アップグレード
ミカとの決別から2年が経った。
40歳になったノリトは、彼女の荷物だけが消えた2DKの部屋で、相変わらず暮らしていた。 未練があるわけではない。ただ、一人暮らしには過剰なスペックの家電たちが、部屋の隅々で無機質な光を放っている。
60インチのテレビ、自動調理器、最新式のオーブンレンジに全自動洗濯機。
すべては、別居していた彼女が戻ってきた際、何のストレスもなく「悠々自適」な生活を再開できるようにと新調したものだった。
最後まで、彼女から慰謝料を奪うという選択肢を持てなかった自分。その甘さが、この過剰に揃った家電群に形を変えて居座っている。 かつては「設計のプロ」を自称していた。だが、自身の人生設計(ライフプラン)に関しては、致命的な設計ミスを繰り返すばかりだ。愛する人を養うために、あんなに必死で勉強した薬事の知識も、今は第一線では使っていない。
といっても、転職したわけではない。ただ、空っぽになった人生に嫌気がさし、環境を強制的にリフレッシュしたかった。ちょうど世代交代で空席のできた「クオリティ・エンジニア」に自ら立候補したのだ。 かつて『大阪の母』と慕ったトキタ部長は定年を迎え、組織は再編された。今の部署を牛耳るのは、外資系大手からヘッドハンティングされてきた辣腕の薬事・品質保証本部長だ。
彼は当初薬事部に配属され、薬事部で淡々と、しかしなぜかどんな無理難題も「シンプルに」解決するノリトの器用さをいち早く見抜いていた。当初は、自身が後任となるであろう薬事部門にノリトを留めておきたがったが、自身が本部長へ抜擢されたタイミングで、ノリトを品質保証の要であるクオリティ・エンジニアとして迎え入れた。
「使い勝手のいいマルチプレイヤー」を最適なノードに配置する。その冷徹なまでの人事采配に、ノリトは皮肉な笑みを浮かべる。
「ヒロセ君、この案件のバリデーションを、週明けまでにフィックスしておいてくれ。他部署とのコンセンサスも忘れずに」
外資仕込みの横文字が飛び交う指示に対しても、今のノリトなら息を吸うように対応できる。
「了解しました。そのプレッシャーをプレシャスに変えて差し上げますよ」
上司との腹の探り合い。かつて上司を小馬鹿にするために使っていたアイロニーは、今や円滑な組織運営のための潤滑油(インターフェース)へと昇華されていた。
最近、ノリトはよく笑うようになった。 悲しいかな、非合理と不条理の源泉であった「母」も「妻」も、もう彼のシステム内には存在しない。かつて『大阪の母』と慕った上司に勧められ通った精神科も、「笑う」という一番の特効薬のおかげでもう通っていない。その笑いが、守るべき後輩たちが増えた責任感によるものか、あるいは時の流れによる忘却(キャッシュクリア)の産物なのか、ノリトはまだ解析できていない。
だが、エンジニアのフィールドに戻り、泥臭い品質改善に奔走する中で、時折あの声が耳の奥で再生される。
「ヒロセ君、エンジニアリングとは成果がすべてだ。大人になりたまえ」
理論よりも現実を重んじた、あの指導教官の言葉。
「俺は何の成果も上げれんかった……」
清濁を併せ呑み、会社を守ろうとして散った先輩の、震える背中。
清濁を合わせた「成果主義」を掲げ、不具合のない製品を世に送り出す。それが今のノリトに与えられた新しいミッションだ。かつて泥臭さを嘲笑っていた男は、今や誰よりも現場を歩き、データの裏にある真実をデバッグし続けている。
同時に、もう一つのログが脳裏をかすめる。
「ヒロセ、子供はええぞ!」
尊敬した先輩が一人の父親になった瞬間、零れ落ちた言葉だ。
40歳。まだ遅くはないのかもしれない。
だが、その可能性を思考するたびに、彼の心は激しくざわつく。 かつて愛した人を、幸せにできなかった。自分というシステムを信じてくれた女性を、破滅の底へ追い込んでしまった。
(自分は……幸せになっていいのだろうか?)
その問いに対する解は、どの数学の公式にも、どの法規制の条文にも記されていない。ノリトは、静まり返ったリビングで、一人用の食事を無機質な自動調理器にセットした。 新しい朝が来れば、また完璧なクオリティ・エンジニアを演じる日常が始まる。 ただ、その空っぽな胸の隙間に、新しい「希望」という名の変数を代入する許可を、彼はまだ自分自身に下せずにいた。