「理不尽、不可避な辛さ」の捉え方。
「自ら選んだ(試練)」なのか。
人生シナリオ説
スピリチュアルな世界に触れると、「魂は、生まれる前に決めて来た人生シナリオがある」といった「人生シナリオ説」や「自ら環境を選んで、生まれてきた」と言った「生まれてくる前に、自らの人生試練を設定済」的な話を耳にすることが少なくない。
「今の御両親のもとを選んで生まれてきたのは、〇〇を学ぶため」等、言われると「あー、そうかもねぇ」と半分納得、半分モヤモヤしてしまったり。
一方、連日のニュースで「虐待で命を落とす」、「国家情勢が不安定」等の「生きるのに過酷な状況」や「事件・災害の被害に遭う」等、本人に全く罪がない、理不尽、不可避な不幸に遭遇した人に対して、「生まれてくる前に自ら選択した試練」、「人生のシナリオ」といった言葉は口にできる訳がなく、救いになるとも思えず。
「理不尽・不可避の不幸」、人間の力ではどうにもできない災害、戦争や虐待、いじめ、殺人、辛く苦しいことであり、なぜ自分や他人がそうならなければならないのか?という疑問、悲しみといった絶望感も湧いてくる。
幾つかの可能性
スピリチュアル的な視点でも一概に説明することは難しいと言われつつも、いくつかの可能性が示される。
1.魂の契約
「魂の契約」とは、生まれる前に自分が経験したいことや学びたいことを決めて、他の魂と協力して人生を創造すること。
「魂の契約」によると、理不尽、不可避の不幸は、自分が選んだ試練や課題であり、それを通して魂の成長や浄化を目指すものだと言われる。
例えば、
災害に遭った人は、自然や命の尊さを学ぶために災害を選んだ。
戦争に巻き込まれた人は、平和や愛の大切さを学ぶために戦争を選んだ。
虐待された人は、自己肯定感や自由を学ぶために虐待を選んだ。
殺された人は、死後の世界や再生を学ぶために殺害を選んだ。
等、様々な理由で理不尽、不可避の不幸を選んだ可能性がある、と言われる。
更に、自分が罰されているわけではなく、自分が望んでいることを実現するための手段であると考えられる。(賛否両論はあるとして。)
2.集合的カルマ
「集合的カルマ」とは、個人ではなく集団や社会や国家などが積み重ねた行為や思想の結果であるという。
「集合的カルマ」によると、理不尽、不可避の不幸は、人類全体が負っている責任や罪の清算であり、それを通して人類全体が目覚める必要があるものだと言われる。
例えば、
災害は、人類が自然環境を破壊した結果であり、自然と調和することを求められている。
戦争は、人類が争いや暴力を繰り返した結果であり、平和や愛を実践することを求められている。
虐待は、人類が権力や支配に執着した結果であり、対等や尊重することを求められている。
殺害は、人類が命を軽視した結果であり、命を大切にすることを求められている。
等、様々な理由で理不尽、不可避の不幸が起こる可能性があるとされ、決して人類が滅びるわけではなく、人類が進化するための契機であると考えられる。
これを聞いた時、「当事者は『人類の人柱』という意味?」と思ってしまった。。うーん。
3.神の計画
「神の計画」とは、全ての存在や出来事には神の意志や目的があるということ。
「神の計画」によると、理不尽、不可避の不幸は、神が自分に与えた試練や教えであり、それを通して神に近づくことを目指すものだと言われる。
例えば、
災害に遭った人は、神が自分の信仰や忍耐を試すために災害を与えた。
戦争に巻き込まれた人は、神が自分の正義や勇気を試すために戦争を与えた。
虐待された人は、神が自分の赦しや慈悲を試すために虐待を与えた。
殺された人は、神が自分の魂を召し上げる時が来たと判断した。
等、様々な理由で理不尽、不可避の不幸が起こる可能性があると言われる。
これは決して「神が自分を見捨てた」わけではなく、「神が自分を愛している証拠」であると。。。
まとめ
以上が理不尽、不可避の不幸についてスピリチュアルな視点から見たいくつかの可能性であり、また、全て仮説であり、真実かどうかは分かりません。
理不尽、不可避の不幸に遭った時、「不幸な星の元に生まれた」、「罰が当たった」、「祟り・呪い」といった怨念・怨霊に起因するものではない、と思えるだけ、少しの救いになるのかもしれない。
当事者、その御家族等の周囲のショックや心労は、計り知れなく、スピ的な正論が救いになるとも言い難く。
「物事に良い・悪い」はない「捉え方次第」と考えるよりも、起きていること、「現実」を受け入れなくてはいけないこと。
「起きていることが、すべて正しい」とは言えないけれど、すべてを受入れて、生きていくこと。
「人生は理不尽の連続」と、思わずにはいられません。。
今日も読んで頂きありがとうございました☺


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