長崎市への原爆を最初に伝えた実際の京都新聞紙面。隣には「新型爆弾に対する心得」の記事も掲載された

長崎市への原爆を最初に伝えた実際の京都新聞紙面。隣には「新型爆弾に対する心得」の記事も掲載された

close
Advertisements
kyotonp 京都新聞 2026春割
arrow_forward_ios
もっと読む
00:00
00:13
00:52

 1945年8月6日に広島市、9日に長崎市に人類史上初の原子爆弾が投下された。両市は壊滅し、広島市で14万人、長崎市で7万4千人が亡くなった。そのとき、国家の検閲下にあった京都新聞は、人類史上に残る戦禍をどのように報じていたのか。

 広島の原爆投下翌日の7日、京都新聞朝刊に小さな記事が載った。「少数機で広島攻撃」とした記事は、「B29少数機は6日午前8時20分ごろ、広島市に侵入、焼夷(しょうい)弾ならびに爆弾攻撃を行って脱去した。損害目下調査中」とした。

 また、別の記事で「汽車下り山陽線方面は三原(編注・広島県三原市)まで」などとした。現代から見れば原爆の影響が推察されるが、戦時中は空襲や災害の発生を伏せ「鉄道の運休」だけを掲載することが多く、広島の状況は何も分からなかっただろう。

 京都新聞が、広島の大きな被害を伝えたのは翌8日朝刊。7日の大本営発表を基に、1面トップで「新型爆弾で広島攻撃」「相当の被害」とした。ただ、火災の被害が出たことなどを報じたのみで「原爆」の言葉はない。「当局指導を信頼せよ」との記事も同時に掲載していた。

 軍部は、この段階で「原子爆弾」だと把握していた。6日夜、トルーマン米大統領の「原爆を投下した」という声明が発表されたが、大本営は「国民の心理に強い影響を与える」と判断し、7日に「新型爆弾」と発表していた。

 9日以降も「新型爆弾」の報道は続いた。東京や大阪の大空襲は翌日の報道だけで、新型爆弾の特別な扱いが際立つ形だ。しかし、当局発表を基にした内容は誤りが多く、被害の矮小(わいしょう)化が目立った。

 10日には、被爆直後の広島を視察したという軍参謀の「恐れは不要」「火の用心さえすれば火災は起こらない」とした報告を報道した。同じく10日、広島を訪れたという京都府幹部らの「都市を廃虚にするような、いわゆる原子爆弾ではない」との説明を掲載した。

 また、「少数敵機にも厳戒を」「軍服でやけどは防げる」などと繰り返し報道し、新型爆弾を想定した退避訓練も伝えた。被爆の実相よりも、市民を安心させて戦意低下を防ぐ情報統制の意図が透ける。

 長崎原爆は、投下3日後の12日に「長崎にも新型爆弾」と3行の小さな記事で伝えただけだった。
   ◇
 15日の終戦で、国家の検閲は事実上終了した。同時に、原爆報道は詳しくなり、当時の京都新聞にも壊滅した広島市と長崎市の写真が掲載された。軽傷者が次々に亡くなる「遅発障害」の存在も伝えられた。

 しかし、9月中旬に連合国軍総司令部(GHQ)による検閲が始まる。同盟通信や朝日新聞が、記事配信や発行停止の命令を受けた。京都新聞は、9月19日に京都府立医科大の報告として「原子爆弾症」の症状を詳しく掲載した。しかし、それを最後に、原爆被害に関する報道は数年間にわたって姿を消した。