「ログ保存期間を待つ」戦略の検討——構造・前提・法的論点
BitTorrent著作権侵害案件において、「ログ保存期間が経過するまで示談を保留する」という対応方針を採用する法律事務所がある。この方針は、技術的な根拠を伴って提示されることが多い。
本稿では、この戦略の構造と前提を整理し、法的に検討すべき論点を明らかにすることを目的とする。具体的には、戦略の論理を正確に再構成したうえで、既存案件と将来案件の関係、「複数請求」を理由とする待機の論拠、料金プラン設計の検討、消滅時効との関係、最高裁判例上の説明義務、権利者の行動原理、広告規制、そして訴訟を提起された場合の依頼者の法的手段——の各論点を順に検討する。
1 戦略の論理構造
まず、この戦略がどのような論理で組み立てられているかを正確に整理する。以下は、推奨側の説明を四つのステップに分解したものである。
ステップ① 待機の対象となる「ログ」の特定
「ログ保存期間を待つ」というとき、待機の対象となるログは、既に開示請求の対象となっているログではない。
既に申立対象となっているログは、権利者側が消去禁止命令申立(発信者情報消去禁止仮処分)を行うことで保全されており、開示命令事件が終了するまで消去されない。この点は推奨側の説明においても明示されている。
待機の対象は、まだ開示請求の対象になっていない、過去のトレント利用に紐づくログである。これらのログがプロバイダのログ保存期間を経過して自然消滅すれば、当該ログを基礎とする追加の発信者情報開示請求は事実上不可能となり、結果として追加の意見照会書も届かなくなる、という構成になる。
ステップ② 起算日が「トレント利用中止日」である根拠
トレント利用を継続している間は新しいログが継続的に発生する。利用を完全に停止した日以降は新規ログが発生しないため、その日を起算日とすることで、「待つべきログ」の発生を打ち止めることができる、と説明される。
ステップ③ 消去禁止命令申立の役割
裁判所HPに掲載されている記載例では、開示命令事件の終了まで対象ログの消去を禁じる旨が定められている。推奨側はこの規定を引用し、既に請求対象となっているログは仮処分により保全されるため、待機による消滅の余地がないことを正面から認めている。
ステップ④ タイムラグの考慮
権利者がプロバイダに開示請求を行ってから、プロバイダの事務処理を経て発信者本人に意見照会書が届くまでの期間にはばらつきがある。事業者によっては10日程度の場合もあれば、数年に及ぶ場合もある。「ログ自体は既に捕捉されているが、意見照会書は発信者にまだ届いていない」という走行中の案件があるため、ログ保存期間に加えてこのタイムラグも待機期間に算入する、というロジックである。
提示される公式
以上を統合し、以下の式が提示される。
トレント利用中止日 + ログ保存期間 + タイムラグ = 待機期間
この期間を経過すれば、過去のトレント利用に紐づく未着の意見照会書はもはや届かない、というのが戦略の表向きの構成である。
2 既存案件と将来案件の関係——本戦略が答えていない論点
ここで一つの論点が生じる。
ステップ①〜④の論理は、あくまで「まだ届いていない、将来の意見照会書を発生させない」という点に射程が限定されている。推奨側自身が認めているとおり、既に請求対象となっているログは消去禁止命令申立により保全され、待機しても消滅しない。
そうすると、次の問いが立つ。
——既に届いている意見照会書については、その待機期間中、どのように処理されるのか。
論理的には、二つの選択肢がありうる。
選択肢A(既存案件と将来案件の分離処理)——既存案件は別ラインで合理的な時期に処理(必要に応じて早期示談)し、待機戦略の対象外とする。
選択肢B(既存案件も待機期間に組み込む)——既存案件についても示談を保留し、対応期間満了まで処理を留保する。
「将来案件の追加遮断」のみを目的とする戦略であれば、Aが整合的な選択肢となる。Bを採用する場合には、追加遮断とは別の論拠が必要となる。
実際の運用がAとBのどちらに該当するかは、事務所ごとの処理方針にも左右されるが、料金プランの設計を見ることで一定の推測が可能である。その前に、推奨側がBを採用する根拠として提示しているもう一つの論拠を確認する。
3 「複数請求が来るかもしれないから急いで示談すべきではない」という論拠
推奨側の主張
推奨側は、ログ保存期間待ちを推奨するもう一つの論拠として、「複数のメーカー・複数の作品から意見照会書が届く可能性がある」という事情を挙げている。その論理構造は次のとおりである。
トレント利用者が複数の作品をダウンロード(アップロード)していた場合、各作品の権利者からそれぞれ開示請求がなされ、複数の意見照会書が時間差で届くことがある。1通目の意見照会書を受領した時点では、今後何通届くか、示談金の総額がいくらになるかを知ることは極めて難しい。動的IPアドレスを利用している場合には、接続した時間が異なればIPアドレスも異なるため、IPアドレスから将来の請求件数を逆算することもできない。
この状況で早期に示談をすると、後から別のメーカー・別の作品の件で追加の請求を受け、想定外の出費が重なるリスクがある。全容が見えないまま個別に示談を進めれば、総額が著しく膨らむ可能性がある。
したがって、トレント利用中止日からログ保存期間(+タイムラグ)が経過するまで示談を保留し、その間に届く意見照会書をすべて把握してから、全体の対応を決めるのが合理的である——これが推奨側の主張である。
この主張が果たしている機能
この論拠は、セクション2で提起した問いに一つの回答を与えている。すなわち、「なぜ既存案件についても待機期間に組み込むのか」という問いに対し、「全容が確定するまで個別の示談を進めるべきではないから」という理由付けが提供されている。
この理由付けにより、既存案件についても示談を1〜2.5年の対応期間中保留することが、依頼者の利益に適った方針として正当化される構造となっている。
検討すべき論点
