第5盗 炎と、月と
「っ……」
独房を開けると、まず香ってきたのは、胸糞の悪くなるような凄まじい悪臭である。
それは、死臭ではない。
糞尿の強烈な臭いだ。
張り番がいないのでは、掃除もそう頻繁ではないだろう。
この仕打ちは、誇り高いエルフの心を折るためだろうか?
不衛生な環境が、ときに、恐ろしい病を生むことを大勢の錬金術師が指摘している。
遥か古の時代――星環暦が刻まれる前の暗黒時代、コレラやペストなどと言われる病は、不衛生が原因と言われていたのだ。
いまでも局所的にそれが起こるのだが、大抵は、衛生環境の悪い場所で発生する。
心が折れるのが先か、病で斃れるのが先か。そんな、危うい賭けである。
エルフの女は、部屋のベッドにいた。
足かせの鎖が、壁に縫い付けられている。
美しい蜂蜜色の髪は、汚れと脂でベタついており、着させられているボロ服は、何色かわからないような有り様だ。
しかし。
その目は――まだ生きる意志を宿していた。
伏して、床を睨み、噛み締めて。
生きるための炎に、たえず、薪をくべている。
「おい」
エルフの女が顔を上げる。
「生きる気はあるか」
小さく、頷いた。清冽な、見つめているだけで大火傷しそうなほどの眼光が、そこにある。
自分はなぜこんな問答をしているのだろうか。
このエルフを助けて、俺は、何をなそうとしている。
偽善か、罪滅ぼしか、打算か?
それとも、なにかの――シンパシーでも感じたのか?
「なら、黙って盗まれてくれ」
ラグはそう言って、鎖の付け根の部分の板を、ナイフでえぐっていく。
板を外し、そして鎖の金具を切っ先でねじって外してやった。
これで、一応は自由の身である。
「よせっ、そのエルフを手に入れるのにどれだけの苦労をしたと思っている!」
「知るか」
ラグは興味なかった。タジラードの野望も、その先の展望も、そこへ至る狂気にも。
ただ――奪うだけの自分に辟易していた。
与える側に立ちたい。それが、このエルフを救う理由である――と、そう思った。
「その、エルフは。フリエはな、故郷を焼かれ、蹂躙されたのだ。山賊にな。わかるか?」
フリエは、両手でラグの外套をぎゅっと握った。
その時の光景がまざまざと浮かんだのかもしれない。
ラグの瞼の裏にも。
魔物に蹂躙された、故郷が――。
「それもこれも、この私が、この王国を乗っ取る布石! いいか、私にひざまずくべきなのだ、この世のすべ――てッがぁぅっ」
ラグの拳が、今度は加減なく、タジラードの鼻面を潰す。
「いくぞ」
フリエの手を引いて、歩き出した。
しかし。
タジラードはしぶとかった。
「げへっ、かはっ――へっへ、へへ……なあフリエぇ。お前の故郷を襲った連中に、銃をながしたのはなあ、私なんだよ」
「――――っ」
フリエの目が見開かれた。
「魔法を、見せておくれ。一度でいいから、見てみたいんだ、本物の魔法を」
フリエの枯れた喉が震えた。
「よせ。乗るな」
ラグは止めた。
だがフリエはもう、その魔法力を解き、練り上げつつある。
髪がヒュドラのごとくうねる。
燐光が取り巻いている――たまらず、ラグは半歩退いた。
そうして、自由になったフリエは右手を前に――タジラードに伸ばす。
「いや。――違う、私じゃなく、待って」
「
エルフ語による詠唱。次の瞬間。
爆炎が炸裂した。さながら竜のブレスの如き火炎である。
「ぎゃあああああっ、ぎゃっ、ぎゃあああああああッ!」
タジラードの体――右半身が爆炎に包まれる。
「いぎゃっ、ひゃああっ、ああああーーッ!」
のたうち回り、必死に火を消そうとするが、ラグは助かることはないと思った。
「えと、わたっ、し」
「いい。今はいい」
ラグは、エルフの――フリエの手を引いて。しかし彼女がまだ歩くことに難儀していることに気づく。
さっと抱き上げてやる。横抱き、お姫様抱っこだ。
