再反論します 3(前編) ※2/28「ポイント」追記
※2026年4月9日(木)「(どうせムダだから)ろくに読まずに答えよう」という態度を取るゆえの早とちりなのでしょうが、この記事で最後なのは変わっていません。新たな主張や再反論の追記ではなく、最後なので聞きたいと思って書いた(のに答えが得られなかった)部分を分かりやすくしただけです。
既に書いたとおり、その答えを見ても“名指しの”再反論はもうしないというのは守ります。
また、私は「ろくに読まずに答えよう」などという態度は取りませんので、全部きちんと読んだ上で分からなかったり、矛盾を感じたりしたことしか聞きません。
しかしこれらを踏まえた上で、なおも答えたくないならそれでもいいです。「答えを得られなかった」が判断材料になるだけですので。
※2026年2月28日(土)トピックごとの核心部分を読み取っていただけないようなので、分かりやすいように「ポイント」と付けました。再訪することがあったら確認してみてください。前後編合わせて15あります。
※プリキュアについて「普通の」記事を読みたい方はこちら
長年のプリキュアファン、KLPです。
引き続き、かつて記事を引用した方からの返信に再反論していきます。
はじめに
まず、今回で終わるというのは本当です。
この方が大体どういうスタンスかは分かりましたし、それが変わらない以上は、私の目からどう見えるかも変わらないでしょう。
何とか終えたくてまたも長い記事になりましたが、今言いたいことはひとまず言い終わりました。
宣言どおり、一連の再反論はいずれ非公開にするつもりです。
しかし、一度は公開したことにもそれなりの理由はありますから、しばらくの間はこのままにします。
ですので、あちらの反論が既に非公開なのは残念です。
私の記事を見に来た人には、どういうやり取りか分かるようにしたいので、可能なら再公開していただくと助かります。
非公開にするのは、私の記事が非公開になっていることに気付いてからでどうでしょう。
また、私の主張で終わっていいとのことですが、この記事にはできれば返信していただきたいです。答えにくいでしょうし、答え次第で私の考えが逆転する可能性も低くはありますが。
詳しくは後述しますが、一番聞きたかったことや核心についてに限って答えがなく、ちょっともやもやしているんですね。あまり重要でないところにばかり反論が来ていると感じます。
私はその返信を見ても、名指しはこれが最後というのは守ります。
ただし今後、名指しせずにざっくりと「このような意見を見た」と取り上げることはあると思います。
それが非常識なこととは思いませんし、この形ならこのブログの主旨にも合います。
本人が自分のことだと気付くレベルにはなるでしょうが、それは誰の意見を取り上げるとしてもおおむねそうです。この方だからするわけではありません。
逆に、同じようにこの方が私の意見を取り上げても、文句は言いません。それとなく反論するかもしれませんが。
Twitterは使いません。「アウェーだから」と解釈したいのであればそれでいいです。
それと、世の中には似たような考えの人がいるものですし、私は様々な意見を見ているので、自覚なく他人の影響は受けると思います。著作権のないことなら、それでいいはずです。
また、自分の主張は擁護派の意見としてそれほどマイナーなものではなく、多くの擁護派と共有できるものだと思います。
「お姫様」論総括
【「お姫様」論は男の子プリキュアを認める論であり、「お姫様=プリキュアではない」ということではない】
男の子プリキュアは「女の子だって暴れたい!」と矛盾しないものである、というのが「お姫様」論なのは分かります(分かっていることが伝わるように書いたはずです。)。
その上で、「「お姫様」論では擁護になっていない」という話をしています。
ネガティブのオンパレードな上に、実態と合っていないからです。
「お姫様」論の大元である「女の子だって暴れたい!」は公式サイドの意図として根拠にしたのですから(根拠にすべき理由に「全プリキュア展」のコーナーも挙げましたよね)、その公式サイドの意識からしてズレがある、というのは反論として成り立ちます。
