「もう、疲れました」
パンデミックの余波が残る役所の面談室。アクリル板越しに放たれたノリトのその言葉は、スピーカーを通じて無機質に響いた。 対面に座る、かつて妻だった女性。その隣には、変わり果てた娘の姿に戸惑い、一気に老け込んだ彼女の父親がいた。 ノリトは、自身の両親をこの場に呼ばなかった。異物を排除し、システムの整合性が保たれたことに独りほくそ笑む母の顔を直視すれば、自分の中の何かが完全に決壊することを知っていたからだ。
友人の弁護士が淀みなくリードし、書類への署名と捺印は淡々と進んだ。10年の歳月が、数枚の紙切れへと圧縮されていく。最後に、ノリトは精一杯の理性を振り絞って口を開いた。
「こんな僕の人生に付き合ってくれて、ありがとうございました。どうか、僕のいない人生で幸せになってください」
それは、かつて愛した女性に対する、今の彼にできる最大限の敬意。しかし同時に、二度と彼女の不条理に関与しないという、温かくも冷徹な「アクセス遮断」の表明でもあった。
この時のノリトは、数年後、自分が別の女性から全く同じ言葉を突きつけられ、身を切られるような思いをすることを、まだ知る由もない。
うなだれるミカに代わり、彼女の父が「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」と寂しげな、しかし事務的な挨拶を返した。 それで、すべてが終わった。
だが、ノリトにはまだ、クリーンアップすべき重大な残置物があった。 精神が限界に達し、行き場を失った怒りを、彼はもう一つの決別へとぶつけた。
――実母だ。
流石に肉親に対して内容証明を送るほど狂ってはいない。だが、ノリトは無機質な白い便箋に、極めて精緻に計算された毒を綴った。
「この度、ミカさんと離婚するという選択を取りました。あなたがどこまで画策したのかは知る由もございませんが、私はあなたを許すことは今後もないでしょう。劣った遺伝子がこの世に残ることはありませんので、ご安心ください。今後の連絡は文書のみで受け付けます」
かつて幼少期に面白がって実行していた「大人の揚げ足取り」。 38歳になった今、彼は「法」と「エンジニアリング」という小賢しい知識を武装(ロード)し、最も近しい大人に対して、人生で最後にして最大のアイロニーを実行した。
母からの返信はなかった。 ミカがいなくなった2DKの部屋の静寂は、かつて求めた「悠々自適」とは程遠い、耳鳴りのするような空白だった。
ノリトは、自分というシステムの再起動を試みた。 だが、メモリの奥底には、修復不可能な「喪失」という名のセクタ不良が刻まれていた。 彼はここから、再び独りきりで、「スペック」と「合理性」だけが頼りの、長く孤独な航海へと漕ぎ出すことになる。