塔を降りていく。渡り廊下を進んでいると、前方から騒ぎを聞きつけた見回りの兵隊がやってくる。
ぞろりと剣を抜き、「エルフの噂はほんとうだったのか」とか、「タジラード様をどうしたッ!」とか喚いている。
なかには――二人、鉄砲を構えているやつがいた。
「そのエルフをおいて背を向けろっ!」
「……」
ラグは従うふりをしようか、迷った。
「フリエ、魔法っていうのは連続で出せるものなのか?」
「ううん。私じゃあ、まだ無理」
「そうか。……っ、お前ッ」
警備兵の間を割って出てくる男が一人。
猫系――豹の獣人の殺し屋――黒血の刃という殺人ギルドの刺客、ブラッドである。
「おっ、仕事を果たしたみてえだ」
「ブラッド様、あいつらは、」
「ああ。俺の知り合いでな」
ブラッドがダガーを抜く。今度は一本じゃない、二刀だ。
にやりと笑うブラッドが、
「――今は、共犯者ってぇとこかな」
「は――? ぎゃっ、あがっ」
ダガーが、瞬き一度の間に四回閃いた。
両隣の男が血しぶきを上げてくずおれる。
疾い――! 師匠と同じか、いや、それよりも……。
「気でも違ったか!」「こいつっ」
鉄砲を向ける二人。
ブラッドは笑いながらダガーを払う。
一発目の銃声。同時に、ばぎゃっ、という奇天烈な金属音。
「玉遊びは勘弁してくれや」
「……玉を、斬っ――がっ、ぁ」
鉄砲を撃った男の喉に短剣がねじ込まれた。ブラッドはそれを引き抜き、脇腹と、肋骨の隙間から心臓へ、二連撃の刺突でとどめを刺すと。
「てめぇごら」
もう一人が銃を撃たんとした寸前、左の短剣と右の短剣を交錯。さながら、短剣を鋏に見立てるようにして、そいつの右腕を、手首から落とした。
「鉄砲か。俺にも撃たしてくれや」
手がぶら下がったままのピストルを握るブラッド。
「よっ、よせっ」
「わかった、俺は撃たん」
そういうなり、ブラッドは、ぶら下がっている手指越しに、引き金を引いた。
そして高らかに笑いながら、「ははっ、勇ましい自決じゃねえか、なあ!」と腹を抱えた。
恐ろしい――ラグは、心底そう思った。
こんな男と、さっき自分は戦っていたのか。
黒血の刃。その刺客は、こんなに強いのか――。
「おいラグ、外で豪傑女が暴れまわってたぜ。いい女じゃねえか。仲間か?」
「師匠だ」
「へえ。羨ましいよ」
ラグはもう恐れず歩いている。
ブラッドが邪魔者を殲滅し、ダガーの血をぱっと払った。
「俺に助けられるよりゃあ、いい暮らしができるぜ」
そう言って、ブラッドはフリエに微笑んだ。
フリエもまた、「ありがとう。こっそり、果物をくれて、うれしかった」と返した。
ラグは、思わず、
「あんた……なんで、殺し屋なんか」
「お前と同じさ。生きるためってやつだ」
二人は居館の回廊脇の階段から一階へ。エントランスに降りると、両の廊下から十人近い男たちが駆けつけてくる。
「行け。
「……助かる!」
「ありがとう!」
ラグはフリエを抱えて外に飛び出した。
外ではザックが、導火線に燧石を打ち付けて、火花を落としていた。
じゅぅっ、とそれが点火し、ザックが笑いかける。
「花火が上がるよ」
言った、直後。
爆音。
ドンッ、ドウッ、ゴゴンッ、――と、ラグが渡した圧縮火薬の類が炸裂。
庭園のあちこちで爆発が巻き起こり、大混乱が生じる。
「さ、逃げるよ」
「はい!」
ラグはフリエを抱きかかえ、走った。
夜の闇に、火の手が煌々と上がった。
爆発、銃声、炎。
狂騒と狂乱の、シーフの仕事と言うには、目立ち過ぎの。
――そんな目まぐるしい一日の終わりを、玲瓏たる銀月が、黙って見下ろしていた。
竜鈎のテューヴェネ ― 盗み手ラグ ― 三河蕾花(筆刀斎) @Funny-Fice
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