第1回「戦争しなければ」を作らない、それが政治家の仕事 福田康夫元首相
戦後80年の今年、戦前生まれの現職国会議員は約1%になりました。戦争を経験した政治家たちが次世代に伝えたいこととは何でしょうか。その証言を聞きます。
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政治家として外交問題に注力し、日本とアジア各国との融和を重視した福田康夫元首相(89)。少年時代の記憶には戦争が色濃くにじむ。戦争体験は福田氏の歴史観、その後の政治家としての生き方にどう影響を与えたのか、朝日新聞の取材に応じた。
東京から群馬へ疎開、空襲で自宅が全焼
――幼少期、戦争の記憶は。
1942年、占領下の中国・南京は、非常に秩序だっていた。中国の人たちは親切で、街中で映画を見に行くこともあった。2階建ての洋館がおやじ(赳夫氏)の仕事場兼自宅。大きい広軌鉄道も走っていて、日本にいるときより平穏に感じたくらいだった。しかし、戦況が悪化すると、航路が危ないからということで急いで東京に戻った。
――帰国後の東京の様子は。
直後はそうでもなかったが、だんだんと軍事色を帯びてきた。東京の家では庭の芝生を掘り起こし、イモ畑にした。大量生産向けの農林1号というイモを育てて自活していた。水っぽくて、おいしくはなかったね。
そのうち東京も危なくなり、集団疎開が始まった。私たち家族は父の生家がある群馬県の金古町(現・高崎市)に疎開することになった。父は東京に残り、今の国立劇場(千代田区隼町)近くに官舎があったけど、そこも疎開直後に焼夷(しょうい)弾が落ちて家屋が全焼した。家族写真なんかもだいぶ無くなった。
竹やりで「敵をやっつけるんだ」
――疎開先での暮らしは。
もう戦争末期のとき。私は金古町国民学校2年に編入させてもらったが、朝学校に行くと毎日のように空襲警報が鳴り、すぐに家に帰る。こういう日々だった。
家に帰ってやることといったら「戦争ごっこ」だ。近所の子たちで集って、兵隊のまねごとをして、「お前は少尉」と位を付けて遊んだ。それからクワの木の枝を集めて、皮をはぐ作業も日課だった。乾燥させて繊維にして、軍用に供出していた。竹やりをつくって、「パラシュートで敵が降りてきたらやっつけるんだ!」という仲間もいた。
出征兵たちの顔、何度も思い返す
――国民学校での軍国教育の影響もあった。
小学校では最初から軍国教育だったからね。教育もあったが、一番はそういう世間の空気だった。大人もみんな戦争のための作業をしている。だから僕たちも、空気に染まっていった。そうしてみんな同調していく。それが戦争でしょう。
一番忘れられないのは、出征兵を見送ったときだ。50人くらい集まって、威勢よく軍歌を歌いながら村から送り出した。私の親戚も出征した。その時の、彼らのかなたをみるような顔つきが、妙に心に残った。
まだ子どもだったけど、その後、彼らは戻って来られないと分かりながらも従っていたのだろうな、結婚の約束をした人を残していった人もいたろうに、などと自分が年を重ねていくと、そういう思いが積み重なっていった。何度もあの時の彼らの表情を思い返して、本当に何とも言えない思いがする。今でも思い出す。戦争っていうのは自由がなく、通常の行為とはまったく別の非人間的な強制力が伴う。二度とあんなことはしたくないし、させてはいけない。
――終戦はどのように知ったのか。
玉音放送が流れたとき、いつものように戦争ごっこで遊んでいた。家に帰ってきたら、大人たちが「戦争は終わった。日本は負けた」と話している。「戦争をやめるなんて、天皇陛下はけしからん。自分たちは竹やりを用意して勝つと信じてがんばっているのに」と怒りをぶちまけた。それから1週間後には、東京に戻ることになった。
首相秘書官として見た父・赳夫氏の外交
――大蔵官僚だった父・赳夫氏は。
ずっと仕事で東京にいた。戦争のため、軍事予算の調達が彼の任務だった。二度とあのようなことをしてはいけない、という思いは強くあったと思う。
