超かぐや姫!はご都合主義の極み。全然ハッピーエンドじゃない(ファンによるガチ批判感想)
<8,000文字> ※おまけ考察除く
はじめに
超かぐや姫はご都合主義の極みである。都合が悪く、雑で甘い設定は見えないように隠匿し、表面的にきれいなところだけ見えるようにして感動するように演出している。
公開からしばらくして、超かぐや姫の好評を聞きつけた冷笑系のエアプアンチどもが、最初から否定する気満々で超かぐや姫を視聴し、登場人物の設定(美人で天才で東大で一人暮らしで、イケメンの兄が偶然No1プロライバーで、友人が二人とも人気インフルエンサー等)のなどを批判し「ご都合主義」と言ったが、そんなものは極めて程度が低く浅い批評である。
舞台設定のご都合主義などは、エンタメましましでハッピーでとにかくおもしろいのがいいんだよ!もコンセプトにしている(はずと私は思っている)本作の前には些末な話しであって、そんな指摘は昼下がりのコーヒーブレイクに吹くそよ風と何ら変わらないようなものだ。
しかし作品のコンセプトやテーマに影響するような、大きな障壁・問題・課題までご都合主義で解決していたとなってくると、ちょっと話が変わってくる。
以下に私の感想としてその理由を記載する。
(ちなみに私は超かぐや姫公開後の26年1月末から、ずっと↓のような富士山タケノコの考察をしていた者です)
前置き:アバターボディかぐやの中身は「ヤチヨ本体」で確定
しばらくファンの間でも議論になっていた「アバターボディかぐやの中身は誰なのか?」という論点。
これが以下の公式の情報により明確になっている。
結論としてアバターボディかぐやの中身は「ヤチヨ本体」で確定と言えるだろう。
根拠①
アニメ本編の最終版からエンディングについてのあらすじが書かれたSTORY SCENE4に以下一文あり
時は流れ10年後。研究職に進んだ彩葉は、かぐやを復活させることに成功。
仮想空間上の人格・ヤチヨとともに三人でステージに現れる───!
上記のとおり「仮想空間上の人格」と明記されている。
(なお一つ前のページにて、正体を表したヤチヨのことを「仮想空間上の存在」と記載していたのに、それをわざわざ「仮想空間上の人格」と言い直しているわけなので「人格」だけがあらためてサイバー空間上に生成された存在であるからに他ならない)
根拠②
CUT 2026年5月号の夏吉ゆうこさんのインタビューより
「rayは『8000年の時を経て成熟したかぐやとして、全然違う声になっても大丈夫です』というオーダーを受けて歌いました」
「(rayは)もちろん絶対同じものは出せないんですけど、自分の中では早見さんのヤチヨの声に寄せるように意識しています」
よって
・アバターボディかぐや → ヤチヨ本体
・ヤチヨ → ヤチヨの複製人格
ということになるが、これは以下のように極めて都合が良い解決策であると私は思う。
ご都合主義1:複製人格のヤチヨがあまりに可哀想
①小説版の記述
「・・・・今日、長くなるの?」
「多分ね」
「いよいよ~~~?」
「うん」
二人でベッドに横たわるアバターボディを眺めた。急ピッチで作り上げた試作品第一号『かぐや』。今日が初の起動実験の日である。
「十年間お待たせしました」
ベッドに横たわるかぐやを見つめながらヤチヨに言う。
「八千年に比べればあっという間だよ~~~」※
・・・・・でも、私はヤチヨのこと、もう待たせたくないから。※
(略)
「ありがとう、彩葉。かぐやを産んでくれて」※
珍しく真面目な口調でそう言った。※
「まるでおとき話みた~~い。竹の中からかぐや姫を見つけた翁は、十年後本当にかぐやを産み出してしまいましたとさ☆」※
「あーっ、それ! 言っとくけど、十年前に私のことお爺さん呼ばわりしたことまだ忘れてないからね」※
「ヤチヨは八千年前だから忘れちゃったよ~~」 ケタケタと笑い合う※
声が、研究室に満ち満ちた装置の駆動音に混ざった。
(略)
「・・・・・ヤチヨのおかげでここまで来れた」※
「ヤチヨだって。彩葉のこと追いかけて、ここまで来ちゃった」※
「二人して追っかけあってさあ、ふふ・・・・・・・」※
「ねえ、ヤチヨ。本当のこと言っていい?」
「なんだいなんだい?」
「本当はさ、ドッキドキで叫び出しそう!」
「ヤッチョも~!本当は待ち遠しくて堪らなかった!」※
また二人の笑い声が研究室に響いた。※
めでたしめでたしまで、あとちょっと。
冒頭の「・・・・今日、長くなるの?」「いよいよ~~~?」というセリフからして、このヤチヨがこれからアバターボディの中に直接入るはずはない。これから自分が試験を受けるのに予定を何も把握しておらず他人事っぽく質問するということはありえない。
よって上記で彩葉が会話しているのはまず間違いなく、公式ガイドブックでいうところの「仮想空間上の人格・ヤチヨ」であり、ヤチヨ本体(思念体)はアバターボディで試験起動する状態に入っているはずだ。
②rayMVでの涙
涙についてはもはや説明は不要かと思う。
以上から何が言いたいかというと、複製ヤチヨには確実に記憶と感情が存在するということだ。
人格としてはヤチヨ本人と何ら変わらず記憶と感情もある複製で、8000年の辛く苦しく寂しかった記憶もあるし、彩葉のことが大好きな感情もあるはずなのに、サイバー空間上の管理者としての役割を与えられて「彩葉とかぐや」という二人の輪に入れないことになる。
結果的に便利な代替物のように扱われてしまったように見え(本人たちや製作側がそうは思っていなくとも)これはあまりに理不尽で可哀想で残酷である。
彩葉とかぐやが目指して辿り着いたハッピーエンドは、複製の犠牲と我慢の上に成り立っている状態と言えるのではないか?
