ある看護学生の自死
看護師は長年、子どもたちの「なりたい職業ランキング」で上位を占める人気の職業だ。多くの人が「人の役に立ちたい」「医療に貢献したい」という純粋な気持ちで看護の道を志す。
しかし、その夢を実現しようと看護学校や大学に入学した学生は、ときとして想像していなかった現実に直面することがある。
2022年7月13日、岐阜県の看護専門学校2年生だった高橋蓮さんが、病院での看護実習期間中に自ら命を絶った。SNSには教員からのハラスメントがあったことをにおわせることが書かれていた。
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【心を追い詰められていく看護学生たち】
19歳の若者が、なぜこのような選択をしなければならなかったのか。蓮さんの父親である裕樹さん(51歳)は、息子の死を無駄にしないため、看護教育を変える活動を始めた。
「まるで軍隊」のような学校
蓮さんの死後、裕樹さんは同じように教員からのハラスメントに苦しむ看護学生の相談窓口「NPO法人全国看護学生はぐくみネット」を開設。公認心理士や弁護士、看護師などの専門家とともに、オンラインやLINEで相談に応じている。
相談は2日に1件のペースで寄せられ、特に社会人経験のある学生からの相談が多いという。
「相談では、理不尽なハラスメントだけでなく、失敗ばかりを指摘する指導やマイクロアグレッション(無意識の偏見や思い込みが言動に表れること)、睡眠を削る過重な課題によって心を追い詰められ、涙ながらに語る学生もいます。形式上は“指導”であっても、うつや適応障害につながる現実があります」(裕樹さん)
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はぐくみネットの活動を通じて見えてきたのは、看護の教育現場に蔓延する深刻なハラスメントの実態だ。同組織が知る限り、北海道や千葉県、愛知県、兵庫県など、全国各地から相談が寄せられる。
「多くの相談者が、自身が通っている看護学校のことを“軍隊のようだ”と表現します」と裕樹さんは話す。
具体的な内容を挙げると、こんな感じだ。
「学生辞めちゃえば」「いつでもお前の首なんて切れる」(退学示唆)
このような言葉の暴力のほか、記録を床に投げつける、怒鳴って指示をする(威圧的態度)、具体的な指導なしに記録の再提出を繰り返し求める(指導放棄)など、多岐にわたる。
「ほかにも、実習で忙しい学生が身なりを整えて登校したことに対し、教員から『眉毛を書く時間があるんだ』と指摘され、石けんで顔を洗わされたという相談や、机の上にジュースを置いただけで激怒されたという相談もあります」(裕樹さん)
ハラスメントには該当しない
裕樹さんは2024年1月、ハラスメントアンケート330件のデータをまとめた報告書と、別団体が集めた岸田文雄首相(当時)宛のオンライン署名3万3000筆を、文部科学省と厚生労働省の担当者に提出した。また、岐阜県に対しては第三者委員会による調査を求めた。
しかし、調査結果は「必要かつ相当な範囲を超える指導・注意とは認められず、ハラスメントに該当するものではなかった」と結論づけられた。
では、なぜ看護教育現場でハラスメントが起こるのだろうか。日本看護学校協議会などによると、背景には、複数の構造的要因があるという。
1つめは、古い価値観の継承だ。「命を預かる仕事なのだから厳しくして当然」という考えが指導者にある場合、こうしたハラスメントが起こりやすい。
また、教員が学生を評価する絶対的権限を持つ構造的な問題や、抗議すれば留年・退学のリスクがあるため、学生は声を上げられないという問題。そして相談窓口がない(あっても機能していない/加害教員が相談担当者)、教員研修が不十分といった対策の不備などが挙げられる。
一方で、はぐくみネットの活動を通じて、変わろうとする学校も出てきた。学校名は出せないが、ある看護専門学校は日本看護学校協議会と協働して、学校環境を変えていくことが決まった。
蓮さんのような悲劇を二度と繰り返さないためにも、社会全体がこの問題に向き合うときが来ている。看護師を志す人たちが、安心して学び、働ける環境を築くことは、結果的に患者にとっても、より良い医療を受けられることにつながる。
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【看護教員間のハラスメント】
