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皇位継承者問題

結婚から4年になったが皇太子夫妻に子どもができないことを週刊誌が取り上げはじめた。夫婦の問題であり他人が口出しできないことだが、皇室にとっては皇統にかかわる重大な問題だった。この年になって明仁天皇が皇太子に事情を尋ねる機会があった。そして、医学的な不妊の可能性もあるのに、夫妻が周囲になんの相談もしていないことに天皇は驚いた。夫婦だけの問題ではないとして、天皇は検査と治療を受けるよう強く促した。

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鎌倉は天皇の意を受けて、御用掛の坂元正一東大名誉教授を中心に不妊治療の体制を整えた。しかし、皇太子夫妻は不妊治療には後ろ向きで、治療はしばらくおこなわれることはなかった。1999(平成11)年に入り、坂元御用掛の教え子で不妊治療の第一人者の堤治東大医学部教授が宮内庁病院の非常勤医に就任し、夫妻の治療が始まった。

この年の12月、雅子妃の懐妊が明らかになったが、流産という結果になった。このことに皇太子夫妻、とくに雅子妃は深く傷つく。それでも夫妻の不妊治療は続けられることになった。治療は女性にとって大きな負担で、当事者の意に沿わないことであったなら、それを強いることは人権侵害である。それでも鎌倉ら宮内庁は夫妻に要請せざるをえなかった。皇統の継続をレゾンデートルとする天皇制の不条理、残酷さであった。

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2000(平成12)年6月16日に良子皇太后が97歳で死去、香淳皇后と追号され、7月に葬儀がおこなわれた。これを取り仕切った鎌倉にとって、在任中最大の三太夫的仕事だった。この葬儀に雅子妃は出なかった。皇太后の葬儀に皇太子妃が欠席するのは尋常ではない事態で、妃の心身の疲弊はそこまできていた。

翌2001(平成13)年4月2日に鎌倉は長官を退任した。その1ヵ月前の3月1日、堤東大教授が東宮職御用掛に任命された。皇太子夫妻の不妊治療を再始動させる体制だった。鎌倉の「置き土産」ともいえる人事だった。そして、鎌倉が退任する直前の3月末には雅子妃に懐妊の兆候が見られた。宮内庁が鎌倉の後任の湯浅利夫長官体制になってまもない4月16日、雅子妃に「懐妊の可能性が出てきた」ことが発表された。

12月1日、皇太子夫妻に待望の第一子、愛子内親王が誕生した。結婚以来8年半、苦しい不妊治療の末の愛し子だった。しかし、皇室にとっては問題は解決していなかった。天皇の孫世代に皇位継承者がいない状況が続いていた。

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