二つに分たれた世界の狭間で
冷戦が終わり世界では一つの大きな物語が失われた。
物語を良くも悪くも共有してたからどれだけ立場が分かれててもそれを前提に議論ができたのだと思う。
その後30年以上が経ち、新しい大きな物語も生まれることなくここまできた。
大きな物語が無くなっても世界は回り続けた。
資本主義の中でのテクノロジーの進歩はそれでも止まらなかった。
X(旧Twitter)やYouTubeなどのSNSの普及により、顔も何もわからない人間と意見を交換できるようになったのである。
しかしながら、新しい公共空間の誕生かと思いきや
今や人々を分断する道具となってしまった。
それらはエコーチェンバーとアルゴリズムの作用によって喧嘩のマッチングアプリになってしまったのだ。
そしてその分断は自動翻訳機能の搭載によって世界的な争いになるだろう。
先進技術が我々にもたらしたものはなんなのだろうか?
世界を一つにまとめるどころか二つに分たれてしまった。
一つの世界は優しい言葉が響く。
「多様性」「包摂」「誰も取り残さない」と。
しかし住人たちは微笑みながら互いにナイフを向け合っている。
かつては労働者の解放を夢見た彼らの思想は、今や自分の美徳をアピールするための道具と成り果てた。
DEI、キャンセルカルチャー、言葉狩りと資本主義の中で、「正しさ」の名の下に逸脱者を処刑し続けている。
少数者を擁護するが、結局象徴として消費し、本当に救われるべき人間を透明化し彼らはそれを本気で善だと信じている。
彼らにとって正しさこそが通貨なのだ。
この世界では「優しさ」「正しさ」の仮面を被ったまま静かに人間の精神というものを壊している。
もう一つの世界は血のような黒と赤で塗り固められている。
街中には横断幕に「愛国」「伝統」という文字が至る所に刻まれている。
誰も彼もが絶叫をしている。
「売国奴を許すな!」
「ジャパン イズ バック!」と。
三島由紀夫はこの世界では便利な殉教者だ。
市ヶ谷での彼の痛み、絶望は愛国のエッセンスとして希釈されて愛飲されている。
彼がこの国の何に怒ってたのか?そんな難しい話はナシナシ。
代わりに「反移民」「反左翼」「反グローバル化」の燃料を飲み、戦後の快適さを満喫しながら「伝統」を叫ぶ。
二つの世界は表向きでは死ぬほど敵対している。
片方の世界からは「ファシスト!」「差別主義者!」の怒号が
もう片方の世界からは「売国左翼!」「アカ!」の罵声が飛び交う
ネットのアルゴリズムはこの対立により得られる流血を養分として支配者に届ける。
だがよく見てほしい。こいつら同じことをしている。
この資本主義の虚無を直視せず、麻酔をしてそれを誤魔化している。
一つの世界では「多様性」を。もう一つの世界では「伝統」を麻酔に。
結局、二つの世界の住人はお互い血を流しながら同じ主人に奉仕をしているのだ。
二つの世界が対立を激しくするほどに市場は拡大し、管理は容易となり、心の空洞化は進む。
私はこれまでの人生、接近と疎外を繰り返してきた。
だから私はこの二つの世界に吐き気がする。
左翼の欺瞞も右派の欺瞞も等しく軽蔑する。
だが、この虚無を本気で超えようとしている人は右翼だろうと左翼だろうと何も文句はない。
そういう人たちには私は敵意ではなく敬意を持っている
見たいものだけが見られるようになった世界。
マトリックスのような大掛かりな装置などいらない。
レッドピルを飲むかブルーピルを飲むかの選択肢なんて私にはいらない。
大きな物語など最初から期待していない。
虚無は虚無として受け入れるしかない。
それでも、今日の飯を美味く食い、好きな音楽を聴き、誰かと馬鹿な話で笑えるなら——それで十分じゃないか。
人間らしくありたいからだ。



生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり。 本当の心からくるもの、それは必ず何かに通じると思います。私の…