停滞
ノリトとミカは、別居という「一時停止」を選択した。 奇しくもその直後、世界は新型コロナウイルスという未曾有のシステムエラーに見舞われた。実家に戻ったミカとは物理的にも精神的にも分断され、その期間は実に三年に及んだ。
未曾有のパンデミックは、ノリトにとって皮肉なプラスの効果をもたらした。「感染リスク」という完璧なリスクマネジメントを大義名分に、実家への帰省を拒み続ける口実ができたからだ。 母は画面の向こうで不満を漏らし続けていたようだが、今のノリトにとっては重要度の低いログに過ぎない。
父からも時折心配そうな連絡が入ったが、激動の時期にただ事なかれ主義で静観していただけの彼に対し、「ありがとう」以上の意味を持つ言葉を返すことはできなかった。
一方、ミカの精神状態は臨界点を越えていた。
彼女にとっての結婚生活は、結婚と同時に夫が失業し、慣れない土地へ拉致されるように移住し、孤独と姑の無言の冷遇に晒され、パンデミックの閉塞感に追い詰められるという、負の変数が重なり続けた「激動の八年間」だった。
ノリトは幸いにも、リモートワークの定着によって外界との接触を最小化でき、拒食症と向き合う時間を得た。少しずつ、壊れたハードウェアを修復するように体調を取り戻していった。
別居から三年が経ったある日。パンデミックという未曽有の混乱も収束しようとした頃、ミカから突如として連絡が入った。長く塞ぎ込んでいたと聞いていた彼女からの、予告なしの着信。ノリトは動揺しつつも、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「ねえ、ノリト。私のこと、今でも好き?」
震える声。精神的に不安定な相手に対し、どのようなレスポンスを返すのが正解(ベストプラクティス)なのか。ノリト自身、まだ自らのシステムを完全には復旧できていない。
「どうしたの、急に……何かあった?」
ノリトの、戸惑いを含んだ問いかけに対し、ミカは乾いた、ひどく脆い声でこう続けた。
「あのね。私、浮気しちゃった」
「……え?」
ノリトの脳内を駆け巡っていた複雑な計算が、その一瞬ですべて停止(フリーズ)した。 エンジニアとして、夫として、そして一人の人間として積み上げてきた論理のすべてが、ミカの放ったたった一行の「告白」という名の致命的なノイズによって、音を立てて崩壊していった。