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【お知らせ】
今月29日発売の『エトセトラ Vol.15』 に寄稿しました。タイトルは「トランス女性が女性ならいいのか? トランスジェンダー・フェミニズム序説」です。
トランスの存在を支持する文脈で「トランス女性は女性です」というスローガンが用いられたり、「トランス包摂的な(インクルーシブ)フェミニズム」が唱えられたりする一方で、わたしはどうしても、トランス女性が経験している差別の実相がそこでいつも置き去りにされているような違和感を覚えてきました。タイトルで気分を害された方がいたらごめんなさい。
(つづく)
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12:37 AM · May 3, 2026
それでも、どうしても書かなければならなかったし、また『エトセトラ』だから書くことができた原稿です。
執筆依頼は、「トランスジェンダー・フェミニズム」の口火を切るようなマニフェストを書くようにというものでした。そのつもりで書きました。また、途中ですこし(とはいえとても重要な箇所で)『部落フェミニズム』を参照しています。
ちなみにやや込み入った話をすると、トランス女性を「女性」のサブカテゴリーとして理解することは、性自認やそれに基づいて構築したトランスの人の生活を尊重しない社会においては、意味あることだと思います。
(つづく)
一方で、そのような理解は、トランス女性が経験している差別を「女性差別+トランスジェンダー差別」の掛け合わせ(交差性?)として思考するよう導きます。
しかし私は、トランス女性が経験している差別をそのような複合性から理解することはできないと考えています。
なぜなら、トランス女性に向けられる憎悪や暴力、差別は、彼女たちを独特の仕方で(しかも一つではなく複数のパターンで)女性ではない存在として位置づけており、ときに「脱ジェンダー化」という、性別を奪う作用をともなってもいるからです。このあたりは、近年ジョルジュ・ジル=ジルピーターソンやタリア・バットが論じていることを手掛かりにしました。
(つづく)
マニフェストなので緻密な議論はありませんが、ふんわりしたトランス包摂的フェミニズムには(個人的に)希望を抱けないなと思っているので、ここから始めようかなと思い、書きました。
いわゆる「マイノリティ女性」が受けている差別が、そもそも「男性」でも「女性」でもない存在として彼女たちを位置づける「脱ジェンダー化」による「非人間化」作用によって支えられているとしたら。
私は、ジェンダーがない世界という、ラディカルフェミニズムの理想がトランス排除へと空転していくロジックの核心はここにあると思っています。
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