ミソジニーそのものは、新しい現象ではない。ケイト・マン『ひれふせ、女たち』(小川芳範訳、慶應義塾大学出版会)や上野千鶴子『女ぎらい』(朝日文庫)が参考になる。この両書を読んでいただけると分かるのは、ミソジニーとは単なる個人的な感情の問題ではなく社会構造の問題であり、それゆえに男性から女性に向けられたミソジニー以外にも、女性から女性(たとえば、フェミニストを強く糾弾する女性を想起してもらいたい)、さらには男性から男性に向けられたそれ(たとえば、フェミズムに親和的な男性を批判する男性を思い浮かべてほしい)もあり得る、ということだ。
また、「女性嫌悪」という訳語が充てられるので混乱を招くこともあるが、ミソジニーというのは女性を忌避して遠ざけるということではない。むしろ、上野千鶴子が述べるように、「女好き」はミソジニーそのものであり得る。
女性を人間主体として認めず、性的な対象へと切りつめ、男性同士のホモソーシャルな絆の間で流通させるようなあり方の全体がミソジニーの構造なのである──たとえば、男性同士の会話のなかで女性の容姿をあげつらうことで、「男同士の絆」を深めるようなシーンを想像してもらえるといいかもしれない。こうした例からもわかるように、この構造の歴史は長い。
ポピュラー・ミソジニーとは何か
では、現在のミソジニーの何が新しいのだろうか。その背後にある構造とは何だろうか。アメリカのジェンダー学者であるサラバネット゠ワイザーは著書『エンパワード──ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニー』でその問題について興味深い視点を提示している。(序章が『早稲田文学』2020年夏号で田中東子によって訳されている。)
バネット゠ワイザーによれば、新しいミソジニーであるポピュラー・ミソジニーは、「ポピュラー・フェミニズム」を背景に考えられるべきだ。新しいミソジニーを理解するために、ポピュラー・フェミニズムについて解説しよう。そしてさらに、ポピュラー・フェミニズムを理解するためには、それとほぼ重なりつつももう少し広い概念である「ポストフェミニズム」を理解する必要がある。少々遠回りになるが、ポストフェミニズムをまずは解説し、ポピュラー・フェミニズムの理解に迫ってみたい。