いざ公式サイドの詳しい考えが分かったらそれは無視するのなら、論として片手落ちでしょう。
片手落ちだから擁護に見えない擁護になってしまうのかもしれません。
《2026年2月10日(火) 追記
最終的に擁護しているのだから擁護論であり、何も反論しなくて良いはずだ、ということであれば、この方も「男児のため」論を批判しなくて良いはずでしょう。公式の意図と違っても、何らかのおかしな点があっても、擁護には変わりないのですから。
実際のところ、女の子プリキュアを好きな男児を排除するという意味での「男児のため」論は、盛んに唱えられているかも微妙です。これこそ、批判する意味が分かりません。》
キュアカグラ/天弦晃雅の舞を優しいと取ることは問題にしていません。
(仮定の話は、まさに「自立して選ぶことが大事」が公式サイドのスタンスであって、「男の子が女の子らしくふるまう」に重きを置く「お姫様」論は微妙にズレている、と言いたかったのです。そのズレの説明のために「男の子が男の子らしくふるまう」という仮定を挙げ、「自立しているなら、男の子らしい(「お姫様」ではない)ままでもプリキュアのはずだ」と主張したのですが、伝わらなかったようです。)
それより「5人中4人は女の子らしいダンスをできていない」「決着はつかず結局カグラは変身する」「変身前で通用したのは一度きり」という部分についてはどう説明するのでしょうか。
ぼくプリに「お姫様」論が当てはまるかどうかでは、こちらの方が重要なのですが。(※ポイント①)
反論記事全体をとおして、こういう大事なところに限って答えていただけない印象です。「気付いたときに対応するしかない」みたいな議論のスタンスに反論するより、どこに本題の核心があるかを気にしていただきたいですね。
とはいえ、カグラの舞は「お姫様」論において過大評価だと、私は既に再反論2で述べています。
カグラを「お姫様」とした記事では、他の作品の、あえて変身を解いたプリキュアにも言及していますが、ではその場面を理由に「この作品は暴れない作風だった」と言われたら納得できますか。
私ならできません。むしろ、暴れに暴れて戦う作風だからこそ、変身せずに立ち向かう場面に意味が出てくるのだと思います。
他の事例は文脈がカグラと違う、とありますが、その作品の戦いぶりを表しているわけではない点は同じです。いつも通じるわけではないし、全員がやっていることでもない。その作品の戦いぶりを表すどころか、イレギュラーなのです。
カグラの一場面だけ見て「ぼくプリは「お姫様」」はあまりにも無茶でしょう。
【ゼロベースで考える動機がない】
それなら、「見たものをそのまま、自然に」ではない、ということでしょうか。
はじめに論があって当てはめるのは、無茶をしてでも論を成り立たせようという本末転倒なことになりかねないので、おすすめしません。決めつけず、仮説として扱うべきだと思います。
(「先に論を立てる」に対して「ゼロベース」とは極端です。間を取って柔軟に、とはならないのでしょうか。)
さて、キュアコネクトを「浄化力の強さを暴れると混同している」とのことですが、混同も何も、目で見て強い技を「暴れる」と言うのはおかしくないでしょう。
それがダメなら、「暴れる」と「おとなしい」の線はどこに引けば良いのでしょうか。
この方だって、スケートや巫女舞を「そのまま」見て荒々しくない、優しいものと感じたから「おとなしい」と言ったわけでしょう。蹴りを入れたり一撃で浄化することは「優しい」「おとなしい」のですか?浄化技中心のプリアラは「暴れる」としたのに、矛盾ではないですか?
「一撃だけ」が重要となると、回数の問題でしょうか?それならカグラやキュアウィングが当てはまらなくなります。
肉弾戦や浄化技とスケートや巫女舞を、見た目以外で分ける方法があるようには思えませんし、あったとして見た目以上にしっくりくるとも思えません。そしてそう分けるなら、コネクトは「暴れる」の方に入れるべきです。
「公式サイドは神だから」は無茶で違いありません。もう一度書きますが、そもそもプリキュアは基本的に素体が誰でも攻撃するのが“神”の敷いたルールで、今さらコネクトにだけ見いだせる“神”の意思はないでしょう。「素体が誰か知らない」というのは、その無意味さを念押しするものです。