この主張には、一定の合理性がある。全容が不明なまま個別に高額の示談を進めれば、後から追加請求を受けた際に資金的に行き詰まるリスクがある、という指摘は無視できない。
しかし、以下の論点について検討が必要である。
第一に、「全容の確定」と「ログ保存期間の経過」は同義ではない。 全容を把握したいのであれば、ログ保存期間の満了まで待つ以外にも方法がある。たとえば、一定期間(数か月〜半年程度)新たな意見照会書の到着がないことを確認した時点で全容をおおむね把握できると判断し、その段階で既存案件の示談交渉に入ることは可能である。1〜2.5年という対応期間の全期間を待機に充てる必然性は、「全容の確定」という目的だけからは導かれない。
第二に、既存案件の示談を保留する期間が長くなるほど、各案件のリスクは増大する。 既存案件については開示時点から3年の消滅時効が進行している(この点はセクション5で詳述する)。示談を1〜2.5年保留することは、権利者に対して「この発信者は示談に応じない」という印象を与える期間が長期化することを意味し、その間に権利者が訴訟提起に踏み切るリスクを高める。訴訟を提起された場合には遅延損害金が加算されるため、「全容確定のために待つ」ことのコストが「早期示談のコスト」を上回る可能性がある。
第三に、「全容が分からないから示談すべきでない」という論理は、事実上、すべての案件について示談を遅延させる方向にのみ機能する。 全容が確定した後に示談を進めるという方針が説明されていても、「全容が確定した後にどのような方針で示談を進めるか」(一括和解の見込み額、各社との交渉方針、示談しない場合のリスク)についての具体的な説明が伴わなければ、待機期間後の出口戦略が不透明なまま依頼者は時間だけを消費することになる。
第四に、この論拠が料金プランの「示談・請求断念問わず」報酬条項と組み合わされたときの帰結に注意が必要である。 「全容が確定するまで示談を保留する」方針のもとで1〜2.5年を経過すれば、対応期間が満了する。その時点で権利者の一部が請求を断念していれば(=時効が完成すれば)、報酬は「請求断念」として発生する。結局のところ、「全容確定のための待機」と「時効完成のための待機」は、対応期間中は区別がつかない。依頼者には前者として説明されていても、構造的には後者としても機能している、ということである。
4 料金プランの設計
ある事務所が公開している「おまとめプラン」の料金体系は、以下の構造を持つ。
ショートコース(対応期間1年未満)、ノーマルコース(対応期間2年未満)、ロングコース(対応期間2年半未満)の三段階が設けられており、いずれも着手金と報酬が同額で設定されている。対応期間が長いコースほど金額が高くなる構造である。
プラン分けの基準は、対象プロバイダごとのログ保存期間とされている。長期保存型のプロバイダは「ロングコース」に、短期保存型のプロバイダは「ショートコース」に割り当てられる構成である。
報酬条項には次の記載がある。
報酬は、すべての開示請求に対する事案処理が完了した際に発生する(示談・請求断念問わず)
加えて、次の付記がある。
ログ期間経過後に追加の意見照会が届いた際にも追加費用なく対応する(ただし、ログ保存期間経過後に意見照会が届くケース自体は非常にまれです)
この設計から、いくつかの観察が導かれる。
観察① 「対応期間」が既存案件と将来案件を区別していない
プラン名そのものが「対応期間1年未満/2年未満/2年半未満」を掲げており、既存案件と将来案件を区別する記載はない。前節の枠組みで言えば、料金体系上は選択肢B(既存案件も待機期間に組み込む)を前提とした設計となっている。
観察② 「示談・請求断念問わず」報酬条項
報酬発生事由として「示談」と「請求断念」が並列に置かれている。「示談」は通常の終了形態だが、開示済み案件において権利者が「請求断念」に至る典型的場面は、3年の消滅時効内に訴訟が提起されないまま時効が完成した場合である(民法724条1号)。
したがって、この条項は——既存案件についても——権利者の不行使による時効完成を成功シナリオの一つとして想定していることを示している。
観察③ 「ログ期間経過後の追加意見照会対応」条項
この条項の存在自体が、ステップ①〜④の論理が完全な遮断を保証するものではないことを示している。同時に「非常にまれです」という付記によって、依頼者には「ログ期間経過後に追加請求はまず来ない」という期待が形成される構造となっている。
観察④ 「即示談」を採用せず「示談拒否」を方針とする旨の明示
同事務所の費用ページには、次の趣旨の記載がある。
当事務所では基本的には「即示談」という方針を採用せず、ケースによっては「示談拒否」という方針による結果、最終的な解決としては示談金を支払わずに終えることが多々あります。そして、その方針選択の結果、民事訴訟の提起や刑事告訴に至らずに最終的な解決に至ることが通常です。
そのため、トレント利用に伴う開示請求の結果、弁護士費用の負担のみで支払いを終えることも十分に可能です。
ここで注目すべきは三つの点である。
第一に、「示談拒否」が方針として明示されていること。 セクション1で再構成した「将来の追加意見照会書を遮断するための技術的待機」という説明の射程を超えて、既存案件についても示談を拒否すること自体が方針として採用されていることを、事務所側が費用ページという公開の場で認めている。これはセクション2で提起した問い(「既存案件はどう処理されるのか」)に対する事実上の回答であり、選択肢B(既存案件も待機期間に組み込む)が意図的に採用されていることを示している。
第二に、「弁護士費用の負担のみで支払いを終えることも十分に可能」という表現が、依頼者に生じさせる期待である。 この表現を読んだ依頼者は、「示談金を支払わなくてよい」——すなわち、弁護士費用(着手金+報酬)さえ支払えば、権利者に対する支出はゼロで終了しうる——という期待を持つ。しかし、この期待が実現するのは、権利者が請求を断念した場合(=時効完成等)に限られる。権利者が訴訟を提起した場合には、この期待は崩壊し、判決による損害賠償金・遅延損害金に加え、訴訟対応のための追加弁護士費用が発生する。
