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「アラビア哲学の創始者」にして「本当のアラビア人哲学者」と評されたアル=キンディ(796ごろ〜873)は、博学的な知識を数多くの著書にまとめあげるなか、「ものの見えかた」についての著作ものこしました。キンディの示した「ものの見えかた」は、先人ユークリッド(紀元前300ごろ)らの記述とちがって、三次元的な考えをとり入れたものでした。
キンディの著した「ものの見えかた」をめぐる著書のひとつに、『ユークリッドの「光学」と称される書において彼に帰される誤謬と難点の修正』があります。この著書の名からわかるとおり、キンディは先人が論じた「ものの見えかた」について、誤っていると思ったところの修正を試みました。「ものの見えかた」をめぐるキンディの著書にはほかに、『視覚論』と略されることのある『視覚の多様性の原因およびその幾何学的証明をあたえることについて』など複数があります。
キンディは、先人のユークリッドが示していた「ものの見えかた」のどこに誤謬があると考えたかというと、一次元的なものの見えかたの記述に対してです。つぎのように、ユークリッドの論を、否定的に批判しました。
ユークリッドの著書『光学』の命題1は、「見られるもののどれ1つとして、その全体は同時に見えない」というものでした。ユークリッドの示した図をあらためて掲げます。

ユークリッド『光学』命題1
ユークリッドは、眼を点Bとすると、視線の対象としてADは「同時には見えないであろう」と考えました。なぜなら、眼の点Bがたとえば点Gを見ているとき、視点は、ほかのところ、たとえば点A、点K、点Dには行っていないからです。
これに対し、キンディは、ユークリッドの考えは、一次元つまり「線」の考えにもとづいた誤ったものであり、ほんとうは眼の視線を三次元で考えなければならないとしました。キンディはその理由を理論的に示しています。
まず、視線というものは三次元の物体によって遮られるのだから、視線そのものも三次元でなければおかしいという理由です。また、視線が「点G」や「点K」に行ったなどというが、そもそも「点」とは、長さ、深さ、幅をもたないものなのだから、点を視ることはできないだろうに、という理由も掲げました。
そしてキンディは、ものが見えることの源となる「眼」のつくりについても、ユークリッドが示したような単なる一点としてでなく、三次元的な眼球として捉え、それにより「ものの見えかた」を独自に説明しました。つぎのようにです。
キンディは、『視覚論』で、命題14として下の図を掲げています。

アル=キンディ『視覚論』命題14
内側の円は、まさに眼球の断面であり、円弧ABGは瞳の表面です。このうち、たとえばBの部分から発する視線は、Bの接線にあたるEからZまで、つまり外側の円のうちEからILTを経てZまでに及ぶとキンディは考えました。
ただし、視線はBから発するものだけではありません。Aも瞳の端っことはいえ瞳の範囲内ですから、Aから発する視線も同時に存在することになります。その視線の及ぶ範囲は、Aの接線にあたるHからTまで、つまりHからEILを経てTまでとなるわけです。
おなじように、Gも瞳の端っことはいえ瞳の範囲内ですから、Gから発する視線も同時に存在することになります。その視線の及ぶ範囲は、Gの接線であるIからKまで、つまりIからLTZを経てKまでとなるわけです。
このようにして、瞳は同時に、Bの視線でのEからZまでと、Aの視線でのHからTまでと、Gの視線でのIからKまでに、いずれも視線を届かせていることになります。そして、キンディがためしに挙げたこれら三つの視線についてだけ考えれば、視線を届かせている範囲として三つ重複しているところが、ILTとなります。
キンディは、視線を届かせている範囲が重なっているところほど、鮮明な視覚が生じると考えました。ろうそくが2本あるほうが1本よりもおなじ場所をよく照らすのとおなじことだと考えたのです。この考えからすると、上の図でもっとも鮮明に見えているのは、ILTの部分となります。
なお、あくまで理屈を説明するために、キンディは 瞳から視線が始まるところとして、円弧ABGのB・A・G三点のみを取りあげたにすぎません。実際は、AB間やBG間の連続した無数の点も視線がはじまるところであるはずです。円弧ABGの連続した無数の点からの視線を考えると、もっとも視線を届かせている範囲として重複するのは、Lということになります。
こうしてキンディは、先人のユークリッドらが唱えた「点」で捉える「ものの見えかた」を否定し、三次元の概念をとり入れた「ものの見えかた」を唱えたのでした。人間の視学の歩みにおける革新的な業績といってよいでしょう。
キンディは、アッバース朝の第7代カリフだったアル=マームーン、それに第8代カリフだったアル=マウタスィムから好遇を受け、まさに「アラビア哲学の創始者」という後世の名声にふさわしい知の歩みを果たしました。
しかしながら、第10代カリフのアル=ムタワッキル(822-861)が847年から治世を始めると、一変、キンディは不遇のなかで過ごすことになります。第7代マームーンが公認し、キンディが密接なかかわりをもっていたイスラム神学の先駆的一派「ムアタジラ派」が、ムタワッキルによって異端と見なされたからです。
873年ごろ、キンディはバグダッドで独りさびしく没したといいます。アラビア哲学の知の巨星はここに堕ちたのです。しかし、キンディのうち立てた「ものの見えかた」の考えかたは、およそ200年後「光学の父」と称されることとなった人物に影響をあたえることとなります。
つづく。
参考資料
David C. Lindberg “Alkindi's Critique of Euclid's Theory of Vision”
https://www.jstor.org/stable/229818
斎藤憲・高橋憲一共著『エウクレイデス全集 第4巻』
https://www.amazon.co.jp/dp/4130653040
黒田寿郎『イスラーム辞典』
https://dl.ndl.go.jp/pid/12185212/1/185
改訂新版 世界大百科事典「ムータジラ派」
https://kotobank.jp/word/むーたじら派-3187793