怯えながら、深い眠りへと落ちていった。
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月曜日の朝、俺は結局、昨日脱ぎ捨てたはずの「清美」という役割を再び身に纏っていた。
紺色のセーラー服の襟を整え、鏡に映る自分を見る。
昨日、真由の姉貴に念入りに施されたトリートメントのおかげで、髪は指をすり抜けるほど滑らかだ。
もはや学ランを羽織ったところで、この「仕上がり」を隠すことなど不可能だった。
通学路の角、その「救世主」兼「死神」は立っていた。
敏美だ。彼女は今日も、凛とした空気を纏って俺を待っていた。
「おはよう、清彦くん」
「ああ。昨日のメッセージ、見たよ」
俺がぶっきらぼうに答えると、敏美は一歩、俺のパーソナルスペースに踏み込んできた。
彼女の放つ、上品なベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。
「昨日は、その……少しやりすぎたわ。あなたの反応があまりに純粋で、つい興が乗りすぎてしまった。ごめんなさい」
あまりに淡々と、それでいて真っ直ぐに目を見て放たれた言葉。
「あ、ああ……分かればいいんだ。別に気にして……」
「はい、謝罪終わり。さあ、行きましょうか」
拍子抜けするほどあっさりとした幕引きだった。
俺が固まっていると、彼女は俺の手にキンキンに冷えたペットボトルを押し付けてきた。
「これ、お詫びの品よ。炭酸水じゃないけれど、私好みの無糖の紅茶。……それから、昼休みはいつもの屋上で待っているわ。どうせ今のあなたが行く場所なんて、そこくらいしかないでしょう? 教室にいたら、新体操部やテニス部、果ては演劇部まで、勧誘の嵐が止まらないはずだから」
敏美の予言は、的中しすぎた。
校門をくぐった瞬間から、空気の密度が変わった。
視線。
昨日とは違う、もっと露骨で、それでいて怯えを含んだような、熱狂的な視線。
教室のドアを開けると、そこには異常な光景が広がっていた。
「……っ!」
堤と坂木が、スマホを握りしめたまま、俺の顔を見るなり顔を真っ赤にして伏せた。
見れば、クラスの男子の半数以上が、机の上にスマホを置いている。
その画面に映っているのは、昨日のあの「漆黒のオフショルにボルドーのスカート」で、不機嫌そうに映画館のロビーを歩く俺の姿だった。
「おい、なんでお前ら、その写真……!」
「あ、いや……昨日、駅にいた奴らがSNSに上げてて……爆速で拡散されたんだよ。清彦、お前……マジで『女神』かよ……」
堤が消え入りそうな声で呟く。
彼らは、俺が「清彦」であると知っているはずなのに、視覚から入る情報の暴力に完全に屈していた。
「……待ち受けにしてんじゃねえよ!」
「無理だよ! こんなの見せられたら、もう他の画像に変えらんねえよ!」
絶望的だった。
さらに驚いたのは女子たちの反応だ。
昨日までの、どこか遠巻きに見ていたようなよそよそしさは消えていた。
「ねえ清美、昨日の服、どこの? あれめっちゃ似合ってた!」
「この髪型とか、もっと似合うと思うんだよね。今度、編み込みとかさせてよ」
「今度の体育祭、清美を看板娘にしたら優勝確定じゃない?」
嫉妬や嫌がらせではない。
彼女たちは、俺を「攻略すべき最強の素材」か「クラスの共有財産」として扱い始めていた。そこには俺の意志も、かつての男としてのプライドも介在する余地はない。
なんなんだよ、このクラス。
男子は欲情と混乱の狭間で理性を失い、女子は俺を「最高の人形」として着せ替える相談を始めている。
俺は逃げるように、敏美から渡された無糖の紅茶を口にした。
冷たいはずの液体が、熱を帯びた喉を通っていく。
一週間の「自由」の二日目。
俺は、自由とは名ばかりの、もっと巨大で逃げ場のない「清美」という檻の中に、クラスごと閉じ込められたことを悟った。
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教室の喧騒が、まるで濁流のように俺の鼓動を追い詰めてくる。
机を囲む女子たちの「次はこれが似合う」「このリップはどう?」という無邪気な品評会と、遠巻きにこちらを盗み見る男子たちの、あの粘つくような視線。
俺は、まるで全裸でステージに立たされているような居心地の悪さに耐えきれず、チャイムが鳴ると同時に、カバンを掴んで教室を飛び出した。
「あ、清美! どこ行くの?」という双葉の呼び声を背中で振り切り、俺は階段を駆け上がる。
幸い、追手は来なかった。
