「鬼ごっことは、追いかける側に『手が届きそうで届かない』というスリルを供給するサービス業だ」

 

 

幼少期のノリトは、泥だらけになって逃げ回る同級生たちを、冷めた目で見つめる子供だった。彼にとって、大人の常識をハックすることほど容易な遊びはなかった。 大人が鬼になれば、ノリトはあえて逃げなかった。

 

静かに、音もなく、鬼の背後の死角に滑り込む。

 

灯台下暗し。

 

 

格言の通り、視界の外側に密着し続けることが、被追跡者としての最も合理的なセオリーだと理解していたからだ。

 

「ノリト君は本当におとなしくて良い子ね」

 

そう微笑む親戚に対し、ノリトは大人の語彙を完璧にトレースし、見事なアイロニーを込めて返した。

 

「期待に応えることが僕のバリューですから。波風を立てない運用が、この家庭(システム)には最適でしょう?」

 

可愛げのないその言葉に、大人は一瞬だけ頬を強張らせる。その微かなバグを観察することに、ノリトは静かな愉悦を感じていた。

 

大人になっても、その本質は変わらない。 大阪のオフィス、空調の効いた会議室で、大手メーカー出身の上司が悦に入った表情で横文字を並べている。

 

 

「君の有能さは一般職に置いておくには勿体無い。私がトップマネジメントに上がった際には、君をプレイングマネージャーにアサインするようサジェストしておくよ」

 

 

・・・要するに「お前は便利だから、昇進を餌に今のまま現場でこき使わせろ」という通訳不要のメッセージだ。

 

ノリトは、その透けて見える意図を瞬時にデバッグし、上司の言語プロトコルに合わせてミラーリングを開始した。

 

「そのプレッシャーがプレシャスに変わることに、アグリーですよ」

 

高精度の皮肉。だが、上司はそれを「忠誠心」という名の美しいコードだと誤認し、満足げに頷いている。その滑稽な姿を、ノリトは無機質なデスクの陰から、かつての鬼ごっこのように冷徹に観察していた。

 

ノリトは、自らの人生を「そこそこ」の精度で設計してきた。 地方都市の裕福な家庭。女たちの声が支配する実家というノイズの中で、ノリトは目立たぬよう、しかし確実に、安定したスコアを叩き出し続けた。

 

小中学校では、クラスの隅にいる「陰キャ」というロールを完璧に演じ、進学校へと駒を進める。運動も、学習も、すべては平均値を上回る程度の出力に調整されていた。

 

そんなノリトの人生に、唯一の特異なパッチが当たったのは、地元で有名な進学塾でのことだ。 塾長は、旧帝大を卒業しながら地方で私塾を開く、偏屈なエリートだった。その男が放った一言が、ノリトの世界を決定づけた。

 

 

「数学には無数の解法がある。テストとは、その中から最も合理的なものを選び出すプロセスマネジメントだ」

 

 

その言葉は、ノリトの脳内で美しいアルゴリズムへと変換された。 以来、ノリトは数学という名の広大な宇宙に没頭した。感情や不条理が介在しない、純粋な論理の構築。複雑な事象をシンプルに削ぎ落とし、最短ルートで解へと至る快感。

 

「リスクマネジメントを徹底し、完璧なパッチを当てる。難しく考えるな、シンプルに」

 

それが、後のヒロセノリトというエンジニアを構成する、最も強固な基本OS(オペレーティングシステム)となったのである。

 

ノリトは、大学進学という人生最初のシステム移行において、極めて慎重に「そこそこ」のスペックを選定した。 彼の上には、二歳年上の「完成された姉」がいた。彼女もまた、あの偏屈な塾長の薫陶を受けた一人だったが、ノリトとは異なり、全教科を圧倒的な高水準でコンプリートする努力型の才女だった。

 

姉は当然のように旧帝大の門を潜り、結果としてノリトには「ヒロセさんの優秀な弟君」という、読み取り専用の属性が上書きされた。高性能で、かつ不条理なまでに完璧な姉。ノリトは、彼女を「秀才」として尊敬しながらも、自分の領域を侵食する「目の上のたんこぶ」として忌み嫌っていた。

 

実家という、母と姉が支配する逃げ場のない高負荷なサーバーから脱出するために、ノリトはあえて地方国公立大を選択した。知的な水準は保たれつつも、実家からは「通えなくもないが下宿した方が合理的」という絶妙な距離。そこは彼にとって、理想的なサンドボックス(実験場)だった。

 

ノリトは一人暮らしではなく、あえて古びた学生寮を住処に選んだ。「親の経済的負担を減らす」という、母が反論できない完璧な仕様書(言い訳)を添えて。 だが、その真の目的は、母による人間関係のフィルタリングを無効化することにあった。

 

 

「あの子は将来有望だから仲良くしなさい」

 

「あの子は不良だから関わっちゃダメ」

 

 

母の偏見というファイアウォールによって選別された人間関係。そんな虚像の幼少期へのアンチテーゼとして、ノリトは未知のノイズを求めた。彼はここで、自らのOSを刷新する。いわゆる「大学デビュー」だ。

 

陰キャというシェルを脱ぎ捨て、人並みに授業をサボり、あらゆる飲み会にパケットを飛ばすように顔を出した。野球サークルの代表という表舞台のポジションを奪取し、公式戦の采配を振るう。 「ヒロセさんの弟君」ではない、「指揮官・ヒロセノリト」としての初めてのデモンストレーションだった。

