【孤独】「散々与えてきた」のに気づけば独り 『陰徳』が説く本当の与え方
「こんなに尽くしてきたのに」
そう呟きたくなる夜が、人生のどこかで必ず訪れます。
子どものため。部下のため。会社のため。家族のため。自分の時間を削って、お金を出して、頭を下げて、頭を下げ続けて。気づけば、周りに誰もいなかった——
そんな話を、私は経営者の方、上司の方、そして父として母として親としての立場の方々からよく聞かされます。
正直、理不尽だと思います。
ただ、ここで一つだけ、立ち止まって考えてみたいことがあります。
本当に、私たちは「与えて」きたのだろうか。
それとも、与えているつもりで、別の何かをしていたのだろうか。
この問いに正直に向き合えるかどうかで、これから先の人生の景色が、まるで変わってくるんです。
「与える」と「取引する」は違う
仏教に、布施という言葉があります。
お坊さんに包むお金のことだと思っている人が多いんですが、本来の意味はもっと広い。古いインドの言葉でダーナと言って、ただ「与える」という意味なんですね。
ところが、ここからが面白いところで。
私たちが普段「与えている」と思っている行為のほとんどは、厳密に言えば与えていない。取引しているんです。
部下を育てる。育てたら、ついてきてほしい。子どもに尽くす。尽くしたら、感謝されたい。仕事で成果を出す。出したら、評価されたい。
これ、与えているように見えて、実は心の奥で見返りの請求書を切っている。
私自身、これにずっと気づかなかった一人です。年商の数字を追いかけていた頃、私は「クライアントのために」と本気で思っていました。本気で思っていたんですが、結果が出ない時期に、ふと心の中を覗いたら、そこにあったのは「これだけやったんだから感謝されたい」という、未払いの請求書の束だったんですね。
恥ずかしい話なんですが、これが本当の話。
修身の世界では、これを『陽徳』と呼びます。表に出る善行。誰かに見せたい、認めてほしい、報われたい——そういう動機が混ざった与え方。
陽徳は、悪いものではないんです。世の中の九割は陽徳で回っている。ただ、陽徳ばかり積み重ねていくと、どこかで人は破綻する。なぜか。
請求書には、必ず期限があるからなんです。
期限が来ても支払われない時、人は「裏切られた」と感じる。子どもに、部下に、配偶者に、社会に。本当は最初から契約書なんて交わしていないのに、自分の中だけで一方的に発行した請求書を、相手が踏み倒したように感じてしまう。
これが、与えてきたはずの人が孤独になる構造なんですね。
私が広島の老舗で見た「黙って渡す人」
ところが、ここから話が一段深くなります。
修身には、陽徳と対になる言葉があって。それが『陰徳』です。
陰徳というのは、誰にも見られない場所で、誰にも知られないまま、ただ与える行いのこと。中国の古典『淮南子』には「陰徳ある者は必ず陽報あり」と書かれているんですが、私はこの言葉を、最初は綺麗事だと思っていました。
考えを変えたのは、広島で長く続いている、ある老舗のご主人と話した時です。
その方は、地元の若い職人を何人も育ててきた人で。私が「立派ですね」と言ったら、ふっと笑って、こう仰った。
「いやいや、私は『してあげとる』とは思うとらんのですよ。あの子らがおるから、私が朝起きる気になるんです。私が、もろうとるんです」
——もろうとる。
この一言に、私はしばらく動けなかったんですね。
この方は、見返りを期待していない。それどころか、与えている自覚さえない。「自分が受け取っている側だ」と本気で思っている。だから、相手が辞めようが裏切ろうが、心の請求書が発行されない。請求書がないから、踏み倒されることもない。
これが、本物の与え方の温度なんだと、その時に気づかされました。
二宮尊徳は、これを『推譲』という言葉で残しています。自分の取り分を、静かに次の人に譲っていく。譲った相手から何かを期待するのではなく、譲ること自体が、自分の徳を養う行いになっている——という思想なんです。
つまり、与えるという行為は、本来、相手のためじゃないんです。自分の心を整えるためのもの。
ここが反転するポイントで。
「相手のために」という思考を握りしめている限り、人は必ず見返りを求めてしまう。けれど、「自分の心を澄ませるため」と捉え直した瞬間、与えた瞬間にもう取引が完結している。受け取り手が感謝しようがしまいが、関係なくなる。
これが、二千五百年前にお釈迦様が見抜いていた構造であり、修身の先人たちが『自利利他』として磨いてきた知恵なんですね。自分を利することと、他を利すること。これが分離していないことに、本当の意味で気づけるかどうか。
孤独を解くのは、新しい人間関係ではないと、私は思っています。
もう一人増やしても、もう一人尽くしても、心の請求書を発行し続ける限り、また同じ場所に戻ってくる。だから、変えるべきは外じゃなくて、与える時の自分の心の温度なんでしょうね。
請求書を切らずに、ただ渡す。
渡したことすら、忘れてしまう。
そういう人の周りには、不思議と人が残るんです。本人が望んでいないのに、残る。修身が二千年かけて言い続けてきたのは、たぶんそういう構造のことだと思っています。
私自身、まだ請求書を切ってしまう癖が抜けません。気づくたびに、そっと破って捨てる練習をしているところです。
完成していないからこそ、今日もこうして書いている、というのが正直なところなんですね。
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