第三に、「民事訴訟の提起や刑事告訴に至らずに最終的な解決に至ることが通常です」という表現について。 この表現は、本稿セクション7・8で検討する「訴訟の可能性は低い」という説明と実質的に同内容である。「通常」という言葉は依頼者に「ほぼ確実に訴訟にならない」という印象を与えるが、その根拠が何であるかは示されていない。セクション8で検討する生存者バイアスの問題、およびセクション7で検討する権利者の行動原理(3年の時効制約のもとで訴訟を提起するインセンティブの存在)との関係で、この表現の妥当性は検証を要する。
観察⑤ 「訴訟プラスプラン」の存在が示すもの
同事務所は、おまとめプランに加えて「訴訟プラスプラン」を設けている。これはおまとめプランの着手金・報酬にそれぞれ一定額を加算し、万が一民事訴訟を提起された場合の対応費用を予め組み込むプランである。
このプランの存在は、二つの意味で注目に値する。
一つは、事務所自身が訴訟提起の可能性を認識していることである。「民事訴訟の提起に至らずに解決に至ることが通常」と説明しておきながら、訴訟対応費用を含むプランを別途用意しているということは、事務所自身が「通常ではない」事態——すなわち訴訟提起——を現実的なリスクとして認識していることを意味する。
もう一つは、訴訟プラスプランを選択しなかった依頼者が訴訟提起された場合の経済的帰結である。おまとめプランのみを選択した依頼者が訴訟を提起された場合、おまとめプランの着手金・報酬はすでに支払い済みであるにもかかわらず、訴訟対応は別途費用が必要となる。この追加費用の発生リスクについて、おまとめプランの説明において十分な開示がなされているかは検討を要する。
観察⑥ 通常プランとの報酬構造の対比
同事務所には「通常プラン」も用意されている。通常プランの報酬は、「示談により解決した場合」と「示談によらず相手方の請求を断念させた場合」で異なる金額が設定されている。
注目すべきは、通常プランでは「請求断念」のほうが「示談」よりも報酬が高いことである。
この差額設定は、事務所にとって「示談による解決」よりも「請求断念(=権利者が訴訟を提起せずに時効を迎えること)」のほうが経済的に有利な結果であることを意味する。弁護士の経済的利益が依頼者の最善の利益と一致しているかどうか——すなわち、早期示談のほうが依頼者にとってリスクが低い場合であっても、事務所側には示談拒否を選択するインセンティブが存在するのではないか——という構造的な問題が、この報酬設計から読み取れる。
5 消滅時効との関係
ここで法的事実を確認する。
著作権侵害に基づく損害賠償請求権の消滅時効は、権利者が「損害および加害者を知った時」から3年である(民法724条1号)。発信者情報の開示を受けた時点で、権利者は「加害者を知った」状態に到達するため、3年の時効はそこから進行を始めると解される。
意見照会書を受領した依頼者が「対応期間1〜2.5年」のプランに加入してこの期間を待機する場合の時系列を整理すると、次のようになる。
まずT+0の時点(開示時点)で、権利者の3年時効が起算される。T+0からT+対応期間の間は待機期間となり、依頼者は和解の意思を示しつつ最終合意は避け、権利者から見て「交渉中」の体裁が維持される。T+対応期間(1〜2.5年)の時点でログ保存期間が経過し、事案処理が完了とされる。そしてT+3年の時点で、権利者の損害賠償請求権が消滅時効により消滅する。
ロングコース(対応期間2.5年)の場合、対応期間満了時点で権利者の時効完成までの猶予は約半年となる。この間に権利者が訴訟を提起しなければ、依頼者は損害賠償請求を免れる。一方、対応期間中ないし対応期間経過後に訴訟が提起された場合、依頼者は遅延損害金を含む判決のリスクを負う。報酬は「示談・請求断念問わず」発生する設計のため、この時点で事務所は契約上の義務を完了した状態となる。
この時系列構造を前提とすると、戦略の機能的な側面には消滅時効の経過を待つ要素が含まれていることが確認できる。「ログ保存期間待ち」という説明の射程は将来案件の遮断に限定されているが、既存案件に対する効果は時効完成を待つことに帰着する、ということである。
6 最高裁平成25年4月16日判決と説明義務
この時系列構造との関係で参照すべき判例がある。
事案の概要
最高裁判所第二小法廷 平成25年4月16日判決(民集67巻4号1049頁)
本件は、多重債務者から債務整理の委任を受けた弁護士が、複数の債権者に対する処理方針として「時効待ち」を選択したことについて、依頼者に対する説明義務違反が問われた事案である。
事案の経過を整理すると次のとおりである。弁護士は依頼者から債務整理の委任を受けた後、一部の債権者に対しては過払い金の返還請求を行い、これを回収した。この回収済みの過払い金をもって残存する債務を弁済することが可能な状況にあった。
しかし弁護士は、残存する債権者に対して債務全額ではなく元本の8割での和解を提示し、これが拒否された。弁護士はその後、当該債務について消滅時効(貸金業者からの借入債務は5年)の完成を待つ方針——すなわち時効待ち——を選択した。
この方針選択にあたり、弁護士は依頼者に対し、(a) 時効待ちの方針を採った場合に債権者から訴訟を提起されるリスク(訴訟提起されれば遅延損害金を上乗せした敗訴判決を受ける可能性があること)、および (b) 回収済みの過払い金を用いて債務を弁済するという代替手段が存在すること——この二点を説明しなかった。
最高裁の判断
最高裁は、弁護士の説明義務違反を認定した。判決の要旨は以下のとおりである。
弁護士が依頼者の債務について消滅時効の完成を待つ方針を採る場合、当該方針に伴うリスク——とりわけ債権者から訴訟を提起され、遅延損害金を含む敗訴判決を受ける可能性——を依頼者に説明する義務がある。加えて、回収済みの過払い金による弁済という代替手段が存在する場合には、その選択肢を提示したうえで、依頼者自身に方針を選択させる義務がある。これらの説明を怠ったことは説明義務違反に該当する。
