ミスマッチ

ノリトには、完全に見えていない死角(デッドゾーン)があった。 ミカは、この見知らぬ土地でも、かつてのように営業事務として働きながら、その傍らでデザインの仕事に関われる場所を探していた。

 

彼女が有能なデザイナーであることは、ノリトもスペックとしては理解していた。しかし、大阪という巨大なマーケットは、地方都市とは根本的にアーキテクチャが異なっていた。ここでは、ありふれたマルチタレントなど求められていない。各分野に特化し、研ぎ澄まされた百戦錬磨のプロフェッショナルが溢れかえっているのだ。

 

かつて地元で彼女を「派遣のくせに」と罵った無能な連中とは訳が違う。

 

今、彼女の目の前にいるのは、圧倒的な技術と実績を持つ本物のプロたちだった。 加えて、ミカの「口下手」という特性が致命的なエラーを誘発する。かつては時間をかけて実力を証明し、信頼という名のキャッシュを蓄積できたが、流動性の激しい都会の現場では、新参者の派遣社員にそんな猶予は与えられない。そこにあるのは、ただ無関心で冷徹な冷笑だけだった。

 

一方のノリトは、まるであつらえたような順風満帆な環境に身を置いていた。 ミカから見れば、夫のこの鮮やかな「再起動」さえも、疑念の対象となった。 

 

(この人は、自分が輝くために、私をこの高負荷な環境に引きずり込んだのではないか。すべては彼の計算通り(仕様通り)だったのではないか)

 

 

だが、実際のノリトは、そこまで狡猾な設計をしていたわけではない。彼はただ、純粋に知的好奇心の赴くまま、都会という高解像度のステージに足を伸ばしたに過ぎなかった。

 

可愛くて献身的で、少しばかり努力家の妻。

 

今は慣れない環境で一時的にパフォーマンスが低下しているけれど、働き始めればすぐに元に戻るだろう――。 その程度の、楽観的で解像度の低い予測(シミュレーション)しかしていなかったのだ。

 

 

「そんなつもりじゃなかったんだ。ミカ、落ち着いてくれ」

 

 

ノリトが発したその言葉は、火に油を注ぐパッチとなった。 最も理解してほしい相手が、最も自分の苦しみを「論理(ロジック)」という名のフィルターで濾過して無視している。その絶望が、ミカのシステムを完全に暴走させた。

夜の静寂を切り裂く彼女の呼吸。 ノリトは、手に持っていた行政書士の参考書を、ゆっくりと閉じた。 目の前にいるのは、自分が知っている「ミカ」という名の変数ではない。 不条理で、予測不能で、そして壊れゆく一人の人間だった。

二人の生活を維持するための「リスクマネジメント」を口癖にしていた男が、人生で最大の、そして最も取り返しのつかない「リスク」を見逃していたことに気づく。

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