再出発、葛藤
職を失ったノリトは、自身のキャリアという設計図を前に、かつてないほど迷っていた。 医療業界の最前線で学んだ「低侵襲」という最新のトレンドを、別の場所で再現してみたいというエンジニアとしての野心。一方で、地方で何不自由なく育った新妻のミカにとって、見知らぬ大都市圏への移住がどれほどの精神的負荷(オーバーロード)になるかは、計算に含めるべき重大なリスクだった。
「ミカ、もし、ここから遠く離れた土地で過ごすことになったら、不安はない?」
ノリトの問いに、旅行が趣味の彼女は、まるでファンタジーの続きでも見るかのような軽い足取りで答えた。
「いいね、行こうよ!」
だが、この時のノリトは、彼女のシステムが密かに発していたエラーログを見落としていた。かつて患った大病の既往歴。ノリトの知らぬところで忍び寄っていた姑の干渉という名のバックドア。そして、「鬱」という名の、音もなく進行する致命的なバグ。
勘の鋭いノリトも、自らの挫折と再出発という高負荷な処理に追われ、最も身近な存在の不調を検知(デテクト)する機能を、一時的に停止させていたのだ。
ただ、実母の魔の手が彼女に伸びていることだけは、血縁としての直感で予感していた。二人はヒロセ家に同居していたわけではないが、母の暗黙の了解とも言うべき意向をくみ取り、ヒロセ家の目に届くところに暮らしていた。ノリトは、彼女の「行こうよ」という言葉を、この不条理な環境からの「脱出コマンド」として受け取り、二人は大阪へと旅立つことになった。
幸いにも、崩壊した前職で積み上げた「国産医療機器開発」というキャリアは、都会の市場において強力なハクとなった。 ノリトは数ある選択肢の中から、「レギュラトリー・アフェアーズ(薬事)」という専門職を選択した。法規制の厳しい医療業界において、開発側の設計仕様を法律という名の厳格なコンパイラに適合させる、特殊な専門事務職だ。
かつて、先輩エンジニアをサポートしながら薬事担当者と激しい議論を戦わせてきた経験が、ここに来て実務スキルとして変換された。
「実際に手を動かすことと、議論することは別物だ」
かつてのハリボテのプライドを捨て去ったノリトは、そのことを誰よりも痛感していた。
新しい出会いもあった。
トキタレイコ
医療機器の輸入と製造を手掛ける大阪のメーカーで薬事部長を務めるキャリアウーマンだ。トキタ部長は面接でノリトに話した。
「うちみたいな小さい会社にあなたみたいな優秀な人が来てくれるなんて、本当にええの?ここで。」
ノリトは
「私も新天地を求めていたので渡りに船のような話です。」
とテンプレートのような返答をしたものの、就職活動の中で「君の会社は」と、ハクのついた肩書が仇となり、実際に等身大のノリトを評価する企業は少なかったことから、それは本心から放った言葉だった。
面接の最中、トキタ部長は一貫して、やり手マネージャーというよりは、どこか「お母さんのような立ち振る舞いをしていて、ノリトはどこか「こんなお母さんだったら付き合いやすかっただろうな」と、面接という検品作業の中に安寧の地を見出していた。
「ヒロセ君ならやれるんちゃう?知らんけど。」
「大阪のおばちゃん」、その飾らないアイコンは、前職で味わった痛恨の痛みから学習した「人の心」をくすぐるのに十分すぎるほど魅力的なものだった。
新天地、大阪。
湿り気を帯びた都会の喧騒の中で、ノリトは「薬事」という新たな言語を習得し、懸命に働くことを決意した。 すべては、自分を信じてついてきた妻を守るため。そして、いつか本物の「一流」として自分を再定義するために。
だが、彼が構築しようとしていた平穏なサーバーの裏側では、過去から引きずってきた未解決のバグが、静かに、確実に増殖を始めていたのである。