ミソジニーとは何か
電車つながりというわけではないが、学生たちの女性専用車両に対する反応と、昨年の8月6日に小田急線の車内で発生した無差別傷害事件で、犯人が「幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と衝撃的な供述をしたことの間には、何か遠く響き合うものを感じないではいられない。
この供述は、犯行が無差別でもなんでもなかったことを物語っている。この犯行は、女性を標的とする殺人=「フェミサイド」未遂であるとの指摘が多くなされた。
普通に考えると、幸せそうな女性だけを狙う、という犯行動機は理解しがたいものだ。第三者の目からは、「幸せそうな女性」「女性の幸せ」という抽象的な何かのせいで彼が不幸になったという因果関係を見いだすのは難しいだろう。
だが、報じられた犯行の動機を見ると、彼には、「女性の幸福」と「自分の不幸」との間に、強烈な因果関係があるように感じられていたようなのである。
彼が見いだした、この(一見すると奇妙な)因果関係について考えるヒントをくれるのが、「ミソジニー」──とりわけ、その非常に現代的な表現である「ポピュラー・ミソジニー」や「新しいミソジニー」と言われるもの──である。
もちろん、上記のような極端な暴力をミソジニー一般と結びつけること、また逆に犯行の動機をミソジニーだけに還元することは慎まなければならないと思う。だが、それらは少なくとも無関係ではない、という二重否定の形で関係しているのではないか。
さて、まず、ミソジニーとは何か。それは女性嫌悪、もしくは女性蔑視と訳され得る。それは、単に心に抱かれるだけではなく、発言によって、また人間関係の中で嫌悪や蔑視にもとづいて女性を周辺化するような行為によって表明された感情である。またそれは個々の女性に向けられたものであると同時に、一般化された女性に向けられもする感情である。