この判決の射程について、二つの点が重要である。
第一に、時効待ち方針それ自体を違法としたものではない。 判決が問題としたのは、「リスクと代替案を説明せずに方針を採用すること」であって、十分な説明のもとで依頼者が自ら時効待ちを選択した場合にまで及ぶものではない。
第二に、「訴訟が来たら対応する」という留保では説明義務を満たさない。 判決が要求しているのは、(a) 訴訟提起時の遅延損害金リスクの説明、(b) 代替手段(早期弁済等)の存在とその内容の説明、(c) 両者の経済的帰結の比較を可能にする情報提供——の三点であり、訴訟時の対応を約束するだけではこれらの義務を代替できない。
補足意見
なお、本判決には補足意見が付されており、そこでは「時効待ちは原則として適切な債務整理の手法とは言えない」との見解が示されている。法廷意見(多数意見)そのものではないため直接の法的拘束力はないが、最高裁裁判官による見解として、時効待ち方針を積極的に推奨することの適否を考える際に参照される。
本件への示唆——最高裁事案と「ログ保存期間待ち」の構造的対比
この判決を「ログ保存期間待ち」戦略との関係で検討するにあたり、両者の構造を対比することが有用である。
最高裁事案では、待機の対象は貸金債務の消滅時効(5年)の完成であった。ログ保存期間待ち戦略では、著作権侵害に基づく損害賠償請求権の消滅時効(3年)の事実上の消化がこれに対応する。
依頼者の立場について、最高裁事案では債務者(支払義務を負う側)であり、ログ保存期間待ちでは著作権侵害の被疑者(損害賠償義務を負いうる側)である。
弁護士が選択した方針は、最高裁事案では債務を放置して時効完成を待つことであり、ログ保存期間待ちでは示談を保留してログ保存期間の経過(および事実上の時効消化)を待つことである。
存在した代替手段について、最高裁事案では回収済み過払い金による債務弁済という選択肢があった。ログ保存期間待ちでは、早期示談による解決がこれに対応する。
代替手段の経済的帰結を見ると、最高裁事案では過払い金で弁済すれば債務は消滅し、訴訟リスクも遅延損害金も発生しなかった。ログ保存期間待ちでは、早期示談であれば数万円〜十数万円程度の和解金で解決しうる。
待機方針の経済的リスクは、最高裁事案では債権者から訴訟を提起され、遅延損害金を含む敗訴判決を受けることであった。ログ保存期間待ちにおいても、権利者から訴訟を提起され、遅延損害金を含む判決を受けるリスクが同様に存在する。
最高裁が認定した問題は、リスクと代替手段を説明しなかったことである。ログ保存期間待ちについてはこの判決の直接の判断対象ではないが、同判決の枠組みのもとでは同種の説明義務が問題となりうる。
この対比から、二つの類似点と一つの相違点が確認できる。
類似点① 方針選択の構造が同一である
いずれも、弁護士が依頼者の代理人として「待つ」方針を採用している。最高裁事案では「時効待ち」と明示的に呼ばれているが、ログ保存期間待ちにおいても、前節(セクション5)で確認したとおり、既存案件に対する効果は消滅時効の経過を待つことに帰着する。方針の呼称が異なるだけで、依頼者が負うリスクの構造——債権者(権利者)が訴訟を提起した場合に遅延損害金を含む判決を受ける——は同一である。
類似点② 代替手段が存在し、説明されていない
最高裁事案では、回収済みの過払い金で弁済するという代替手段が存在したにもかかわらず説明されなかった。ログ保存期間待ちにおいても、「早期示談」という代替手段は常に存在する。権利者との示談交渉に応じ、合理的な水準で和解することは、依頼者にとって「訴訟リスクを回避し、遅延損害金の発生を防ぎ、確定的に解決する」方法であり、待機方針とは異なる経済的帰結をもたらす。
最高裁判決が要求した説明義務の核心は、「待つ」方針と「早期に解決する」方針の双方を依頼者に提示し、それぞれの経済的帰結を比較可能な形で説明したうえで、依頼者自身に選択させることにある。この枠組みに照らせば、ログ保存期間待ちを推奨する場面においても、待機方針のリスク(訴訟提起・遅延損害金)と早期示談のメリット(確定解決・低コスト)を対比して説明する義務が生じると解される。
相違点——名称の問題
最高裁事案では、弁護士が「時効待ち」という方針を事実上採用したことが明らかであった。一方、ログ保存期間待ちでは、「ログ保存期間を待つ」という技術的な説明が付され、「時効待ち」とは呼ばれていない。
しかし、この相違は形式的なものにとどまる。最高裁判決が問題としたのは「時効待ち」という名称ではなく、「待つ」方針に伴うリスクと代替手段の説明を怠ったことである。方針の呼称にかかわらず、方針の実質が「時効経過を待つことに帰着する」のであれば、判決の射程は及ぶと考えられる。むしろ、「ログ保存期間待ち」という技術的表現への置き換えが、判決の適用を回避する効果を意図しているとすれば、その事実自体が説明義務の趣旨との関係で検討対象となりうる。
小括——説明義務の具体的内容
以上を踏まえ、最高裁判決の枠組みのもとで「ログ保存期間待ち」を推奨する弁護士に求められる説明義務を具体化すると、次のとおりとなる。
(a) リスクの説明 待機期間中に権利者が訴訟を提起する可能性があること。訴訟提起された場合には、侵害行為時から判決確定時までの遅延損害金が加算されうること。早期示談と比較して支払総額が増大するリスクがあること。
(b) 代替手段の説明 早期示談という選択肢が存在すること。早期示談の場合に想定される和解金の水準。早期示談による確定解決のメリット(訴訟回避・遅延損害金回避・精神的負担の軽減)。
(c) 経済的比較の提示 待機した場合の想定シナリオ(時効完成による免責/訴訟提起による高額判決)と、早期示談した場合の想定コスト(和解金+弁護士費用)を、依頼者が比較検討可能な形で提示すること。
