リセット

まさに青天の霹靂(へきれき)だった。あの、実直で不器用なミカが? 結婚して8年、交際を含めれば10年。ノリトの記憶にある彼女は、いつだって職人のような手で黙々と何かを作り上げ、一歩後ろからついてくる献身的な女性だった。 崩壊と別居という苦いキャッシュが上書きされた今でも、その「コア・イメージ」だけは壊れずに残っていたのだ。しかし、受話器から聞こえる声に、かつての面影は微塵もなかった。

 

 

「……何で?」

 

 

問いかけるノリトに、彼女は震える声を繋ぎ合わせるようにして、空白の三年間を吐露した。 パンデミックという断絶された世界。親の優しさは「腫れ物」を扱うような疎外感に変わり、SNSという無機質な海だけが外の世界との唯一のポートになった。そこで、怪しいと分かっていながらも、自分を「一人の人間」として肯定してくれる甘いノイズに、抗うことができなかったのだという。 不器用で口下手だった彼女は、最も脆弱な瞬間に、最も簡単なルートで破滅へと誘われていった。

 

 

「ごめん、もうどうしていいかわからないや」

 

 

ノリトは、深い疲労感と共にシステムのシャットダウンを感じていた。 かつて愛した女性は、もうどこにもいない。彼女をここまで変えてしまったのは、自分の強引な人生設計(アーキテクチャ)のせいなのか。そもそも僕と出会わなければ、彼女は今も地元で、献身性と器用さを併せ持った名物営業事務として楽しく暮らせていたのではないか。そう考え始めると、ノリトはこれまでの自分の全人生を「致命的なエラー」として否定せざるを得なかった。

 

 

ふと思い出したのは、学生寮時代からの友人である弁護士の存在だった。 このような時、法的にはどうすればよいのか?相手の男を特定して慰謝料を請求するか?行政書士の勉強を中途半端に投げ出していなければ、もっとスマートに立ち回れたのか……。そんな、無意味な自己完結のループに陥るノリトに、友人は冷徹な、しかしプロとしての解を突きつけた。

 

 

「まず、自分を責めるのをやめろ。次に、情け容赦を捨てて慰謝料を取るべきだ。――妻からな」

 

 

 

「え……?」

 

 

 

その発想は、ノリトの論理回路には存在しなかった。 自分が招いた一連の崩壊。彼女は被害者ではなかったのか?だが、友人は淡々と事実(ファクト)を並べた。第一に、不貞行為という明確な契約違反。第二に、別居の発端となった配偶者(夫)への暴力。そして第三に、婚姻関係の客観的な破綻。

 

 

頭が真っ白になった。それは、かつて母が虎視眈々と進めていた「異物の排除」という冷徹な作業を、法という正当な手続きでなぞるような行為だった。 母が親としての慈愛で動いていたのか、あるいは自分の理想とする「完成品のおもちゃ」を求めて「嫁ガチャ」というリセマラを試みたのか、今となっては分からない。だが、第三者であるプロの言葉は、逃げ道を塞ぐのに十分だった。

 

 

「せめて……自分が壊してしまったミカから、お金を奪うような真似だけはしたくない」

ノリトは、それが自分に残された最後の人道的なパッチであるかのように懇願した。 結局、慰謝料という形式ではなく、当座の生活費を含めた「解決金」をノリトが支払うことで、このプロジェクトを終了させるという苦渋の決断を下した。

戸籍という名のデータベースから、彼女の名前が削除される。 10年という膨大なログが、一瞬で「アーカイブ」へと放り込まれた。

 

 

部屋に残ったのは、かつて彼女がデザインしたアクリルスタンド。ミカがデザインとエンジニアリングをうまく融合し、記念に作ったものだ。ノリトはそれを捨てることもできず、ただ無機質な大阪の夜景を眺めていた。 再起動したはずの人生は、またしても真っ暗な画面(ブラックスクリーン)に突き当たっていた。

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