これは本当にハッピーエンドと言えるのか?
トラブルで致し方ないとは言え8000年の苦労をしたのはヤチヨ本人の過失・ミス・運命なわけで、その自分の行動の結果を自分の複製に任せて、自分は具現化して彩葉とめでたしめでたしは都合が良い話しである。
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ヤチヨがアバターボディに入ってリアルで活動しないという
考察・理由については最後のリンク先に記載しています。
ご指摘などがある方は必ずそちらをご覧いただいてからお願いします。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※監督が同じく公式ガイドブックのインタビューで以下のように話しているが
作中のあるキャラクターが実はメインキャラの未来の姿だった、というのは割とアニメやノベルゲームなどでの鉄板のネタですが、僕もとても好きでして・・・・・。有名どころでいえば「Fate/stay night』の衛宮士郎=アーチャーがありますが、企画の種が上がってきた段階ですでにこのギミックが組み込まれていたので、ヤチョとの経験の差や、運命をまだ知らないかぐやのラストライブなど、おもしろくできる要素はたくさんあるなと。
また、こういう作品の場合「未来のそのキャラ」は最後に消えてしまうことが多いのですが、そのキャラクターの生きた歴史ごと受け入れて二人でエンディングを迎える、という要素にこだわって企画を立てています。
生きた歴史を受け入れるというなら、当事者であるヤチヨ自身が自分の辛い過去も、不運も、アクシデントもミスも失敗も、その結果を受け入れた上でエンディングに向かうべきだ。
にも関わらず、本体は彩葉と現実でもハッピーエンドに向かうが、もう一人の自分の複製には仮想空間で引き続き保守・管理してもらい、二人のハッピーエンドに含まれないという展開は、理想ではない不都合な状態は自分から分離させ、もう一人の自分に負担させてしまうことになり監督自身の発言と矛盾を感じる。そのキャラクターの生きた歴史とその結果を真に受け入れているとは言えないのではないか。
複製や仮想人格を使うのが悪いと言っているのではない、記憶や感情がある存在に理想ではない(サイバー空間上の存在である)状態を任せて解決、としていることに違和感があり、非常に都合がよい展開でハッピーエンドに見せているように見える。
本人と同じ感情をもった仮想人格を犠牲にした結末はハッピーエンドとは言えない。繰り返しになるが仮想人格があまりに可哀想だ。臭いものに蓋をしたエンディングである。
ご都合主義2:登場人物の考え方や性格を捻じ曲げていないか?
上記のように、複製の犠牲の上に成り立っているハッピーエンドのように私には見えるわけだが、このエンディングを登場人物達は「ハッピーエンドだ」と考えているのだろうか?
作中でかぐやが原典「竹取物語」の結末を聞いた際、かぐや自身が「いい話し風になっているのが余計許せない」と言っていたのを思い出していただきたい。
そして、山下清悟監督はインタビューで以下のように語っている。
「自分が作品を見ていて一番腹が立つ時って、状況に負けてキャラクターが変わってしまう時なんです。展開によって性格がねじ曲げられる瞬間があって、それは単純に心が折れてしまったということではなくて、作者の都合で曲げられていると感じる時があるんです。それはやっぱり避けたい。」
そう言っていたのにも関わらず、まさに製作側の都合で曲がっているように見える。
「いい話し風になっているのが許せない」と言っていたかぐやが複製に辛い役目と負担を任せて、事実を見せないままさりげなく良い話し風に終わらせることになっていないか?
状況に負けてキャラクターの価値観が変わって甘くなってしまっていないか?
制作の都合で言ってることとやってることが変わってしまっていないか?
「超かぐや姫!」が目指した真のハッピーエンドというのはこの程度のものだったのか?