(d) 依頼者の自己決定 上記(a)〜(c)を説明したうえで、依頼者自身に方針を選択させること。弁護士が一方的に「待つのが最善」と断定して他の選択肢の検討を省略することは、この義務の趣旨と相容れない。
弁護士職務基本規程との関係
上記(a)〜(d)の説明義務は、最高裁判決から導かれるものであるが、弁護士の自治的規律である弁護士職務基本規程もまた、同方向かつ独立の根拠として機能する。以下、関連する規定を確認する。
弁護士職務基本規程29条(事件の見通し等の説明)は、弁護士に対し、事件について依頼者に事件の見通し、処理の方法並びに弁護士報酬及び費用について、適切な説明を行う義務を課している。
この規定の各要素を「ログ保存期間待ち」の場面に即して検討する。
第一に、「事件の見通し」の説明である。「ログ保存期間を待てば追加の意見照会書は届かなくなる」という見通しだけでなく、「既存案件について権利者が3年以内に訴訟を提起する可能性がある」という見通しもまた、依頼者に伝えられるべき事件の見通しに含まれる。待機が成功するシナリオ(時効完成による免責)のみを説明し、失敗するシナリオ(訴訟提起・遅延損害金の発生)を伝えないことは、事件の見通しについての説明として不十分である。
第二に、「処理の方法」の説明である。「ログ保存期間の経過を待つ」という処理方法を採用するにあたり、それとは異なる処理方法——すなわち早期示談——が存在することを依頼者に提示する義務がある。処理方法が複数ありうる場合に、一つの方法のみを「最善」として提示し、他の方法の存在自体を説明しないことは、29条が求める「処理の方法」についての適切な説明を欠くことになる。
第三に、弁護士報酬および費用との関係である。セクション4で確認したとおり、本戦略の料金体系では「示談・請求断念問わず」報酬が発生する設計となっている。待機方針が成功した場合(権利者が請求を断念した場合)も、失敗した場合(訴訟を提起された場合)も、事務所の報酬は同額である。依頼者の側にとっては、方針の成否によって経済的帰結が大きく異なるにもかかわらず、事務所の報酬は変動しない。この報酬構造が依頼者にどのようなリスク配分をもたらすかについても、29条のもとでは説明の対象となりうる。
さらに、弁護士職務基本規程22条(依頼者の意思の尊重)は、弁護士が委任の趣旨に関する依頼者の意思を尊重して職務を行わなければならないと定めている。この規定は、処理方針の選択において依頼者の自己決定を確保すべきことを要求するものであり、上記(d)の義務と整合する。弁護士が一方的に方針を決定し、依頼者に他の選択肢を検討する機会を与えないことは、22条の趣旨にも反しうる。
なお、弁護士職務基本規程は日本弁護士連合会の会規であり、最高裁判決とは別の規律体系に属する。しかし、29条・22条の要求する説明義務が履行されていなかった場合、民事上の債務不履行(委任契約上の善管注意義務違反)または不法行為の成否を検討する際の考慮要素となりうる。
7 権利者の行動原理——「待っている間に訴訟は提起されない」という前提
待機戦略は、その有効性において「待機期間中、権利者が民事訴訟を提起しない」という前提に依存している。この前提の妥当性についても検討が必要である。
権利者の側には、3年の消滅時効という時間的制約がある。開示から3年以内に訴訟を提起しなければ請求権が消滅するため、示談交渉が進展しないまま時間が経過する状況下で、権利者が何らの法的措置も採らずに3年を経過させるとは限らない。とりわけ次の点を考慮する必要がある。
権利者は、ログ保存仮処分(発信者情報消去禁止仮処分)により訴訟前にログを保全できる
大量案件を扱う権利者代理人にとって、示談拒否者を訴訟に移行させる業務フローを構築することは選択肢のひとつとなる
示談が成立しない案件ほど、個別交渉のコストを投下する経済合理性が薄れ、訴訟への移行可能性が高まる
過去の一定期間において訴訟提起が少なかった事実は、将来の不提起を保証するものではない。権利者側の運用は時期によって変動しうるため、過去の経験則をそのまま将来予測の根拠とすることには留保が必要である。
8 経験則の評価——観察の偏りについて
「これまで担当した案件では訴訟になったことがない」という経験則を待機戦略の根拠とする説明がある。この経験則の評価にあたっては、観察対象の偏りを考慮する必要がある。
弁護士が継続的に観察できるのは、自身が受任を継続している案件に限られる。具体的には、次のような案件は観察対象から外れる傾向がある。
受任後に依頼者が他の弁護士に切り替えて訴訟対応したケース
訴訟提起後に他の弁護士のもとで示談解決したケース
依頼者が連絡を絶ち、その後の経過が把握されなくなったケース
これらを含めて観測する手段がない以上、「自分の経験では訴訟がなかった」という命題は、「自分が継続的に把握している範囲では訴訟が確認されなかった」という限定的な内容にとどまる。経験則として一般化する場合には、この観察上の限界を踏まえる必要がある。
9 弁護士広告規程との関係
待機戦略の説明が弁護士のWebサイト・ブログ等に掲載される場合、その内容は依頼者獲得を目的とする弁護士広告に該当する。日弁連「弁護士の業務広告に関する規程」が定める各禁止類型との関係を整理すると次のとおりである。
まず誤導的広告の禁止との関係では、訴訟リスクや時効進行に関する情報を補わずに「待てば解決する」と読める表現を用いる場合、閲覧者の判断を誤らせる可能性がある。次に誇大広告の禁止との関係では、戦略の限界や前提条件を示さずに「安心」「安全」を印象付ける表現を用いる場合、実態との乖離が生じうる。さらに品位を損なう広告の禁止との関係では、表現の取り方によっては、規程上の品位要件との関係が問題となりうる。
広告は不特定多数の閲覧者に届くため、個別の依頼関係における説明とは別に、広告規程上の検討が必要となる。
10 「最善の方法」等の最上級表現について
待機戦略を「最善の方法」と表現する場合、別の論点が加わる。