――赳夫氏は政治家に転身後、首相になり、1978年に日中平和友好条約を結ぶ。
おやじはこう言っていた。72年の日中共同声明で両国間に「つり橋」ができ、日中平和友好条約でそれが「鉄橋」になったと。やっと人が通れるつり橋から、物資も行き来できるように整った。でも、国同士が整ったとしても、色んな交流が必要だ。関係性はすぐ出来上がるわけじゃなく、時間がかかる。
――赳夫氏は首相として77年に東南アジアを歴訪し、「日本は軍事大国にならない」とうたった「福田ドクトリン」を発表したことでも知られる。首相秘書官としてどう見ていたか。
戦後の朝鮮特需もあって、日本は急激に経済成長をした。企業が東南アジアへ進出し、街中の看板にもずらりと日本製品が並ぶほどだった。戦争で日本が攻めてきたときと似た感覚になり、アジアの人々に恐怖心を与えたのではないかと思う。日本はやりすぎた。
それを、福田ドクトリンは緩和した。「日本は軍事大国にならない」と宣言し、「ハート・トゥ・ハート(心と心のふれあい)の付き合いをしていこう」と呼びかけた。
――自身も、2007年に首相に就き、日中関係の改善に力を注いだ。
首相になった当時は気候変動など環境問題が大きなテーマになっており、08年のG8(主要8カ国)洞爺湖サミットに胡錦濤(フーチンタオ)国家主席を招いた。胡氏には事前に私の考えを理解してもらい、難色を示していた米国のブッシュ大統領も一晩かけて説得して、全員一致の合意ができた。何事も、首脳同士の信頼関係がなければ話は進まない。
――現状はどうか。
日中で言えば、実のある首脳会談がここ10年ほどできていない。中国の急速な大国化、沖縄・尖閣諸島をめぐる対立などが引き金となり、対話できない環境が生まれている。ただし、中国を敵視ばかりしていたら、世の中とても窮屈だ。隣の国で、歴史や文化を共有する特別な関係にある日中は、そこを大事にしなければならない。
――01年、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝がアジア諸国の反発を招いた後、官房長官として私的懇談会で1年議論し、国立追悼施設の構想をまとめた。
宗教を意識することなく誰もが追悼でき、歴史を知る施設が必要だと考えたからだ。実現には至らなかったが、今でも必要だと思っている。
排外主義は「歴史を勉強せず、ものの道理がわかっていない」
――戦後80年の今年、参院選では「排外主義」も関心を集めた。
一過性のものかもしれない。ただ、そうでないなら、歴史を勉強せず、ものの道理がわかっていないと思う。
――戦争を知らない世代が中心になった現在の政治をどうみているか。
「戦争をしなければいけない」という状況を作らないこと。それに全力を尽くすのが、政治家の仕事だ。
戦争をしてはいけないと口で言うのは簡単。過去の記録や証言から、いかに自分ごと、自国のこととして捉え、想像力を働かせることができるか。まだ覚悟が足りていないように思う。
外交はとても大事だ。戦争をしないための外交。その基盤が信頼関係だ。対話ができなければ、力で話をまとめようとする。力のある国が「金はいくら出すか」「武器をどれだけ出すか」と、力のない国に迫る。それは信頼関係とは遠い世界のことだ。
福田康夫氏
ふくだ・やすお 1936年生まれ。大蔵官僚だった父・赳夫氏が日中戦争下で40年代に汪兆銘(おうちょうめい)政権の財政顧問を務めた関係で、幼少の一時期を中国・南京で過ごす。終戦は疎開先の群馬県で迎える。
赳夫氏は76~78年に首相。康夫氏は首相秘書官を務め、90年の衆院選で初当選。森喜朗、小泉純一郎内閣で官房長官を3年半余り務める。小泉首相が靖国神社を参拝した2001年に私的懇談会をつくり、1年の議論を経て新たな国立の追悼施設の建設を提言した。