今の俺の「美少女」としてのオーラが強すぎて、逆に誰も安易に踏み込めないのかもしれない。
との、身勝手な解釈をしながら、ただ走った。
屋上の重い鉄の扉を開けると、そこには柔らかい風と、フェンス際で悠然と待つ敏美の姿があった。
「あら、案外早かったわね。脱走は成功?」
「……うるさい。あそこにいたら、自分が誰だか本当に分からなくなりそうなんだよ」
俺は、敏美の隣に腰を下ろし、母さんが持たせてくれたランチボックスを開けた。
中身は、色とりどりの具材が詰まったパステルカラーのサンドイッチだ。
「母さんのやつ、『可愛い子にはサンドイッチが似合うから』だってさ。もう、家の中も外も、俺を女の子として扱う包囲網ができあがってる」
俺は、悔しさを噛みしめるように、ハムとレタスのサンドイッチを乱暴に口に放り込んだ。
敏美は、自分の持ってきたデリ風のサラダを優雅に突きながら、ふっと視線を遠くの山々へ向けた。
「謝罪の件だけど。昨日の私は、あなたを追い詰めることを楽しみすぎていたわ。それは、かつての自分に対する同族嫌悪に近いものだったのかもしれない」
敏美が、これまでにないほど静かなトーンで語り始める。
「私は、TSという現象に直面したとき、すぐに『女』としての完璧な役割を演じることで自分を守った。でも、それは自分を捨てたことと同じ。今のあなたのように、ボロボロになりながらも『俺は清彦だ』と叫び続ける無様な姿は、私にとっては眩しくて、そして……ひどく残酷に見えたのよ」
彼女は、よどみなく言葉をつむぐ。
「今のあなたには、落ち着く時間が必要だわ。私の様に流されて、ただの綺麗な『女』に成り下がるのは、見ているこちらが耐えられない。……いい、清彦くん。今日の放課後は、生徒会室に行きなさい」
「生徒会室? なんでだよ」
「生徒会長には、すでに話をつけてあるわ。あそこは放課後、最も静かで、誰もあなたを『鑑賞用』として覗きに来ない場所よ。そこで一人、自分がどうありたいのか、じっくり考えなさい。周囲の雑音を遮断して、自分自身の声を聞くの」
敏美の言葉は、冷たい紅茶のように俺の荒んだ心に染み渡った。
彼女は、俺を「おもちゃ」として弄ぶ一方で、俺の中にある「清彦」という火を消したくないのだ。それが彼女なりの、歪んだ贖罪なのかもしれない。
「……敏美は、一緒に考えてくれないのか?」
俺の口から、不意にそんな言葉が漏れた。
自分でも驚くほど、心細そうな声。
二人きりの屋上、彼女の香りに包まれていると、どうしてもこの賢明な「元・少年」に頼りたくなってしまう。
敏美は一瞬、目を見開いた。
そして、三日月のように目を細め、悪戯っぽく、けれどどこか優しさを孕んだ笑みを浮かべた。
「……いいけれど。私が好き勝手に意見していいの? あなたをより美しく、より残酷な場所に導くようなアドバイスになるかもしれないわよ?」
「……お前の意見なら、マシな方だ」
「ふふ、光栄ね。じゃあ、放課後、生徒会室で会いましょう。……それまでは、そのお母様特製の『可愛いサンドイッチ』で、今の自分を存分に甘やかしておきなさい。午後からは、演劇部のスカウトたちが手ぐすね引いて待っているはずだから」
敏美は立ち上がり、俺の頭をぽん、と軽く叩いた。
その手のひらの温度は、昨日の支配的な強さとは違い、ただの友人のように温かかった。
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放課後、終礼のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は敏美との約束を果たすべく席を立った。
だが、教室のドアに手をかけるよりも早く、背後から「ひたひた」と、獲物を狙う肉食獣のような気配が迫ってきた。
「ねえ、清美。どこに行くの?」
鼓膜に直接流し込まれるような、甘ったるくて粘り気のある声。
双葉だ。
彼女は俺のセーラー服の袖を、指先でぎゅっと、だが決して解けない強さで掴んでいた。
その瞳は笑っているようでいて、奥底には冷ややかな「女の勘」が渦巻いている。
「……ちょっと、生徒会室に用があってさ。敏美に呼ばれてるんだ」
「生徒会室? 敏美さんと二人きりで?」
双葉の笑顔が、ぴりりとひび割れた。
「ダメだよ、清美。あそこは密室だもん。敏美さんはね、清美のことを『研究対象』としてしか見てないんだよ? 昨日のスタバだってそう。清美を追い詰めて楽しんでたじゃない。……あんな怖い人のところに行っちゃ、メッ、だよ?」
「いや、でも約束だし……」
「約束なら、私ともしてるよね? 放課後は一緒にクレープ食べて帰るって、昨日話したじゃない」