最高裁平成25年4月16日判決の枠組みを前提とすると、「待つ」方針を採用する際には代替手段(早期示談等)の提示と説明が必要となる。代替手段の提示を伴わずに特定の方針を「最善」と表現することは、依頼者の選択肢検討を制約する効果を持ちうる点で、説明義務との関係で検討を要する。
また、日弁連の業務広告規程は、客観的根拠を欠く「最良」「最善」「最高」等の最上級表現を問題のある広告として位置付けている。リスク開示を伴わない「最善」表示は、この規制との関係でも検討対象となりうる。
11 弁護士責任に関する論点の整理
以上の各論点を、弁護士責任の観点から整理する。
方針の採用と説明の局面では、リスクと代替手段の説明の有無が検討対象となり、関連する根拠は最高裁平成25年4月16日判決および弁護士職務基本規程22条・29条である。経験則の提示の局面では、観察上の限界の開示の有無が検討対象となり、弁護士職務基本規程29条が関連する。広告コンテンツの局面では、誤導性・誇大性・品位要件が検討対象となり、弁護士業務広告規程が関連する。最上級表現の局面では、客観的根拠の有無および代替手段の表示が検討対象となり、業務広告規程および前各項の複合的適用が関連する。
これらの論点について十分な対応がなされない結果として依頼者が訴訟提起を受け、遅延損害金を含む判決により損害を被った場合、当該損害について説明義務違反を理由とする損害賠償請求(債務不履行・不法行為)が問題となりうる。
12 「訴訟は来ない」と説明されたのに訴訟を提起された場合
想定される状況
ここでは、以下のような経過を辿った依頼者の立場を具体的に検討する。
依頼者は、意見照会書を受領した後、「ログ保存期間待ち」を推奨する法律事務所に相談した。事務所からは、「ログ保存期間を経過するまで示談を保留するのが最善の方法である」「訴訟を提起される可能性は低い」「これまで担当した案件で訴訟になったことはない」といった説明を受けた。依頼者はこの説明を信じ、着手金(および場合によっては報酬)を支払い、事務所の方針に従って示談を保留した。
ところが、待機期間中ないし対応期間経過後に、権利者から民事訴訟を提起された。訴状には、著作権侵害に基づく損害賠償請求に加え、侵害行為時から判決確定日までの遅延損害金の請求が含まれている。
依頼者はこの時点で初めて、待機方針にはこのようなリスクがあったことを認識する。早期に示談していれば数万円〜十数万円程度で解決できた案件が、訴訟判決では損害賠償金に加えて数年分の遅延損害金が加算され、数十万円規模の支払いを求められる状態になっている。しかも、事務所にはすでに着手金・報酬を支払い済みであり(「示談・請求断念問わず」の報酬条項があるため、報酬は発生済みとなる)、訴訟に対応するためにはさらに別の弁護士費用が必要となる。
このとき、依頼者は元の事務所に対してどのような法的手段を取りうるか。
なぜ弁護士の責任が問題となるのか
弁護士が「訴訟を提起される可能性は低い」「これが最善の方法である」と説明して待機方針を採用させた場合、セクション6で検討した最高裁平成25年4月16日判決の枠組みに照らして、以下の各点が説明義務違反を基礎付ける事情となりうる。
第一に、訴訟リスクの過小評価である。 「訴訟を提起される可能性は低い」という説明は、権利者に3年の時効制約があり、示談が成立しなければ訴訟に移行するインセンティブが存在するという事実(セクション7参照)を依頼者に正確に伝えていない。可能性の高低を断定できる客観的根拠がないにもかかわらず「低い」と述べることは、依頼者の判断を誤らせうる。
第二に、代替手段の不提示である。 「最善の方法」という表現は、他の選択肢——とりわけ早期示談——の存在を事実上遮断する効果を持つ。早期示談であれば訴訟リスクをゼロにでき、遅延損害金も発生せず、確定的に解決できるという情報が依頼者に伝えられていなければ、依頼者は比較検討の機会を奪われたことになる。
第三に、経済的帰結の比較が欠落している。 「待った場合に訴訟を提起されれば遅延損害金を含む判決を受ける可能性がある」という情報と、「早期示談であれば数万円〜十数万円程度で解決できる」という情報が並列して提供されていなければ、依頼者は自ら方針を選択する前提を欠いている。
第四に、報酬構造がリスクの非対称性を生んでいる。 事務所は「示談・請求断念問わず」報酬を受け取るため、方針の成否にかかわらず経済的影響を受けない。一方、依頼者は方針が失敗すれば高額判決のリスクを単独で負う。この構造的な利益相反が存在する以上、弁護士には通常以上に丁寧なリスク説明が要求されるべきであるところ、むしろ「可能性は低い」「最善」という楽観的説明を行ったことで、依頼者のリスク認識はさらに弱められている。
「可能性は低い」「1%以下」等の限定付き説明がある場合
ここで、「訴訟は来ない」と断言するのではなく、「訴訟の可能性はあるが、低い」「経験上はない」「1%以下」といった留保付きの説明がなされていた場合に、説明義務違反の評価が変わるかという点を検討する。実務上、以下のような説明が行われていることがある。
「訴訟を提起される可能性はありますが、低いです」
「経験上、訴訟になったことはありません」
「可能性としては1%以下です」
このような説明がなされていた場合、弁護士側は「リスクは説明した」と反論しうる。しかし、最高裁平成25年4月16日判決が要求する説明義務の内容に照らすと、これらの説明には以下の問題がある。
「可能性は低い」という説明について
この表現は、一見するとリスクに言及しているように見える。しかし問題は、「低い」という評価が客観的な根拠に基づいているかどうかである。
権利者がどの案件で訴訟を提起し、どの案件では提起しないかは、権利者側の内部的な業務判断によって決定される。発信者側の弁護士がこの判断を予測する客観的な手段は存在しない。権利者側の訴訟方針は年度ごと、案件の蓄積状況ごと、さらには担当弁護士の交代や権利者の経営判断によっても変動しうる。「低い」という評価を裏付ける統計的データや、権利者側の方針についての確実な情報がない限り、「可能性は低い」という説明は主観的な印象の域を出ない。
