運命の出会い、タムラミカ
時を同じくして、ノリトは一人の女性と恋に落ちた。
後に妻となる、タムラミカだ。
ミカは地方の芸術大学を卒業し、地元の大手企業で派遣社員として営業事務に従事していた。彼女は普段、淡々とルーチンワークをこなしていたが、いざ販促什器の制作が必要になれば、設計図もなしにササっと手作りで仕上げてしまう。可憐な見た目に似合わず、道具を使い慣れた職人のようなしっかりとした指先。その質感に、ノリトはどうしようもなく惹かれていった。
ミカは不思議な二面性を持つ女性だった。職人的な合理的思考を持ちながら、営業事務としての献身さも兼ね備えている。その一方で、自身の感情を言語化することに関しては酷く不器用で、引っ込み思案だった。
二人の出会いは、とある酒の席だった。当時のノリトは、有能な先輩エンジニアに自分の本質的な「底の浅さ」を見抜かれ、築き上げてきたハリボテのプライドが崩れ去る恐怖に怯えていた。恐怖を麻痺させるために酒を煽り、泥酔を繰り返す日々。 酒に潰れる弱く頼りないエンジニアの卵と、そんな男を静かに支える職人肌の女。二人が恋に落ちるのに、そう長い時間は必要なかった。
ノリトは、他所から仕入れた小難しい話を、さも自分の深遠な思想であるかのように語ることに長けていた。献身的で知的好奇心の強いミカにとって、それは刺激的で色鮮やかな世界に見えたことだろう。
やがてミカは、この男と家庭を築きたいと願うようになった。しかし口下手な彼女は、その意志をストレートに伝えることができない。代わりに、回りくどいシグナルを送っては、メタ視点でしか物事を捉えられないノリトを困惑させた。
ノリトもまた、「結婚」という人生の大きなフェーズ移行を意識し始めていた。しかし、常に他人との間に透明な壁を構築してきた彼にとって、結婚という「合理的かつ極めて不条理なシステム」をどう処理すべきか、その最適解が見つからずにいた。
そんな折、ムタ先輩が父親になった。
「ヒロセ、赤ちゃんはええぞ! コイツのためなら俺はどこまでも頑張れる。ミカちゃん、ええ子じゃのう。お前もそろそろ身を固めえ!」
鋭い眼差しで自分を射抜いていた生粋の技術者が、今はただの「幸せなお父さん」として破顔している。その姿は、ノリトの価値観を静かに揺さぶった。
ノリトにとって、「父親」とは極めて希薄な存在だった。 女たちの声が響き渡るヒロセ家において、父はただ黙々と、決まった額のキャッシュを運んでくるだけのデバイスに過ぎなかった。
父は地元の名士の次男坊だ。実家周辺で「ヒロセさん」と呼べば、通行人の半分が振り返る。その一帯はすべて一族の土地であり、三階建ての「ヒロセビル」は伯父が管理する不動産だった。
「お前は次男で口下手なんだから、国家資格を取って食いっぱぐれないようにしなさい」
祖父のその一言に従い、父は薬剤師の資格を取った。そして、家族が不自由なく遊んで暮らせるだけの資金を淡々と稼ぎ出し続けた。
幼少期から「賢い大人の矛盾」を突いて遊んでいたノリトにとって、実直で誠実、しかしそれ以外に何の特徴もない父は、あまりにつまらない人間だった。
エンジニアリングを武器に、もっとスマートで、もっと刺激的な人生を設計できるはずの自分。
父のような「定時稼働するだけの機械」にはなるまいと、ノリトは心の奥底で誓っていた。しかし、ミカの職人のような手が自分のシャツの裾を掴んだとき、ノリトは気づかないふりをした。 その不器用な温もりが、彼が最も軽蔑していた「平凡な幸福」への、最初で最後の招待状であったことに。