おかしくないだろうか?
非常に都合がよくないだろうか?
ご都合主義3:「複製」の使い方が都合良すぎる。何度も複製を使って問題解決する是非
かぐやがもう一度地球に降りようとした時にも自分の複製を作って仕事を任せてきているが、まさか、その複製にも記憶や感情があったのではないか?
「地球のことを全部思い出して、自分の複製を作って、それから姫と協力して舟も作って」
「複製」の意味を検索すれば「もとの物と同じ物を別に作ること。また、そのもの」と書かれている。
本編のヤチヨが語る描写では、複製かぐやは背中にゼンマイが描いていたので、AIやBotのように感じさせていたが、前述の仮想人格のヤチヨが確定したことで、この月の複製かぐやにも記憶や感情があった可能性が高いのではないかと疑わしく感じられてしまう。
なぜならそのままのとおり「「複製」」と書いてあるからだ。
まさか、複製かぐやも本当は彩葉とまた会いたいという想いがあったにも関わらず、仕事を押し付けて月に置いてきたのではないか?
その辺の設定がとても都合よく、甘くなっているのではないか?
二回も自分と同じ記憶も感情もある複製に負担やシンドい役目を押し付けて、自分だけハッピーエンドに向かった可能性もあるわけだが、これをハッピーエンドなどとは少なくとも私にはとても思えない。
というか、作中で解決が難しい障壁や問題が起こったら、毎回毎回キャラクターそっくりそのままの人格と能力を持った複製を作って、問題を任せて解決しましたというのは単純に作品としてあまりにも都合が良すぎる。まさにご都合主義の極みだ。
一つの作品上で何度同じ手段を使いまわすのか?
とっておきの切り札を何度も何度も使って課題を解決しているのはダサすぎる。非常にセンスがない。
切り札はクライマックス(や物語の後始末)として使うから希少でありおもしろいのであって、たった一つの映画の中でそう何度もホイホイ繰り返しておもしろいわけがない。
ドラゴンボールの悟空が何度も元気玉集めて敵を倒してしまったら最後に感動できないし、呪術廻戦の五条悟もずっと一人で敵を倒してしまったらつまらないから獄門疆に封印されていたわけだし。
しかもそれが(尺の都合という理由なのかもしれないが・・・)視聴者には分からないところでこっそり行われているのだからとてもよろしくない。
私も超かぐや姫は、とにかく勢いと音楽とビジュアルが優先で、おもしろく楽しいプロレス的な作品だと思って楽しんでいたので「都合の良い反則気味の技でもまあいいじゃん!細けえこたあ気にすんなよ!」と思って楽しんでいたが、同じ反則気味の技を二回繰り出したら、流石に立派な反則になるように感じる。イエロー2枚でレッドカードである。シナリオや設定に欠陥があるように感じる。
全てが思い通りにならずハッピーばかりではない人生(物語)の中で、それでも精一杯前向きに生きるから切なく美しく、そしてそこから掴み取った幸せだからこそ真のハッピーエンドと感じるのではないだろうか。
それが「毎回毎回困ったらいつも自分のコピーを作って問題預けてハイ!解決!」なんて展開は、あまりにチープで稚拙で浅はかなハッピーではないだろうか。
ご都合主義4:思念体の移植ってどうやったの?
この疑問を見た時、あなたはきっとこう答えるだろう。
「月の世界とサイバー空間やインターネットが似ていると言っていた。だから0と1のデジタル情報と親和性があるはずだ。」
「かぐやが月人に手を掴まれた時にプログラムのソースみたいなのも表示されていたじゃないか」
「だから思念体もデジタル情報と同じようにボディに移植できるはずだ」と。
しかし短絡的に結びつけずによく考えてほしい。
ヤチヨの本体である思念体は0・1のデジタルな記憶データ(だけ)ではない。つまりそれ自体で独立して思考もして生きている。
月人は肉体を持たない思念体だ。だから、月製の舟『もと光る竹』は、着陸した星の環境を調べ上げ最適化された肉体を乗員に付与する。となると、依代を見つけないと私は幽霊みたいになっちゃう?うぉぉん虚しい~。
機能が死んでるのか?
......『もと光る竹』、応答して。
そんな~。
......『もと光る竹』、応答して。
いろんな可能性全部シミュレーションしたじゃあん、かぐやちゃん力及ばすってことッ?
......『もと光る竹』、応答して!
マジかよ。声も出せず、姿も見えず、ここから離れることもできず
確かに「記憶データ」だけであれば0と1のデジタル情報として処理を行い、記憶装置に移植できる可能性はあるかと思う。少なくとも我々の技術水準でもやろうとすることの理解はできる。普段我々も日常でスマホやパソコンにデータを記録している。
しかし上記のとおり、思念体はタケノコの装置や設備を使って思考を行っているわけではない。
つまり、ただのデジタルデータと違って思念体そのものが生きて思考している機能がある。物体ではないが思考する能力や機能を保持している。
幽霊や魂のような存在をどうやって抽出して機械のアンドロイドに移植したのか?