この方の例えに従うなら、夜に誰もライトを点けられないのが分かっている状況で、ライト自体を持っていないキャラに「ライトを照らす設定にできたはずだ」と言うようなものです。“神”ならどうにかできた、では、そのキャラにだけそこまで要求する理由になりません。“神”は他のキャラもどうにかできるからです。
悟については、「防御寄り」とするのは過小評価です。プリキュアが近づくのさえ難しいラスボスまで道を開くことが、なぜ防御に見えるのでしょうか。
そして頭脳について「本人が足りないと感じている」という心情を根拠にしていますが、ではキュアアンフィニやカグラも「これでは足りない」と感じ、暴れているつもりはなかったと言うのでしょうか。
アンフィニは自分を取り込もうとする絶望に負けないためにスケートを見せ、カグラは敵を攻撃するために踊ったはずです。特にぼくプリはダンスが攻撃の手段ですから、優しい舞と言えど敵を前にすれば攻撃です。
心情を根拠とするなら、アンフィニもカグラも暴れています。
(「暴れる」と「戦う」は違う、とのことなら、後述の使い分けの話に続きます。)
《2026年2月10日(火) 追記
また、悟は「見ていることしかできない」から変身した流れなので、変身後の心情は「やっと戦えた」「プリキュアに並べた」といった感じではないでしょうか。心情を根拠とするなら、変身後の活躍は「暴れる」「戦う」で良いはずです。
そう考えると、実際に貢献できているものを心情で判断すること自体、適切ではない気もします。これでは、例え激しい攻撃をしても、本人が謙虚だと暴れていないことになってしまうでしょう。》
ウィングに至っては戦いぶりでも戦う心情でもなく、キャラの位置づけや背景の解釈の話になっています。
見た目の激しさ以上に曖昧で、意見の分かれるところでしょう。現に「夢が叶っていない」は、違う意見の人も多いわけです。正式メンバーとしてずっと激しく戦い続けているという、目で見て分かる事実を差し置いてまで、根拠にできるものとは思えません。
また、男の子がプリキュアになることと言うより、夕凪ツバサというキャラそのものの話になってしまうので、一番無茶なこじつけです。
スケートや巫女舞は見て分かるレベルのおとなしさを根拠にした(ようにしか見えない)のに、見た目がおとなしくないものが出てきたら、今度は心情だったり、位置付けや背景で判断していて、基準がコロコロ変わっています。(※ポイント②)
そして再反論1でも指摘しましたが、「暴れる」と「戦う」もイコールと取れたりそうでなかったり、その場によって変わっている印象です。
こういう、都合よく基準を使い分けてこじつける無茶が起きるので、論が先にあるのは良くないのです。
この様子だと、ぼくプリを完結まで見ても「やはり「お姫様」だ」と言うかもしれませんね。
第2弾のカグラの一場面以外には、戦いぶりにも、心情にも、位置づけにも、「お姫様」に当てはまる部分が全くないのですが(そのカグラも過大評価ですが)、また新たに基準を作れば済むのでしょう。
百歩譲って、いずれかの点で達成できていれば「お姫様」と見なす、とするならそれも一つの考え方ですが、そうなると今度は、女の子プリキュアにも心情や位置づけで「お姫様」と見なせる人が出てきてしまう可能性があります。
再反論1で触れたキュアサンシャインなど、簡単にこじつけられる気がしますね。
《2026年2月15日(日) 追記
もし女の子に「お姫様」要素が見つかっても、それを無視して「暴れている」とするなら、これこそ男の子だけ恣意的な判断をしていると言っているようなものです。
現状だと、女の子は肉弾戦も浄化技もひとまとめに戦いぶりとして「暴れる」と判断し、心情や位置づけははじめから視野に入っていなさそうですから(実際に「心構えを基準にすると「暴れる女の子」は意味を失う」と言っていましたし、サンシャインが戦いぶりでないところで女の子らしさに帰結するのはノーカウントとしているわけです)、男の子の基準がいくつもあって安定しないのは、「お姫様」要素が見つかる可能性を上げるために、つまり「お姫様」論を成り立たせるために理屈を後づけしているように見えます。》
