結婚への道のり
会社の瓦解が秒読み段階に入る中、ノリトはミカとの結納の準備を強行していた。 一度失った信頼を取り戻すべく、先輩エンジニアから課された難解なミッション——「献身的なサポートと完璧な実務」——を完遂すれば、未来は拓けると盲信していたのだ。家庭を持ち、責任を背負い、いつか先輩のような一流の表現者になる。それが、当時の彼が描いた新しい人生のロードマップだった。
ミカとの結婚は、薄氷を踏むような危うさの中で、辛うじて成就した。 その手法は、今思えば極めて計算高いものだった。ノリトは、ムタ先輩が仕事で見せた見事な火消しのロジックを、私生活にそのまま移植(ポート)したのだ。
瓦解までの数ヶ月間、ノリトはムタ先輩の指導の下で、既存技術の徹底的な分析とデータ化、そして膨大な事務処理に明け暮れていた。後に彼は、これを「リバースエンジニアリング」と呼ぶことを知るのだが、完成された製品からその構造を逆算し、技術の真髄を抽出する手法。 ノリトはそれを「結婚」という、高度に非合理な事象に当てはめてみた。
ミカの言葉不足というエラーは、自分の説明不足という入力ミスに起因している。そこを補完するのが夫の役割であり、彼女の不器用な献身を受け止めるだけの処理能力を、自分は備えるべきだ。
「僕は、この人と生きていく」
感情を排し、結論だけを母に伝えた。その一点の曇りもない宣言の前に、さしもの母も、一時的にシステムを停止(シャットダウン)して折れるしかなかった。
だが、結婚式の準備はノイズの連続だった。式場に足を運ぶたびに、式次第が母の手によって「ヒロセ家の仕様」にアップデートされている。 母の過干渉という既知のバグに加え、安寧の地を手に入れたことで警戒心を解き、すっかり気が抜けてしまったミカの様子にも、ノリトは頭を抱える日々を過ごした。
母も、そしてミカも。この平穏の土台である会社が、ゆっくりと、しかし確実に崩壊へ向かっていることを知る由もなかった。ノリトは新妻を母の干渉というファイアウォールから守りつつ、会社の次期エース候補として爪を研ぎ続けていた。
破滅のプレリュード
しかし、市場の摂理は無常だった。 社長という一流研究者のビジョンと、腕の良いエンジニアが心血を注いだ製品は、紛れもない「一級品」だった。だが、それを量産し、世に送り出すためのキャッシュが、底を突いていた。 リーマンショックの余波。世界経済が氷河期を迎える中、地方の小さなベンチャー企業など、風に舞う塵に等しかった。
「俺も、世間から見たら何の成果も残せとらん男じゃわ」
ムタ先輩のその言葉が、ノリトの胸を鋭く突き刺した。 ふいと背を向けたムタ先輩が、涙を堪えるように天井を仰いでいたことに、ノリトは気づいていた。それは、自身の無力さではなく、愛した技術と、守るべきだった居場所を救えなかった「エンジニアの鑑」としての、気高い悔恨だった。
ノリトはこの絶望的な幕切れを経験し、エンジニアとして一回りの脱皮(アップデート)を遂げた。 だが、この出来事は、新婚という幸福なはずの時間を歩み始めたノリトとミカにとって、終わりのない苦難の日々を告げる、不吉な序曲に過ぎなかったのである。
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コメントありがとうございます😊
「水の流れ込むように」とまで仰ってくださるのは…恐縮ですね💦
実際の私も理屈っぽい割に「シンプルに」と考えるタイプなのもありますが、1番は語彙が高校で止まっているので組み合わせが少ないのもシンプルな要因かもしれません(笑)
ご経験者の方からの応援は大変励みになります!
ノリトラッキーの裏ブログ
2026-05-01 08:19:57
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