日本について言えば、現在政府主導で進められている「女性活躍(推進法)」が、あくまで女性を労働力として「(市場において)活躍」させることに限定されていることは、ポストフェミニズム的な状況と言えそうである。他の点においてはどこまでも保守的な自民党政権が「フェミニズム的」に見える政策を進めていることは、ポストフェミニズムという観点で説明されるべきなのだ。
上記のアンジェラ・マクロビーは『フェミニズムの波の後で』で、新自由主義とポストフェミニズムが先進的なものと保守的なものの融合になっていることを、「二重拘束」という用語で説明した。
ポスト/ポピュラー・フェミニズムが排除するもの
ともかくも、そのような「フェミニズム」からは、様々な人びとや生活の側面が排除されるだろう。簡単に言えば、サンドバーグのような能力(それがなんであれ)を持って働けない女性、「努力不足」で落伍した女性は、そのフェミニズムの主体ではなくなる。
排除をともなっているがゆえに、ポストフェミニズムは、フェミニズムのあるひとつの「イメージ」にすぎない。言ってみればそれは、すべての女性が置かれた実態を的確にあらわしているかは疑わしい「藁人形」である。
さて、バネット゠ワイザーの言う「ポピュラー・フェミニズム」は、このポストフェミニズムとほぼ重なりつつ、「ポピュラー(人気の)」という呼称が表すように、新たなフェミニズムがメディア上で許容され目立っているという側面を強調するものである。
ポストフェミニズム/ポピュラー・フェミニズム状況を前提にすると、「ポピュラー・ミソジニー」「新しいミソジニー」の姿も鮮明に見えてくる。バネット゠ワイザーによれば、ポピュラー・ミソジニーの何が新しいのかと言えば、現代のミソジニーがそのような(市場で活躍する女性ばかりを讃える)フェミニズムのイメージ/藁人形に対する反動として起こっていることなのだ。