早い話が、一定の分かりやすい線引きがどこかにあるというより、この方がそのときの気分で「お姫様」っぽく感じる瞬間があった……という主張にしか見えません。
先に「お姫様」論を置いているので、気分も引っ張られるのでしょう。
それほど曖昧なものなら、「暴れる」と「おとなしい」の区別も、まして女の子と男の子のプリキュアになる意味の区別も、わざわざ付けるほどのものではないのではないでしょうか。
実際、公式サイドは区別も違う意味づけもしているつもりはなさそうなのですから。
ぼくプリについて
【キミプリとのコラボ】
「出番が少なくても影響があった前例」とありますが、コラボの時点ではぼくプリが“過去作品”ではなかったのをお忘れでしょうか。いわゆるバトンタッチとも違い、キミプリとは同時進行です。
まだ本編が続いている状態なのに、コラボ先で重大な何かが進んだり、まして決着なんてつくわけがありません。仮にそうなったら、むしろ本編をないがしろにする「失敗」です。
また「前例」についても、ちょっと過剰に捉えている気がします。
コラボは続編ではないですし、話題作りの“遊び”の意味合いが強いものであって、過去作品の本編が更新されたとは考えない方が良いのではないでしょうか。
よほどの矛盾がなければ、本編に重大な影響を与えてはいないと判断されていると受けとめるのが良いように思います。
逆に言えば、“遊び”以上のことはできないはずなのです。
例えば、美墨なぎさがアマゾンで働くことは唐突に思えるものの、アマゾンに行くはずのない理由が本編にあるわけでもないので(もしあったら訂正します)、矛盾とまではいきません。
特にオトナプリキュアは、主役の5やSSにとっても「正式な続編ではない」と明言されていますから、気に入らなければ「こんなの認めない」でもいいと思います。まさしく“遊び”なのです。
しかし月宮爽々奈の家庭の事情は、まさに本編で話が進んでいる上にそれなりに深刻なので、“遊び”でどうにかしていいものではありません。
ぼくプリは過去の事例と並べて比べられるものではありません。(※ポイント③)
【公式の考えが分からないのは承知でやるのが考察ごっこや感想である】
本当に考察ごっこや感想の範囲に収まっていれば、それも通るでしょう。
起きたかどうかも分からない失敗を、さも起きたかのように喧伝することは「印象操作」とでも言うべきです。
仮にぼくプリコラボに限らず、いつもこのレベルのことをしているのであれば、なお良くないことです。悪質ですらありますから。
例えばたんプリは、放送前から予想が盛り上がり、その中に「なぜ1999年なのか?」という考察をよく見かけました。それ自体は考察ごっことしてありでしょう。
しかし、「公式サイドは『昔は良かった』と20世紀を持ち上げるつもりだ。老害だ!」と言っている人がいたらどうでしょう。始まってもいないのに、公式サイドのスタンスを決めつけ責めるところまで発展していて、さすがに言いすぎだと思いませんか?
同じように考えるのでも、せいぜい「『昔は良かった』ばかり言い始めたら嫌だな」くらいにしておくのが適切でしょう。
チケットを「売れていない」とするのは、放送前から老害扱いするレベルのことです。
(もし、言いすぎと思わない、とのことなら、後述と同じく鈍感すぎるという感想になります。)
さて、擁護するつもりの人がこういう印象操作をするでしょうか。
こういう印象操作をしている人が擁護派に見えるでしょうか。
たった数分確認しただけと言いますが、その数分を日々、公式サイドの求める数字も分からないまま積み重ねていたわけですよね。それも、起こる可能性のかなり低いネガティブな展開を予想しながらです。そのモチベーションがある時点で、擁護派らしくありません。
擁護派は同じ時間を使って、少しでもぼくプリの良さを布教したり、「これを機にぼくプリ見たらおもしろかった!」という感想をあさっていたのですから。
そこまでしなきゃ擁護派ではない、とまでは言いませんが、対象にプラスになる行動をしたいとは思っても、マイナスになる行動をあえてしようとは思わないのが擁護派のはずです。
何日も何日も、自分の応援している作品についてネガティブ予想をしながら、根拠もなく「売れていない」などと言いたがる擁護派がいると思いますか?