看護学校や大学で起こっているハラスメントには、学生に対してだけでなく、教員間でも発生していて、離職につながる問題となっている。
関西地方にある大学の具体的な事例を挙げる。
A大学のB講師が、古参のC教授によってすべての演習授業から外される事案が発生。きっかけは学生がC教授に「科目によって演習のやり方が違うのはどうしてか。B先生のやり方が良い」と言ったことだった。
B講師の演習は、学生同士で教え合い、気づきを促すように組み立てられており、学生から好評だった。それに対して、C教授は「B講師は演習中何もしておらず、怠慢だ」と批判し、当初は演習科目の担当から外すだけだったものが、すべての授業から外すなど行為がエスカレートした。
B講師はハラスメント相談窓口に訴えて認定されたものの、状況は改善されず、B講師は授業から外されたままの状態が続いているという(取材時点)。
もう1つの背景として、看護教員数の不足がある。
1992年の「看護師等の人材確保の推進に関する法律」の改正以降、急速に大学の看護系学部が増加したが、教員数がそれに追いつかなかった。
取材した複数の大学教員からは、「多くの新設大学が人材獲得を優先し、質の担保が後回しになっているため、なかには10年以上論文発表をしていないのに教授職に居座る、授業内容が10年間変わらないといった状況に陥っている大学もある」という声が聞かれた。
医療現場での問題、患者や家族からの暴力、暴言、セクシャルハラスメントなどについても見ていきたい。
就職後も続くハラスメント
今から1年ほど前、ある女優が交通事故後に搬送された病院で看護師に暴力を振るい、逮捕された事件があったが、実は病院や介護施設、訪問看護の現場では、看護師が日常的にカスタマーハラスメントを受けている実態が明らかになっている。
厚労省の調査では、8割以上の病院が過去1年間に職員への院内暴力(身体的暴力・精神的暴力・セクハラなど)を経験。しかし、警察へ通報したケースはわずか2.8%にとどまる。
具体的なハラスメントとしては、待ち時間が長いことに対して、受付スタッフや看護師を恫喝する、入院中に看護師に対して「早くしろ」と怒鳴りつけ、処置に必要なトレーを投げつける、などが挙がっている。
一般社会であれば犯罪となる行為も、医療現場では「病気で苦しんでいる患者さんだから」という理由で看護師の泣き寝入りが強いられてきた。
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【医療現場での暴力やカスハラの事例】
筆者も男性患者から胸を触られたり、高齢患者から唾を吐かれたり、出血するほどひっかかれたりするなどの行為を受けた、当事者の1人である。
このようなカスハラがあった際には、本来なら組織や上司が守ってくれたり、ケガについては労災が適用されたりするものだが、上司からも「優しく接するべき」とたしなめられ、根本的な解決策は講じられなかった。
医療機関のカスハラでは、認知症などの疾患が背景にある場合、患者を一概に悪者にできないという複雑さもある。その結果、看護師はカスハラに対して何のケアやサポートもなく、被害を受け続けることで精神的に疲弊し、休職や離職につながるケースが少なくない。
近年は、こうした医療従事者へのカスハラが問題視され、警察OBを保安員として配置したり、「当院はいかなるハラスメントも許していない」「警察と連携している」などのポスターを掲示したりするなど、予防対策を講じる病院は増加している。
日本看護協会も「看護職の健康と安全に配慮した労働安全衛生ガイドライン」や「保健医療福祉施設における暴力対策指針」を策定している。
しかし、実効性は十分でないのが現状だ。
加えて、先輩看護師や上司からのハラスメントも深刻な問題となっている。
「命を預かる仕事」であることから、厳しい指導が必要な場面もあるが、教育とは到底思えない人格否定や、威圧的態度で相手を追い込む。これが原因で、看護師を採用しても定着しないという問題を抱える医療機関も少なくない。
安全な医療現場の実現を
2025年6月4日、改正労働施策総合推進法が国会で可決・成立し、6月11日に公布された。この改正は、すべての事業主にカスハラ対策の措置義務を求めたもので、これまでの「努力義務」から「法的義務」になる。
今後、厚労省から省令や指針が示され、2026年10月頃に施行される見込みだ。
さまざまなハラスメントに対して、看護師を含む医療従事者が我慢することのない、安全な医療現場の実現が期待される。