都会での生活

大阪での生活は、ノリトにとって新たなOSをインストールするような刺激に満ちていた。 「薬事」という、法律と技術の交差点にある未知のドメイン。そして、関西という活気に満ちたステージ。 幸いなことに、かつて学生寮で共に不条理を笑い飛ばした旧友たちが、この地には集まっていた。

 

 

CRO(医薬品開発受託機関)のスペシャリスト、弁護士、役所のキャリア――。法令遵守や医療の深淵に触れる専門職に就いた彼らとの再会は、ノリトにとって良質な外部リソースとなった。

 

 

30代前半。社会人としての基盤を強固にするには、これ以上ない環境が整っていた。

 

 

ノリトは手始めに、行政書士の資格取得を目指すことにした。 エンジニアとして、数式と図面の世界で生きてきた男にとって、法文という無機質な文字列の羅列は、最初は未知の言語でしかなかった。数学に没頭した少年時代からは想像もつかない領域だったが、働きながら新たな知識を吸収し、キャリアをアップデートしていく自分に、ノリトは確かな手応えを感じていた。

 

 

家に帰れば、自分を信じてついてきてくれた妻がいる。 夕食を囲み、平穏な夜の数時間を試験勉強に充てる。 そんな、設計図通りに順風満帆に見えた人生の歯車は、突如として、耳を刺すような不協和音と共に崩れ去った。

 

 

「どうして私が困っているのに、見てくれないの!」

 

 

それは、不器用ながらもおとなしく、常にノリトの一歩後ろを歩んでいたミカが、人生で一度も発したことのないような鋭い怒声だった。

深夜、参考書を開いていたノリトは、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 視線を上げた先にいたのは、これまで彼が「献身的で穏やかな妻」として定義し、その内側のコンディションを定点観測することを怠ってきた女性の、剥き出しの感情だった。

 

 

「ミカ……? 何をそんなに怒ってるんだ。僕は君のために、この生活を安定させようと必死で……」

 

 

「違う! そうじゃないの!」

 

 

彼女の瞳から溢れ出したのは、大阪への移住という急激な環境変化、孤独、そして姑から密かに送りつけられていた「ヒロセ家の嫁」としての重圧。それらが、彼女の脆弱な精神構造(メンタル)を限界まで侵食していた。 ノリトが「合理的」に積み上げてきたキャリアプランという名のパッチは、彼女の心の奥底で起きていた致命的なシステムエラーを、何一つ解決してはいなかったのだ。

 

 

論理では説明できない不条理が、ついにノリトの聖域(ホーム)へと侵入を開始した。 それは、どれほど優れたエンジニアであっても、小手先のテクニックでは決して修復できない、崩壊の序曲だった。

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