落語家がなぜバス運転者に転身 「ほんまにあの純粋な憧れの世界に」
「はいご乗車ありがとうございます。空いてるお席にお座りください」 大きな地声がバスの車内に響く。声の主は運転者。穏やかな表情でハンドルを握る。ネクタイと制服は、左右が少し不ぞろいだ。 【写真】桂文鹿と名乗っていたときの大倉有展さん=2024年9月 運転者は長い間、着物が仕事着だった。桂文鹿という落語家だった。 「桂文鹿が引退」 2024年の年末、そのニュースが流れた。演芸関係者の多くは驚いた。 落語家をはじめ芸の世界に身を投じた人は、ある程度の芸歴を経ると、生涯その肩書を名乗る。晩年にあえて現役引退を表明した五代目三遊亭円楽は希少な例だ。 文鹿は24年に芸歴30年を迎えた。50代半ばで、上方落語界では中堅どころ。全国的な知名度こそないが、一度聞くと印象に強く残る高座で、熱心な贔屓(ひいき)客がいた。 異色の芸人だった。桂文福に入門し、落語家修業を終えてからプロボクサーの資格を取り、リングに上がった。「破壊と再生」が信条で、古い慣習にとらわれず、先輩にケンカを吹っ掛けた。矛先は当時の上方落語協会の会長、桂文枝に向けることもあった。 落語は、先輩と阪下の男2人によって過激に展開する新作をつくってから売れ始めた。毎年2月にインドへ渡り、日本人宿に1カ月ほど滞在して新作を書き続けた。地元の人やバックパッカーたちの無軌道な行動がモデルになった。 ■「ワクワク感が欠けている」 ただ、この24年はおとなしかった。後輩たちに「どうしたんですか兄さん」と酒席で詰め寄られても、穏やかに受け流すだけだった。 引退を知った関係者の間では「インドで永住するのでは」といった臆測も流れた。 24年9月の取材で、文鹿はこう語った。 「インドで新作つくるの、今年で最後やろうなと思ったんです」「過去にやってきたものを超えられない。それまでは泉のように面白いことが湧いてきた」 「破壊の精神みたいなもんが作品に乗っていかないのね。喜怒哀楽のうちの一番なくしたらあかんかった怒をなくしていってる感じはします」 会長批判ののち、上方落語協会を脱退した。「だんだん壊すもんがなくなってくる。この世界のワクワク感がどんどん欠けていってるかな」 いま読めば、覚悟を決めた人の発言だ。それでも、一時的な落ち込みとも受け取れた。 引退後、「フェイスブックをやめた」「バスの運転手をめざしている」といった断片的な情報が入ってきた。奈良交通で勤めている、と具体的な社名がわかった。 今年4月、奈良県大和郡山市の営業所で、「桂文鹿」と会った。ほほ笑みはそのままだった。首から提げた社員証に「大倉有展」と本名が書かれていた。
朝日新聞社