最高裁判決が問題としたのは、単に「リスクがある」と言及したかどうかではなく、依頼者が方針を選択するために必要な情報が適切に提供されたかどうかである。「低い」という一言でリスクに触れたとしても、それだけでは依頼者は「低い」リスクが現実化した場合にどのような経済的帰結が生じるかを把握できない。訴訟を提起された場合の遅延損害金の見込み額、早期示談との費用差額、待機した場合の最悪シナリオ——これらの具体的情報が伴わない「可能性は低い」は、説明義務の履行として不十分である。
さらに実質的な問題として、「可能性は低い」という表現は、依頼者に対して待機方針を選択するよう誘導する効果を持つ。依頼者は法律の専門家ではなく、弁護士の言葉を信頼して判断する立場にある。「低い」と言われれば、多くの依頼者はそのリスクを無視しうるものと受け止める。その結果、早期示談という代替手段を検討する動機が弱められる。「リスクに触れた」という形式を満たしていても、実質において依頼者の比較検討を妨げていれば、説明義務の趣旨は達成されていない。
「経験上、訴訟になったことはない」という説明について
この説明は、セクション8で検討した生存者バイアスの問題を内包している。弁護士が把握できるのは自身が受任を継続している案件に限られ、依頼者が他の弁護士に切り替えて訴訟対応したケースや、連絡が途絶えたケースは観測されない。「経験上ない」は「自分が知る限りでは確認されていない」の意味にとどまり、「訴訟は起こらない」の意味ではない。
しかし、この区別は依頼者には伝わらない。「経験上ない」と言われた依頼者は、「この弁護士が担当すれば訴訟にならないのだ」と理解するのが自然である。経験則としての限界——観察対象の偏り、権利者側の戦略変更の可能性、過去と将来の非同一性——を併せて説明しない限り、「経験上ない」という情報は依頼者のリスク認識を不当に低下させる効果を持つ。
「1%以下」等の具体的な確率を示した場合について
確率を具体的な数値で示すことは、一見すると最も誠実な説明に見える。しかし、ここにはさらに深刻な問題がある。
その確率の根拠は何か。 前述のとおり、権利者がどの案件で訴訟を提起するかは権利者側の内部判断であり、発信者側の弁護士がこれを確率的に推定する客観的な方法は存在しない。「1%以下」という数値が統計的調査に基づくものでなく、弁護士の個人的な感覚や限定的な経験に基づくものである場合、それは根拠を伴わない確率表示である。
根拠のない確率表示は、依頼者のリスク認識に対して二重の悪影響を及ぼす。第一に、「1%以下」という数値は「ほぼゼロ」と受け止められ、依頼者はリスクを実質的に無視しうるものと判断する。第二に、数値が示されたことで依頼者は「弁護士が定量的に分析した結果なのだ」と信頼し、独自にリスクを検討する動機を失う。
最高裁判決の枠組みで求められているのは、確率の高低を断定することではなく、リスクが現実化した場合の帰結を具体的に説明し、代替手段との比較を可能にすることである。「可能性は1%以下だが、万が一訴訟を提起された場合には遅延損害金を含めて30万円程度の支払いを命じられる可能性がある。一方、早期示談であれば10万円程度で確定的に解決できる。どちらの方針を選択するか」——ここまで説明して初めて、依頼者は自己決定の前提を手にする。確率だけを伝え、帰結と代替手段を省略する説明は、説明義務の一部を満たしているにすぎない。
小括——「リスクに触れたかどうか」ではなく「選択に必要な情報が揃っていたか」
以上を整理すると、「訴訟の可能性は低い」「経験上ない」「1%以下」といった説明がなされていた場合であっても、それだけで説明義務が履行されたことにはならない。最高裁判決が要求するのは、リスクの存否に言及することではなく、依頼者が方針を自ら選択するために必要な情報——すなわち、リスクが現実化した場合の経済的帰結、代替手段の存在とその経済的帰結、両者の比較——が適切に提供されたかどうかである。
「可能性は低いから大丈夫」という説明は、この三要素のいずれも満たしていない。形式的にリスクの存在に触れていたとしても、依頼者が比較検討に基づく自己決定を行う前提が欠けている限り、説明義務の実質的な履行としては不十分であると解される。
依頼者が取りうる法的手段
以上を踏まえ、訴訟を提起された依頼者が元の事務所に対して取りうる法的手段を整理する。
(1) 説明義務違反に基づく損害賠償請求
依頼者は、弁護士の説明義務違反(委任契約上の善管注意義務違反=債務不履行、または不法行為)を理由として、損害賠償を請求しうる。
請求しうる損害の内容は次のとおりである。
増加損害——これが損害の中核となる。早期示談で解決可能だった金額と、訴訟判決による支払額(遅延損害金を含む)との差額である。たとえば、早期示談で解決可能な金額が10万円であった案件が、2年間の待機を経て訴訟判決で30万円(元本相当額+遅延損害金)の支払いを命じられた場合、差額の20万円が増加損害となる。この差額は待機期間が長いほど拡大する。遅延損害金は侵害行為時から起算されるため、待てば待つほど加算額は増えていく。
訴訟対応費用——訴訟を提起された後に要した追加の弁護士費用・裁判費用である。待機を推奨した事務所とは別の弁護士に訴訟対応を依頼する場合、新たな着手金・報酬が発生する。これらは、適切な説明がなされていれば発生しなかった費用であり、説明義務違反と因果関係のある損害として主張しうる。
慰謝料——精神的損害である。最高裁平成25年4月16日の原審である福岡高裁は、説明義務違反による慰謝料を認容している。予期しない訴訟を提起されたことによる精神的苦痛、弁護士を信頼して方針に従ったにもかかわらず裏切られたという心理的負担は、慰謝料の基礎となりうる。
(2) 着手金の返還請求
損害賠償とは別に、すでに支払った着手金(および報酬)の返還を請求しうるかという論点がある。
「着手金は返還されない」という実務上の説明は広く行われているが、これは判例の立場ではない。