 

 

「君はとんだ落第生だ!」

 

 

一回生の単位をうっかり落とした彼を、指導教官はそう怒鳴りつけた。しかし、教官は気づいていた。酒に溺れ、サークルに現を抜かす奔放な言動の端々に、計算し尽くされたリスクマネジメントと、状況を瞬時に構造化するエンジニアとしての不気味な才覚が隠れていることに。

 

しかし、若さゆえの万能感は、やがて強固な現実の壁に衝突する。

 

大学四年生。

 

ノリトは実益主義を掲げる初老の指導教官と、研究方針を巡って真っ向から対立した。

 

「世に出る製品こそが正義だ。動かない理論に価値はない」

 

民間企業出身の教官が放つ、重みのある正論。対してノリトは、教官の技術的な「陰り」を冷徹に見抜き、データと理論に基づいた近代的な開発マネジメント論で対抗した。 

 

「あなたの手法はレガシーだ。今は緻密なシミュレーションによる最適化が必要なんです」

 

だが、その論法は、一流のエンジニアを説き伏せるにはあまりに青く、幼稚だった。ノリトが振りかざしたデモクラシーは、実戦経験という圧倒的な演算能力を前に、脆くも崩れ去った。

 

「エンジニアとしての限界を感じた。これからはビジネスの時代だ」

 

敗北を認められないノリトは、極めて感情的なバグを起こした。あろうことか、これまでの人生の対極にある「営業」という不確実性の極みのようなフィールドへ、逃げるように舵を切ったのである。 それは、計算高い彼が唯一、計算を放棄して飛び込んだ、無謀な仕様変更だった。

 

 

大学デビューで得た人脈など、所詮は揮発性の高いキャッシュのようなものだ。ノリトは、サークル活動や実験の傍ら、酒屋の配達アルバイトに精を出していた。 本来、酒は付き合いのためのコスト(非合理な商材)だと認識していたが、配達員として裏側を覗くうちに、ノリトはその市場の不条理さに興味を抱くようになる。

 

 

「この液体は、成分よりも『物語』というパッチで高値が付く」

 

 

サークルの飲み会では、バイト代で買った少し上等な酒を持ち込み、世間知らずの同級生たちに仕入れたばかりの蘊蓄(うんちく)を披露した。難しい洋酒の知識は、大人の世界をハックするための安価なツールとして機能し、ノリトの評判を「物知りな面白い奴」へと書き換えた。

 

学生寮の一室、ブランド不明のアコースティックギターを適当なコードでかき鳴らし、流行りの曲を口ずさむ。

 

自身を「器用貧乏」と定義するノリトは、完成された大人から見れば底の浅い若者だったが、大学生の遊び相手としては存外に優秀なコンテンツだった。 即興の知識を組み上げ、場の空気をコントロールする。

 

その「そこそこ」の生存戦略を携え、ノリトは地元の酒類卸商社へと足を踏み入れた。

その商社は地域では大手で、ノリトは「そこそこの男が、そこそこの会社で、ほどほどに稼ぐ」というイージーモードな人生を設計したつもりだった。

 

しかし、現実は甘いアルゴリズムでは動いていなかった。 地方の生活を支える「ほどほどのサービス」を維持するために、その組織は社員に過酷な労働を強いる、典型的なブラック・システムだったのだ。 「リスクマネジメントが皆無な環境だ」 不条理を何より嫌うノリトは、わずか半年でそのシステムを強制終了(ドロップアウト)した。

 

 

結局、人生を舐めてかかった男の根性など、その程度。 人脈もキャリアも失ったノリトが唯一頼ったのは、かつて「レガシー」と切り捨てたあの初老の教官だった。

 

 

「俺の凄さが身に染みたか。一から鍛え直してやる」

 

 

教官は不敵に笑い、大学院の募集要項を叩きつけた。

 

学生時代のノリトは、小手先のテクニックとあり合わせの知識を繋ぎ合わせて成果を出す、いわば「パッチワーク」の秀才だった。だが、後に彼は知ることになる。その「泥臭いレガシー技術」こそが、生涯で800もの特許を積み上げた教官を支える、実力主義・実益主義のエンジニアリングの真髄であったことを。

 

 

一学年下の後輩に混じり、再び学舎に身を置くことになったノリト。 ほどほどに面白く、人並み程度に整った容姿を持つ彼は、この時期も同世代の女性たちと「ほどほどの距離感」で関係を持った。だが、彼の内側にある冷徹なOSは隠しようがなかった。

 

 

「それ、すごく非論理的だね」

 

 

その一言が、女性たちの熱を急速に冷却する。彼女たちは、ノリトが作り上げた「器用で面白い男」という虚構の奥にある、冷え切ったサーバーのような本質に愛想を尽かし、一人、また一人と去っていった。

 

だが、ノリトは変わらなかった。 平穏な院生生活を送りながらも、結局は一年前と同じバグを再発させる。研究方針を巡り、再び教官と衝突したのだ。

 

 

「あなたはエンジニアであって、研究者ではない。僕を研究者に育てたいなら、あなたより優れた指導者を探すだけだ」

 

 

息巻いたノリトは、自らの傲慢さを「向上心」という言葉でデバッグし、さらに特殊な、さらに浮世離れした「博士課程」という未知のディレクトリへと足を踏み入れていった。 それが、後の彼を苦しめる、さらなる迷走の始まりだとは知らずに。

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