料理人には絶対ならないと思っていた少年は、どのようにしてチャンピオンピッツァ職人になったのか
横浜・馬車道。
海が近く、開放的なこの地に、話題のピッツェリアがあります。
細い路地に佇む可愛らしくおしゃれなそのお店の名前は、
La Figlia Del Presidente ラ フィーリア デル プレジデンテ
日本語で「大統領にピッツァを作った職人の娘」という意味を持つこの店は、イタリアはナポリ発祥のピッツェリアです。
現地で大人気のピッツェリアが日本に出店して以来、店頭でピッツァを焼き続けているのが今井憲総料理長。
今井シェフは、ナポリで開催されたピッツァコンテスト「第5回トロフェオ・プルチネッラ」のクラシック・マルゲリータ部門で、日本人として初優勝の快挙を遂げた職人さんです。
今回、人気ピッツェリアを日本で支える今井シェフに、普段はなかなか聞くことのできないピッツァへの思いや人生の転機など、お話を聞くことができました。
料理人にはならないと決めていた幼少期
今井 父親はイタリアンのシェフ。世間が休みの日曜日も父は働いていて、家族での外出はいつも平日でした。学校を休まされて行く遊園地は、今思えば贅沢な貸切状態でしたが、当時の僕にとっては、周りと違うことの方が嫌だと思っていました。
「絶対に土日休みの仕事に就く」
ただ、そう公言していた僕の周りには、父が持ち帰る仕事の話や料理本など、恵まれた環境がありました。けれど、当時の僕には全く響かず・・・。
そうは言っても、料理自体は嫌いではありませんでした。むしろ、料理をすること自体は僕にとって「日常」に近かったと思います。
僕はいわゆる鍵っ子だったので、小学生の頃から、食べたいものがあれば自分で作ることをしてきていました。台所に立つこと自体には何の抵抗もなかったんです。
ある転機は高校時代、蕎麦屋でのアルバイトでした。そこは、16歳の若造を一切甘やかさない、20〜30代の職人たちが仕切る厳しい縦社会です。その先輩たちに勤務日程を押さえられ、気づけば僕は、土日のどちらかは必ず通し勤務で現場に立っていました。
友だちが遊んでいる姿を羨ましく思う一方で、経験を積み、淡々とキッチンの仕事をこなすことができるようになった自分もいました。今考えると、あんなに拒絶していた飲食業への抵抗感が、忙しさの中で少しずつ、薄まっていっていたのかもしれません。
28歳、父とは違う『ピッツァ』という道へ
今井 僕が本格的に飲食の世界へ飛び込んだのは、20代中盤でした。
それまでは、工事現場で働いたり、トラックを運転するような、いわゆる現場系の仕事をしていました。
毎日体を動かして働いていましたが、ある時、自分のポテンシャルの限界に気づきました。一緒に働く仲間たちと比べた時に、力仕事の世界でこの先ずっとトップを走り続ける自分の姿が、どうしても想像できなかったんです。
今井 「このままでいいのか」と自分の生き方を見つめ直していたちょうどその頃、父が独立して、リストランテをオープンすることが決まりました。
かつてはあれほど嫌っていた飲食の世界。でも、いざ自分の将来を考えたとき、真っ先に浮かんだのは「自分にも父と同じ料理人の血が流れているんだ」ということでした。
自分の頑張り次第では、この世界で勝負できるんじゃないか。そう腹を括って、料理人の道へ飛び込みました。
そこから父のもとでイタリアンの修行を始めたのですが、やっていくうち、ある強い想いが芽生えてきました。
「父とは違うジャンルで、自分の力を試したい」
父が戦ってきたのは、格式を重んじる「リストランテ」という世界です。でも、僕が本当に好きなのは、もっとカジュアルで日常に寄り添った食。例えば、立ち食い蕎麦のように、誰でも気軽に、リーズナブルに楽しめる食事に惹かれていました。
耳はふわふわで、しかし程よくかみごたえもあります。
トマトソースの瑞々しさが口いっぱいに広がり、チーズも軽く、爽やかな一枚。
今井 そんな時、意識したのがピッツァでした。
ピッツァは、父がやってきたリストランテにはないメニュー。父が踏み込んだことのないジャンルだからこそ、挑戦しがいがあると思いました。