「たかが数分使って考察ごっこしただけ、擁護派の言動としてありうる範囲だ」と本気で思えるのだとしたら、あまりにも鈍感すぎるというか、自分を客観視できていないと思います。
分かるものを見ようとせず、分かりもしないもので対象を貶めることに終始することが、擁護であるわけがありません。
そもそも、失敗の指摘自体が擁護ではなく批判に入るはずです。
失敗が事実なら仕方ありませんが、根拠のない思い込みなのですから批判にすらなっていません。
私がこの方の記事をいくつか引っ張り出しているのは、書かれたこと=既に起きたことを根拠にするためです。
的外れなことを言ったら失礼になるからなるべく確かめているのであって、起きたか分からないことで失敗扱いするような失礼になりかねないこととは、同じではありません。全く違います。
……これは他の批判派にも聞いてみたいのですが、そんなにキミプリとぼくプリのコラボの意味が気になるなら、「クレヨンしんちゃん」とわんぷりのコラボでも同じくらい意味を考えたのでしょうか。
考えたとして、どう結論づけたのでしょうか。
あの時期、しんちゃんもわんぷりも映画はまだまだ先でしたし、わんぷりは猫組の合流前でおもちゃの売り時でもなく、一部では「猫組より先にしんちゃんが仲間入りした」とネタにされていたほどです。
あれこそ、一見してはっきりした狙いが分からないでしょう。
私は、何かをピンポイントで狙うよりは、まずファンサービスだと推測しています。それで話題になれば、少なくとも良い影響がある、くらいの期待です。
ファンサービスはバカにできません。そうして良いイメージを作ることも大事です。
映画やおもちゃといったアピールポイントがないのも、だからこそ“遊び”をそこに入れられた、と見ることもできます。
キミプリとぼくプリは、同じコンテンツ内の作品ですから、しんちゃんとのコラボよりもさらにハードルが低いと思われます。
そして、この方は疑問を抱いているようですが、コラボの時期もちょうどいいです。
例えばぼくプリ第3弾の告知の頃は、キミプリにはズキューン・キッスがおらず、あの5人同士でちょうどよかったダンス動画が出せません。ズキューン・キッスとソウル・カグラの組み合わせなど、本当に上手くできたものだと思います。
コラボした時期は、キミプリは新しいおもちゃなどのアピールのポイントがなく、ぼくプリはほどよく第3弾が近づいていて、興味を持った人が第2弾までを視聴する余裕もある、という、非常にいいタイミングでした。
ぼくプリ第3弾の準備は時期的に第2弾と重なっているので、第1弾の結果から十分な集客を見込んで始めたもののはずです。コラボによるチケットの売れ行きは、そこまで大きく期待していたわけではないと思います。
まずはプリキュア同士を夢の共演として盛り上げたい、というのが発端で、チケットの売れ行きは、少しくらいは、というレベルではないでしょうか。
場所が限られているので、興味を持っても見に行けない人もいます。「これを機に配信で見た」という報告も、じゅうぶん効果として見ていいでしょう。
もし批判派にとって、しんちゃんコラボに何か見いだせる意味があるなら、ぼくプリコラボも似たようなものだと解釈すれば良いと思います。(※ポイント④)
【「やめる」は位置づけや表現方法の話になる】
では「男の子プリキュアは“プリキュアを”やめる方向」とは何だったのでしょう。今度は「プリキュア(として戦う)」の意味を使い分けているのでしょうか。
位置づけなどと言い出したら区別が曖昧になることは既に述べたとおりですし、それで「お姫様」論を唱えたところで、「男の子に女の子と違う意味合いを見いだす」という前提が既に公式サイドのスタンスと合っていない、だから「お姫様」論は的外れである、ということを再三書いているのです。
そして、的外れな上にネガティブで擁護しているように見えない、と言っているわけです。
それに対して、「「お姫様」論は「お姫様はプリキュアではない」とは言っていないので、公式サイドのスタンスを挙げても反論したことにならない」という、噛み合わない反論が返ってきているのが現在地点です。
「反論になっていない」ではなく、公式サイドのスタンスについてどう考えるのかを聞きたいです。(※ポイント⑤)
公式サイドの考え方が「お姫様」論とは違うのは明らかであり、逆に言えば「お姫様」論の大元の根拠である「女の子だって暴れたい!」からして揺らいでいるのですから、「そのまま自然に見る」で導き出せる論ではないのは確実なわけです。
「「お姫様」論は男の子プリキュアを認める論である」は、それこそ反論になっていません。
【第3弾は見ていないし、見ていないのにやめたことを語るつもりはない】
それで良いのですが、だったら、はじめから「お姫様」論にぼくプリを挙げるべきではありません。
視聴切りしたら、語れるのは視聴切りした時点までと、「なぜ視聴切りしたのか」という理由です。最後まで見なければ分からない部分は語れないのですから、自説の都合で駆り出すのは筋がとおりません。
最後までちゃんと知っている者から見て、事実と違うことがあれば、反論されても仕方ないでしょう。
先に言っておきますが、「現時点での考えである」とか「最後まで見れば違うのかもしれない」と断れば良いわけではないです。
語った時点である程度の印象操作になりますし、そうして断るくらいなら半端に主張をするべきではない、という話にしかなりません。
見ないのは自由です。そして見ない以上は語れません。(※ポイント⑥)
後編に続きます。



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