その場しのぎのパッチ

嵐のような怒声の後、ミカは一旦の落ち着きを取り戻した。二人の間には、いくつかの新しい「運用ルール」が書き加えられた。 「勉強は1日1時間まで」「寝る前には必ず他愛もない話をすること」 その場しのぎのパッチ(暫定処置)は、驚くべきことに数年の間、表面上の平穏を維持した。

 

しかし、一度深刻なエラーを起こし、カーネルレベルで損傷したシステムが、そう簡単に元の整合性を取り戻すことはない。

 

ミカは次第に、毒を吐くようになった。 あの人は後先考えていない、自分はこれほど一生懸命にやっているのに、正当に評価しない世間が間違っている――。

 

 

彼女は本来、愚直なまでに努力を積み上げる職人だった。だが、今の彼女が他人を蔑み、小手先の理屈で自分を正当化しようとする姿は、皮肉にもノリトがかつて最も忌み嫌い、そして自分自身が内包していた「傲慢な選民意識」の写し鏡のようだった。

 

 

二人の関係は、緩やかに、しかし確実にセックスレスへと移行していった。 「互いの人格を尊敬できない以上、リビドーが駆動しないのは論理的な帰結だ」 ノリトはそんな理屈っぽい解釈を脳内で展開していたが、実際にはもっと単純な、生物としての本能的な拒絶だった。

 

 

皮肉なことに、二人の心の距離が反比例するように離れていく中、ノリトのキャリアは加速した。一般職から准管理職への昇格。それは彼が望んだ「社会的な成功」のステップだったが、代償として残業時間は増大し、二人のための時間は砂時計の底に消えていった。

 

 

ミカは、ついに精神科の門を叩くようになった。 慣れない土地での孤独、プロフェッショナルとしての自尊心が削られる職場、そして「成功」していく夫への複雑な感情。彼女のシステムは、修復不可能なほどに疲弊しきっていた。

 

 

「……ミカ。一度、仕事を辞めてみたらどうかな?」

 

 

ノリトが良かれと思って放ったその言葉は、職人としての矜持だけで辛うじて立っていた彼女にとって、最後の一線を越える屈辱だった。

 

 

「あなたに、私の何がわかるの!」

 

 

ミカは、ノリトに向かって拳を振るうようになった。 かつてノリトが愛した、あの什器を鮮やかに作り上げた可憐な指先は、今や夫を傷つけるための武器に変貌していた。 目の前にいるのは、かつてのミカではない。

 

 

だが、ノリトは逃げなかった。

 

 

恵まれた環境で着実にスペックを上げる男と、その男の都合――

 

結婚、転居、ライフスタイルの変更――

 

という不条理な変数に振り回され続け、再起動に失敗した職人の女。 この理不尽なパワーバランスの中で、彼女が暴走するのは当然の帰結ではないか。 ノリトは、彼女の暴力を、あるいは罵声を、ただ無抵抗に受け入れた。

 

 

それは優しさではなく、思考の放棄だった。 エンジニアとして、この不具合(バグ)をどう修正すべきかという問いに対し、ノリトの導き出した答えは「ただ静かに摩耗を待つ」という、最も不誠実な放置(スルー)だった。

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