博士課程

ノリトは、これまでの自分を初期化し、全く新しい人生を再設計(リビルド)するために、敢えて都心から離れた郊外の大学院大学を選択した。

 

そこは当時、新進気鋭の研究機関として名を馳せていた。かつてのノーベル賞受賞者が若き日に武者修行を積んだという伝説や、生命科学分野の権威が名を連ねているといった噂が、キラキラとした解像度で語られる場所だった。

 

だが、大人の揚げ足取りがすっかりOSの基底部分に組み込まれた20代中盤のノリトは、そこでも斜に構えることを忘れなかった。 エリートたちが群がる高名な学者の直系研究室を「意識高い系の過負荷(オーバーロード)」と切り捨て、敢えて無難な分子工学の、ほどほどの規模の研究室を専攻に選んだ。

 

しかし、地方の閉塞感から逃げるようにこの地へ辿り着いた男が、計画通りに修了できるほど博士課程というシステムは甘くなかった。 研究室を主宰する教授は、秀才ではあったが天才ではなかった。

 

ほどほどに賢く、そしてほどほどに愚かだ。

 

大学という奇妙な組織図において、教授という「絶対権力者」の下には、実務を支える助手という名の「最前線の兵士」がいる。安全圏から戦況を眺める老いた指揮官と、泥沼の実験に明け暮れる助手。その間に生じる深刻なコンフリクトを、ノリトは観察し続けた。

 

 

ある日、助手はノリトに言った。

 

「お前はどこかスマートに立ち回っているつもりだろうが、行き当たりばったりで芯がない。きっとあの教授と同じような、くだらない人生を歩むんだろうな」

 

 

その助手もまた、夜な夜なゴシップに興じ、酒に溺れる不完全な人間だった。洋酒を愛するその一兵卒の懐に入るのは、元酒類卸のノリトにとっては容易なタスクだった。

浅い知識とほどほどの気遣いで、将来の教授候補を「転がしている」つもりでいた。 だが、酒に酔った助手の口から漏れるのは、目を覆いたくなるようなドロドロとした内部事情だった。

 

「教え子と不倫して全財産失ったジジイ(教授)に、これ以上こき使われる筋合いはねえよ」

 

 

蔑みと嫉妬が混ざり合ったその言葉。論理的で理知的であるはずの研究者の世界にも、反吐が出るような不条理が深く染み付いている。ノリトは、その光景をシステムの致命的なエラーログのように見つめていた。

 

 

・・・後にノリトは、全く真逆の理由で自らの離婚を経験することになるのだが、当時の彼はまだ、他人の不条理を裁く側の住人だった。 どこか小狡いこの男は、見せかけの潔癖症を盾に、「こんな不条理な社会とは決別する」という高潔な仕様書を書き上げた。

 

 

実際には、自身の研究者としての才能がデッドエンドに達していることを、彼は誰よりも早く察知していた。だが、それを認めることはスペックの低下を意味する。だからこそ、彼は「環境への失望」という名のパッチを当てた。

 

 

博士課程、中退。

 

 

ノリトは、自らの敗北を「キャリアの方向転換」と定義し直し、地元の医療ベンチャーという新たなディレクトリへと身を投じた。そこが、高度な事務処理能力とエンジニアとしての腕を磨き、後に「勝ち組」と呼ばれるための最低限のハリボテを形作る、本当の戦場になるとは、まだ知る由もなかった。

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