07年9月、憲政史上初の親子2代の首相に就任。民主党との大連立で「ねじれ国会」を打開しようと試みたが失敗した。08年5月、中国の胡錦濤(フーチンタオ)国家主席と「戦略的互恵関係」を推進する日中共同声明を発表。同年7月に北海道で開かれたG8洞爺湖サミットを議長として取り仕切る。首相在任は08年9月までの1年間。公文書管理法の整備に尽力した。
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次回は、自民党で幹事長を務めた古賀誠氏(85)。太平洋戦争中にフィリピン・レイテ島で父が戦死したときの記憶とその後の母との生活を語ります。
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- 木下ちがや政治社会学者視点
戦後80年にあたる2025年は国内外ともに激動の年である。激動の要因には政治的なもの、経済的なもの、文化的なものとさまざまあるが、「世代的なもの」も静かに変化を後押ししている。 「世界価値観調査」によると、先進国の若者の民主主義への幻滅は拡大している。それは現存する政治システムへの不信でもあり、この間のポピュリズムの台頭の原因ともいえる。他方で1930年代から1940年代生まれ、つまり福田康夫元総理の世代の民主主義への情熱は低下していない。この差はなぜ生まれるのだろうか。 政治学者ヤシャ・モンクは、若者たちが違う政治システムを生きた経験を持っていないことを理由にあげる。1930年代から1940年代に生まれた人々は、幼少の頃にファシズムの脅威を身近に感じていたか、それと戦った家庭に育った。反対にミレニアム世代は冷戦すら経験しておらず、多くはファシズムと戦った者すら知らない。つまり高齢者にとっては戦争は「リアル」であり、戦後民主主義はそれとの対比において守らなければならない「リアル」である。だが民主主義の時間しか知らない若者たちにとっては、その大切さは抽象的な問いでしかないのだ(ヤシャ・モンク、吉田徹訳『民主主義を救え!』127-128頁)。 今から10年前に起きた安保法制反対運動は、社会学者樋口直人らの調査によると、若者が中心にみえたものの、実際にはデモに参加し、資金を提供して持続的に支えのは高齢者だった。つまり安保法制反対運動は戦争の現実を知る世代最後の大規模な運動だったのだ。それから10年。ロシアのウクライナ戦争がはじまり、世界史の針は80年前に逆戻りしているようにもみえる。一方で、高齢者は実社会から退場し戦争体験はますます抽象的なものになった。福田氏がまのあたりにした、出征兵士たちのかなたをみるような顔つきを思い浮かべられる経験をもつ人は、もはやごくわずかしかいない。 今回の参議院選挙では、戦前を肯定するような言説、あるいは排外主義的な言説の台頭がいわれた。だが僕には、ポピュリスト政治家が演説で語るこれらの言説には、経験に裏打ちされない「軽薄さ」を感じた。同時にそれに反対するリベラル派の政治の言葉にも「軽薄さ」を感じざるを得なかった。戦前を肯定する、排外主義的な言説は戦後一貫して存在していた。だが保守、革新を問わずあった、良くも悪くも体験に裏付けられた思想的な重みが、政治家たちの言葉から失われている。今の政治家たちは民衆の実感から乖離した「戦争と平和」、「排除と共生」をめぐる抽象的な言葉の羅列に安住していないだろうか。「戦争をしてはいけないと口で言うのは簡単」「覚悟が足りていないのではないか」という福田元総理の言葉は、ポピュリストにも、ポピュリストに対抗する側にも深く突き刺さる。
2025年8月11日 10:29 - 佐藤優作家・元外務省主任分析官視点
この種の企画は、政局を達観してみることができるようになった長老政治家だけでなく、現役で、勇ましい発言をしている政治家も対象にしないと、政治の現状を分析する上での価値をほとんど持ちません。 この先、どのような政治家が登場するかに私は注目しています。
2025年8月11日 10:54