リストランテではなく、ピッツェリアで勝負する。 そう決意して一念発起したのが、28歳の時でした。
ピッツァは「生き物」
その奥深さに気づいていきました
今井 ピッツェリアで修行をはじめてから現在に至るまで、変わらず感じることがあります。それは、ピッツァ職人の仕事は「一朝一夕で人に教えられるものではない」ということです。
生地を練り、丸め、伸ばし、トッピングして、焼く。この一連の動作をクオリティを保ったまま、いかに枚数をこなせるか。それが職人の基本であり、しかし同時に、一筋縄ではいきません。
今井 なぜなら、ピザ生地はイースト菌が入った生き物だからです。 季節や室温はもちろん、小麦粉一つとっても保存状態や製粉からの時間経過で状態は刻々と変わります。同じ分量で練っても、毎日手触りが違う。その瞬間ごとに「この生き物をどう扱うのが最適か」を、現場で瞬時に判断し続けなければなりません。
それは非常に繊細な作業。言葉で簡単に伝えるのは不可能です。
長く一緒に現場に立ち、様々な状況下での経験を積み重ねる。そうして知識を蓄積していくことでしか、技術を適切に伝え、教わることはできません。一人ひとりの適性を見極めながら伝えていく、非常に根気のいる世界だと感じました。
ピッツァの本場、ナポリへ
今井 日本のピッツェリアで10年ほど経験を積んだ頃、念願だったナポリへ渡りました。
「ラ フィーリア デル プレジデンテ」のオーナーであるマリアの元に行く事以外は何も決めずに向かったナポリ。駅まで迎えに来てくれたのはまさかの、店の近所のチーズ屋さんでした(笑)。
「なぜ?」と思うじゃないですか。でもその理由は、ナポリで過ごすうちに分かっていきました。
言葉もわからない、ネットも繋がらない。まさに体当たりの修行です。
はじめこそ「日本人が来た」と珍しがってくれましたが、構ってくれたのははじめのうちだけでしたね(笑)。
しかし厨房に入れば関係ありません。言葉は通じなくても、仕事の流れを見れば「今、何を求められているか」は分かります。1週間もすると、店の職人たちともスムーズに仕事ができるようになっていました。
そこで感じたのは、日本とナポリの決定的な違いです。
日本では「ピッツァは素晴らしい料理だ」という敬意のもと、厳しい上下関係の中で作られることが多いです。でも、ナポリでのピッツァは完全な日常食なんです。
今井 僕がいたのは、お世辞にも治安が良いとは言えない、やんちゃなエリア。働く仲間もタトゥーだらけで、過去に色々あったような者たちが集まってきていて(笑)。でも、彼らのバックボーンにとらわれないオープンさが、僕には最高に心地よかったです。
まるで、ナポリの街と店が一体化しているかのようでした。お客さんが途切れるまで店を閉めないので、店に深夜2時までいたことも。そんなフリーダムで熱い空気に、僕は「これこそが自分の求めていた形だ」と確信しました。
本場ナポリのピッツァを肌で感じることができたのは、日本とのピッツァの違いを知る意味でも大きな経験でした。滞在期間は3ヶ月とあっという間でしたが、日本に戻ってからも、年に1、2回はナポリに訪れて現地の味や雰囲気を吸収しています。
信念を貫き掴んだ世界一
Trofeo Pulcinella(トロフェオ・プルチネッラ)のステッカーが
今井 ナポリでは、夏になるとお祭りとして、多くのピッツァの大会が開催されます。その数は多く、同じ日に複数の大会が行われていることもあります。
当時働いていた会社から大会の詳細を教えてもらい、マルゲリータやマリナーラなどのシンプルなピザを審査する大会に出場しました。
今井 海辺に特設された移動式の窯で焼くのですが、これが店とは勝手が全く違いました。
本来窯というのは、何日もの時間を経て作り上げていくものなので、即席で使用できるものではないんです。しかも、大会では大勢の職人が次々に焼くので、窯の温度は異常に上がりすぎていました。
そんな中、自分の番がやってきました。このまま焼けば、間違いなく真っ黒焦げになってしまいます。「これでは焼けない」と、僕は審査員に交渉しました。日本から持参した温度計の数値を見せ説得すると、審査員たちも納得してくれました。
