季節は梅雨。湿り気を帯びた風が街を包む中、二人は初めての「お出かけ」として、ゲーム会社の特別美術展を選んだ。

 

駅から会場へ向かう道中、予報になかった通り雨が肩を濡らすが、ノリトは迷いなく鞄から折りたたみ傘を取り出し、ハルカの肩が濡れないよう、静かに差し掛けた。狭い傘の下、不意に縮まった二人の距離。ハルカから見たノリトの横顔からは、メッセージのやり取りで時折感じていた「理知的すぎて冷たい隙間風」が消えていた。

 

 

「ありがとうございます、ノリトさん。……なんだか、照れくさいですね」

 

 

ふと漏れた彼女の言葉に、ノリトの胸が高鳴る。スマートな優しさ。計算ではない気遣い。ハルカはノリトの中に、画面越しの「完璧な講義」とは真逆の、生身の温もりを見出していた。この時の彼女にとって、ノリトは間違いなく、頼りがいのある「一人の男性」だった。

 

しかし、一歩会場の重厚な扉をくぐると、ノリトの「読み込み専用の仮面」が再び姿を覗かせた。

冷房の効いた薄暗い空間に、眩いばかりの光に包まれたステージが現れた。序盤の展示は、最新作のキャラクターたちが纏う豪奢なコスチュームの数々だ。舞台観劇を趣味とするハルカにとって、それは単なる布の集合体ではなかった。彼女はある一着の衣装の前で、吸い込まれるように足を止めた。それは彼女が愛するシミュレーションゲームのワンシーン。理知的な主人公が、狡猾な政敵たちを言葉の刃で説き伏せる痛快なドラマ性が人気の作品だ。

 

 

「……これ、去年舞台で見た衣装だ。……素敵。」

 

 

彼女の感嘆を、ノリトは「理知的な男性への恋慕」と解釈した。知性という名の虚構に身を潜めた自分の判断は間違っていなかったのだと、彼は暗い確信を深める。

 

 

その後、最新のフェイスキャプチャー技術を体験できるコーナーへと向かった。 大型モニターの前に立つと、高精細なカメラがノリトの素顔を捉える。メガネをかけていない彼の視線、口角のわずかな揺れが、瞬時にデジタル化され、画面上のアバターを動かしていく。

 

 

(……ふざけてみようか)

 

 

一瞬、ノリトの中のエンターテイナーとしての心がくすぐられる。ここで顔を歪め、鼻の下を伸ばしたり、白目を剥いたりして、彼女を笑わせる。かつての自分なら、迷わず実行していたはずの「最適解」だ。

 

 

ノリトはミカと過ごした八年間、彼女を笑わせるために、よくこうした「不条理な遊び」を仕掛けていた。 

 

例えば、実家に宿泊した際のことだ。

 

「風呂場に着替えを持っていくのを忘れた」という「カッコ悪い」一面を逆手に取り、あえて服を纏わぬままリビングを横切り、物陰から声をかけては隠れるという、徹底した道化を演じた。婚家という緊張感に包まれていたミカは、そのあまりに馬鹿げた姿に、腹を抱えて笑い転げた。 「あなた、オースティン・パワーズのような遊びをするのね!」

 

 

しかし、その「くだらない、バグだらけの聖域」を凍り付かせたのは、背後に立っていた母の言葉だった。

 

 

『……ノリト、いい大人が何を馬鹿げたことを。そんなくだらないやり取りを助長して……。あなたは、ヒロセの嫁には相応しくないわ』

 

 

ミカとの愛おしい時間を全否定された、あの沈黙。 ノリトはただ、緊張するミカの心を解きほぐしたかった。少年時代のいたずらよりもずっと幼稚で、無邪気な愛の表現だった。しかしそれは、母という外部システムにとっては、一族の立場を悪くするだけの脆弱な「システムエラー」でしかなかった。

 

ふと脳裏をよぎった「リードオンリーのログ」から、現実(ランタイム)に引き戻される。 目の前にはハルカがいる。母も文句のつけようがないほど高潔で、知性的な女性。その彼女を前にして、ノリトはあの「くだらない自分」を晒す勇気が持てなかった。

 

 

「……ノリトさんも、やってみませんか?」

 

 

ハルカが促す。その声には、彼の「人間味」を期待するような、最後の微かな振動が含まれていたのかもしれない。

 

 

「いえ、僕はいいですよ。ロジックは理解できましたから。素晴らしい精度ですね」

 

 

ノリトは一度もアバターの顔を歪ませることなく、鏡面のように滑らかな微笑みを浮かべてその場を離れた。 自分という人格を「読み取り専用(リードオンリー)」の状態で固定することを選んだのだ。

 

会場を出た後、二人は近くのカフェに入った。 昼食はノリトが支払い、美術展のチケット代はハルカが立て替えてくれていた。その精算を、彼はレジの前で、極めて「合理的」に完結させた。

 

 

「ここ(カフェ代)は僕が支払いますね。さっき、チケット代を出してもらったお礼です」

 

 

「あ、でも……」

 

 

「これで、だいたいトントンですし」

 

 

カードをかざすノリトの横顔を、ハルカはどこか遠いものを見るような目で見つめていた。

 

 

「……はぁ。……ありがとうございます。」

 

 

ハルカは訝しげに相槌をうち、形式的なお礼を述べた。

かつてミカも、ノリトのこの「トントン」という言葉を、蛇蝎のごとく嫌っていた。

 

 

「なんでそうやって、すぐに『貸し借りなし』にしたがるの? なんだか、気持ち悪い」 

 

 

ミカが嫌がっていた僕の癖。それを知りながら、ノリトはハルカの前で、より一層その冷徹な鎧を厚くしてしまった。母の作り上げた「ヒロセの男」という虚構を身にまとうため、彼は自分の中の「愛嬌」という名のバグを、自ら削除し続けていた。

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