三国志の質問です。 「三顧の礼」は無かったとするのが近年の定説になりつつある。と書いた本がありました。根拠として「魏略」の記述を挙げています。孔明の方から樊城に出向いていき、 劉備と議論をかわしたとされています。 私も三顧の礼は無かったという意見に賛成したいところです。 ただ、問題がひとつ残ります。それは「前出師の表」の記述です。この中で「三顧、臣(諸葛亮のこと)の庵の中で」 と書かれています。「後出師の表」とは違い、信ぴょう性の高いこの文章と矛盾するように思います。 みなさんはどのように考えますか。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

湯王の故事からとったという可能性はありえますよね。なるほど。 ありがとうございました。

お礼日時:2011/8/11 10:20

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◎定説は、まず諸葛亮が劉備に会いに行き、その後劉備が諸葛亮を何度か訪ねた。 正史『三国志』にも「出師の表」にも劉備は三回目の訪問で諸葛亮に会えたとは書かれていない。現在は「出師の表」も『魏略』の記述もともに真とする「まず諸葛亮が劉備に会いに行き、その後で劉備が諸葛亮を何度か訪ねた」が定説。それを覆したい方は、中国語か英語で論文を書いて三国志の世界的な権威たちに論争をしかけるべき。それが学問の発展に繋がる。

出師の表には、劉備が孔明に三度尋ねたと書いてあり、三顧の礼とは書かれていません

原作者の人物すら覚束ない「魏略」と、(ほぼ間違いなく)諸葛亮自身が書いた「出師の表」とどちらが信憑性が高いか、という問題になりますね。 もちろん「真実」がどうだったのかは今となってはわかりませんが…… 「魏略」の記述が(その話をどこから仕入れたのか怪しいにしても)真実なのかもしれません。 「出師の表」では諸葛亮が劉備美化のために「三顧の礼」を創りあげた可能性だってないとは言えません。 その場合は諸葛亮が嘘つきということになってしまいます。 それじゃあどうもうまくないので、矛盾しないように考えてみますと…… 劉備が新野周辺で有能の士を集めて就職面接会を行った中に、諸葛亮がいた(そこで「魏略」のエピソードが発生した)。 即就職決定!とはいかなかったけど「面白いやつだなあ」と思った劉備は、領内巡回等で諸葛亮家の近くを通る度に訪ねて情勢の論議を行った。 その数、三度。 そして諸葛亮の知識・能力に納得した劉備は召抱えることにした。 無理矢理詰め込んでみましたが、こんなのでどうですか?