「そんな話、してねーよ!」
俺が声を荒らげても、双葉は動じない。
それどころか、彼女は俺の腕に自分の体をぴったりと密着させ、周囲の男子たちが思わず息を呑むような、独占欲全開のポーズをとった。
「清美は、まだ自分がどれだけ危ういか分かってないんだね。……いい? 今の清美が一人で廊下を歩いたら、演劇部の人たちに拉致されちゃうよ。それに、ほら、堤くんたちのあの目を見て? 清美が一人になった瞬間、何をされるか分かったもんじゃないんだから」
チラリと堤たちの方を見ると、彼らは「清彦」と分かっていてもなお、この密着した「二人の美少女」の光景から目を逸らせずにいた。
双葉の言うことは、半分は正解で、半分は俺を閉じ込めるための甘い罠だ。
「さあ、行こう? 生徒会室なんて、あんな埃っぽいところより、駅前の新しいお店の方が清美に似合ってるよ。……それとも、敏美さんの方が、私より大事なのかな?」
双葉の指先が、俺の手首の脈拍を確かめるように、トントンと規則正しく叩く。
「行かせないよ、清美。……今日は、絶対に」
彼女の背後に、どろりとした黒い執着のオーラが見えた気がした。
敏美が提示してくれた「聖域」への道が、双葉という名の「底なし沼」によって、今まさに塞がれようとしていた。
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教室の入り口。
双葉の腕が俺の肘に絡みつき、その独占欲という名の湿った熱気が、セーラー服の生地越しにじわじわと伝わってくる。
周囲の男子たちは、この「美少女二人の密着」という光景に、もはや思考を停止させていた。
「ねえ、清美……。私の言うこと、聞いてくれるよね?」
双葉の瞳が、至近距離で俺を覗き込む。拒絶を許さない、底なしの愛という名の圧迫。
その時だった。
「随分と熱烈な引き止めね、双葉さん」
低く、けれど教室の喧騒をナイフで切り裂くような凛とした声。
ドアの向こう側に、腕を組んで佇む敏美の姿があった。
彼女は今日も、乱れ一つない完璧な制服姿で、その場を支配する「元・生徒会副会長」の威厳を放っていた。
「あ、敏美さん……。生徒会室にいるんじゃなかったんですか?」
双葉の声が、わずかに強張る。
絡めた腕の力が、無意識のうちに強まったのが分かった。
「待っていたのだけれど。私の『客人』が、いつまで経っても来ないから……迎えに来たの」
敏美は迷いのない足取りで俺たちに近づくと、双葉の視線を真っ向から受け止めた。
「彼女——いいえ、『彼』には、今から生徒会室で大事な事務作業を手伝ってもらうことになっているの。あなたが言うような、お遊びのクレープ屋巡りとは重みが違うわ」
「事務作業なんて、清美じゃなくてもいいじゃないですか! 他の人に頼めばいいでしょ?」
「あら、今の清彦くんにしかできないことがあるのよ。……それに、双葉さん。あなたは彼を『守っている』つもりかもしれないけれど、その過剰な執着が、彼のアイデンティティを窒息させていることに気づかないの?」
敏美は、迷わず俺の空いている方の手首を掴んだ。
「……行くわよ、清彦くん。今のあなたに必要なのは、甘いお菓子じゃなくて、自分を取り戻すための『時間』よ」
「……っ、離して! 清美は、私の……!」
双葉が叫び、俺の右腕を強く引く。
同時に、敏美が左腕を、有無を言わせぬ力強さで引き寄せた。
俺は、二人の美少女に両腕を左右に引っ張られるという、客観的に見れば羨望の極致、当の本人にしてみれば処刑台のような状況に陥った。
だが、敏美の指先は、双葉のそれとは違った。
冷たくて、けれどどこか「しっかりしろ」と励ますような、確かな芯を感じさせる力。
「……失礼。今の生徒会は、時間厳守なの」
敏美は、双葉の指を一本ずつ、事務的に、けれど冷徹に剥がしていった。
「放課後の『清美』としての役割は、今日はおしまい。これからは、『清彦』としての時間よ」
「あ……っ!」
双葉の手が空を切る。
敏美は、呆然とする双葉と教室の連中を背に、俺を連れて廊下へと踏み出した。
「……助かった。マジで、あそこまでされると逃げ場がなくてさ」
廊下を歩きながら、俺は小声で感謝を口にした。
「感謝するのは、結果が出てからになさい。……さあ、急ぐわよ。あの子が追いかけてくる前に、生徒会室に鍵をかけなきゃならないんだから」
敏美に手を引かれ、俺はセーラー服のスカートを翻しながら、放課後の廊下を駆け抜けた。
それは「男としての逃走」なのか、それとも「別の支配者への移動」なのか。
今の俺には、その答えを出す余裕すらなかった。