姿も形もない幽霊や魂の思考や感情を司る機能(脳みそ的シナプスとかエネルギーとか情報群とかプラズマみたいな?)を、どのように解析して、機械の身体に定着させて、機械の身体を制御したり情報を受信・伝達できるようにしたのか?
これについても、もはや「神の領域(笑)」に到達した彩葉が何か考えていて、実現する可能性をイメージできているのかもしれないが、しかし2040年に二回目以降の起動試験を行った際に、彩葉は以下のように言っている。
「味覚はもうちょいお待ちあれ」
つまり味覚の実現もまだ終わっていない状態である。
2030年に進路相談でホワイトボードに以下の目標でいたが
実現したいこと
①サイバー空間の中でも味覚・嗅覚・触覚を得られる技術を作ること
②①を実現できるサイボーグボディを開発すること
少なくとも②がまだ完全に終わっていないような状況であるわけだ。
つまり地球人の身体の再現も実現途中である段階で、さらに
③思念体の解析と制御そして移植
がいつの間にか追加されており、そしてなんと先に③が実現完了したことになる。
2040年の段階で思念体のアンドロイドへの移植などという異次元の施術が実施できたというのはあまりにぶっ飛びすぎではないか?流石に盛りすぎで都合が良すぎである。
もともと楽しければ何でもあり寄りなプロレスエンタメ作品だとは思うが、ちゃんと描かれた設定以上にさらになし崩しで盛ってしまうなんて、もはや作中の設定描写が意味をなしていない。
CIAの職員もそうだったが、超かぐや姫はかなり壮大なストーリーすぎて、解決できない問題が起こると(仕方がないとは言え)明らかに反則技のようなやり方で解決する傾向が強い。
ご都合主義が過ぎる。
まとめ
本当にこれはハッピーエンドと言えるのか?
都合が悪い無茶苦茶な設定を見えないようにして、上澄みの綺麗なところだけ見せて、ものすごい都合が良い問題解決をしているように見える。
見栄えがいい演出や描写ばかりを出した結果、整合性が甘くなったのではないか?
設定・設計・整合性チェックが甘く、雑に感じられてしまう。
これではご都合主義と言われても仕方がない。
残念です。
今後は、シナリオや脚本は考えず、単純にキャラクターとグラフィック、そして素晴らしい楽曲を兼ね備えた作品として応援させていただきます。
おまけ考察:富士山のタケノコについて
本件において、もう一つ確度がより高まったと感じることがあります。
それは富士山のタケノコはやはり掘り出しているだろうということです。
ボディかぐやと仮想人格ヤチヨは公式ガイドブックに「(彩葉と合わせて)三人」と記載されたとおり袂を分けたわけで、もはや別人と考えるべきでしょう。
つまりヤチヨはもう完全にタケノコの外に出たことになり、空っぽのタケノコを富士山に埋めることに不死性の放棄などという意味はないはずです。
思念体のヤチヨ本体でさえ「もと光る竹」からボディに移植されたということは、複製ヤチヨも外部に移植できるのだろうと思われますし、もし埋めるとするのならいよいよもって「空っぽのタケノコ」を富士山頂の岩盤を掘って、不死性の放棄などという理由をつけて埋めるという謎儀式を行うことになります。
視聴者の願望で「不死性の象徴」と崇める設定になった空っぽのタケノコ船を埋めるイベントをするためにメールで誰かに
回りくどくてすみません。
私の意見を率直に述べさせていただければと思います。
私はかぐやを本当の意味で
にんげんに・・・
と送るのでしょうか?
タケノコを埋めることが本当に「かぐやを本当の意味で人間に」感じることになるのでしょうか?
もうタケノコの外に出てボディで活動している状態で、空っぽのタケノコを富士山頂に埋めることで「かぐやが本当の意味で人間になったぞー!やったー!」と感じるのでしょうか?
流石にそんなわけないと思います。(と私が感じたとしても公式的にそうなる可能性も今回のことで否定できませんが・・・)
よって「本当の意味で人間に」とは、ボディかぐや(ヤチヨ)を生物に戻すという意味と考えられ、よって富士山のタケノコは原典竹取物語のかぐや姫が残した不老不死の薬であり、富士山のタケノコは掘り出しているのであるとあらためてここに確信を深めるものであります。
もはやご都合主義の似非ハッピーエンドはいりませんが、富士山のタケノコだけは私が道連れに貰い受けますね。
当感想の考察部分の詳細は以下に記載しているので、必ずこちらをご覧いただいてからコメントなどいただけるとありがたいです。



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