医療との出会い、医療ベンチャー
博士課程というディレクトリからドロップアウトしたノリトは、地元の医療ベンチャー企業の門を叩いた。 「地元採用」を掲げるその会社にとって、そこそこの進学校を出て、そこそこの大学の修士号(と、中退したとはいえ博士課程の経歴)を持つノリトは、まさに即戦力のスペックに見えたことだろう。
人生とは、時として奇妙なリンクを生成する。 会社の社長は、かつてノリトがいた大学院大学の名門研究室に多くの人脈を持っていた。その共通項を小手先のテクニックで繋ぎ合わせ、さも「深い縁」があるかのように体裁を繕うのは、もはやノリトのお家芸だった。
社長は優秀な研究者ではあったが、冷徹な経営者ではなかった。 当時、低侵襲性の外科手術は米国メーカーの独壇場。そこへ「純国産」というフラッグを掲げて挑む新進気鋭のビジョンに、ノリトは胸を躍らせた。数々の挫折を味わってもなお、ノリトは自分を「選ばれた有能な個体」だと勘違いしていたのだ。
それは、数学の解法をパズルのように楽しみ、小手先のアイロニーで場を回してきた少年時代から、本質的には一歩も進んでいない男が、新しい「遊び場」を見つけたに過ぎなかった。
あてがわれた最初のミッションは、国内有数の医療機関との共同研究プロジェクトだった。 チームは、医学博士を持つ中堅管理職のリーダーと、若手のホープである男性エンジニアの三人体制。
ムタレイジ
このプロジェクトの核ともいえる男で、後のノリトの人生を大きく変える男だ。
リーダーの博士は賢明だが豪快な男で、酒が入るたびに「ノリト君、何チビチビ飲んどるたい!もっとガバッと行かんかい!」と吠えては、真っ先にシステムダウン(泥酔)する愛すべき人物だった。
一方のムタ先輩は、お国言葉の抜けない素朴な風貌ながら、メタ視点から放たれる鋭いツッコミがキレる男だった。ノリトは、同じ地方国公立大の院卒であり、知略を巡らせながらもどこか熱血漢であるその先輩に、理想の自分を重ねるように慕うようになった。
だが、そこにはノリトの慢心が潜んでいた。 ムタ先輩は極めて優秀だった。現場で発生する不確定なバグを、着実に、かつ泥臭く処理していく。くせ者揃いの社内で着々と成果を積み上げるその背中を見ながらも、ノリトは先輩の謙遜を額面通りに受け取っていた。
「俺も失敗ばっかりで、怒られてばっかりじゃ」
と照れくさそうに笑うムタ先輩に対し、ノリトは腹の底でこう嘯いていた。 (自分なら、もっとスマートに、最短ルートで解決してみせるのに)
最初こそ、淡々とミッションをこなすノリトに、ムタ先輩は着実な手応えを感じていた。 しかし、同時に言いようのない違和感も抱いていた。 ノリトは、エンジニアリングの根幹である「現場・現物」という泥臭さを、どこか遠い国の未開な文化であるかのように嘲笑っていたのだ。
当時、金銭的な事情からノリトは忌み嫌っていた実家に身を寄せていた。 母というノイズは、ここでも健在だった。母もまた愚かではない。息子が語る「新進企業での華々しい活躍」という薄っぺらな自慢話を、即座に「内容のないハリボテ」だと見抜いていた。
しかし、母もまた「スマートなビジネス」こそが息子の晴れ舞台だと信じる、高度なダブルスタンダードの持ち主だった。
「そのムタ先輩とやらの優秀さを見習いなさい」
と説きながらも、一方で
「現場の苦労なんて、ほどほどに受け流せばいい」
と斜に構えた助言を与える。ノリトはその不条理なアルゴリズムに翻弄され、自身の座標を見失っていった。
結局、ノリトは深く学ぼうとせず、あり合わせのテクニックでその場を切り抜けるだけの男だった。 目の前の若手エンジニアが、どれほど計算高く、どれほどの血の滲むような努力でその「スマートな成果」を支えているのか。 それを真に理解し、自身の傲慢さをデバッグするまでに、ノリトはさらに四年の歳月を費やすこととなるのである。