瓦解
家庭内の不条理な負荷と、准管理職としての過酷な業務。ノリトのシステムは、ついに肉体というハードウェアに限界を告げた。 異変は、拒食症という形で現れた。
元々痩せ型ではあったが、適度な運動で維持していた締まった体躯は、見る間に削ぎ落とされていった。愛飲していた珈琲の香りさえ、今では胃壁を逆撫でする異物でしかない。
職場のトイレで人知れず嘔吐を繰り返す日々。 日に日に土気色に痩せこけていくノリトの姿に、トキタ部長が声をかけた。
「ヒロセくん、少し休んだら?」
それはノリトにとって、屈辱的なコマンドだった。だが同時に、かつて自分がミカに「仕事を辞めたら?」と無神経に言い放ち、彼女のプライドを粉砕した時のあの報いが、今自分に返ってきたのだと悟った。 部長はノリトの担当業務を調整し、精神科の受診を強く勧めた。
「鏡で自分の顔を見てみなよ。普通じゃないよ?」
スマートに振る舞い、ハイスペックな男を演じ続けてきた姿は、そこにはもうなかった。鏡に映るのは、バグだらけのコードを無理やり走らせ、クラッシュ寸前で火を噴いている哀れな端末だった。
沼の深淵に足を取られた二人は、ついに双方の両親を巻き込んだ話し合いの場を持った。 そこには、表面上は上品に取り繕いながら、冷ややかな視線を隠そうともしないノリトの母がいた。一方、ミカの両親は、変わり果てた娘の姿にただただ狼狽し、頭を下げるばかりだった。
「うちの娘が、本当に申し訳ありません……」
「いいえ、今のご時世、鬱になる方は多いですから、仕方がありませんわ」
ノリトの母の言葉は、一見すれば慈悲深いが、その実、わかる者にはわかる嫌味がたっぷりと塗り込まれていた。「病気なら仕方ないわね、この縁もここまでね」という、離婚への最短ルートを設計する、冷徹な一手だ。
その日は結論こそ出なかったが、ミカは仕事を辞め、実家へ戻ることになった。 帰りの車中、母が吐き捨てるように言った。
「まあ、子供がいなかっただけマシね。精神疾患なんて。劣った遺伝子が後世に残ることを考えただけでもゾッとするわ。」
「……ふざけるな!」
ノリトは激怒した。 自分が選択し、構築し、そして失敗した人生だ。その責任を他人に転嫁するつもりはない。だが、ただ愚直に、職人として好きなことに没頭し、不条理な環境で戦い抜こうとしたミカを「劣った」と切り捨てることだけは、断じて許せなかった。
「何よ、あなたが選んだ道じゃない。私は当然の結末を預言しただけよ。自分で選んだ道に責任を取れなかったのは、あなたでしょう?」
前職が廃業した時、先輩が涙を浮かべて言った言葉が蘇る。 『結果が全て』 世の中という無情なコンパイラは、どんなに高潔なプロセスを歩もうとも、エラーを吐き出した人間に言い訳の権利など与えない。正しいか否かを決めるのは、いつだって外部のリソースなのだ。
ノリトは、それを痛いほど理解していた。だからこそ、論理的な反論ができず、ただ感情的に怒鳴るしかなかった。 愛した人を、愛せなくなった。 ただそれだけの事実を認めたかったのに、無条件の味方であるはずの母は、自分の理想とする「完璧な息子」というプログラムを走らせることしか考えていなかった。
ノリトの守りたかった聖域は、母という名の巨大なシステムによって、跡形もなく上書きされようとしていた。