もしあの時、空気に飲まれてそのまま焼いていたら、納得のいくピッツァは出せなかったでしょう。自分の感覚を信じ、折れずに戦った結果、大会で優勝することができました。
「ラ フィーリア デル プレジデンテ」ナポリの味を日本へ
今井 「ラ フィーリア デル プレジデンテ」の日本支店を出店することになったのは、ナポリのオーナーであるマリアが、日本で一緒にピッツェリアをやりたいと言ってくれていたのが大きいです。
そう評価してもらえたことは素直に嬉しいのですが、ナポリのマリアの店は、日本全国のピッツァ職人は全員知っていると言ってもいいほど有名な店です。その店名を背負って日本店のシェフを務めるというのはとてつもないプレッシャーでした。
ナポリの看板という重責は感じつつも、やることをやるしかないという思いで取り組んできて今に至ります。
ナポリピッツァがもっと身近になる未来を目指して
今井 ナポリピッツァが日本で、おにぎりや牛丼、ラーメンのような存在になることが僕の理想です。
ナポリピッツァの形は、時代とともに変わっています。昔は耳が薄かったのが徐々に形を変え、今は厚いものが主流になり、さらに進化を続けています。日常の食べ物が変わっていくのは当たり前のことで、僕自身、常に新しい工夫にチャレンジし続けたいと思っています。
ただ本場のスタイルをそのまま持ち込めばいいわけではありません。例えば生地の硬さ。パン文化のナポリの人は顎が強く、硬い生地を噛んで小麦の味を楽しみますが、日本でそれをやると耳だけ残されてしまうこともある。だから僕は、日本人の好みに合わせて少しずつアレンジを加え、常にお客様の反応を確かめています。
一方で、今の飲食業界にある「味が均一であること」を良しとする流れには、少し違和感があります。
ピッツァの面白さは、1枚1枚、味が違うことなんです。
同じ材料を使っても、焼き手が違えば全く別のピッツァになる。それはラーメン職人が何日も手間暇をかけて一杯を作るのと同じで、職人という「人間」が作るからこそ生まれる奥深さ。こういった味の変化を楽しむことが、食事の醍醐味だと思いますし、そのためには職人が必要不可欠です。AIには決して代えられない、職人の「手」が生きていく飲食業界であってほしいですし、自分も取り残されないよう、現場に立ち続けたいと思います。
今井シェフが日本人好みの味になるよう考案した1枚。
これを目的にお店を訪れる人もいるのだそう。
シンプルなピッツァなので、あえて耳を香ばしく焼き、食べた時の風味が増すように計算されています。
今井 僕には、いつか作りたい理想の店があります。
メニューは潔くピッツァがメイン。そこに少しの揚げ物があるくらい。ピザ場では5〜6人の職人が活気よく動き回り、お客様がわさわさ集まってくる。そんなナポリの本場そのままの、賑やかでエネルギーに溢れた空間です。
そしてもう一つ、日本とナポリの職人を繋ぐ「交換留学」のような仕組みを作りたいとも考えています。若い職人がナポリの空気を感じ、逆に日本のお客様は本場の職人が焼くピッツァを体験する。そうやって、ピッツァという文化が日本に深く根付いてくれたら、これほど嬉しいことはありません。
こうして職人を続けてきて、ありがたいことに、企業とコラボさせていただくこともありますが、僕もまだ全然です。若い子達に抜かされないよう頑張らなきゃなと、日々自分を奮い立たせています。
🍕🍕🍕
今井シェフとナポリピッツァにまつわるお話でした。
ナポリピッツァについて、「生地を褒められると嬉しい」とお話しされていた今井シェフ。
今後ピザを食べるときは、ピザ生地を意識して食べてしまいそうです🍕
そんな今井シェフとは、2月に、フォーシーズが展開するTO THE HERBS by Trattoria TAVOLA鹿児島店との地産地消コラボが行われ大盛況でした!
今井シェフが厨房に立つ、La Figlia Del Presidente ラ フィーリア デル プレジデンテのサイトはこちら▼
▼フォーシーズ公式サイトはこちらから


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