東京地判平成15年3月14日は、着手金の性質を「委任事務処理の対価の前払い」と位置付け、委任が中途で終了した場合には既済事務量に応じた按分清算を原則とした。改正民法648条3項(既履行部分の割合的報酬請求)もこの枠組みと整合する。すなわち、弁護士が実際に行った事務処理の量に見合う部分のみが報酬として認められ、残額は不当利得として返還されるべきものとなる。
「ログ保存期間待ち」の場合、待機期間中に弁護士が実際に行う事務処理は——意見照会書への回答書作成を除けば——限定的であることが多い。「対応期間」として1〜2.5年が設定されていても、その大半は文字通り「待つ」ことであり、法的事務処理が継続的に行われているわけではない。既済事務量が着手金・報酬の合計額に見合わない場合、その差額は按分清算の対象となる。
さらに、弁護士に帰責事由(説明義務違反)がある場合、返還の範囲は拡大する。和歌山地判平成22年9月29日は、受任者の帰責事由により委任事務が履行されないまま契約が解除された事案で、着手金200万円の全額返還を認めている。東京地判平成15年3月14日の別事案では、着手金250万円のうち150万円の返還に加えて慰謝料50万円が認容されている。
委任契約書に「いかなる理由でも着手金は返還しない」という不返還条項が置かれている場合でも、依頼者が消費者(個人)であれば消費者契約法の制約を受ける。平成23年の適格消費者団体による裁判外和解では、受任通知発送後に着手金全額の支払義務を課す条項が、民法648条3項のもとで既済業務割合を超える義務を課すものとして、消費者契約法10条(消費者の義務を著しく加重する条項)に該当する旨の整理がなされている。加えて、消費者契約法9条1号の「平均的損害を超える部分は無効」という規律によっても争いうる。不返還特約があること自体は、返還請求を遮断する決定的な障壁とはならない。
立証上の課題と実務的な備え
上記の各請求が認められるためには、立証上のハードルがある。
説明内容の証明について。弁護士側が「口頭でリスクも説明した」と主張した場合、依頼者の側で「説明がなかった」ことを証明するのは容易ではない。この点では、委任契約書や方針確認書面にどのような記載があるか(逆に、リスクに関する記載がないか)が重要な証拠となる。事務所のWebサイトやブログに「訴訟の可能性は低い」「最善の方法」等の記載がある場合、それは依頼者に対してなされた説明の内容を推認させる有力な間接証拠となりうる。
因果関係の証明について。「適切な説明があっても依頼者は同じ判断をしたはずだ」という反論(いわゆる仮定的因果関係の抗弁)が想定される。これに対しては、早期解決の意向を示すメール・LINE等のやり取りがあれば有利に働く。また、「早期示談の場合の費用は数万円〜十数万円程度、訴訟判決の場合は数十万円」という経済的格差自体が、合理的な依頼者であれば早期示談を選択したであろうことを推認させる事情となりうる。
実務的な備えとして、意見照会書が届いた段階で弁護士に相談する際には、弁護士から受けた説明内容を書面やメールで確認しておくことが重要である。「訴訟を提起される可能性はどの程度か」「早期示談の場合の費用はいくらか」「待機した場合に訴訟を提起されたらどうなるか」について、書面による回答を求めることは依頼者の当然の権利である。これらの記録は、万が一訴訟を提起された場合に、説明義務違反の有無を判断するうえで決定的な証拠となる。
まとめ
「ログ保存期間を待つ」戦略について、本稿では以下の論点を整理した。
戦略の表向きの説明は「将来届きうる追加の意見照会書を遮断する」点に射程が限定されており、既に届いている意見照会書については別途の処理が必要である
「複数請求が来るかもしれないから急いで示談すべきではない」という論拠には一定の合理性があるが、「全容の確定」と「ログ保存期間の経過」は同義ではなく、1〜2.5年の全期間を待機に充てる必然性はこの目的だけからは導かれない
料金プラン上は既存案件と将来案件の区別がなく、報酬発生事由として「示談・請求断念問わず」が並列されており、「示談拒否」が明示的な方針として掲げられている。通常プランでは請求断念のほうが示談より報酬が高く設定されている
既存案件については開示時点から3年の消滅時効が進行しており、待機期間中はこの時効が消化されていく構造にある
この構造を前提とする場合、最高裁平成25年4月16日判決が要求する説明義務(リスクと代替手段の説明)の対象となりうる
「待っている間に権利者が訴訟を提起しない」という前提については、権利者の時効制約と業務インセンティブを踏まえた検討が必要である
経験則の提示については、観察対象の偏り(継続受任案件に限定されること)を考慮する必要がある
広告として掲載される場合には、業務広告規程上の誤導性・誇大性・最上級表現の規律との関係が問題となりうる
訴訟提起された依頼者については、説明義務違反を理由とする損害賠償請求や着手金返還請求の余地がある
意見照会書を受領した方は、待機戦略を選択肢の一つとして検討する場合であっても、その射程・前提・代替手段について複数の弁護士から説明を受けたうえで判断することが望ましい。とりわけ、既存案件における時効進行との関係、訴訟提起時の経済的帰結、料金プランと戦略の整合性について、事務所側の説明を確認することが重要である。
本稿は一般的な法的情報の提供を目的としており、個別の法律相談に代わるものではありません。
【参照】最高裁判所第二小法廷 平成25年4月16日判決(判例時報2199号)/東京地判平成15年3月14日(着手金按分清算)/和歌山地判平成22年9月29日(着手金全額返還)/民法644条・648条3項・656条・415条・724条1号/消費者契約法9条1号・10条/弁護士職務基本規程22条・29条/日弁連「弁護士の業務広告に関する規程」


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