幸福への障壁

ミカとの結婚プロジェクトは、開始早々に致命的なコンフリクトを起こした。最大のバグは、母という存在だった。 名家に嫁ぎ、関西の有名私立大を卒業したというプライドをOSの根幹に据える母にとって、口下手で飾り気のないミカは「解析に値しない低スペックな人間」に映った。

 

 

「ヒロセの家に相応しくないわ。出自がそもそも卑しいのよ」

 

 

母はミカの前では淑女を演じながらも、ノリトの前では毒の入ったパッチを当てるように、執拗にその言葉を繰り返した。かつて友人をランク付けして切り捨てたあの冷徹な選別は、息子の伴侶という領域において、より苛烈な「仕様検定」へと進化した。

 

 

一方のミカも、社内で不条理な負荷に晒されていた。派遣社員という立場でありながら、本職のエンジニアが舌を巻くような什器をササっと作り上げてしまう彼女の器用さは、プライドばかり高い無能な正社員たちの面目を丸潰れにした。

 

「派遣のくせに、余計なことを」

 

仕事のできない連中は、雇用形態という何ら実力を保証しない指標を持ち出し、彼女を疎外した。心身ともに疲弊したミカが、ノリトとの生活に「安息」という名のシェルターを求めたのは、生物としての生存本能だった。

 

だが、ノリトは相変わらず歯切れが悪かった。 母から「卑しい」と定義され、職場で爪弾きにされる、ただ不器用なだけの普通の女性。そんな彼女を幸福にするためのリソースが、自分には決定的に不足していることを自覚していたからだ。仕事でも目立った成果は出せず、人生の決断を下すには、彼の演算能力はあまりにも貧弱だった。

 

 

勤続4年目。ノリトに決定的なシステムエラーが発生する。 納期が迫る重要案件において、ノリトはあろうことか、プロジェクトの最終調整を所属長という不安定なノードに委ねてしまったのだ。

 

当時の所属長は、天下りという名の「外部からの不要なプラグイン」だった。勤務中の居眠りは日常茶飯事、さらには会社の回線でチケット転売に勤しむ小悪党。ノリトは自身の正義感から彼を嫌悪していたが、同時に「できる男」という虚構を維持するための盾として、その小悪党の不正に目を瞑るという小狡い妥協を選択していた。

 

 

ある日、委託先から「事業計画書が届いていない」という警告が届く。 資料は完成していた。ノリトはそれを印刷し、付箋を添えて所属長のデスクに置いた。

 

「あとは郵送するだけ」という単純なプロセスを、その男が放置するなどという可能性を、ノリトは想定から除外(スルー)していた。

 

 

「僕はエンジニアだ! 事務手続きの遅延は管理職の怠慢でしょう!」

 

 

窮地に立たされたノリトは、責任を外部へパッチしようと叫んだ。しかし、小手先の狡さで場を凌いできた男の言葉を信じる者は、もう誰もいなかった。

 

 

「お前のそういう、スマートにやろうとするところが原因じゃ」

 

 

憧れの先輩が、低く、重い声で言った。 

 

「最後まで『人』という一番大事なリソースを軽んじた。今回の失敗は、お前自身の設計ミス以外、何物でもねえぞ」

 

 

ムタ先輩は、諸悪の根源である所属長を飛び越し、直接取締役会へと乗り込んだ。自身の指導不足を認め、同時に所属長の怠慢を告発し、事態を収拾するための完璧なパッチを提案した。 研究者であっても経営者ではなかった社長にとって、この事態はエースエンジニアへの信頼を深める結果にしかならなかった。ノリトの存在は、その影でノイズとして処理されたに過ぎなかった。

 

 

 

事態が収束した頃、ムタ先輩は休憩室にノリトを呼び出した。ムタ先輩は、ノリトが書いた「おそらく完璧であろう」ガントチャートを指先で弾いた。

 

 

「ヒロセ、お前、あの人のことを見下しとったじゃろう。動かない人間を動かすために、やりたくもない仕事を与えて、飼いならしているつもりだったんか?」

 

 

ノリトは反論しようとしたが、言葉が出ない。

 

 

「合理的な判断です。彼にできる最小限のタスクを……」

 

 

「バカを言うな」

 

 

ムタ先輩の声は、怒りよりも深い悲しみに満ちていた。

 

 

「みんな、お前が思っているほどバカじゃねえんぞ。お前が心の中で『こいつはこの程度だ』と線引きしていることは、言葉にせんでも相手に伝わる。人は、自分を軽んじている人間の言うことなんて、絶対に聞きゃあせんのじゃぞ?」

 

 

ムタ先輩はノリトの肩を強く掴み、真っ直ぐに目を見た。

 

 

「エンジニアは数字を扱うが、仕事は人間が動かすんじゃ。理屈を並べる前に、経緯を丁寧に説明して、相手の懐に入れ。泥を被ってでも、人の心を動かさんと、お前のその立派な設計図はただの紙屑になるんぞ」

 

 

ムタ先輩が去った後、ノリトは一人、真っ暗なオフィスで立ち尽くした。 自分の構築した「完璧な管理システム」が、なぜあんなにも脆く崩れたのか。

 

 

「……人の、心」

 

 

 

効率と数式で塗り固めてきた彼の世界に、初めて「人間」という名の、計算不能な変数が重くのしかかった瞬間だった。

結局、そのミスは会社全体から見れば瑣末なエラーだったかもしれない。しかし、天下り社員を野放しにするようなベンチャー企業の脆弱な体質は、そこから急速に崩壊へと向かった。 ノリトが勤めてちょうど4年が経った頃、その名もなき地方ベンチャーは、静かに「廃業」という名の強制終了を迎えることとなる。

 

 

ノリトは、自分がまだ何も成し遂げていない、ただの「未完成なプログラム」であることを、ようやく認めざるを得なかった。

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